六話 不穏な気配は一切ない平穏無事な日常
「紙後ろの席の人まで届きましたか? ……はい、では先ほども説明しましたが、その進路希望調査は今週中に提出して下さい。締切は厳守で。えー、あとは下校中の注意事項ですが、昨日の夜六時頃、中央通りのレストラン・メニー・オーダーのあたりの狭い道を通ろうとした生徒が全身黒ずくめの不審者に会ったそうです。すぐに逃げたので被害はなかったようですが、これから段々暗くなるのが早くなりますから、皆さんも早めに帰宅して、なるべく大通りを通るように気をつけて下さい。季節の変わり目ですからね、毎年変な人は出るものですが、何かあってからでは遅いですから。注意は怠らないように。では以上です。委員長、号令」
先生はそう言って帰りのホームルームを締めくくった。
ナイトメア遭遇から続く一日を終え、ホームルーム後の放課後。第一回進路希望調査表という名の恐怖の権化に「非科学的生物の発見あるいは開発を行う事ができる職業への就職あるいはそれに関連した学問を修める事ができる大学への進学」と殴り書きして長宗我部の紙を覗き込むと、「National Intelligence Network of JApanへの就職」と書かれていた。
「なんだこれ。外資系企業か何かか?」
「頭文字見てみ」
「……非実在系職業はやめとけ。呼び出し食らうぞ」
「明もな」
俺達は頷きあい、無難に「進学」の二文字に書き直して提出した。ただでさえ普段から波浪警報を出しているのだから、これ以上波風を立てる事もない。
今は進路よりも
「また何か資格でも取りに行くのか? 狩猟免許とか?」
「狩猟免許の受験資格はハタチからっつってんだろ。いや実はな」
そこで長宗我部は勝ち誇ったニヤケ顔をした。
「彼女ができたんだ。悪いな、今日は彼女と帰るから明は独りで帰ってくれ」
「嘘だろ長宗我部!」
全然悪いと思っていなさそうな長宗我部は、皇帝になったかのように尊大に俺の肩をぽんと叩いた。ナイトメアに奇襲をかけられた時と同じぐらいの衝撃だった。
長宗我部に彼女? 馬鹿な! 林間学校の班行動中に森に転がっていた朽木からテッポウムシ引っ張りだして踊り食いしはじめるような奴だぞ! それも女子の目の前で! いや朽木にいるテッポウムシはクリーミーで旨いって教えたのは俺だけど!
「その彼女ちゃんと目と耳ついてるか? 身体0と1でできてないだろうな」
「三次元だよ安心しろ。一年に転校生来たの知ってるか?」
「ん? あー、聞いた事あるような無いような」
長宗我部が言うには、二学期から転校してきた一年女子が今朝方体育館裏で不良に絡まれているところを助け、お礼に食事に誘われたらしい。漫画のような展開だ。剣道、柔道、空手でそれぞれ一級という微妙な腕前を持つ長宗我部は地味に強い。本格的に格闘技を修めている奴には一方的に負けるが、そのあたりの不良には早々負けない。
それはそれとして、舞い上がっているところ悪いが、それはたぶん彼女ではないぞ。
「普通にただのお礼じゃないか?」
「ただの礼なら助けた時にありがとうございますサヨナラだろ。食事に誘ってきたって事は脈アリなんだよ!」
「いっやあ……どうだろうなぁ」
礼儀正しいだけではなかろうか。あるいは不良から助けられた時の吊り橋効果か。どちらにせよ、長宗我部の本性が見えれば静かにフェードアウトしていくだろう。
悲しい期待にテンションを上げている長宗我部を生ぬるい目で見ていると、教室の入口が開いて女子の小さな声がした。
「長宗我部先輩」
教室に残っていた生徒達の内、入口の近くにいた数人の目がそちらへ向き、すぐに興味を失ったように逸らされた。そこにいたのはセーラー服を着た大人しそうなホモ・サピエンス(♀)だった。三つ編みに、縁なし眼鏡。スカーフの色は青。一年生だ。彼女が長宗我部が言っていた助けた一年女子だろう。なるほど確かに十人の女子を並べて「不良に襲われそうなのは?」と聞かれたら真っ先に選ぶぐらいには襲われそうな雰囲気と顔をしている。雑に言えば顔がそこそこよくて押しに弱そうである。
少女は上級生を気にしながら恐る恐る教室を見回し、長宗我部を見つけるとパッと表情を綻ばせる。日陰に咲いた小さな野花のようだ。
目があった長宗我部はヘラっと笑い、いつもは出さないような女子向けの上ずった声で言いながら鞄を引っつかんで駆け寄った。
「沙夜ちゃあん、わざわざ迎えにきてくれたんだ? いやあ、悪いねぇ~」
「お前……」
ネットリした長宗我部の裏声に目を覆う。駄目だこいつ。意識し過ぎて空回っている。素を出すよりキツいぞこれは。
ドン引きされているだろうな、と思って少女を見ると、驚いた事に全く動じずニコニコしていた。
「いえいえ、助けて頂いたお礼をするのですから、私がお迎えに上がるのは当然です。そちらの方は?」
「ああ、こいつは日富野明だ。俺の親友」
「そうでしたか。私は
「ああ、よろしく」
保並は丁寧にお辞儀をした。うむ。やはり礼儀正しい良い子だ。長宗我部をフる時はできるだけ傷口が傷まないようにバッサリやって欲しい。
「んじゃそういう事だから。行こうぜ沙夜ちゃ~ん」
「では日富野先輩、長宗我部先輩をお借りして行きますね。失礼します」
浮かれ切った長宗我部は無駄にキメ顔で保並の後について肩で風を切り教室を出て行った。おお、逝ってこい逝ってこい。
二人を見送ってしばらくして、ナイトメアについて相談し忘れた事に気付いたが、まあ明日フラれてテンションが下がった長宗我部を慰めてから相談すればいいか。
真夏は過ぎ、秋が近づいてきてはいるものの、まだまだ日中は暑い。熱せられたアスファルトと車の排ガスに囲まれダラダラ家へ足を進めながら、スマホでニクスにメールを送る。内容はもちろんナイトメア対策だ。
まず必須なのはモユクさんへの連絡。予言めいたあの言葉からして、まず間違いなくナイトメアについて何か知っている。その情報は確実に拾っておきたい。
モユクさんは沖縄のアリス屋敷のネット回線を借りているらしいので、そこを経由すれば連絡は取れる。
次に
二学期が始まり授業があるため俺と長宗我部は調査時間をあまりとれないし、調査費用もない。アリスは金にあかせて人員を雇って調べさせる事ができるため、適任だ。
死んでも寝汗ぐっしょりで飛び起きるだけの
例えば、アリスは
しかし逆に、
だから
そして最後に、根本的な
そんな大罪人を仲間だなどとほざく奴に全ては任せておけない。また「幻獣は私のものだから好きにしていいわよね!」とか言い出し、勝手に幻獣をナイトメアに引渡しかねない。アリスの器の大きさはまあ認めるとしても、俺はアリスがやらかしたナメた事件をまだよ~く覚えている。ナイトメアは極まったクズだが、アリスもクズに分類される事を忘れてはいけない。
本当は
極まったクズを叩きのめすためにアリスの力を借りるのはやむを得ないだろう。それにアリスは傲慢だが、支配者のプライドがある。一度交わした約束を笑顔で踏みにじる事はない。そこは信用できる。
とにかく役割分担だ。
アリスは
俺とニクスは
その二点を中心にして俺の考えをまとめ、ニクスに送信した。
返信はすぐに帰ってきた。この後、三ツ門学院前の喫茶店「キャロル」で話し合おう、という内容だ。
ふむ。確かにこれだけの問題なのだから、実際に会って話した方がいいだろう。だがあの喫茶店は高い。私立の金持ち学院の前にあるだけあって、客層もそのあたりがターゲットだ。夏にニクスについて調べていた時に何度か行ったが、金がみるみるコーヒーに溶けていった。
……いや、駄目だろ。金持ちに付き合ってあんな店に何度も行ったら破産する。
時々長宗我部と行く定食屋にしよう、と返信すると、すぐに了承の答えが返ってきた。
定食屋「一夜干し」は寂れた通りに面した古い店だ。このあたりは戦後に「王港銀座」と呼ばれこの王港市の中心となる商店街だったが、バブル期に王港市中央道路ができるとあっという間にそちらに客を吸い取られ、今ではご覧の有様である。ご老人が趣味でやっている靴屋や駄菓子屋、金物屋ばかりで、商店街復活に熱を入れる活動はないらしい。
暖簾をくぐり、店員の爺さんに人数を告げ、座敷に通されて待つ事十数分。
暇つぶしに割り箸の袋でドラゴンを折っていると、アリスとニクスがやってきた。二人共まだ制服で、鞄を持っている。軍服とローブに見慣れているとものすごい違和感だ。特にニクスはピンクポニーテールの髪が黒ロングになっている。フラミンゴがカラスになったような変化だ。
不安そうに狭い店内を見回すニクスに手を振って合図すると、ホッとした様子で座敷に上がってくる。
「よく場所わかったな。迎えに行く事になるかと思ったが」
「店名検索したら普通に地図に出てきたからね」
「まあとりあえずなんか頼めよ」
「オススメある?」
「竜田揚げ一択」
「それ絶対名前で気に入ってるでしょ」
カドがボロボロになって黄色く変色したメニュー表をニクスは熱心に見始める。
さっきからアリスが妙に静かだなと思うと、物珍しげに店内をジロジロ見ていた。実際珍しいのだろう。こいつは回る寿司屋に行った事がないタイプの人間だ。
「こういう店来るの初めてか?」
「ええ。パッとしないわね、他に客もいないし。店構え相応といったところかしら」
「おい馬鹿」
アリスは店員のお爺さんからお冷を受け取りながらさらっと毒を吐いた。お爺さんは無礼な客にも慣れたもので全く動じずニコニコしているが、これ相手によっては「店から出て行ってくれ」案件だぞ。肝が冷える。
「私は竜田揚げとごはん小とお味噌汁にする。お嬢様は注文お決まりですか?」
「まだよ。メニュー貸しなさい……ありがとう。そうね、何か丼モノで適当に……ちょっと、カツ丼三百八十円? 大丈夫なの? この値段だと豚の餌になるんじゃない?」
「殺すぞブルジョアジー。マジで豚の餌食わせてやろうか? 今俺の部屋にあるぞ」
「なんであるの?」
こいつ、わざと怒らせるつもりで暴言を吐いているのではないだろうか。
さっきからお爺さんがキレないか気が気でない。狭い店内は声がよく響くのだ。厨房まで丸聞こえである。
アリスは欠伸を噛み殺しながら三十秒でメニューを流し見て、貶した割にあっさりカツ丼に決めた。俺は竜田揚げと豚の生姜焼き定食だ。
注文してから早速ナイトメアについて相談を始める。
相変わらず合理的だ。足で稼ぐ地道な警邏を俺達に丸投げしてくるのもらしい。まあ今回は俺から言い出した事だから、文句を言うつもりはない。
ニクスが補足していたが、運良くナイトメアが
次はモユクさんへの連絡だが、メール送るだけだし簡単だろ、と思っていたこちらは都合が悪いらしい。
「彼は今王港に向かっているの」
「貨物船に密航するからしばらく連絡できなくなるって今日の朝連絡あったんだよね」
アリスは運ばれてきたカツ丼のカツに箸をつけながら言った。アリスが箸をつけるのを待ってから竜田揚げに箸を伸ばしたニクスが付け加える。
どうでもいいが二人共箸の使い方や食器の持ち方が綺麗だ。育ちの良さを見せつけやがる。
「結局来るのかモユクさん。それならこっちに着き次第聞くか。しかしお前豚の餌とか言ってたクセによく食うな」
「その言葉は撤回よ。気に入ったわ」
アリスは衣がもっさりついたカツの切れ端を口に運び、嬉しそうにしている。意外だ。
「味覚は普通なんだな。大トロとA5ランクの肉以外食わない人種かと思ってた」
「食事なんて生命活動に必要な栄養を摂取すればなんでもいいのよ。士気向上のために美味しさが付与されれば更にいいわ」
「お前は兵站管理でもしてるのか。旨いと思ったなら後で店長に謝っとけよ」
「忠告しておくけど、ヒプノスもかなり失礼な事言ったから。私にね。富裕層が全員偏った食生活をしていると思ったら大間違いよ」
「……あー、すまん」
咳払いして話をナイトメアに戻す。実際のところ何者なのか、という部分は興味があった。あの精神性で全うな生活が送れているとは思えないし、全うな生活をしているとしたら内心凄まじいストレスを抱え込んでいるだろう。二人もそこは気になっているらしく、色々仮説が出た。
この街に流れてきた指名手配犯。
河岸を変えた浮浪者。
部所変えなどで異動してきた会社員。
実は今まで潜んでいただけで地元民。
歪んだ性癖を
動物園の飼育員。
一時滞在している旅行者。
どれもそれらしい仮説だ。
俺の楽園についてかなり深く言及していたため、そのあたりの感性と知識はそれなりにあると分かる。動物園の飼育員、あるいはそっち系の研究者説は有り得る。
ペスト「医師」という格好や、痺れ薬を盛った事から医療関係者というのもまたもっともらしい。
「少ない情報から想像を膨らませるのは危険よ」
しかし結局のところ、アリスの締めの言葉が状況を端的に示していた。確かに、ナイトメアに会ったのは昨日なのだ。正体にたどり着くどころか、推測の材料すら全く足りていない。
話し込んでいる内に時間が経ち、店の鳩時計が18時を知らせた。随分長居してしまった。会計を頼み、金を出し合う。アリスがここは私が持つわ、と言い出しかなり心惹かれたが断った。こんなところで借りは作りたくないし、身分が違うとはいえ中学生に奢らせるのは情けなさ過ぎる。
帰り際、俺が代表して支払いをしていると、アリスが口を突っ込んできた。
「カツ丼、美味しかったわ。この店が潰れそうになったら援助するから連絡しなさい」
そう言って店長に名刺を渡す。んんんんんん上から目線! こいつ暴言とセットじゃないと褒められないのか。マジでやめろよ、お前一応俺が連れてきた客なんだから。これからこの店行き辛くなるだろ!
恐る恐る顔色を伺ったが、店長は、
「そうかい。ありがとうね」
と言ってニコニコ名刺を受け取り、代わりにエプロンのポケットから梅のど飴を出してアリスに握らせた。流石年の功だ。ものともしないぜ!
「この頃は変な人がうろついているからね、気をつけて帰るんだよ。お嬢さんのようなめんこい女学生さんはいっとうよく狙われるって聞いているからね」
「今度は護衛連れてくるわ」
「大げさァ! ……でもないか? まあいいか、もう好きにしろよ。ごちそうさまでした」
「ごちそうさまでした。竜田揚げ、美味しかったです」
「また来るわ」
店を出ると、もう日が落ちて街灯がついていた。二人を送って行こうかと思ったがアリスが電話をかけると三分で黒塗りの高級車が来たのでそれを見送った。
俺はポケットに手をつっこみ、一人で家に帰る。
今晩からナイトメアを相手取る事になる。気を引き締めていこう。もう絶対に騙されたりしない!
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