11話 ナイトメア
風呂にも入りそろそろ寝ようかという時間帯にアリスが意識を失ったという連絡をニクスから受け、俺はすぐにコートを羽織った。ニクスはもう病院に向かっているらしく、俺も行こうとしたが、玄関のドアノブに手をかけたところで立ち止まる。
病院に行って何ができる? 手でも握るか? 傷口でも舐めるか?
そうじゃないだろう。もっと根っこから――――
「出掛けるのか?」
居間から廊下に顔を出した親父が、ビール缶片手に赤ら顔で聞いてきた。
「……ちょっとコンビニ」
「ああ、じゃあこれで何かツマミも頼む。気を付けろよ」
渡された千円札をポケットにねじ込み、寒空の下に出た。息が白くなる。日はもう落ちていて、のっぺりしたコンクリートの道路が街灯に照らされている。
もちろんコンビニには行かない。行くのは保並家だ。
行ってどうするか俺にも分からない。だが何かを動かせるとしたらあそこしかない。
歩きながら考える。
どうする。俺はアリスのためにどこまでできる?
極論、
大財閥の力とはいえ殺人をもみ消せるか? いやもみ消してよいものか?
今からでもどうにかして司法に裁きを任せられないのか。誘拐、脅迫は? 犯罪を犯し自分の人生を台無しにしてまでアリスを助けるのか?
それにナイトメアを今「片付け」てもアリスは昏睡から目覚めないかも知れない。そのまま息を息を引き取りでもしたら俺はただの殺人者だ。
どうしてこう上手くいかないのか。
自分で言うのもなんだが、俺はよくやっている方だと思っている。長宗我部も、ニクスも努力している。アリスに至っては「死ぬほど」頑張った。それなのに、無慈悲に死のうとしている。こんなものあんまりではないか。
ナイトメアも
どうすれば良いのか分からない。ナイトメアを叩きのめしても解決しない。説得しても駄目だった。座して待てば最悪今晩にでもアリスの命は失われる。
どうすれば、どうすれば。
迷っている内にも時間は過ぎ、足は動き、保並家が近づいてきた。
そこで俺は救急車のサイレンの音を聞いた。近くで何か事件でもあったのかと他人事に感じていたのだが、その音はどんどん近づいていて、通りを挟んだすぐ反対側で止まった。回転灯の光が家々の壁を赤く照らし、野次馬のざわめきが聞こえる。
こんな時だが好奇心に負けた。どの道現場は保並家への途上にあるのだ。少し覗いて行ってもいいだろう。まだ考えもまとまっていない。
薄い人垣から背伸びして奥を覗き込む。救急車に加えてパトカーも止まっていた。
誰かが担架に乗せられ運ばれていく。腹のあたりが真っ赤だ。三つ編みの女性、いや少女がそれに縋りついて泣いている。運ばれているのは……いや、まさか。
全身の血液が突然氷水になったようだった。人ごみの間から少しだけ見えたあの顔は……
救急車はすぐに走り去り、それ以上は見れなかった。
パトカーの方では、暴れる男が警官に取り押さえられ後部座席に押し込まれているところだ。後ろ手に手錠をかけられているというのに滅茶苦茶に叫び大暴れしている。
応援のパトカーが到着し、野次馬を締め出すように立ち入り禁止のテープを張って行く。野次馬達のヒソヒソ声が切れ切れに聞こえてきた。
「保並さんの家の息子さんが――――」
「あの男がナイフを振り回して――――」
「――――妹さんを庇って――――」
「――――可愛そうに、あんなに若いのに」
頭が痺れるようだ。
同じ言葉、同じ考えがぐるぐるぐるぐると回る。
つまりこれは……ああ、もう、畜生、めちゃくちゃだ!
大通りに走り出てタクシーを捕まえ病院に急いだ。重傷者が運び込まれるような大病院といえばあの病院しかないだろう。到着と同時に親父から受け取っていた千円札と一緒にサイフの中身を全て支払いとして運転手に押し付け、タクシーを飛び出して待合室に転がり込み、受付に噛みつくように飛びつく。
「保並透の友人です。彼が……刺されたとか?」
「……こちらへどうぞ」
看護師は深刻な表情で頷いた。
手術室の前の椅子には、沙夜とその母、俺、そして俺より数分遅れで駆け付けた長宗我部が重苦しい沈黙に包まれて俯いていた。
沙夜の母、沙奈さんは娘の肩を抱き、ゆっくりと頭を撫でている。長宗我部は沙夜に手を握られ反対側から沙夜の背中に手を回していた。
自分が酷く場違いで浮いている気がした。俺だけが部外者だ。
手術中のランプはまだ赤く点灯したままだ。もう何時間もずっと。
ここはアリスが入院している、王港市で最も設備と医師が充実した病院だ。ここで助からなければどこに運ばれても駄目だろう。今、保並透は何の因果か自分の父の執刀による緊急手術を受けている。母子が時折祈るように呟く言葉で俺もそれを知った。運命の皮肉にもほどがある。父もこんな形で自分の職務を息子に示したくはなかっただろう。
冷たい夜の病院の廊下でじっと待っている内に、俺は何が起きたかなんとか整理する事ができた。
王港市をうろつく不審者の噂は夏休みが終わった頃からずっとあった。段々行動が派手になっていっていたし、少し前には刃傷沙汰も起きていた。警察が警邏を始めても目撃者は消えず、いずれエスカレートして「こうなる」事は予想しようと思えば出来た事だ。
そしてその犠牲者が運悪く保並透だった。
保並透は妹を身を挺して庇ったという。沙夜の服は母が着替えさせたようだが、まだ髪には少し返り血がついている。現場に残されていた血の海を思い出しても凄惨な光景だった事は容易に想像できる。凄惨な間近で兄が自分を庇って刺されるのを見た沙夜のショックは計り知れない。これで兄が死にでもしたら、沙夜は立ち直れるのだろうか。
人の為に自分を犠牲にするのは難しい。それが肉親であっても、人を殺す凶器から体を張って守れる奴は一体どれだけいるだろう。
保並透は大した奴だ。間違いなく尊敬に値する。思えばナイトメアの
それでも奴は妹を守り切った。ショックを受けてはいるが、傷一つついていない。
胸の奥から形容し難い衝動がこみ上げてきた。
人を死の瀬戸際に追い込んでおいて、人を死から護り、自分が死にかけている。
なんなんだ。なんなんだよお前は! 全部……勝手に……突っ走りやがって……!
手術が長い。もう五時間は経っている。時計の針は深夜一時を回っていた。手術が上手くいっていないのだろうか。分からない。
助かってくれ、と、自然とそんな呟きが口から出た。自分の声に自分で驚く。
一体何百回「死ねばいいのに」と思ったか知れない。俺やアリスと同じ苦しみを味わえばいいと思っていた。
俺の冷徹な部分が、ここで死ねばアリスは助かる、とんだ僥倖だ、と喜んでいる。
しかしナイトメアはとことん自分の信念を貫いた。
その終わり方がこれではあんまりではないか。
耳が微かな音を捉えた。顔を上げると、窓の外に一匹の狸がいた。前脚で窓を叩き、口に加えた紙切れを突き出して見せた。モユクさんだ。
俺と目が合うと、モユクさんは紙切れを窓の桟に置き、背を向けて幽鬼のように闇に溶けるように消えて行ってしまう。
沙夜達を刺激しないようにそっと窓を少しだけ開け、紙切れを手に入れる。
新聞紙の切れ端に泥で短い文字が書かれていた。
【夢をみよ】
寝てる場合か、と紙を破り捨て乱暴にポケットにねじ込む。今はそれどころではない。乱暴に腰かけて頭を抱え、そこでこれが
そうだ。これだけの大手術中は普通意識がない。言わば「寝ている」状態だ。
この状況で寝るのは難しいと思ったが、体は正直だった。もう日付が変わっている。いつもならとっくに寝ている時間だ。椅子に座ったまま壁に背をもたせ掛け目を閉じると、自然と眠りに引き込まれ行った。
深く、深く。
夢の中へ。
こんな時でも、
ナイトメアはいつものペスト医師の恰好で、空を見上げていた。
俺に気付くとこちらに歩いて来る。そしていつもの感情の分からない合成音で言った。
「こんばんは。見送りですか。わざわざありがとうございます」
そう言ってナイトメアは丁寧に頭を下げた。内心で何を思い何を感じているか分からないが、見事にいつも通りを演じている。
この状況で「見送り」と言われ、何の話だと問うほど俺は察しが悪くない。俺は確認の意味で聞いた。もしかしたら、もう時間がない。言い方は単刀直入になる。
「死ぬのか?」
「そうですね。現実と空想の間にいるからでしょうか。死というものが近づいてきているのをはっきり感じます」
「……冷静だな」
仮面と合成音のせいで感情が読めない。こいつは死ぬのが怖くないのだろうか。俺だったらたぶん泣き叫ぶ。
ナイトメアは穏やかに続けた。
「死にかけて理解したのですが、死というものは案外特別ではないのですね。もっと暗く絶望的なものだと思っていたのですが、とても穏やかです。良くもなく悪くもない。ただ静かです。眠気が来るように」
なんとなく、こいつは今「ナイトメア」と「保並透」の間にいるのだと理解した。
死に向かっているというのに悟った修験者のように穏やかだ。こいつは全てを受け入れている。
俺が何というべきか迷っていると、ナイトメアは心を読んだように言った。
「先輩が気にする事はありません。私は報いを受けただけです。それよりも妹が無事か知っていますか。怪我はありませんか」
「あ、ああ、ショックは受けてるが傷一つない。今は沙夜よりお前の事だろ。人の心配してる場合か?」
「いつか必ず報いを受けると分かっていました。だから私はその時まで自分の心に従った。そしてその報いを受けた。当然の成り行きです」
「通り魔が当然の報いなのか? ただ……運が悪かっただけだろ」
「いいえ。あの人に刺されなくとも、そうですね。先輩は今夜私の家を訪ねようとしていたのではありませんか」
「それは……」
「そういう事です。どのような時、場所、形にせよ私は『報い』を受けていたでしょう。報いを受け、その途上で家族を護る事もできたのですから。私は満足です」
「満足したなら今度はしっかり働きなさい」
耳を打つ力強い声がした。どこかの女帝が会話に割り込んできたかと思って驚いて振り返ると、そこにはアリスがいつもの軍服姿で立っていた。
「いたのか、アリス」
「今来たのよ。私も今夜が峠みたいでさっきから出たり入ったりしてるんだけど。それで? もう満足したのでしょう? なら仕事をして貰うわ。今まで散々馬鹿な事をした分の負債を返して貰わないといけないから、一生無料奉仕だけど」
「……ナイトメアはもう死ぬんだ。通り魔に刺されて、今手術中なんだが。仕事をする時間はない」
「あらそうなの? じゃあ手術が終わり次第最高の病室を用意するからさっさと治す事ね。その前に私が生きられるか分からないけど」
アリスは手術が成功する事を決めつけてそう言った。こいつら半死人同士なのに元気過ぎるぞ。
「アリスさんは大丈夫でしょう。生きていればきっと嫌な事がたくさんあります。あなたは死なないで下さい」
「ええそう……んん?」
「構うなアリス。ニクスは?」
「たぶん私のベッドの横で泣いてるんじゃない? あの子はそういう弱いところあるから。大げさよね」
アリスは自分が死ぬとは全く思っていないようだ。だが命の危険度で言えばナイトメアとどっこいのはず。
ナイトメアは首を傾げている。
「私はアリスさんを死にかけるほど甚振り追い詰め、こうして死の向こうに逃げようとしているのですが。それに何か思うところは無いのですか」
「あなた何言ってるの? 今までどれだけ迷惑かけたと思ってるの? 全部帳消しにする成果を出すまで死ぬのは許可しないわ。あなたは私の部下なんだから」
アリスは思わず頷いてしまう力強さで断言した。
そうだ、こいつはこういう奴だ。アリスの心はドラゴンでさえ折れない。普通なら三回発狂しているぐらい追い詰められても、精神より先に体が音を上げる。実は幻獣の一種なのではないかと疑ってしまうぐらいだ。
アリスの台詞を聞いてナイトメアは笑った。
最初は機械的な合成音だったが、だんだん別の声が重なり、途中から青年の声に変わっていった。
ナイトメアは笑い過ぎて咳き込み、仮面をとってどこかフクロウを連想させる朴訥とした顔を晒した。
手で涙を拭いながら言う。
「ああ、こんなに笑ったのは久しぶりです。負けました、あなたはヒプノス先輩と同じぐらい偉大だ。分かりました、
そう言ってナイトメアは片手でを振った。一瞬にして、ナイトメアの背後に数千数万人の人間が現れる。毎夜の攻勢を思い出して反射的に身構えたが、カラスの仮面をつけていなかった。老若男女バラバラで、服も中世の農民が着て居そうなシンプルで飾り気のないものだ。
人々は呆気に取られているアリスに一斉に跪いた。
「この人間達をボスに贈ります」
「ええ、ご苦労様。でも一晩で消えるでしょう? 明日もやりなさいよ」
「申し訳ありませんが無理です。しかし問題ありません。
「え?」
「は?」
こいつ今何と言った?
口を半開きにしてマヌケな声を上げた俺達に、ナイトメアは「とれると困るから接着剤でくっつけといた」とでも言うような軽い調子で言った。
「ついさっき
「嘘だろ?」
「本当です。死に近付いたからでしょうか? 魂の力の使い方が今までよりもはっきり分かるんですよ」
とんでもない勢いで学習する奴だとは思っていたが、まさか
ギリギリで神話の領域まで足を踏み入れやがった。
言葉を失った俺達からナイトメアは一歩下がった。
「申し訳ない。そろそろ時間切れのようです。しかしこの空は旅立ちに相応しくないですね。
両手を広げ役者のように大げさに青空を仰ぐと、一瞬で空が闇に塗りつぶされた。太陽の代わりに月が浮かび、星々が瞬く。
圧倒された。それは昼間しかない歪な
胸が震える。心が熱くなる。意味も無く叫びたくなった。今初めて理解した。俺が創った山脈を見たナイトメアは、きっと今の俺と同じように感じていたのだ。
そのナイトメアは急激に輪郭を薄れさせ、人魂になった。
「ちょっと! 待ちなさい! こんな、神が許しても私が許さないわ!」
慌ててアリスが手を伸ばして捕まえようとするが、人魂には触れられない。
人魂は燃料が燃え尽きるように小さくなっていく。火の粉を散らし、小さくなって、縮んで……
その時、熱を帯びた風が吹き、ロウソクの火を吹き消すように人魂をかき消した。
何かを感じて夜空を仰ぐと、飛び去って行く巨影が見えた。
ドラゴンの送別を受け、ナイトメアは
そして同時に
凄惨な死因と裏腹に、聖者のように安らかな顔だったという。
一夜が明け、俺は自分の部屋で目を覚ました。あれから俺は沙夜の泣き声で目を覚まし、悲嘆に暮れる保並家の面々と長宗我部を残して家に帰った。
今頃沙夜は泣きつかれて眠っているだろうか。息子を亡くした母、その手から命を落とした父。これから保並家がどうなっていくのか想像もできない。
アリスは一度目を覚ましニクスに言葉をかけ、それからまた昏々と眠り続けている。今度は昏睡ではなく、今まで寝られなかった分を取り戻すような、自然で深い眠りだと言う。
朝食を食べながらテレビをつけると、男子高校生一人を殺傷した通り魔が逮捕されたというニュースが報じられていた。今は警察で拘留されているらしく、精神鑑定や薬物検査が急がれているという。
「……今日学校休む」
気分が悪くなり、箸を置いても親父も母も何も言わなかった。俺が事件の現場に居た事は伝えてある。
二人が想像している俺の心境はたぶん的を外しているだろうが、そっとしておいてくれるのは有難かった。
自室に戻り、ベッドに体を投げ出し、天井を見上げる。
こんなに大きく世界が変わったというのに、窓の外からは元気に登校する小学生達の呑気な笑い声が聞こえてきた。
それが何故か無性に腹が立って、俺は枕を殴りつけた。
まだ若い青年がイカレた野郎に刺されて命を落とす。よくあるとは言えないが、世の中にいくらでも転がっている不幸な事故の一つだ。もっと無残な死に方をした奴なんていくらでもいる。
だがあいつは……凄い奴だった。
最後の最期にアリスと分かり合えていた。ただの屑ではない。分からない部分は多かったが、共感できる部分もあった。生きていれば俺と親友にすらなれたかも知れない。
理不尽で、しかし当然で、やるせなかった。
やり場の無いもやもやを抱えていると、スマホが着信音を鳴らした。見れば「保並」と表示されている。一瞬ドキッとしたが、何のことはない、妹の方だ。長宗我部経由で連絡先を受け取っていたのを思い出す。
「はい、日富野です」
「もしもし日富野先輩ですか? あの朝早くにすみません、相談したい、えっと、伝えたい事があって、こういうの一番分かるのは先輩だと思って」
怒鳴りつけられ罵られる事を覚悟していたのだが、予想と違い混乱した話し方だった。
よほど泣いたのだろう、声が枯れていて聞き取りにくい。俺はスマホに耳を寄せ、ゆっくり言った。
「落ち着いてくれ。何があったんだ? 急がなくていい、ゆっくり、一つずつ話してくれ」
「す、すみません。でも私、どうすればいいか。疲れて眠ったと思ったら、私、初めてで、兄と同じなんじゃないかって。でもあの世界はそうとしか、兄の話と同じで……すみません、ちょっと落ち着きます」
沙夜はそこで我に返ったようで、深呼吸をした。
俺はもう言葉の端から沙夜に何が起きたのか分かり、スマホを取り落しそうになった。
俺は運命というものを信じない。だが何かを感じずにはいられなかった。
だからこれはきっと兄から妹への贈物なのだ。
そう信じたくなる。そうでなければ救われないではないか?
息を整えた沙夜が咳払いをして、話し始めた。
「昨日見た夢の話なんですけど」
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