八話 その深淵に光を向けて
一方で、
アリスは相変わらず毎晩ドラゴンに貢ぎ物をしている。重度の睡眠不足でフラフラしながら。余った時間はアリス屋敷の再建に当てていて、入院前と全く行動が変わっていない。
ナイトメアとドラゴンを同時に相手にした結果死にかけているわけだが、かといって静養するためにドラゴンへの供物に手を抜いたら怒ったドラゴンに無慈悲にトドメを刺されるのは間違いない。アリスが
ニクスがアリス屋敷に四方八方から押し寄せるカラス仮面達を魔法という名のただの
「不甲斐ないけどそうするしか無いわね。調査機関には話を通しておくわ。ナイトメアの素性が分かったら教えて頂戴。
「お前まだナイトメアを仲間にするつもりなのか……?」
「するつもりというか、仲間なのよ。正確には部下だけどね」
「殺されかけてるのにか?」
アリスは躊躇なく頷いた。
これは酷い。こいつ本当はもう発狂してるんじゃないか。
「あのな、前にも忠告した気がするが、向こうは絶対お前を上司だなんて思ってないぞ。あいつは餌やった回数だけ噛み付いてくるタイプだ。悪い事は言わん、首にしろ」
雇用的にも物理的にも。親切にしてやれば応えてくれるなんて大間違いだ。ハンムラビ法典にも書いてある。目には目を、歯に歯を。ナイトメアには報復として
純然たる好意で言ったのだが、アリスは小馬鹿にしたように笑った。
「凡夫の意見ね。あなたはちょっとしたミスですぐクビにする会社で働きたいと思うの?」
「そりゃ嫌だが、ナイトメアのはちょっとしたってレベルじゃないだろ。ミスでもない」
「そうね。故意に私の組織に多大な損失を出している。でもナイトメアは有能よ。一人で私と、ニクスと、ヒプノスの三人を相手取って、ドラゴンの機嫌を損ねないように立ち回っている。凡愚にできる事ではないわ。人間の
「まあ……理屈は分かる。分かるがそう上手くいったら苦労しないだろ」
「だから上手く行かせるためにこうして苦労しているのでしょう」
そう言って肩を竦める。今もドス黒いクマを作ってフラフラしているクセに、その言葉には一切の迷いがない。
暴君気質のアリスがこういう狂気的とも言える度量の広さを事あるごとに見せつけてくるのは、よくよく考えてみれば意外でもないのかも知れない。
歴史を振り返れば、三国志の曹操とか、戦国時代の信長だとか、苛烈な処刑と有能な者への過大な慈悲が同居する英雄は存在する。アリスがそういった偉人達と同列になれるかは別として、その素質は間違いなくあるのだろう。
もっとも、信長は火を付ければ死ぬし、曹操も病で死ぬ。火を喰らい病をかき消すドラゴン様の偉大さとは比べるまでもない。やっぱり人間より幻獣だな!
まあ何にせよ内容はとにかくこれだけしっかりした演説をぶち上げる事ができるのならまだ大丈夫そうだ。アリスの精神的タフネスには恐れ入る。
「じゃあ頼むわね、ニクス」
「ヒプノスだ」
前言撤回。ヤバそうだ。早めに決着を付けよう。
屋敷を囲むように築かれた高さ十メートル近い石垣に上り、ワラワラ集まって梯子をかけようとしているカラス仮面達に熱湯を
つい二日前まではアリスは
しかし、とんでもない数の寄せ手だ。千人を超えているのではないだろうか。これまでのように人間らしい動揺や熱意といったものがまるでなく、無感情な昆虫の群れのように淡々と、容赦なく押し寄せる。
思考も肉体も
倒しても倒してもキリが無かった。俺の価値観で熱湯はかなり安い。必然的に
しかしそれでも、MPが尽きるまで浴びせ続け、石垣の外が火傷を負い踏み潰された屍で埋め尽くされても、まだカラス仮面達は湧いてでた。
頭がおかしくなりそうだ。ナイトメアにとって人間はゴミクズほどの価値もないのだ。
「ナイトメアァアアアアアアアアアアア! てめぇいい加減にしろよ! ふざけやがって!」
水一滴出すMPすら無くなり、石垣をはい登ってくるカラス仮面を蹴り落としながら、俺は叫んだ。
何がふざけているかといえば、幾晩にも渡り人間を大量に創り続けている事だ。
人間をクズだと思っている。だから人間を安く大量に
しかし創り出した人間が俺達に大打撃を与えているのを見れば、普通は「人間は役に立つ」「使える」と思うはずだ。人間をゴミクズだと認識していても、多少は見直すはずだ。
にも関わらずナイトメアの中で人間の価値観はゼロに近いままだ。いくらでも湧いて出る。
ナイトメアにとっては、どれほど役立つ人間であっても毛ほどの価値も生じないらしい。人間を人間と見ていない。道具とすら見ていない。ゴミをゴミにぶつけ、それを眺めているだけだ。
これほどドス黒い邪悪には会った事がない。底なし沼より底がない、何か恐ろしいモノを覗き込んでしまったようだった。
終わりのない消耗戦に負け、今夜もとうとうカラス仮面達の群れに押し倒される。殴られ、蹴られ、爪をもがれ、毛をむしられる。遠くでニクスとアリスの叫び声が聞こえ、それもすぐに聞こえなくなった。
畜生。俺も終わりだ。
無駄な事だと分かっていても、最後まで抵抗する。それが功を奏したのか、フッと体が軽くなった。カラス仮面達の靴音もしなくなる。
何事かと痛む体を起こして立ち上がると、あれほど群がっていたカラス仮面達が、死体も含めて全て消えていた。荒らされ踏みにじられた草原と、こんな時でさえ変わらない、まるでカラス仮面達の亡霊のような
どうしたのだろうか。
……いや、修道服のような黒服を着ている。あれはナイトメア本人だ。
俺は雄叫びを上げ、ナイトメアに突進した。やろうぶっ飛ばしてやる! あの憎たらしいスカした仮面に拳を叩き込んでやらないと気がすまない!
カラス仮面達に甚振られた怪我が痛んだが、それ以上に怒りが勝った。舐め腐りやがって。ふざけやがって。アリスが部下にしたがってる? 知るか! 話は一発ぶん殴ってからだ!
しかし情けない話だが、どれほど気力が高ぶっていても体力の消耗はどうしようもなかった。人間より強靭な筋力と体力を持つオオアリクイでさえ、何本も骨を折り、大怪我を負ったまま全力疾走すれば息も切れる。俺はナイトメアに一発くれてやれる距離に近づく前に失速して、よろめき……そこで、ナイトメアがロープでぶら下げた狸の皮をナイフで剥いでいるのに気付いた。
その狸は苦悶の声を上げながら、ナイトメアに注文をつけていた。
「うむむむむむ! これは痛い、痛いな。経験した事のない種類の痛みだ。五十年ほど昔エキノコックスにやられた時も筆舌に尽くし難かったが、生きながらにして生皮を剥がれるというのも痛い、いたたたたたたたたた、むぐぅ!」
「はい、では次は塩をすり込んでみますね」
「うぐっ、ならば辛子も試してみてくれんかね? 塩はまだ民間療法が盛んだった時代に傷口の消毒代わりに試した事があるのだ。いや、拷問という形で塩をすりこまれた経験は無いか。うむ、興味深い」
モユクさんだ。モユクさんが拷問にかけられている。そして拷問を論評している。
これは……
これは、何だ? 何がなんだかさっぱり分からんぞ。
さっきまでとは別種の異常さに呆気にとられていると、モユクさんが逆さにぶら下げたままつぶらな瞳で俺を見た。
「ふむ、見覚えのあるオオアリクイだ。元気でやっているかね? ヒプノス君」
「え? いやあの、まあ、元気だけどな……モユクさんは……何してるんだ?」
「拷問にかけられている。あぐぅ! なるほど、燃えるような痛みになるのか。するとむき出しの痛覚神経に極度の刺激を与えられればその質は痛たたたたた! きゅーん!」
「先程モユクさんと会いましてね。今夜王港市にやってきたばかりだと仰るので、歓迎させて頂いています。先輩には失礼ですが、こちらに集中したいので協力者の方々には一度消えてもらいました」
そう言ってナイトメアは用途不明の凶悪に尖った道具を虚空から取り出した。
状況だけ見れば拷問されているモユクさんを助けるべきなのだろうが、本人があまりにも平然としていて混乱する。
「あー、モユクさん? その、なんだ。助けはいるか?」
「む、いや、その気持ちは有り難く受け取るが、構わないでくれ給え。拷問を受けるという体験は中々得難いものだ。儂も知識の上では一通り心得があるがね、やはり実体験こそが知恵の源泉であり、観察こそが知識のはぐぁっ、むぎぎぎぎ……! はあはあ、ヒプノス君、すまんが意識が朦朧としてきた。話は後で良いかね? ナイトメア君、行けるところまで行ってしまってくれんかね。最後は釜茹ではどうかな? 皮を剥がれ、塩をすり込まれ、最後はタヌキ鍋にされるというのも料理のようで面白い。猟師の者に捕らえられ食された同胞達の気持ちも、ふぬっ、ぐ、う、あああ……分かろうというものだ。タヌキとはいえ人間並の知性を持つ喋る存在を料理になぞらえ甚振り殺す。正に君の言うところの悪意そのものと言えよう」
「それはそうですが。これほどやり甲斐の無い拷問は初めてです」
平坦な合成音からでもナイトメアの釈然としない様子が伝わってきた。大鍋を取り出しながら首を傾げている。見ている俺ですら何かが間違っている気がするのだから、ナイトメアの違和感はもっと酷いだろう。
それはそれとして、とりあえずナイトメアは鍋を奪い取り頭を思いっきりぶん殴って殺しておいた。直後に限界に達したのか、俺も意識が遠のき、そのまま死んだ。
長宗我部は器用な奴だ。大抵の事はそつなくこなし、大体どんな事でも極めてはいないが人並み以上に齧っている。この世に長宗我部の歯型がついていないモノがあるか疑わしいぐらいだ。
アリスから引き継いだナイトメア調査の取りまとめを長宗我部は難なくこなした。教室に書類の束を持ち込み、選り分け書き込み判を押す。作業は休み時間のたびに少しずつ進め、昼休みを丸々潰し、放課後にまでもつれこんだ。
横から覗いてみたが、頭が痛くなる漢字だらけの長文がビッシリ並んでいる。
「これ全部捌くのか。キツくないか?」
「そうでもない。簿記1級と秘書技能検定1級は飾りじゃないぜ」
「お前なんでも資格持ってんなあ」
報告はパソコンに送られてくるのだが、教室にノートパソコンを持ち込む訳にもいかないので印刷してきたらしい。紙代・インク代はアリス持ちで給料も出るという。アリスは雇用関係は割としっかりしている。ニクスについては相当ブラックだったが、あれは身内補正でもかかっていたのだろうか。
印刷して持ってきた分を終わらせて帰るというので、数学の課題を片付けながら待つ。最近また夢にかまけて勉強をしていなかった。今日の小テストが一問も解けなかったのは流石に危機感を煽る。首尾よくナイトメアをぶちのめしたとしても留年しそうだ。進学に必要な科目が生物だけなら一気に高校を飛ばして大学を卒業できるのだが。
二次関数とかいう人間以外の生物が使わないゴミのような概念と格闘していると、窓の外が急に静かになった。野球部や陸上部が上げていた掛け声が止まっている。何事かと外を見ると、校門の外に場違いな黒塗りの高級車が止まっていた。助手席のスモークガラスが降り、黒髪のお嬢様然とした美少女が顔を出す。途端に野次馬達が浮ついた声を上げて騒ぎ出した。
なんで来てるんだお前。
「おい長宗我部、なんか校門にニクス来てる」
「下ネタかよ」
「ケツじゃねーよスクールゲートだ。長宗我部、お前何かやらかしたのか?」
「ああ? そんな覚えはないな。あ、いや、やべぇな沙夜ちゃんと付き合ってるのがバレたのか。二股からの修羅場きちまうぜ」
「見栄張るんじゃねーよお前彼女いないだろ」
「沙夜ちゃんの方はマジだ」
「は? 嘘だろ!? お前と付き合ってる? あの娘精神障害負ってるんじゃ……いやその話は後で聞く。行くぞ」
話しながら広げていたノートや書類を鞄に突っ込み、校門に急行する。
野次馬をかき分けて車にたどり着くと、ニクスが手を振り、後部座席のドアが開いた。
「二人とも乗って。話があるから」
高級車に乗っているニクスは正に庶民が考えるお嬢様のようだった。そんなお嬢様に話しかけられた俺達に好奇の視線が集まる。
今更悪目立ちしたところで、という話だが、もう少しなんとかならなかったのか。
人目から逃げるように乗り込むと、車は静かに発車した。走行中とは思えないほど静かな車内に落ち着かない気持ちになってモゾモゾしていると、座席越しに振り返ったニクスが言った。
「今日の明け方の話なんだけど、モユクさんが屋敷の犬に吠えられててね。それで保護っていうか、家に入ってもらったの。その後すぐ学校行かないといけなかったから私もまだ話せてないんだけど、話を聞くなら二人とも一緒の方が良いと思って」
「だから乗り付けたのか? カラスの群れに白鳥投げ込むより目立ってたぞ」
「それはごめん。メールしたんだけど、返事なかったから」
「ん? ああ、すまん電源切ってた。小テストあったからさ」
詳しくは屋敷に着いてから、という事で、しばらく高級車ドライブを楽しむ。俺は窓の外の景色を眺めていたが、長宗我部は備え付けの冷蔵庫や灰皿を無遠慮に弄り回していた。
信号待ちの途中で横断歩道を腕を組んでイチャつきながら渡っているカップルを見て、ふと思い出す。
「なあ長宗我部。あの、あー、名前なんだったか。一年の人間の、雌の……人間みたいな顔してる……」
「まーたいい加減な覚え方してるな。沙夜ちゃんの事か?」
「たぶんその子だ。付き合ってるとか言ってたが本当か? お前の空想上の関係じゃないだろうな」
「馬鹿にすんなよ。もう家族にも紹介してもらったんだぜ? 親御さん二人共医者らしくてな、お堅い感じだったが感触は悪くなかったな。お兄さんとも仲良くなったし」
「え、そこまで? まさか結婚まで考えてるのか?」
いやまあ長宗我部が本気なら応援してやりたいところだが。
「そりゃお前、結婚まで行くかどうかじっくり考えるための交際期間だろうが。ま、沙夜ちゃんは良い娘だぜ? 医者志望らしくてな、頭回るし気も利く。
「惚気やがって。式には呼んでくれよ。でも付き合ってるならもっと早く言ってくれても良かったんじゃないか」
こういう事を包み隠さず話せる仲だと思っていたのだが。少しショックだ。
長宗我部は冷蔵庫に入っていた緑茶を勝手に空けながらどっかり背もたれに身を預けた。
「付き合い始めた時にはもうお前寝ても覚めてもナイトメアがー、ナイトメアがーだったからな。なんつーか、話しにくいだろ。お前が追い詰められてるわちゃわちゃしてる時にノーテンキに『俺達付き合い始めました』なんてさ」
「あー……すまん」
「気にすんなよ、俺も悪かった。今度紹介して……確かお前沙夜ちゃんに一度会ってるよな。いや覚えてるワケないか。写真見るか? ほら、ニクスちゃんも。これ俺の彼女で保並沙夜。高一な」
スマホを弄ってニクスにも見えるように写真を見せてくる。
背景に見覚えのあるパグパイプや蓄音機、改造モデルガン、蓑笠が写りこんでいる事から察するに、どうやら自分の巣にまで連れ込んでいるようだ。人間以外の動物だったら交尾している状況だが、長宗我部の性格からしてたぶん手は出していないだろう。
セーラー服姿の保並沙夜は木彫りの熊を両手に持ってはにかんでいた。眼鏡をかけ、髪を三つ編みにしている大人しそうな子だ。サバンナに放り出したら三分でライオンの餌になっていそうな雰囲気には確かにそこはかとなく見覚えが有る。
「可愛いだろ?」
「熊好きなの? 可愛いね」
「よくわからん。ニクスの方が可愛い」
「っ!」
ニクスが突然仰け反り、車窓に頭をぶつけて悶絶していた。なんだ。何かあったのか。
「どうしたいきなり」
「え? えーと、そう、呪い! 誰かが私に呪詛かけてる気配感じちゃって」
「お、おう?」
「あは、あはは」
ニクスは変な笑い方をしながら助手席に引っ込んでしまった。変な奴だ。いやそれは元からか。
首を傾げているとその首を長宗我部に掴まれ、もがれそうになった。
「いだだだだだだなにすんだ!」
「人の彼女ダシにして自分の彼女褒めるのはやめろ」
「は? 何言って……あ!? いや悪かった、悪気はなかった、完全に素だった。別に保並が可愛くないとか貶めてやろうとかそういう事じゃないんだ、ただ普通にニクスの方が可愛いなと思ったから、ってそうじゃない、ただ俺は」
「あーあー分かった分かったもういい。そんなに怒ってないしな。誰だって自分の彼女が一番だろ」
「そうだな。ニクスはまだ俺の彼女じゃないが」
「
「…………」
これ以上喋ると墓穴を掘りそうだ。窓ガラスに映ったニクスの横顔がほんのり赤らんでいる。もう到着まで黙っておこう。
ちなみに運転手は終始無言無反応で気配を消していた。プロだ。
長宗我部のねちっこい追求を黙殺して数分。始めて正規ルートで入る有栖河屋敷はやはり豪邸だった。車を降り、ノッカー付きの玄関扉を潜って、シャンデリアがぶら下がったエントランスを抜け、絨毯が敷かれた廊下を通って客間に案内される。
落ち着かないほど柔らかいソファーに座ると、使用人が紅茶と菓子を運んできた。至れり尽くせりだ。良い暮らししてやがる。
「長宗我部落ち着け。跳ねるな子供か。俺まで揺れるだろ」
「いやお前これフッカフカやぞ! 中身羽毛か?」
「マジで? 羽毛? 鴨の?」
ソファーの縫い目に指を突っ込んで中を見ようとしたところでギリギリ我に帰った。ボッスンボスンと跳ねて幼児退行している長宗我部にアイアンクローをくれてやり、咳払いしてニクスに向き直る。上品に紅茶を口に運んでいたニクスは苦笑していた。
そのニクスの足元から一匹のタヌキが顔を出し、前脚を伸ばしてテーブルの上のクッキーの皿を引き寄せる。
モユクさんだ。
「お久しぶりです、モユクさん」
「きゅーん」
手を差し出すと、モユクさんも肉球で快く応えてくれた。俺は握手のつもりだしモユクさんもそのはずだが、これ絵面が完全に「お手」なんだよなあ……
「話は聞いてるけどな、このタヌキ本当に
モユクさんは長宗我部を一瞥し、キーボードを前脚でたしたし叩き始める。すると、ディスプレイに『人の知恵を外見で測れないのと同じくタヌキの知恵も外見で測れるものではない。しかし君の疑念も尤もではある。生物学的見地から儂のこの同種と比較し異常発達した』と長々と文章がタイピングされていく。
長宗我部は肉球で器用にブラインドタッチするタヌキとディスプレイを交互に見て、頭痛をこらえるように額を押さえた。
「信じられねぇ、人間の脳みそでも移植されてるのか? 明より頭良さそうだぞこいつ」
「うるせーよ」
「タイピングはええ。なんでタヌキが予測変換使いこなしてるんだ?」
「私何度かモユクさんからメール貰った事あるけど、メールだけ読んでるとほんとにタヌキって分からないっていうか普通にどこかの教授かな、みたいな文面だからね」
「ファンタジー……!」
長宗我部が呻いた。
物理的に有り得ない現象が起きているわけではないが、ファンタジーといえばファンタジーだ。俺自身があまり違和感を感じないのは
「まあモユクさんについては軽く流しとけよ。今時珍しくないだろ? 喋る犬とかさ」
「それはCMの中だけだろ。このタヌキは目の前で今……まあここでゴチャゴチャ言っても話進まないか。とりあえず棚上げだ、棚上げ。それで何を話してくれるんだ?」
長宗我部が開き直って尋ねると、モユクさんはディスプレイから目を離し、俺とニクスを交互に見た。
目線でニクスに譲ると、ニクスは頷いた。
「長旅でお疲れかと思いますが、お話を聞かせて下さい。『ナイトメア』と名乗っている、ペスト医師の格好をした
ニクスの言葉を受けて、モユクさんがタイピングする。
『確かに儂はナイトメアについて君達が知らぬであろう事実を知っておる。しかしそれを君達にのみ教えるのは公平性を欠く』
「公平性を欠く、とは?」
『確認しておきたいのだが、儂は君達の味方でもナイトメアの味方でもない。確かに儂はアリス君と契約を交わしている。昔アリス君に
「あんな奴に手を貸すんですか?」
『物事の善悪は多面的に解釈できる。君がナイトメアに拒否感を抱いたからといって、全ての者が君と同じように感じるとは限らない。儂はナイトメアを否定せんよ。肯定もせんがね』
「モユクさんはこの件に中立という事ですか?」
『端的に答えるならば、そうだ』
長宗我部はあからさまに「この毛玉野郎マジ使えねぇ」という目でモユクさんを見た。
俺も失望しなかったと言えば嘘になる。ナイトメア戦線では既にアリスがほぼ脱落してしまっている。二百年を生きる古狸、神獣モユクさんがそれをひっくり返してくれると心のどこかで信じていた。
ニクスは批難を隠しきれない声音で言った。
「私は……そういう考え方はあまり好きではないです。たぶん、お嬢様は私よりもっと」
『確かに彼女は有事に際し時として国家的物の見方をする。戦争において中立を謳い日和見する者は潜在的な敵と見做すだろう。しかし儂は何も戦況を見極め勝ち馬に乗り漁夫の利を得るために中立を唱えている訳ではないのだよ。私なりの信念があっての事だ。理解してもらいたい』
ニクスと俺は揃ってため息を吐いた。
信念を持ち出されると何も言えない。
モユクさんが信念をもって中立だと言うのなら、テコでも動かないだろう。長宗我部がイライラと頭を掻いた。
「逆に何なら話せるんだ?」
『君達に関する同様の内容を儂がナイトメアに伝える事を厭わないというのなら、何でも』
「じゃ、モユクがナイトメアにはじめて会ったのはいつだ?」
『約三ヶ月前。ナイトメアが
「それは間違いないのか?」
『100%とは言えぬが、まず間違い無い』
ニクスが紅茶ポットに手を伸ばしかけたまま驚いて固まっている。俺も驚いた。さらっと暴露されたが、恐ろしい事実だった。
その上の
つまり、ナイトメアはズブの素人からたった三ヶ月でオリンピック級まで上り詰めたという事だ。アリスでさえ十年かかったというのに。もっと年季が入った
「やばいなナイトメア。チートか何か使ってるんじゃないか? 三ヶ月でオリンピックかよ」
「うーん、でも最初から神話だった人もいるし」
「いや俺はバグか何かだろ」
長宗我部が顎に手を当て考え込みながら質問を続ける。
「これナイトメアの住所とか聞いたらナイトメアにも俺達の住所バラすんだろ? モユクがナイトメアの住所知ってるかはとにかく」
『そうなる』
「暫定快楽殺人鬼に住所バレはやべーな。住所は無しで。後は……ナイトメアが
長宗我部の質問で俺も気付いた。
案の定、モユクさんは肯定の答えを返した。
『名前は始めからナイトメアだった。咄嗟に本名は不味いと思ったようだな。言い淀んでいた。しかし顔は分かる』
「おっしゃ、んじゃあ似顔絵作って……いやそれやると俺達の顔も向こうに伝わるのか。はー使えねぇ! タヌキてめぇ鍋にしてやろうか? 情報聞き出した後皮剥いで塩すり込んで煮込んでやってもいいんだぞ」
「おいコラ言葉が過ぎるぞ。このお方をどなたと心得る?」
『それはもう経験した事がある。脅迫としては上手い文句とは言えぬ』
結論から言って、モユクさんから得られる情報はあまりなかった。聞けば答えてくれるようだが、聞くわけにもいかない。
最悪の想像だが、ナイトメアの正体が逃亡中の指名手配犯で下水道で暮らしている、というような場合、情報を知った意味は薄い。既に社会的にやらかした相手に法を盾にとった脅迫は効かないだろうし、住所が定まっていないのなら捕まえるのも難しい。
反対に俺達の顔と住所という重要情報はナイトメアに伝わる事になる。そうなったら夜も眠れない。いつ刃物を持ったキチガイがやってくるか分からない。
アリスの命がかかっているのだからなりふり構っていられない、とも言えるが、意外にもニクスから慎重論が出た。
「まずは私達で情報まとめてみようよ。長宗我部さん、お嬢様からデータ貰ってるんだよね?」
「貰ってる。今朝までの調査報告は大体まとめた」
「ん。じゃあそれを見て相談して、ナイトメアの正体を絞り込もう。それでもまだ特定できなかったら、モユクさんの力を借りる。それでいい?」
俺達は少し躊躇ってから頷いた。モユクさんも頷き、話は終わりだと判断したらしくクッキーの皿を咥えて部屋の隅に移動する。
アリスは命を賭けた。俺達は命まで賭ける義理はないが、多少の危険は飲んでやろうではないか。いざとなったら有栖河屋敷にでも匿って貰えばいい。
……男子高校生二人が侵入できてしまうような警備態勢は心配だが。
長宗我部はテーブルに鞄から出した書類を広げながら口火を切った。
「まず思ったんだけどな、明が
「それな。そうやって人間に都合がいいだけの幻獣を創るのはポリシーに反するから嫌なんだが、俺のこだわりを別にしてもナイトメアに
「
「私はやりかねないと思う」
「あー、それならまあ、やめとこう」
まさかとは思うが、無いとも言えない。殺人鬼に核ミサイル発射ボタンを渡す真似はしたくない。
長宗我部は王港市の周辺地図を広げ、そこに赤い点をグリグリとつけ始めた。
「ナイトメアが
「最近出てる不審者は?」
夏休みの終わり頃から出没しはじめ、しばしば話題になっていた不審者だが、先日とうとう刃傷沙汰を起こした。夜中、一人で歩いていた女子高の生徒が刃物で切りつけられたらしい。傷は軽く命に別状は無かったもののかなりの騒ぎになり、街を巡回する警官が明らかに増えた。俺達の高校でも、部活動を自粛し最後の授業から1時間後には完全下校という措置が取られている。
その不審者は黒ずくめで顔を隠しているという。ナイトメアと符号する。
しかし長宗我部は首を横に振った。
「アレは別口だろ。
例の不審者は計画性や信念が感じられない。怪しい格好でうろついているだけで、襲っても軽傷を負わせただけで終わっている。ナイトメアならそもそも見つからないようにするはずだ。そして切りつけたなら逃がさない。恐らく殺害までいくだろう。不審者が持っているのは社会への自己顕示欲だ。目撃証言が段々増えて行動範囲が広がっている事からもそれが伺える。要するにひねくれた目立ちたがり屋だ。女子学生しか被害に遭ってないから変態嗜好もあるんだろうな。ナイトメアは違う。目立ちたがりの構ってちゃんに見えても、それは自分の内面を満たす道具を外部に求めているだけで、本質的に社会への自己顕示欲はない……と思う。たぶんな。俺のプロファイリングなんて専門教育を受けたわけでもないいい加減なもんだから、あまり信じられても困るんだが。何か変な事言ってんなこいつって思ったらそう言ってくれよ」
「いや、なんとなく分かった。要するにナイトメアと不審者は性格違うから別人って事だろ」
指摘されてみれば確かにそんな気がする。
季節の変わり目に出没する不審者が刃物を振り回す。頭がおかしい奴ではあるが、普通だ。どこにでもいるような危ない奴である。
ナイトメアのぶっとんだサイコパスぶりとは違う。
「70……71……72、と。これで全部だな」
「バラけてるな」
地図には赤い印がバラバラに付けられていた。しかし何箇所か集中している場所もある。ニクスも気になったのか、指で10個ほど集まった印の群れを叩いて聞いた。
「この印が集まってるのは?」
「最近中央通り沿いにマンションがどんどん建ってるだろ。夏の終わり頃に落成してドッと入ってきたのがそれだ」
「ナイトメアもそれに便乗して移り住んだかも知れないのね。うーん、どうなんだろ。結局ナイトメアは夏の終わり頃に王港市に来たって前提で話進めてるけど、それはナイトメアがそう言ってたからなんだよね。元々王港市に住んでて潜伏してただけかも知れないし……」
「潜伏する理由は無いだろ。俺達の知らない何かの理由があったのかも知れんが、とりあえず転入者を追ってみればいい。それで全部スカだったら、改めて王港市市民全員に手を広げる。それが効率的だ。さて、
「それなら……えっと、昨日カラス仮面が来たのがこっちの方角からで。一昨日ナイトメアが湧いたのは……」
ニクスが青ペンを持って記憶を掘り起こしながら地図に書き込みを入れていく。俺も思い出せる限りの情報を書き込んでいった。
書き込みだらけになった地図を三人で覗き込む。
「中央通りの南側は消えたね。にーしーろー……三分の一ぐらいになった! すごいね、こんなに絞り込めるんだ」
「これ信用できるのか? ナイトメアは俺達がこうやって正体追う事を想定してダミー情報バラ撒いてるなんて事もあるんじゃないか?」
「そこまでは手が回っていないはずだ。明はナイトメアを過大評価し過ぎだな。聞いてる限りだととんでもない能力持ってる奴だが、その能力を使っているのは一人の人間だ。一人の人間ができる事には限りがあるもんだ。明もパソコン持ってるから分かると思うが、パソコン持ってても全部の機能は使いこなせてないだろ? 同時に出来る事は限られている。全てを同時に処理はできないんだ。ドラゴンに注意しながら三人の
「そう考える事すらナイトメアのフェイクだったらどうする?」
「諦めろ。そんな超人にはどうやっても勝てない。なあおい、
「気楽に言ってくれるよな……」
だが、少し元気が出た。
「長宗我部さんのプロファイリングだと、
「お、それは俺も興味あるな」
「いやだから俺のプロファイルをそんなにアテにするなって。外れた時怖いだろ。専門家でも大ハズしする時あるぐらいなんだからさあ、素人なんてもうな」
「参考、参考にするだけだから。いいから言ってみろよ」
「あー、そうだな。表向きは大人しい。影が薄く目立たない、あるいは普通で周囲に埋没してるか、控えめタイプのおだやかな優等生。とにかく悪っぽい気配はこれっぽっちも出していない。逆に『いい人』だと認識されてるだろうな。いい人だけど、なんかパッとしない。ギラギラした意欲だとか、そういう強い部分が見えない。そう演じている」
「……ん?」
「自分の凶悪な部分が社会的にどう見られるのかをよく知っていて、それを慎重に隠している。で、一皮剥けばクレイジーだ。周りにバレないと確信すればあらゆる残虐行為に一切躊躇しない。密室で猟奇殺人をした三分後に何食わない顔で血の気滴るレアステーキ喰いながら友人と談笑できる奴だ」
「…………」
「身を隠すだけではなく攻める事も知っている。時に巧妙に、時に大胆に犯行に及ぶ。人の心の動きをよく観察して、その隙間を突くのが上手い。周りに上手く溶け込んで親しげに近づいて、気がついたら隣でナイフ持ってる。そういうイメージだ……どうした?」
俺は黙って手元の調査報告を見直した。ある少女についての身辺調査結果だ。読み返し、思い返すにつれ、血の気が引いていく。
その少女は大人しい。
その少女は医者を目指している。
その少女は
その少女は俺をナイトメアと同じく「先輩」と呼ぶ。
その少女は夏の終わりにこの街にやってきた。
その少女は長宗我部と急接近している。
その少女の名前を、保並沙夜といった。
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