七話 宵闇狂想曲
アリスは毎夜せっせとドラゴンに美術品を献上している。ドラゴンは気まぐれで、幻獣をアリス屋敷まで使いに寄越す事もあれば、自身が回収にやってくる事もある。
ナイトメア遭遇の次の晩は運良く再建中のアリス屋敷にドラゴンがふらっとやってきて、コンタクトを取る事ができた。
火鼠の皮で梱包されたミスリル製の壺を前脚の爪で検分しているドラゴンにナイトメアについて伝えようとすると、台詞の途中で遮られた。
「この
「す、すみません」
ドラゴンは蔑んだ目で俺を見下ろしたが、焼き殺されはしなかった。
地球の裏側で落ちた木の葉の音すら聞き分ける、という神の如き知覚能力を与えたのは俺だ。ドラゴンにとっては昨日震度6の地震起きたけど気付いた? と尋ねられるぐらい馬鹿馬鹿しい質問だろう。気づかない訳がなく、知らない訳がない。愚問だった。
「奴は中々に面白い。この件はじっくり見物させて貰おうか」
「あなたの幻獣を拷問するなんて言っていたわ。自分の所有物に手を出されて怒らないのかしら?」
アリスが訝しんだが、ドラゴンは一笑に付し、火の粉混じりの鼻息が空気を焦がした。
「奴は
「……まあ、すぐにボコボコに凹ましてやりますよ。三対一ですし」
ドラゴンはナイトメアを評価しているらしい。俺の事は散々馬鹿にするのに。なんとなく気に入らず、つい軽口が出た。
「ふむ。教えておこう、ナイトメアのMPは7だ。精々侮って醜態を晒せ」
何が面白いのか、ドラゴンは機嫌良さそうに笑うと、献上された財宝を掴んで飛び去った。
なんだ、珍しい。ドラゴンと会ったのに誰も死ななかったぞ。良い事であるはずだが嫌な予感しかしない。わざわざナイトメアのMPを教えてきた突然の親切も意味が分からない。
「これはあれかな、MP7だけどナメると酷い目に遭うから気をつけろって事?」
「ツンデレってやつかしら。可愛いところもあるのね」
「おい馬鹿!」
アリスが自殺行為な台詞を吐いたため熱風に備えてその場に伏せたが、火球は飛んでこなかった。
おかしい、いつもなら爆発炎上するのだが。
「どうして這いつくばったの? 私の靴でも舐めるの?」
「うるせーよ。今日のドラゴン、変に機嫌良くないか」
「ナイトメアに何かされたとか……?」
「それ本気で言ってるのか? ドラゴンに何かできる生物なんて存在しない」
「いつもより財宝を割増で渡したからでしょう」
そう言って自分で自分の肩を叩くアリスは目の下に酷いクマがあった。このクマもそろそろ見慣れてきたが、いつもよりも濃く見える。かなり疲れているらしい。
しかし財宝か。そういう事なら納得だ。
「アリスもやっとドラゴン様を敬う気になったか」
「いいえ、これは賄賂のようなものよ、ドラゴンが介入すると全部台無しにされるから。こうして機嫌をとっておけばまた横槍を入れてくる事はないでしょう?」
「横槍入れたのはお前だろ。誘拐犯は牢屋に入ってろよ」
「そういえば檻に入ってないオオアリクイがいるわね」
「あ?」
「は?」
「二人とも落ち着いて。ドラゴンって財宝渡すだけで機嫌よくなるの?」
「そりゃ良くなるさ。ドラゴンは財宝好きだからな。下手な量産品渡しても殺されるだけだろうが」
「私は一流の物しか創らないわ」
いつまでもグダグダしていても仕方ないので、予定通り分担に従い動き出す。俺達はパトロール、アリスはドラゴンへの献上を済ませたので
整髪料の臭い。甘ったるい香水の臭い。酸っぱいワキガの臭い。カレーの臭い。アルコールの臭い。人工物の……人間の臭いだ。それもあちこちから臭う。生乾きのコンクリートの陰、土嚢の後ろ、積み上げられた木材の下。他にもまだまだいる。
囲まれて……いや、そうとも限らない。臭いでかく乱するつもりかも知れない。臭いぐらいいくらでも創れる。
「ヒプノス?」
「ナイトメアだ。出てこい!」
声を張り上げると、まず柱の後ろから旧友に出会ったような気楽さで、両手を広げた憎たらしいカラス仮面が出てきた。何を企んでいるかは知らんが探す手間が省けた。ナイトメアは例の合成音のような棒読みで喋りだす。
「昨日ぶりですね、先輩。今日は共に
「隠れて様子を伺うのが紹介待ちの作法なのか? 一応警告しておくが、今
「そんな。私は善良な一市民です。
「ボスを刺したのは逃げ隠れしなければならない事ではない、と?」
「もちろんです」
ニクスの表情が歪んだ。こいつはなんだかんだアリスの事好きだ。悪戯好きで凶暴な命の恩がある虎を飼っている感じだろうか。そう考えるとあれだけ虐げられていてもまだ従う気持ちも少しわかる気がする。
まあ、お喋りはここまでだ。ナイトメアは殺す。手早く殺す。
臨戦態勢に入った気配を感じたのか、隠れていた者達がぞろぞろと姿を現した。スーツ姿のカラス仮面。茶髪にアクセサリーをジャラつかせたカラス仮面。学ランのカラス仮面。キャラモノのTシャツを着たデブのカラス仮面。十数人のカラス仮面がナイトメアを庇うように立ちふさがる。
人間? まさか本当に? 馬鹿な! こいつら全員
「嘘でしょ? なんでこんなゲスに仲間がいるの!?」
「人望ですよ。では皆さん、お願いします。殺す必要はありません。動けなくなるまで、です」
ナイトメアは後ろに下がり、土嚢に腰掛けた。仮面集団は顔を見合わせ、バラバラと拳を構える。イマイチ気迫がないが、やる気だ。
ざっと数えて二十人近い
じりじり近づいてくるカラス仮面達に舌と鉤爪を向けて威嚇しながら、ニクスに囁く。
「いいか、無意味な詠唱はやめろよ。フリじゃないぞ。普通に
「分かった。イロル イックスズ トゥリアト ストゥト ウトゥト オビアア! アイトグン ヴムッセ――――」
「おいピンク! 唱えてんじゃねーよ!」
忠告も虚しく、杖を掲げ無意味な詠唱などこの世に存在しないとばかりに朗々と声を響かせ唱え始めた。ダメだこいつ。
そうこうしている内にカラス仮面の一人が殴りかかってきた。腰の入っていないテレフォンパンチをかわし、鉤爪の一撃を腹にお見舞いする。悲鳴を上げて腹を押さえ、よろめいて下がる。滴る鮮血を見たカラス仮面達が騒ぎ出した。
「いってぇえええええ! 血がっ、ああああ!」
「やべえよ血ぃ出てるぞ! めっちゃ血ぃ出てる!」
「おいおいおい大丈夫か? それ大丈夫か?」
「なんか唱えてるぞ! 先に魔女っ娘潰せ!」
「囲め、囲め! 後ろに回れ!」
「ぼさっとしてんな行け行け!」
「はあ? お前が行けよ!」
「アリクイ抑えろ!」
ちょっと小突いただけで混乱状態になってしまった。
いや、まあ、腹を裂かれればそりゃあそんな反応にもなるだろうが……何か釈然としない。
畳み掛けるべきか後ろに控えるナイトメアの罠を警戒して自重するべきか迷っている内に、ニクスの詠唱が完成した。陽炎が揺らめき、仮面達を取り囲み赤い炎のサークルが立ち上る。
悲鳴、絶叫、肉と髪が焼ける不快な臭い。炎に囲まれ、誰も逃げられない。
「変だな」
「うん。これは何か……」
火の中で狂ったように踊る人影を睨みながら、俺達は違和感を膨らませた。
彼らはあまりにも普通だった。一人たりとも
悲鳴が止まり、動くものがなくなると、火は虚空に吸い込まれるようにして消えた。後には焼け焦げた地面と、炭化した物言わぬヒトガタ、そしてびしょ濡れのナイトメアだけが残った。一人だけ水を
ナイトメアは顔を俯かせ、起伏の無い平坦な声で白々しく言った。
「ああ、なんという酷い事を。あなた達には人の心がないのですか。焼け死ぬ彼らはどんなに苦しんだ事か。無念だったでしょう。絶望したでしょう。悲しみで胸が張り裂けそうです」
「よし分かった、俺が裂いてやる」
妙な
……が、ナイトメアの前に現れたスーツ姿のカラス仮面に衝突し、もつれ合って転んだ。
なんだなんだなんだ、まだいたのか? 死んだフリか!?
スーツのカラス仮面を突き飛ばし飛び起きると、再びナイトメアの前にカラス仮面の集団が壁を作っていた。ほんの少し前の焼き直しのように、デブや学ランやTシャツがいる。
馬鹿な。もう戻ってきたのか?
「ラウンド2です。では皆さん、お願いします。殺す必要はありません。動けなくなるまで、です」
ナイトメアの声に、カラス仮面達は足元の炭化したヒトガタのモノを気味悪そうに避けながら俺達にじりじり近づいてきた。
おいおいおいおいおいおいおいおいおい!
なんだこれ。
なんだこれ!
クソが! 一体どんな手品だ!?
「ニクス、もう一度頼む! いや俺が岩でも創って押しつぶすか!? ああでも殺してもまた戻ってきたら意味ないのか! 根本的な解決を、いや今はこいつらの相手だ! くそっ!」
「待って、ヒプノス。あれは
フライパンを手に突っ込んできたデブのカラス仮面の頭をぶん殴って頭蓋骨を陥没させると、ニクスが落ち着いた声で言った。
「何?」
「見て。死んだのに死体が残ってる」
色々な汁を垂らしながら痙攣しているデブの仮面を他のカラス仮面達が取り囲み、大騒ぎしている。また混乱しているようだ。全然学習していない。
そしてニクスの言う通り、確かに騒ぐカラス仮面達の足元には、黒く焦げて分かり難いが、彼らの死体がある。まあ死んで死体が残るのは当然で……
……いや、死体がある?
つまり、彼らは
「
「は? ……あいつ、人間を
ドラゴンが言っていた。ナイトメアのMPは7だと。そしてここにいるカラス仮面は二十人近い。死んだ分を含めれば倍はいる。
冷水を浴びせられたように心身が恐ろしさに冷え込み鳥肌がたった。ナイトメアは人間の
それを、人間の価値観の禁忌を、ナイトメアは躊躇なく踏み越え踏み潰している。
こいつは本当に頭がおかしい。正気じゃない。狂ってやがる。
人間をペットか都合の良い道具程度にしか……もしかすれば、ゴミとしか思っていない。
おぞましさに毛が逆立つ。悠々と土嚢に腰掛けているナイトメアが得体の知れない魔物に見えた。
こいつは本当に人間なのか?
「……やろう、ヒプノス」
「あ、ああ。そういう事なら、そうだな、ナイトメアを狙うか」
彼らが
しかしナイトメアに届く前に岩は消え去った。
畜生、そうだった。創ったモノを消すのも
いや待てよ? あの仮面集団も
「……できるわけないだろ! ふざけてんのか、俺はそこまで頭壊れてないぞ!」
「ヒプノス、
「駄目だ、創っても俺の味方になるとは限らん!」
「なんで!? 味方設定で創ればいいでしょ!」
「うるせぇ! 俺は幻獣を奴隷にしない!」
俺は叫び、混乱から立ち直りつつある仮面集団に突っ込んだ。
何人かを突き飛ばすが、手足を掴まれ取り押さえられる。
「おうコラ待てコラ!」
「暴れんな、暴れんなよ!」
「てめぇの頭も潰してやる!」
「無駄無駄ァ! 十人に勝てるわけないだろ!」
人間の成体を殴り殺す筋力を持つオオアリクイの体でも、流石に十人がかりで押さえられるとどうしようもなかった。はねとばそうとしても全く動かない。ああ、もう、面倒臭ぇ!
「ナイトメアアアアアアアアアア!」
「先輩、人殺しは犯罪ですよ。自首しましょう。今ならまだ間に合います」
「てめぇもう喋るな! くたばれ!」
「ははははは」
ナイトメアは起伏のない奇怪な笑い声を上げながらのんびり後ろに下がっていき、一歩下がるごとに一人のカラス仮面を創り出した。
一人、二人、五人、十人。
二十人、三十人、まだ増える!
ニクスが三十人をまとめて氷漬けにしても、あっという間に四十人増えた。
吐きそうだった。人が雑草よりも簡単に生えていく。人とはこれほど容易く創れてしまうものなのか?
神というより悪魔の所業。悪夢のようだ。
ナイトメアが笑いながら遠ざかっていく。俺達が何を創り、何をしても、人垣が邪魔をした。
カラス仮面達は仮面を被っているだけで、あくまでも「普通の人間」だ。少し怪我をすれば泣き喚くし、突飛な行動もしてこない。
しかしやはり数の暴力は恐ろしかった。十人の内九人が混乱して右往左往していても、一人ぐらいは動ける。百人いれば十人は俺達を襲う。そして殴られ、蹴られ、突き飛ばされる。
押しのけても吹き飛ばしても殺してもキリがない。MPもすぐに切れた。
奮闘の末、全身の痣や骨折を治す力もなく取り押さえられた俺達はどうしようもなくなり、屈辱に歯を食いしばりながら、
すぐに二度寝して
それから、ナイトメアとの戦いは七日七晩続いた。
ナイトメアはひたすらカラス仮面を量産し、人海戦術で押し寄せてきた。カラス仮面はどこにでも潜んでいた。いつの間にかアリス屋敷建築現場に隠れていたり、草原に寝転んでいたり、木の上に登って降りれなくなっていたりする。割と間抜けでやる気が無いのだが、それもそのはず。
しかし一方で、俺達をゲームの敵キャラと考えて容赦なく潰しに来る奴もいる。特にデブのカラス仮面は厄介で、森サラマンダーを火炎放射器代わりに使ったり、俺達の目の前でマンドラゴラを引っこ抜いて自爆攻撃を仕掛けてきたりとやりたい放題だ。他にも例えばスーツのカラス仮面は
ナイトメア本人もカラス仮面達に紛れて嫌がらせをしてくるため、全く油断ならない。倒しても倒してもキリがなくウンザリしてくるのだが、相手にするのを止めると確実に幻獣を拷問にかけ始める。超悪質なかまってちゃんだ。不毛な戦いを繰り返すしか選択肢がなかった。
しかも厄介な事に、ナイトメアは途轍もない勢いで学習していた。日を追う毎に痕跡を消して森を歩くのが上手くなり、
アリスの身辺調査はジリジリと進んでいた。
まず、ナイトメアが現れた日から遡って一ヶ月の間に王港市およびその周辺市町村に転居してきた人間の数が約600人。そこに宿をとって長期滞在している人間を追加し、喋る事もできないような赤ん坊やすぐに転出した人間を除外。他にもアリスが様々なデータを使って絞り込み残った400人と、表立ったデータに残らない不法入国者やホームレスに対し身辺調査を行った。
ナイトメアが
探偵は候補者達の身辺調査を行うだけであり、上がってきたデータを
学園に通いつつ、毎日
だからだろう。
八日目の朝。アリスが病院に運び込まれた。原因は極度の睡眠不足による錯乱だった。
「最近じゃ、病室の壁紙は白じゃなくて暖色系らしいぜ。オレンジとか」
「へえ?」
「白は虚無をイメージさせるだろ。寒色系は暗いイメージがある。暖色系でも赤は血と肉の色だからダメだ。そこでオレンジって訳だな。暖かいイメージで、心を落ち着かせる。まあつまり……今のアリスには大切な事だ」
学校をサボり、俺達はアリスの見舞いに来ていた。当然、ニクスもいる。
薬品臭いエントランスで受付の前の椅子に座り、声を潜めて話しながら代表のニクスがしている面会手続きが終わるのを待つ。ニクスは丁寧に頼んでいるが、対応する看護師さんの顔は硬い。まあ、平日の午前中だ。学校をサボッているのが丸わかりである。全員制服だしな。
しかしやがて看護師さんはため息をつき、ニクスが入館証を三つもらってきた。
「お待たせ。お嬢様は特別病棟にいるって。今は薬で寝てるみたいだけど」
「最近じゃ見舞いに入館証が必要なのか? 人間って奴は面倒な手続きがホント好きだな」
「特別病棟……簡単に言えば要人専用の病棟だし、最近危ない人も出てるみたいだからね。不審者は入れられない。今もけっこう無理に押してやっとだよ」
有栖河の御令嬢が担ぎ込まれるだけあって、大規模で立派な病院だった。ウチの近所の歯医者の百倍ぐらいある。廊下は広く、清潔だ。
ニクスについてリノリウムの廊下を歩き、特別病棟に着く。警備員に入館証を見せて入れてもらい、病室に入った。
大きなベッドに、小さなアリスがひっそりと寝ていた。
顔を覗きこみ、息を呑む。
酷い顔だった。死人のように青白く、肌がカサつき、目の下にドス黒いクマができている。毛布を上下させる胸の動きでやっと生きている事がわかるぐらいだ。
痛々しく、見ていられなかった。こいつはこんな事になるまで無理をしていたのか。
「寝不足でこんなになるもんなのか?」
長宗我部が慄いて言った。俺は神妙に頷く。
「三日徹夜したとかそんなものじゃないからな。元々、アリスはドラゴンに幻獣を盗んだ罰で毎晩殺されていた。精神に異常を起こさないギリギリまで睡眠時間を削られていたんだ。そこにナイトメアが来て、さらに負荷をかけた。限界はすぐに来る。そこでアリスは限界を超えるまで無理をしたんだ。プライドだけはドラゴンと張るぐらい高い奴だからな。ナイトメアから逃げられなかったんだろう」
「お嬢様は化粧でやつれてるのを誤魔化してたみたい。私、気付けなかった。一番近くにいたのに……」
ニクスはそっとアリスの手をとって額に当て、俯いた。押し殺した嗚咽が聞こえてくる。まるでアリスが死んだみたいだ、と思ったが、流石にこの状況でそんな軽口は叩けなかった。
アリスは朝食の最中に突然叫びだし、スープ皿を窓に投げつけ、厨房に駆け込んで料理人の口に新聞紙をねじ込みながら経営論を喚き立てたらしい。取り押さえられてからは段々大人しくなり、暴れた事を素直に謝罪したという。まだなんとか踏みとどまっているようだが、発狂一歩手前だ。
ここ数週間のアリスの睡眠時間を聞いた時、医者は驚いて何度も尋ね返したという。いつ完全に狂ってもおかしくはないし、重度の睡眠不足が内臓を著しく衰えさせ、心肺停止が起こる可能性すらある。今からゆっくり眠り心を休めたとしても精神障害が残る危険がある、というのがその医者の見解である。
重苦しい雰囲気に耐えかねたのか、長宗我部が明るく言った。
「まあ、こうやって寝られるなら安心じゃないか? 睡眠薬打てば
「いや、そう上手くはいかない。見ろ」
病床の横の机に置かれたディスプレイにはギザギザしたグラフが刻一刻と変化しながら表示されていた。ディスプレイから伸びたコードは別の機械に繋がり、その機械から伸びたコードがアリスの頭に吸盤のようなもので貼り付けられている。
「脳波だ。大きく揺れてるだろ? 脳が起きている時と変わらないぐらい活発に動いている。寝ているように見えても寝ていないんだ。
つまり、睡眠薬を投与しても睡眠不足は全く解消されないという事だ。医者も首を傾げているだろう。超常現象というほどではないが、かなり不可解な現象だ。
揺れる脳波を見ていると、足音がして、カッチリしたスーツ姿の壮年の男性が入ってきた。力強い目がアリスと似ている。入館証に書かれた苗字は有栖河。父親だ。見舞いに来たのだろう。
彼は俺達を胡散臭そうに一瞥した。
「誰だね?」
「あ、えーと、アリス……夢子、ちゃんの友人です」
「ああ、君たちが夢の世界とやらの遊び仲間かね。娘を妙な道に誘わないでもらいたいものだ。遊びと言っても限度というものがある。これ以上こんな事が続くようなら君たちにも相当の処置をとらせてもらわなければならない。さあ出て行き給え、私が紳士的である内に。霞、夢子の様子はどうかな」
睨みつけられ、俺達はニクスを残して病室を出た。
……俺達は、特に俺はアリスに恨みを持っている側の人間だ。それでもしばらく交流を持ち、悪人ではない事は分かった。アリスは俺と同じ突出した変人だ。ある種のシンパシーも感じている。それがこんな事になれば人並みぐらいには同情するし、悲しくもなる。
家族同然の長い付き合いがあるニクスの悲しみと怒りは相当なものだろう。見ているだけで辛かった。父も彼なりに心配しているのだろう、という事は伝わってきた。
しかし。
守衛に会釈して特別病棟を出て本棟への廊下を歩きながら、長宗我部は頭を掻いて言った。
「あー、ナイトメア調査は俺が引き継ぐ。アリスは休ませてやろう」
「どうした、急に」
「急でもないだろ。あいつはまだ中学生なのにあんなに頑張ったんだぜ? 助けてやろうって気にもなるさ。知らない仲じゃないしな」
「ああ……そうだ。そうだな」
アリスは限界を超えるまで努力した。普通できる事ではない。誰かに強制された訳ではなく、仕事でも、義務でもない。ただ、自分の信念に従った。
普通の感性を持つ人間は流されがちだ。飽きるし、諦めるし、面倒は避けようとする。あくせく努力をするのを馬鹿にする風潮すらある。
「なあ、覚えてるか? 中一の時、教室にアロワナ持ち込んだよな」
「覚えてる、覚えてる。お前が生物係だったよな。先生がなんでも持ってきて下さい、クラスで飼いましょう、なんて言うから」
「長宗我部がガラス板運び込んで組み立てて、でっかい水槽作って、俺が砂利と水草集めてきてさ」
「水槽に水入れるだけでもう大変だったもんな。バケツで何往復したか覚えてねぇわ」
「……俺はな、あの時のクラスメイトと先生の目をよく覚えてる。あいつら、何変な事やってんだ、って感じだった。誰も手伝わなかったし声もかけてこなかった。見てるだけだ。先生なんてあからさまに面倒なモノ持ち込みやがってって顔してたぜ。遠まわしに持って帰れって言ってきたしな。そのクセ、俺達が全部準備して、アロワナが水槽を泳ぎ出したら寄ってきてスゲー、スゲーって言うんだ」
「ああ、水槽の水換え当番決めたのにサボりやがるしな。クズばっかりだ」
懐かしく、忌々しい思い出だ。
この日本という国で、突き抜けた異端の努力は煙たがられる。
スポーツだとか、勉強だとか、そういう分かりやすい『高尚な』努力だけが努力で、他の努力は「面倒で馬鹿で変な事」なのだ。
今まで生きてきて、俺達の「努力」は誰にも認められて来なかった。俺の親父はそんな事より勉強しろ、と言い、長宗我部は資格試験より期末試験を優先しろと毎日のように言われているらしい。
アリスの父は、
何かに突き抜け過ぎて、認められない。
なりふり構わず我が道を突き進んでいても、周りの目と評価が全く気にならないわけではない。異端でいる事の苦しみは分かる。
「普通」になって、周りに合わせ、愛想笑いして、多数派にくっついて、意味も意義も分からない勉強に時間を使って、流行りのゲームに金を出し……流されるように生きればどんなに楽だろう。廊下ですれ違った時にクスクス笑われる事もない。グループ作りで最後まで余る事もない……親に人生をかけた努力を否定される事もない。
本気で打ち込み、努力しているものを「ただの遊び」と馬鹿にされるのは辛い。
その辛さを俺は身をもって知っている。
アリスの
必死の努力を外から眺めて、馬鹿な奴だと笑う側にはなりたくない。無責任に頑張れと半笑いでヘラヘラ言うだけの奴にもなりたくない。
俺達は頷き合い、拳をぶつけた。
ゆっくり休め、アリス。
ナイトメアは俺達が片付ける。
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