第2話 おはよう

 ピピピピピピ…

 いつもどおり、携帯電話の目覚まし機能が甲高い電子音をあげる。俺の1日が始まる合図だ。ベッドの中で上半身を起こして、両腕を天井に向けて伸ばす。

「うぐぐ…はぁ…」

 声を出す気は無いけれど、口から自然と漏れる。これも癖みたいなもんか。

 俺が朝起きてまずやることは、とりあえずトイレに行くことだ。

 そのあと顔を洗って、うがいして、それから食事をとる。

 物心ついたころからやってる習慣なので、これが出来ないととても気持ちが悪い。

 すこしずつ暖かくなって来たこともあり、布団から出るのはそれほど苦じゃなくなって来た。俺はベッドから降りて、部屋の扉を開けた。



 階段を降りていると、誰もいないはずのキッチンから物音が聞こえた。

 一瞬、ドキリ、とした。

 この家には、もう俺しか…。

 そこまで思って、すぐに嫌な記憶が蘇ってくる。

 俺はトイレに行くはずだったのに、気づいたらキッチンに向かっていた。

 おそらく。

 いや、現実と認めたくはないが、おそらくキッチンには、変な生き物が2匹ほど居るはずだ。

 ガチャリ…。

 キッチンのドアを開ける。

 そこには、無慈悲な現実が待ち構えていた。

「はぁ…」

 ため息。

『ほんと、この、包丁、うまく、掴めないの、なんとか、ならないのか! し! ら! もー!』

 最後はキレ気味だぞ、猫。

『この、この、新聞ごとき、めくれない、はずが、ない、このぐぬがぁ!!』

 最後はキレ気味だぞ、犬。

 あー、いやいや。待て待て。誰もツッコミで天丼をしようとしてるわけじゃないんだよ。それに天丼ならあと1回欲しい。いやそれはどうでもいいが。

 でももうさ…そんな感想しか浮かばないだろ、この光景。


 いつもオフクロが料理をしていた流し台の横では、危なっかしく置かれたまな板の上に豆腐が置かれていて、見るも無残な姿になっていた。もはや豆腐だったもの、と言うべきか。

 そしてそこには、1匹の猫が居た。

 危なっかしく両手で包丁の柄を掴んで持ち上げては流し台に落とす、という狂気の行動を繰り返している。尻尾の毛は、パンパンに逆立っていた。


 かたやこちらは、犬だ。

 いつも親父が朝食を取りながら新聞を読んでいた食卓の上座に犬は座っており、その前には今日の朝刊がグチャグチャの状態で開かれていた。

 手? 前足? でガシガシを新聞をめくろうとしているが、上手にめくれず、爪で新聞を破るだけの行為になってしまっている。

「カオスか!」

 思わず叫んでいた。

『あら、おはよう。朝食まだなのよ。ごめんなさいね』

『おはよう。新聞、先に読ませてもらってるぞ』

 いやもう、どこから突っ込んだらいいんだよ…。

「はぁ…」

 俺は2度目のため息をついた。


◆◆


 結局、朝食は俺が作った。

 というか、まずは掃除から始めなきゃいけない状態だったので、遅刻してしまう可能性が高かった。

 まぁ…葬式があった次の日だ。もし遅刻しても大目に見てもらえるだろう。

『あまり味が分からないっていうのは、とても残念ね』

 猫が本当に残念そうに言う。

 猫が…。

「えっと…なんだ。猫…じゃなくて、オフクロ…って言うべきなのか?」

『当たり前でしょ? 猫って言われても分からないわよ』

 いや、あなた今、猫ですから。

「じゃあまぁ…オフクロ」

『なに?』

「帰りにキャットフード買ってくるから、今朝はミルクで我慢してくれよな」

『味もたいして分からないから、もうそれでいいわ』

 欠伸をしながら、猫…オフクロが言った。

「で、犬…はやっぱり親父…なんだよな?」

『そうだな』

 いつも通りのそっけない返事。間違いない。親父だわ。

「じゃあまぁ、親父」

『何だ?』

「ドッグフードも帰りに買ってくるし、今朝はオフクロと同じくミルクで頼むわ」

『致し方ないな』

 そう言って、親父は頭をうなだれた。すっげー残念そうに見えるぞ。

 というか、2人と俺は話してるんだよな?

 でもあまり口が動いてるようには見えないんだよな…。

「あのさ、2人は口で喋ってるんだよな?」

 あ、なんか俺、おかしな人みたいだ。客観視できてしまう自分がつらい。

『いや、これはたぶん思念だな』

 親父が顔を上げて、舌を出して言った。ヘッヘッヘッ…という犬特有のあの感じのまま聞こえてくる言葉に、なるほど思念なのか、と納得した。

 となると、俺のこの考えも筒抜けなのか!?

「俺の考えとか…」

『分からないわよ。安心して』

 言って、オフクロは前足と舌で顔を洗っていた。完全に猫だなもう。

「そっか」

 とりあえず、その言葉は信じておこう。心の声が全部筒抜けとかだったら、精神衛生上良くない。


 俺はとりあえず一安心して、冷蔵庫から出したミルクを2枚の深めの皿に入れて、床に置いた。

「なんか床に置くの、複雑な気分なんだけど…とりあえず、ここじゃなきゃ食べにくいと思うから、ここに置くぜ?」

『そんなに気を使わなくていいわよ。残念ながら、身体は猫だからね』

 オフクロはそう言いつつ、ミルクを早速飲み始めた。

 親父ものろのろと皿の前にやってきて、無言で飲み始めた。

 親父とお袋が、犬と猫で、床に置いた皿からミルクを飲んでる。

 あー。ああー。叫びたい。なんじゃこらぁぁぁ! って叫びたい気分だわ。

 そんな俺の気持ちはとりあえず横に置いておいて、俺は俺で用意した朝食をとりはじめた。


◆◆◆


 2人がトイレを使いたい、というものだから、とりあえずトイレの扉は俺が入ってる時以外は少し開けておくことになった。

 俺は学校に行く用意をして、玄関で靴を履いていた。

『そういえば、朝の挨拶、まだだったんじゃないかしら?』

「ん?」

『おはよう、って言ったのに、返してもらってないわ』

 あー。そうだったかもしれない。

「あー、うん。おはよう」

『はい。おはよう』

 オフクロは満足そうにニャーと鳴いた。

 そこに、親父も見送りにやってきた。

「親父も、おはよう」

『ああ。おはよう』

 玄関に、ちょこん、と座る猫と犬。

 両親なんだけど…うん。可愛いな。

 俺はなんだかよく分からない感情を抱きながら、玄関のドアに手をかけた。

「んじゃ、行ってくるよ」

『いってらっしゃい』

 2人の言葉を背中に、俺は玄関のドアを後にした。

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