九話 誰かの深層心理
恋は盲目と言うが、目だけではなく脳みそも鈍らせるものらしい。保並沙夜という人間の怪しさに長宗我部は全く気づいていなかった。
灯台下暗しという事もあったのかも知れないが、俺が具体例を挙げ連ねて彼女の不審な点を指摘すると、長宗我部は頭を抱えた。
「いや、え? それ……え? いやいや、ねーよ。沙夜ちゃんが? すっげぇ良い娘だぞ」
「自分で言ったんだろうが。良い奴の皮被ってるってさ」
「それは俺のただの想像だ。沙夜ちゃんは裏なんてねぇよ」
「そう思わせる事がナイトメアの手口なんだろ。あいつは人の懐に潜り込むのが上手い」
「違うっつってんだろ! ナイトメアは沙夜ちゃんじゃねぇ!」
「待って、喧嘩はやめよ? はっきりさせよう。モユクさん、保並沙夜は……あれっ」
俺達を制止したニクスがモユクさんに尋ねようとするが、いつの間にか姿が消えていた。風を感じて見てみれば、窓が少し空いている。
モユクさん自由過ぎるだろ。フワッとした事だけ言っていなくなったぞ。
「あの狸マジなんなん? 肝心なところで役に立たねぇな」
「口を慎め! 無礼だぞ!」
「は?」
長宗我部が低い声を出した。珍しく喧嘩腰だ。なんだやる気かコラ受けて立つぞコラ。俺は馬鹿にされてもいいが、モユクさんを馬鹿にするのは許せない。応戦してやろうとすると、ニクスが俺の口にクッキーを押し付けてきた。
「はいはいそこまで。長宗我部さん、ごめんね。ヒプノスはナイトメアに毎晩嫌な事されて視野が狭くなっちゃってて。ヒプノスも長宗我部さんの気持ち考えてあげようよ。ヒプノスだって自分のかの……家族が本性隠してるだけのゴミクズだって言われたらいい気分しないでしょ? ほら謝って」
「あ、ああ。すまん、長宗我部」
「よろしい。でも、私も正直この人は怪しいと思うな。ちょっと話が上手く出来すぎてる気もするけど」
「転校生、先輩、ペスト医師と医者志望。将を射んとすれば馬を射よの要領で俺の情報を得るために長宗我部に接近してる。ストレートに筋書き考えるならこんなところか」
「待てよ。んじゃ沙夜ちゃんは俺が通りかかるのにタイミング合わせてわざと不良に襲われるフリしてたって事か? 転校して三日も経ってない学校でそんな演技に協力してくれる不良にコネ作れるわけないだろ」
冷静さを取り戻した長宗我部が不愉快そうに反論してくる。
そう言われると弱い。確かに無理がある。
「……長宗我部に助けられたところまでは本当に偶然で、そこから長宗我部が俺につながりがあると知って接近しようと考えたとか?」
「自分でも信じきれてない理屈で言いくるめられると思うなよ」
「いや、でもなあ。現状一番怪しいのは保並沙夜だろ」
容疑者リストを捲る。貿易商、派遣社員、年金暮らしの老人、新婚夫婦、大工、ウェブデザイナー……保並沙夜の他は今ひとつピンとこない。
しかし保並沙夜はその
話し合った結果、確かめてみようという事になった。モユクさんに聞いてはっきりさせても良いが、どこへ行ったとも知れないモユクさんを探して聞き出すより、保並沙夜本人を尋問した方が手っ取り早く確実だ。幸い、長宗我部が連絡先も住所も知っている。
長宗我部は渋ったが、ニクスに「潔白を証明するため」と言いくるめられ、不承不承アポをとった。話したい事がある、時間をとれないか、とメールを送ったところ、保並は快諾。いつでも来て良いと返信がきたため、すぐに行く事になった。
時刻は夕方。まだ遅すぎる時間帯ではない。アリスの精神がどこまで保つか考えると、事件解決は一日でも早い方がいい。
また黒塗りの高級車で送迎してもらい、俺達三人は保並家の前に立った。モダンな造りの、しかし特別というほどでもない二階建ての家だった。小さな前庭があり、キンモクセイが植えられ、白い椅子が置いてある。レンガで囲まれた花壇にはコスモスとパンジーが花開いていた。ちょっと金のある家族のマイホームといった感じだ。
「御両親はまだ仕事だ。いいか、明。何があっても沙夜ちゃん殴ったりすんなよ」
「殴らん殴らん」
「だといいけどな、お前時々衝動的だから。よし行くぞ」
長宗我部がチャイムを鳴らすと、パタパタと足音がして玄関扉が開いた。
そこに立っているのは雌のニンゲンだった。三つ編みに、眼鏡。長宗我部を見て嬉しそうに微笑んだが、その後ろの俺とニクスを見て怯んだ。形式的に「こんばんは」と挨拶を交わし、中に入れてもらう。
「いきなり悪いね、沙夜ちゃん」
「いえいえ大丈夫です。本当、全然。居間でいいですか?」
「どこでもいいよ」
廊下を通り、部屋に入ろうとすると、中から見覚えのない同い年ぐらいの男が湯気の立つマグカップと本を持って出てきた。
俺は驚いて固まったが、男も俺達を見て一瞬固まり、会釈する。
「いらっしゃい。長宗我部さんと……後ろの方は?」
「長宗我部さんの友達です。こんな時間にすみません、どうしても沙夜さんとお話したい事があったので」
代表してニクスが答えると、男は軽く頷いた。
「そうですか。僕は兄の透です。妹と仲良くしてあげて下さい」
「兄さん、邪魔しちゃった?」
「いや、丁度上に行くところだった。ではみなさん、ごゆっくり」
透は頭を下げ、階段を上がって二階に消えていった。まるで普通の兄妹のようなやりとりだ。沙夜は家族にも本性を明かしていないのだろうか。
「兄は今年受験なんです」
「旧帝大医学部だっけ?」
「そうです。ウチはみんな医学系で」
「へぇー、頭いいんだね」
「悪くはないと思います」
ニクスの頭悪そうな感想に無難に返し、沙夜は俺達を居間に通した。テーブルを囲んで沙夜・長宗我部とニクス・俺の二組に分かれソファーに座る。
長宗我部が沙夜の手を握ると、沙夜は照れてモジモジしていた。イチャつきやがってこいつら……!
まあいい。すぐに化けの皮を剥いで鞣して敷物にしてやる。
今はぐだぐだ前置きをするほど心に余裕がない。俺は単刀直入に尋ねた。
「保並沙夜」
「は、はい。なんでしょうか、先輩」
「君はナイトメアか?」
「…………」
俺の質問に、沙夜は沈黙で答えた。
聞き返さなかった。
驚きもしなかった。
困惑もしていない。
ただ、黙って、俺をじっと見つめてきた。
心臓が嫌な跳ね方をする。この反応、怪しいを通り越してほとんどクロだ。見た目がチワワにも負けそうな少女だからといって油断はできない。いきなりナイフで襲いかかってきたらポケットに忍ばせたスタンガンが頼りだ。
「どうしてそう思ったか聞かせてもらっても?」
沙夜が自白同然の質問を返してきた。長宗我部が口をあんぐり開けて沙夜を見ている。
俺はスタンガンにそっと手を伸ばしながら答えた。
「ナイトメア出現と転校のタイミングが同じだった。ペスト医師と医者志望の符号、
「……なるほど。ナイトメアは先輩から見てどう映っていましたか? どんな人間だと思いました? 気持ち悪かったですか? 怖かったですか? 殺してやりたいと思いましたか? 逃げたくなりましたか? 嫌いですか? ちょっといいなと思ったりしませんでしたか?」
「どの口が……!」
苛立たしいほどに落ち着き払った顔面に拳をくれてやりたくなったが、長宗我部との約束を思い出して踏みとどまる。
「大体分かりました。日富野先輩は怒っているのですね。丹楠、さんは……」
「ごめんね、お話ししに来たって言ったけど、あれ嘘なんだ。はっきり言えば尋問と脅迫。あなたは私の大切な人を殺そうとしてる。今すぐお嬢様――――有栖河夢子から手を引いて二度と顔を見せないで。生まれてきた事を後悔したくなければ」
ニクスは能面のような無表情で淡々と言ったが、それが逆に雄弁に振り切れた怒りを表していた。待ち伏せから攻撃態勢に入り、押し殺した殺気を開放する直前の肉食獣のようだ。沙夜が「NO」と答えた瞬間、掴みかかって首を喰いちぎるのではないだろうか。
沙夜は怯んだが、質問を無視して言った。
「丹楠さんもナイトメアに嫌悪感を抱いているようですね。特に何が嫌でしたか?」
「先に答えて。お嬢様から手を引くの? 引かないの?」
二人の間で散る火花を幻視する。一触即発だ。何か刺激があれば次の瞬間には居間に血飛沫が飛んでもおかしくない。
暗い目でじっと見つめ圧力をかけるニクスに、沙夜は冷や汗を流しながら睨み返していた。
ここで沙夜が引く可能性は低いだろう。仮にもう手を引きます、と言っても、
沈黙の中で緊張が高まっている。耐えかねた長宗我部が口を開こうとして、それをきっかけに均衡が暴力的な形で破れそうになった瞬間、居間のドアが開いた。
入ってきたのは盆に盛られた菓子を持った沙夜の兄だった。第三者の介入で場の空気が少しだけ緩む。
「申し訳ない。少し立ち聞きをしてしまいました」
頭を下げる透にニクスがはっとして慌てる。ニクスはかなり物騒な事を言っていた。外聞が悪いどころではない。
「す、すみません。あの、これには深い訳が。えーっと、なんというか、その……ゆ、夢の話で。妹さんが夢の中でお嬢様を殺しかけていて、それで」
「いえ、大丈夫ですよ。分かります」
クスリでもキメていると取られかねないニクスの弁解を透は無難に流した。下手に刺激すると危ないとでも思われたようだ。
彼は菓子をテーブルに置き、青ざめている沙夜の肩を優しく叩いた。
「沙夜、後で話そう。二階に上がっていなさい。長宗我部さん、申し訳ありませんがついていてあげてくれませんか? 今の妹にはあなたが必要です」
「は?」
「お願いします」
「あ、ああ……?」
有無を言わせない「お願い」に負け、長宗我部は俯いた沙夜の肩を抱いて居間を出ていこうとする。
俺はそれを止めようとした。ナイトメアと二人きりになるのがどんなに危険か。特に今のナイトメアは正体を知られ自暴自棄になりかけている可能性もある。これまでの慎重さを捨て、殺傷による口封じをするかも知れない。
だが、客観的に見て危険なのはむしろ俺とニクスだ。突然の訪問からの高圧的な質問と脅迫。兄ならば当然、そんな危険人物と妹は引き離したいと思うだろう。
ここで立ちはだかる透を殴り倒し、言い逃れできない警察沙汰にしてでも引き止めるべきか躊躇していると、透は俺の目をまっすぐ見て、言った。
「ヒプノス先輩。僕がナイトメアです」
一瞬、何を言っているのかわからなかった。混乱している内に長宗我部と沙夜は部屋を出て、二階に上がっていく足音がする。
透は二人の代わりに俺達の対面のソファに座り、頭を下げた。
「妹が失礼しました。ここまで話をこじらせたのは僕の責任です。
透は冗談めかして言うと、練り菓子を一つ袋を開けて口に入れ、微笑んだ。
話が分からないのは俺だけかと思って横を見ると、ニクスも困惑していた。よかった俺だけではない。
これはどういう事だろう。沙夜の兄がいきなりナイトメアだとか言い出した。妹を危険人物から庇う方便だろうか?
俺の疑念を察したのか、透が言った。
「僕は妹によく
言われてみれば、確かに沙夜は「ナイトメアについてどう思うか」という質問しかしていなかった。自分がナイトメアだとも言っていない。
「なら、沙夜ちゃんはナイトメアじゃないって事?」
「そうです」
「あなたがナイトメア?」
「そうです」
「……沙夜ちゃんは
「いいえ。彼には妹も本気です。……ああ、助けられたのも自作自演ではと疑っているのですね。それは偶然です。助けてもらった時は白馬の王子様に見えたようですよ。僕も彼には感謝しています。この頃沙夜が話す事と言えば半分は長宗我部さんです。残り半分は
透の言葉には迷いがなかった。とてもその場しのぎで話を作っているようには見えない。
透の顔を見てみる。パッと見では朴訥とした、誠実そうな印象だ。しかしよく観察すれば目にはシマフクロウのように賢さと深さがあり、痩躯はヤマカガシのようだ。夜の森に潜み獲物を狙っているような、静かな強さがにじみ出ている。
ニクスが耳打ちしてきた。
「ヒプノス、どう思う?」
「フクロウと蛇を合体させたみたいだな」
「……それならこの人がナイトメアなんだね」
「なんでそうなる」
「ヒプノスは普通の人は動物に喩えないから。この人は
気付いてなかった。そうなのか? そんなに意図して比喩を使い分けているつもりはないのだが。
しかしニクスの言う通り、沙夜に動物っぽさを感じた事はない。彼女はただの弱い人間だ。気高い動物ではなく、動物に捕食される側だ。
保並沙夜と保並透。前情報を抜きにしてどちらがナイトメアかと言われれば、俺は透だと答えるだろう。
それに沙夜に当てはまる事の多くは透にも当てはまる。家族なのだから引っ越してきた日は同じだ。医学部の受験も控えているという。人当たりが良く、一見して大人しそうで、初対面では俺も注目せずに流してしまった。
「なぜ俺を先輩と呼ぶ? 受験生って事は高三だろ。俺は高二だぞ」
「
「
「好みです。僕はペスト医師を古典的治療法と現代医学の過渡期を象徴する、アスクレピオスに次ぐ医学者の鑑と考えているので。あの服も僕の部屋にあります。確認しますか?」
「あの声は?」
「フリーの音声合成ソフトです。ネットで拾えますよ。検索すれば一番上に出ると思います」
「どうやってこの街に来た?」
「父が札幌か王港どちらかの病院に転勤する事になったので。どちらが良いか聞かれここを推しました。私がナイトメアだと信じて頂けましたか?」
ナイトメアは優しげに微笑んだ。
確かにこいつは質問に対してナイトメアが言っていたのと同じ事を話している。矛盾はない。返答に淀みもない。本人でなければここまでスラスラと答えられないだろう。
こいつが、保並透が、ナイトメアだ。間違った人間を追ってきたが、どうやら最終的には正解にたどり着いた。
「分かった、信じよう」
「私も信じる」
「よかった。安心しました」
「で、ナイトメア」
「はい?」
「歯ぁ食いしばれ」
「ぐべ」
とりあえず
「ニクスも一発いっとくか?」
「い、いや私はいいよ。というか問答無用で手が出るんだね」
「1000分の一倍返しだ。まだ有情だろ」
ナイトメアは鼻を押さえてフラフラしながらソファーに座り直した。
「日富野さん、これ傷害罪ですからね。いえ訴えるつもりはありませんが」
「そんな事言ったらお前は千倍傷害罪だぞ」
「
そう前置きして、ナイトメアは語りだした。
「
例えば、そうですね、お二人はネットゲームをやった事がありますね? 対人戦で相手プレイヤーを倒すのは悪い事ですか? 悪いと考えるかも知れません。が、対人戦を忌避する人がいたとしても、システムがそれを許しているという事は、やっても良いという事です。それが嫌ならば運営にシステム改正を掛け合うか、有志で集まりプレイヤーを倒すプレイヤーに制裁を加え自粛させる仕組みを構築するべきです。日富野さんが
あれはつまり幻獣を害する者への暴力装置でしょう? 幻獣の楽園を壊そうとする者に対し圧倒的暴力で制裁を加え、楽園を守るシステムです。僕もドラゴンには敵いませんから、幻獣には手を出しません。暴力的抑止に屈している訳ですね。現実でもそうです。法の下に警察機構という一種の暴力が許され、その結果平和が保たれています。武器を持たず暴力を全く使わない警察にどれだけの犯罪抑止力が期待できるでしょうか?
確かに僕は
これがそんなにおかしな事でしょうか? 極めて自然な成り行きではないですか?」
ナイトメアが言葉を結び、俺の言葉を待った。
ナイトメアが言うような事は、俺も考えた事がある。
アリスを下したのもナイトメアが言うようにドラゴンという圧倒的な暴力装置が働いたからに過ぎない。理知的な話し合いによる解決とはほど遠かった。
結局、
だから俺もエゴを通す。ナイトメアの価値観になど合わせていられない。
「知らん。アリスを殺すのをやめろ。俺達から手を引け。そうしなければ有栖河財閥から圧力がかかる事になる」
ナイトメアにはナイトメアなりの譲れない信念があるのだろう。俺達にもある。話し合いが成立しない事など最初から分かりきっている。
だから、ゲスかろうが脅迫するしかない。
ナイトメアは悲しげに首を横に振った。
「日富野さん。ここは
「思わないね。死人が出かかってるんだぞ? アリスの病状を知ってるのか? 幻覚、幻聴、錯乱。よくもってるがいつ取り返しのつかない精神崩壊が起きてもおかしくない。お前の無責任な暴れ方が、人を殺しかけてるんだ」
「本当にそうでしょうか? 僕がアリスさんを追い詰めているのは否定しませんが、アリスさんが死亡を回避する手段はいくつかあります。僕が追えないほど遠い場所に移り住んで静養してもいいですし、ドラゴンに臣従すれば彼は保護を授けるでしょう。そうなれば僕も手出しできません。それをしないのはアリスさん自身の選択です。生きられる方法があるにも関わらず死に向かっている。これは一種の自殺と言えるのではげべっ」
ニクスの強烈な張り手を喰らい、ナイトメアは仰け反るようにしてソファーの背もたれの後ろに倒れて見えなくなった。
「すっげぇ音したぞ今」
「ごめん、我慢できなかった」
手をプラプラ振るニクスは口では謝っているが全く悪びれていなかった。お前も結局手を出してるじゃねーか。いや気持ちはよく分かるが。
ナイトメアはまたよろよろとソファーに座り直し、何事もなかったかのようにペラペラと話を続ける。なんだこいつ。殴り返してくるどころか怒りもしない。
「喩えが悪かったのかも知れませんね。日富野さん、あなたは人を一人殺せばドラゴンを現実に作り出せるなら殺すでしょう?」
「は? 何を言って」
「どうなんですか? 人間を一人殺せば、ドラゴンを
「…………」
「丹楠さん。同じ質問をしましょう。人一人殺せば
「…………」
言い返そうとしたが、言葉が出てこなかった。ニクスも苦しそうに口を動かし、しかし何も言えていない。
痛いところを突かれた。ナイトメアの言う通りだと、心が認めてしまっている。
「僕は僕にとってのそんな状況になったので、やっているだけです。あなた達と同じです」
ナイトメアはキッパリと言い切った。
「……でも、私達はやってない。まだ。そこはナイトメアと違う」
「そうですね。しかし元はと言えば僕がこうなったのは日富野さんが原因なんですよ。その点では日富野さんも同罪と言えるのでは?」
ニクスの苦しげな反論にナイトメアは頷き、何故か矛先を俺に向けてきた。
「いつもの無茶苦茶理論か? 言いがかりはやめろ」
「聞いて下さい。僕が初めて
そこですぐにモユクさんと出会えたのは行幸でしょう。あの方はいつもタイミングが良い。いや、悪いのかも? ……その話は置いておくとして、最初は僕も自粛していました。なんだか怖かったですしね。
しかしそこで僕はあの大山脈を見ました。世界のマナーなど知ったことかとばかりに堂々と現れたあの素晴らしものを。行ってみて見てみれば幻獣がいます。木々があります。意志を持って動いていて、弱肉強食の摂理で動いています。衝撃でした。あの楽園には製作者の一つの世界を創り上げるほどの並外れた熱意とこだわりを感じました。理想の具現、エゴの塊です。日富野さん、僕があなたを尊敬していると言ったのは嘘ではありません。敬愛しています。でなければこうして腹を割って話す事はしません。
あの楽園のおかげで、一人の
ナイトメアはよく喋る。聞くほどに混乱させられる。今もそうだ。本当に悪いのはこちらなのではないかと思いそうになる。
じゃあ何か。ナイトメアが狂人化したのは、俺が狂人だったからとでも言うのか?
……否定できないのが恐ろしい。
ニクスが疲れたように言った。
「つまり
詰るように言われたナイトメアは本当に驚いたようだった。とんでもない! と首を横に振る。
「僕は
「お前そんな白々しいセリフを信じると本気で思ってるのか?」
「いえ、なんというかですね。また話が長くなるのですが。これは僕の悪い癖ですね。あー、何から話しましょうか。そう、僕は生まれた時にですね、未熟児だったそうです。体重が1600gしかなくて、そのままでは死んでしまう。当たり前ですが自分ではどうしようもありませんでした。僕が今こうして生きて、喋る事ができているのは発達した医学のおかげです。
小学二年生の時、僕は海水浴に行ったとき、潮に捕まって沖に流されました。この恐怖が伝わるか分かりませんが、世界から切り離されたような、孤独という言葉すら離れていってしまうような、恐ろしい絶望を味わいました。そこから救ってくれたのはライフセーバーの方です。だから僕は総理大臣よりもライフセーバーさんをずっと尊敬しています。
分かりますか? 僕がこうして生きているのは、他の人たちがいたからです。今食べているこの菓子の美味しさも、開発し、製造し、流通してくれた何十何百人もの人たちがいたから味わえるんです。この柔らかいソファーも、住み心地の良い家も、服も、この日本語さえも、全て名前も知らない先達の方々が受け継ぎ守ってきたおかげなのです。今を生きる僕たちはそのバトンを確かに受け取り、次の世代に渡す義務がある。過去の人たちがそうしてきてくれたおかげで僕は今生きているのですから、僕もそうするのは当然の義務です。
言っている事はいい事だが、ナイトメアのセリフというだけで嘘っぽく聞こえてしまう。これは偏見だろうか。よくわからなくなってきた。
「お前に立派な志があるのは分かった。じゃあなんで
「
「OK分かった。もういい」
長々と喋ってくれたが、要約すれば何の事はない。
ナイトメアは性根がド畜生だ。
二重人格のようだが、どちらもナイトメアなのだ。ナイトメアの中で善意と悪意が全く矛盾なく両立している。
「結論を出そう。お前にとって俺達は無実の罪を盾にとって脅迫してくる悪人。アリスの命がかかっていても
「そうです」
「……話は終わりだね。帰ろう。疲れた」
ニクスが億劫そうに立ち上がった。俺もそれに続くが、足がとても重かった。ナイトメアと話すのは聞いているだけでも疲れる。
ペラペラペラペラ理屈を並べ立てやがって。大人しくするつもりがないなら最初からそう言えば良かったのだ。
いや、信念のためなら自分の命すら簡単に賭けられる
骨折り損のくたびれ儲けだ。
一応背中を警戒して
「あの、妹は僕と違い普通の感性です。今日のニクスさんの……強い言葉はとても怖かったようです。後でフォローをして頂けると助かります。妹が落ち着いたら長宗我部さんには一応僕から今日の顛末を伝えておきます。それと」
「なんだ」
言い淀むナイトメアに促すと、首を傾げて言った。
「僕を殺さないんですね? アリスさんを助けるために僕を殺しに来たとばかり思っていたのですが」
「殺意はある。なけりゃ殴らない。殺さないのはアリス本人の意志と、まあ、倫理観ってやつだ」
「はあ。
「お前にだけは言われたくない」
俺が吐き捨てると、隣でニクスが深く頷いていた。
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