うちの猫は札束が大好きなのだが

龍宮真一

第1話 おかえり

 猫に小判。

 あれはもしかしたら、嘘かもしれない。


 どんよりと雲が低く垂れ込む日曜の午後。

 俺の目の前には、もう数えきれないくらい往復した自宅へ続く坂道が立ちふさがっている。

 言葉通り、本当に立ちふさがっているほどに急な角度のこの坂は、地元じゃ有名な心臓破りの坂だ。

 その坂を、自分はゆっくりと進む。

 2日前からの慌ただしい日々を思い出しながら。



 金曜日の午後。昼食を終えた俺は、残りわずかだったやる気を凶悪な睡魔に会心の一撃でぶっ飛ばされてしまい、教室内に居ながらにして5時限目の授業を夢の世界へエスケープしていた。

 古典の授業だから、と言うのも大きな要因ではあった。北中先生のあの声は、午後イチの授業にはキツい。俺以外にも、きっと夢の世界に旅立っている奴はたくさんいたはずだ。

 が、俺が夢の世界に居られたのは、担任の福原に名前を呼ばれるまでだった。

 変な夢を見ていたせいもあってか、頭がまだ混乱していた。何故古典の授業なのに保健体育の福原が居るんだ? なんて思っていたら、肩をガツっ!と掴まれた。

「んおっ!?」

「なに寝てるんだ大塚! いやそれはいい、とにかくちょっと来い!」

 そう言って、福原は俺の腕を掴んで強引に立ち上がらせた。

「おい、ちょっと、なに、痛ぇって、ちょ、ま」

「ばかやろう! 頼むから急げ!」

 福原の表情は、必死なものだった。

 ただ事じゃねぇなこれ。

 一瞬でそう感じた。

 とにかく立ち上がり、福原に腕を引っ張られるまま教室の外へと向かう。

「北中先生、失礼しました。授業お続けください」

「いえ~。お気遣いなく~。大塚くん、気を付けてね~」

 北中先生は福原の言葉にいつも通りのぽやっとした雰囲気で答えたあと、続けて俺に手を振った。

 俺は掴まれてない方の腕を上げて、おお、と適当な返事をしただけだった。

 廊下を歩く福原の歩調は明らかに早足で、自分もその早さにあわせて歩いた。普段聞くことがない、他のクラスで先生が話している声の横を、いくつも通り過ぎた。

「いいか、大塚。落ち着いて聞け」

 焦りを感じる声で、福原が言った。

 いや、まず先生が落ち着こうか。そう思いつつ、とりあえず頷く。

「今から自分が、お前を車で送るから」

「…は?」

「行先は…病院だ」

 ドラマとか、漫画とか、そういったものでたまに見かけるシチュエーションだなこれは。なんて感想が浮かび、想像がブワァっと広がって。

 心臓が、大きく脈打った。

「え、ちょ、どゆことすか?」

 ちらりと振り返った福原の表情が、親父の表情にそっくりだった。

 これ、どこで見た表情だっけ。

 記憶の棚をひっかきまわして、出てきたのは。

 ああ、飼ってたシロウが死んじまった時だ。

 俺が小学校1年生の時から飼ってた雑種犬で、真っ白な犬だったからシロウって名付けた。名付け親は、親父だった。

 一番世話を焼いていたのは親父だったし、シロウが一番なついていたのも親父だったっけ。

 でも、なんでそんなときの表情と似てるんだよ。

 心臓の鼓動が、妙な速さになる。

「大塚、お前のご両親は、今日から旅行に行ってたんだよな?」

「え?」

「旅行先でな。事故にあったらしい」

「…は?」


◆◆


 福原の車で移動すること2時間半。

 俺は唯一持ってきていた携帯電話を、もう何度も見返していた。

 普通、担任だからって生徒1人の為にこんな遠くの病院まで車で送るとか無いよな、なんて、妙に第三者的な感想が浮かぶ。

 それから、なんとはなしに今朝のことを思い出す。

 久しぶりにデートだね、とか子供の俺が恥ずかしくなるような台詞を言ってたオフクロと、照れながらも、まぁそうだな、とか答えてた親父。

 家を出る前に、戸締りがどうとか、ご飯がどうとか、さんざんに俺のことを心配していたオフクロと、もう子供じゃ無いんだから大丈夫だ、と呆れていた親父。

 じゃあ、行ってくるわね、と言ったオフクロに俺が言った言葉は、分かったからさっさと行けって。だった。


◆◆◆


 病院の一室で、単調な音が響いていた。

 ピー、という、抑揚のない音。

 無機質な、それでいて、圧倒的な音。

 俺は間に合わなかった。

 福原が膝から崩れ落ち、先生…と小さくうめいた。

 この状況を、現実として受け止めることはなかなか難しそうだった。

 だが、最悪の事態を想定をする時間は…残念ながらたっぷりあった。2時間半も。そのせいか、ああそうなのだな、と言う他人事めいた感想が頭にあった。

 でも。

 そう思わずには、居られない。

 さっさと行け、ってなんだよ。

 最後に言った言葉が、さっさと行け、だなんて。

 あんまりじゃねぇか。

 かけられた白く四角い布を睨みながら、俺はそればかり考えていた。


◆◆◆◆


 葬儀は地元で執り行った。

 遺体を地元まで送り届けるサービスを利用して2人は家に帰ってきた。

 両親が乗っていた自家用車は、移送サービスの人に運転してもらって一緒に帰ってきた。

 俺は福原の車で一足先に帰宅して、2人を待っていた。移送サービスの車が着いて、2人が車から出される。

「おかえり」

 2人にそう言って、玄関のドアを開けた。


 お通夜も、葬儀も、源じいが…父方の祖父である大塚源二が手配した。

 バカやろう。

 源じいは何度も、悔しそうにそう言ってた。

 母方の祖父母も、父方の祖母も、もう他界している。残るは俺だけだな、と笑いながらそう言う源じいに、縁起でもないこと言わないでくださいよ、とオフクロは毎回言ってたっけ。

 自分が先にとか、笑えねぇよ。

 現実味の無いまま時間は過ぎていった。

 そして、火葬されて出てきた時は、2人とも理科室の骨格標本よろしくなっていた。

 笑ってしまいそうだった。

「元理科の教師が、骨格標本にとか、なんのジョークだよ」

 そう言ったのは、源じいだった。

 自分と同じことを考えてるとか、なかなかのシンクロ率だな。とか、あまりの現実味の無さに変な感想ばかり浮かんだ。

 骨壷に骨を入れる時、俺はこっそりと2人の骨の一部を、それぞれの骨壷に交差して入れた。

 それが宗教的にどうとかは、関係無かった。ただ俺が、そうしたかっただけだ。源じいだけはそれに気づいてたみたいだったけど、何も言われなかった。ただ代わりに、俺の頭の上にがしっと右手を置いて、グリグリと撫でた。


◆◆◆◆◆


 そろそろ家に着く。

 この坂は本当に長いし、キツい。

 運動部に所属しない俺がそれなりに体力があるのは、幸か不幸かこの坂のお陰だった。

「ふぅ」

 坂を登りきって、一息つく。

 ここから少し歩くと、家に着く。

 今日から、1人の生活が始まる。まぁ、とりあえず、なのだが。実際問題、田舎に住んでる源じいと、これからどうするかをまた話し合わないといけない。

 ただ、少し気持ちの整理をする時間が欲しかった。だから、少しの間、1人で暮らしてみたい。と言った俺の意見を、源じいは文句ひとつ言わずに同意してくれた。

 着いた。

 家の前に着いて、俺は玄関を見やった。

 そこに。

 そこに、犬と、猫が、居た。

 どこかで見たことのある犬だな、と思った。真っ白な毛並みは、確か…。

 そんなことを考えている俺の思考を、聞き覚えのある声が妨げた。

『おかえり』

 と、犬。

『早く玄関、開けてくれない?』

 と、猫。

「…は?」

 と、俺。

 その声は紛れもなく、親父と、オフクロ…だった。

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