Silent Running Cadence

 座席から伝わる機体の振動が止み、クルベが掴んだ肘掛けに緑色のランプがともった。観測窓を覆う断熱シャッターのロックが自動解除されたことを示すものだ。

 遊覧飛行というわけでもないのだが、彼は観測窓の外を眺めたいという欲求に逆らえなかった。薄い大気の層で散乱された日光の、明るいブルーが目に飛びこんでくる。


 窓の外では火星の丸い輪郭が、次第に水平線へと変貌しながらせりあがってきていた。ところどころに見える、内側を緑色に塗りつぶされた円形の模様は、整備中の緑化エリアだろう。

 保水ゲルを埋設された緑化区画に、地中から回収された水を撒いて植物を育てているのだ。火星のテラフォーミングは、そろそろ始まって四十年になろうとしている。



「軌道エレベーターで降りてみたかったな」


 クルベは声に出してそうつぶやいた。隣の席に座ったマユミが、クルベの方へ顔を向けて微笑んだ。


「私も興味あったけど、それだと片道で三日はかかるわ。休暇がなくなっちゃう」


「それもそうだ」


 クルベはため息とともにうなずいた。軌道エレベーターは宇宙への往還にかかるエネルギーコストを低減するが、その分時間のコストを増大させるのだ。

 上昇するに従って、エレベーターリフトは静止軌道を飛ぶステーションと同等の角速度を獲得していく。

 結果としてリフトには横向きの加速度がかかる。応力でケーブルを破損させないために、リフトはひどくゆっくりと上下することになる。


 結局のところ、クルベたちは地表への降下に一日一便の軍用シャトルを使わざるを得なかったのだった。この便には他に地上基地の交代要員をふくめ一八名ほどがすし詰めに乗り込んでいて、窓の外の風景を別にすれば地球上で小型旅客機に乗っているのとさほど変わらない。


 薄い大気をとらえるためにマンタエイのような形に作られた機体が、その機首をぐっと引き起こして着陸態勢に入る。逆噴射推進器スラスターのうなりとともに、はらわたのよじれるような逆Gがクルベを襲った。


(なに、ヴィクトリクス号の1G加速に比べれば、どうってことはない――)


 強がってみるが、こればっかりは慣れられるものでもないし、この連絡艇シャトルの耐Gシートは航宙船のものほどできが良くない。整備の良くない滑走路に着陸脚が触れると、尻を蹴飛ばされるような衝撃がそれに加わった。


 着陸からたっぷり一分以上を費やして、連絡艇は滑走路上を移動して所定の位置に収まった。

 酸素マスクを口元に装着して狭いタラップを降りる。クルベにとってはおよそ九か月ぶりの、天然の重力の味だ。足の裏に感じる抵抗感に、自分の体重を強く意識させられた。


「ひざを痛めそうで、ちょっと怖いな」


 情けないセリフが口をついて出てくる。マユミは片眉を持ち上げて首を傾げた。その表情はクルベを案じるようでいてどこか楽しげだった。


「火星に来たら地球人は漫画のヒーローみたいに無双できるって思ってたんだけどね」


「……またずいぶん古いイメージを。その手のは俺も知ってるけど、直接地球上から飛ばされたわけじゃないからなあ。低重力でなまった体にはいくらか優しい、ってくらいのことだろう」


「そうね。先が思いやられるけど、せいぜい楽しい休暇にしましょう」


 マユミとの会話が途切れたところで、周囲を見回した。連絡艇の中では座席の背もたれにさえぎられて、同乗者の顔ぶれを確認できていなかったのだ。

 あとに続いて降りて来た人員の中に、クルベはふと意外な顔を見つけた。


「妙だな、タチバナ技術大尉とマンスレック軍医がいる。どうしたんだろう?」


「私たちのリハビリをサポートする……ってわけはないわよね」


 クルベは首を横に振った。それだとタチバナ大尉がいる理由が説明できないのだ。ともあれ、彼らは専門家二人組に敬礼しながらそちらへ歩み寄った。



         * * * * * * *



〈軍曹殿、飛行機が飛んでます〉


 ヘルメット内蔵の通信機から響いてきた声に、チャド・ホフマン軍曹は顔をしかめた。


「ばかもん! なにが飛行機だ、空なんぞ見おって」


 とはいえ確かに、航空機のものらしい金属的な排気音があたりにこだましている。


「おおかた軌道上のシルチス基地から降りて来た連絡艇シャトルだろう。完全装備でのランニング中に空を見る余裕があるのなら、お前たちにはもう少し負荷をかけてやってもよさそうだな」


 ホフマンはことさらサディスティックにそう付け加えた。火星では地球の四十パーセントの重力しか働かないが、彼らが身に着けた装備二十キログラムの重量そのものが減るわけではない。運動モーメントが与えられたとたんに、それは彼らの骨格と筋肉に負荷を与えるのだ。


「貴様らが訓練中に見ていいのは自分の前を走ってる仲間のケツだけだ。全員、『ブリッジ』までもう一往復!」  


〈軍曹殿! シャトルじゃありませんよ、この音はジェットです!〉


 先ほどと同じ声がホフマンの神経を逆なでした。有能な男だがどうもホフマンとはペースが合わないところがあるのだ。


「パーカー伍長、何か不服なのか!? ぼんやりお空を眺めるためにしんがりに着けたわけじゃないぞ……大体だな、少々テラフォーミングが進んだからと言って、まだ火星ここの大気は酸素がせいぜい十二パーセント、マウスツーマウスで人工呼吸に使える分、貴様らのその臭い呼気いきの方が、余程ましな代物だ。そんなところでなんぞ――」


〈ああっ、こっちに来た!!〉


「おい、人の話を……!」


 その瞬間。ホフマンの言葉は、頭上を通過した飛行物体が放つ轟音にかき消された。

 慌てて頭上を見上げる。急上昇していくその灰色の物体には、左右のエンジンナセル前端から突き出したショックコーンに、一対の前進翼――それに、ほっそりしたが備わっていた。地球上よりも四割ほど小さな太陽からの、頼りない光を機体に反射させながらその飛行物体は薄水色の空を再び遠ざかっていく。


〈軍曹殿、あ、あれは……〉


「糞ったれが! そこで言いよどむな、俺に引き取って言わせる気か!!」


 あれは飛行機ではない。絶対に口に出しては言いたくないが、あれは『女の子』にしか見えなかった。

 ここ数日の基地公報で読んだニュースのいくつかがホフマンの脳裏によみがえる。思い当たるのは軌道砲兵第三中隊が小惑星帯で救出した、木星居住ステーションの生存者である十七歳の少女。彼女には戦闘用の完全義体が与えられたと報じられていた。

 常軌を逸しているがそういうことだ。だが、まさか火星の大気圏内をあんな超小型のターボラムジェットエンジンで飛び回るとは?


「ええい、糞ッ……やめぇ! 訓練終了、全員俺の現在地に集合しろ。キャンプに帰るぞ!」


 ホフマンは訓練の継続をあきらめた。あの少女が地表へ降りてきているということは、ほかにも出迎えなければならない人員、それも階級が上の専門家スペシャリストが大勢いるということだ。これから丸一日はその対応で忙殺されるに違いない。

 集まった隊員の点呼を取り欠員がないことを確認するとホフマンは先頭に立って走り出す。第十七機甲師団の選抜コマンド二十人は彼の後を追いながらおなじみの訓練歌ミリタリー・ケイデンスをがなりたて始めた。


「火星の地底に何がいるー?」


 ――かーせいーのちていーに なにがぁーいるーーーっ




 火星の地底に何がいる?

 姿を見せない出歯亀野郎ピーピング・トム

 野外のトイレにゃ気をつけろ

 触手に巻かれてヒッ ヒッ フー!!


 ファイト オー! (ファイト オー!)

 U.F.O! (ユーフォー!)


 運河はないです (これから掘ります)

 お水がないです! (そのまま飛び込め!)


 

 デジャー・ソリスの産卵シーン

 夢見て過ぎ去る二百年

 鏡をのぞいてとくと見な

 今こそ俺らが火星人!


 ファイト オー! (ファイト オー!)

 U.F.O! (ユーフォー!)

 

 鉄砲抱えて お昼のランニング!

 人面岩まで もう一周!



 (後略)


         ※「火星ケイデンス」 

          作詞、作曲共に未詳


     (「内惑星統合軍愛唱歌集・2198年版」より。歌詞は従軍経験者からの聞き取りによる)


 

 

「火星の空はどうだったかね、アルミ」


「ウまく言エなイけど……体にすごい勢いで空気が当たって、不思議な感じ。アんなの初めてでした」


 四肢を取り外された状態で架台に載せられたまま、アルミは軍医にそう答えた。シャトルで地表に降りたあと、彼女は真っ先に大気圏内飛行用のユニットとそれに対応した推進器スラスター付きの手足に付け替えた。それからたった今まで、マッハ2の速度で飛び回ってきたところだ。


「ああ、それが『風』だよ。ステーション育ちじゃ初めてだったろうな……よし、補助プログラムはきちんと動いているようだな。表皮のセンサーにも異常なし、と」


 アルミの脳殻に接続されたサブシステムは人間でいえば右肺の位置に収められている。ごく小さなものだが、これに組み込まれたプログラムによって、アルミは本来人間には備わっていない翼や推進器スラスターのノズルなどを自分の体の一部のように制御することができる。

 基本的には動きたい方向をイメージするだけでいいが、一部の動作については脳でイメージするよりも、人間の脊髄反射に相当するような定型的な反応を入力した方が速い。

 ゆえに、飛行中の彼女の手は、特に必要のない限りは胸の前に配置された追加フレームの上に置かれ、そこに取り付けられた操縦レバーを握るようになっている。


「そっか。アれが『風』なんですね」


 この間、補助プログラムのインストール中に読んだ本にも出てきた自然現象だが、アルミにはどうにも想像できなかったのだ。彼女にとってこれまで、空気が勢い良く動く現象といえば空気の流失や爆風ばかり。それは恐怖の対象でしかなかった。


「まあ、残念だが空を飛ぶのはこのテストが終わったらしばらくお預けだ」


「アら。残念です」


「ジェットエンジンの燃料はこのキャンプには備蓄がないようなのでね」


 シャトルのペイロード割り当ては、このメンテナンスシステムとアルミの手足一式を積み込むとほとんど残らなかった。残りの燃料はあと三十分の飛行に足りる程度だ。基地にないのは仕方がない。ここは主に歩兵部隊が使用する施設なのだ。


「このチェックが終わったら、食事にしよう。君をあのコンテナから回収したパイロットと、その母船の艦長が一緒に降りてきている。会ってみたくないかね」


「会イたイ! 会ってみたイです!」


 アルミは即答した。

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