生ける者の宴

 カウンターに向かって注文の合図をする。メモを片手にやってきたナマノシンに、クルベは「お任せで」とだけ告げた。


「おや、よろしいんですか、中尉殿?」


 ナマノシンがいぶかし気に視線を持ち上げた。


「任務とはいえ、来るはずのところをすっぽかしたからなあ。それやこれやで三か月ぶりだ……今日は何が出てきても喜んで食うよ」


「軍人さんがそんなことを気にしても、しょうがないと思いますがね……」


「私もクルベに合わせるわ。二人とも同じものをお願いね」


 実のところ、マユミにはあまりこまごまと注文を考える気力がなかった。多分クルベも同じだろう。

 長期の任務から解放されて、やっと手に入れた休暇と生存の実感。それが、二人の精神をひどく弛緩させていた。


 二人の前にまず運ばれてきたのは、例によって突き出しの小鉢だった。

 薄く切られた断面が五角形を呈する豆の鞘のようなものと、薄茶色をした豆、それに刻んだ細ネギの混合物。その上に海藻と思しい緑色の細片が一つまみ載せられ、鉢の傍らには鮮やかな緑色の球体が添えられている。


「これは……オクラ納豆じゃないか」

 クルベの顔が、ぱあっと光が差したようにほころぶ。マユミは微笑ましい気持でそれを見守った。


「好物みたいね」


「うん……アフリカ原産だからかな、プレトリアのあたりでもオクラは割とよく手に入ったもんだ……親父もこいつが好きだった」


「いい時にいらっしゃいましたよ。菜園で食べごろのオクラがとれましてね……普通は酢醤油で召し上がっていただくんですが、今日はこちらをお試しください」


 ナマノシンが緑の球体を手に取り、あらかじめ切ってあったそれを手際よく二つの小鉢に絞りかけた。マユミはその小さな柑橘類を知らなかったが、ライムのようなものだろうと理解した。 


「ああ、こりゃあ酢橘か!」


 クルベは箸で軽く鉢をかき混ぜると、器用にそれを口へ運んだ。マユミも真似てみるが、彼ほど上手にはその細いスティックを操れない。

 仕方なく小鉢を口元までもっていって搔き込むような形になる。


「この香り、なんとも言えんな。納豆が少なめなのもいい」


 あらかじめ何かのダシと塩で味をつけたものなのだろう。小鉢の中身はキリっとした香りとうまみ、それに程よい塩味が調和している。かき混ぜられて泡立った粘液のふわっとした舌触りと、青物の歯ごたえが好対照をなしていた。いかにも、という感じの『和食』だ。


「お気に召したようで何よりです。それに、ねばねばしたものは精が付くと申しますからね」


「まあ」


 なにやら意味ありげなことを言うナマノシンをマユミは軽くにらんだが、店主には特に動じる様子もなかった。


「いやぁ、あれは俗信じゃないかな……一口にねばねばと言っても、成分は物によりけりだぜ?」


 クルベが疑わしそうな眼を店主に向ける。


「気は心、ですよ。昆布に納豆、オクラ。健康にいいのは間違いないでしょう。では、もう少々お待ちを」


 さわやかに笑ってナマノシンが厨房へ戻っていく。マユミとクルベは顔を合わせて苦笑した。


「いやねえ。まさか重力ブロックの民間人にまで知れ渡ってるってことはないと思うけど……」


「ん。なに、別に困ることはないだろ……それよりさ」


「それより?」


 クルベは脇腹のポケットに手を突っ込んで、少しためらう様子だった。ポケットには何か入っているようで、制服の上からその盛り上がりがうかがえる。


「……うん。俺たちが助けたあの子、どうしてるかな」


 全く予想しない方向の話題になって、マユミは拍子抜けする思いだった。


「ああ……基地公報では、身体のクローン再生が完了するまで何年かかかるって話だったわね」


「そんなにかかるのか……そりゃそうか」


 クルベは納得した様子でうなずいた。正常な細胞であれば、それなりの速度でしか増えないものだ。分裂を促進する方法はいくつかないでもないが、多くの場合はガン化などの異常を引き起こす。


「脳はかなりの部分無事だったみたい。当分義体に入って生活することになるそうよ」

 

 マユミが公報で読んだ通りを伝えると、クルベは何やら物思いにふける顔になった。


 変なの――まさか、公報に目を通してないわけじゃないでしょうに。マユミはクルベの横顔を見ながら、オクラ納豆の残りを搔き込んだ。そこへナマノシンと彼の妹ミリアムが、それぞれ盆にのせて一人分ずつの天丼と別皿を運んできた。


「お待たせしました。エビ天丼お二つ――」


「おお、きたきた! 実を言えばエビにはもう期待してなかったが、まだあったんだな」


「こいつは先週入荷した養殖物の大エビです。次の入荷は二週間後ですので、今ある分ではこれが最後ですよ」


 天丼を見るのは二回目だったが、マユミはむしろ今度こそ、盆の上のものに目をみはった。

 どんぶりに盛られた白飯の上には縁からはみ出るほどの大きなエビが、藤の花房のように華麗に咲いた、明るい黄金色の衣に包まれて横たわっていた。


 それも、二尾ずつ。


「何エビだ、これ……」


 クルベが息をのんだ。


 黄金色のドレスの裾から赤い靴をのぞかせたエビの傍らには、以前食べたものと寸分変わらぬ、あの巨大な分厚いイカ天が添い寝している。

 三者の枕元にはまたしても油の爆ぜる音を伴って万能キノコが控えていた。


「ダイモスエビって呼んでますがね、火星での養殖用に改良されたものなんです。低温でも元気で餌をよく食う。水槽での飼い方も今じゃ確立されてて、寄生虫なんかの心配も一切ありません」


 説明も半ばにクルベがエビを口に運んだ。まだ湯気を立てるそれを。


「あち……」


 慌てて唇を開いて、お手玉でもするように口元でエビを躍らせる。慌てた様子と裏腹に、彼の表情は幸福そのものといった感じだった。ようやく口の中で落ち着いたそれを、クルベが前歯で食いちぎった。


 沈黙。そして破顔。


「美味い……!! これだよ、これがエビだ!!」


 そういいざま、残りのエビを憑かれたように唇の間に押し込む。その眼尻には、明らかに何か光るものがあった。


「ちょっと、クルベ……なにも涙まで」


「何言ってんだ。君も食えばわかるさ、これがエビだ。じゃあ今までに食べたのは何だってんだ」


 マユミも促されるままにエビに箸をつけた。前歯の間でエビの肉がプリ、と音を立てて張り裂け、特有の甘みが天ぷら油とともに舌の上に流れ出した。視界が金色の光に満たされるような錯覚を覚える。そして、この軽やかな歯ざわりは――


「待って。これ、この前の天丼どころじゃないわ……エビもすごいけど、何、この衣」


「伝統に従う方法を一つ掘り起こしただけですよ。氷水で粉を解いたんです。店の地下に重力ブロック全体を冷やす冷却システムの配管が通ってましてね。その周りは下手な業務用の冷蔵庫よりよっぽど冷えるんで、具合のいい氷がいくらでも手に入るんです」

 

 ナマノシンが得意げに明かす秘密も、二人の耳にはあまり届いてはいなかった。タレのしみ込んだ白飯を頬張り、二尾めのエビを今度はいかにも惜しみながら丁寧に味わう。


「美味しい……」


「いやあ、生きててよかった」


 我ながらはしたない、とは思いつつ、マユミはエビを半分残した状態でイカに食らいついた。彼女はより位の高いおかずをこそ、後にとっておく主義なのだ。クルベを見れば、彼も同様の戦術を選択していた。


(こういうところかしらね、気が合うの)


 別皿に乗せられたサツマイモの天ぷらもマユミの目を引いた。衣の下からのぞく、紫色の外皮が鮮やかで美しい。

 口に運べばこれまた、口の中でほろりと崩れ、幸せな甘さが口の中を占領する。糖度が高いのか、皮に近いやや焦げた部分には、カラメルを思わせる香ばしい味わいさえあった。


 さらにもう一つ、正体の判然としないものが皿の上に見える。薄黄色の何かひらひらした物体が、ごく薄い衣に包まれて揚げられているものだ。片方の端に茎かヘタのようなものが出ているところを見るに、何かの植物の一部だが――


「ハセガワさん、これは?」


「ああ、オクラの花ですよ。今朝咲いたやつを採って仕込んでおいたんです」


「花……!」


 おどろくマユミをよそに、ナマノシンはミリアムに新たに運ばせた別の盆から、突き出しよりもやや大きな鉢を二人の前に並べた。それにはやや薄い紅茶のような澄んだ液体と、すり下ろされた根菜が入っていた。


「こちらの天つゆでお召し上がりください」


「花なの、これ……」


 食用花エディブルフラワーの概念はマユミも知っている。だが、これはいわば不意打ちと言っていい――まさか、花の天ぷらとは。


 パイの皮にも似た食感のその奥に、先ほどのオクラ納豆に通じる、とろりとした舌触りの実体があった。油で熱された花はなおその一部に、夕暮れの月を連想させるほのかな緑の色合いを残し、どこか羽化したばかりの蝶のように見えた。

 

 オクラ入りの味噌汁もついて、二人分の天丼セットはさすがにそれなりの値が張った。だがマユミもクルベも、満足しきって放心した顔で席を温め続けていた。

 互いに視線を見合わせるとどうしても、別の時間と場所での、もっと隠微で人目にさらせない状況が思い起こされる。


「ねえ、クルベ。さっきからポケットに入れてるものは何かしら」


「ああ、これか」


 今度はさほどじらす風もなく、彼はあっさりと懐中のものを取り出してみせた。小粋なデザインの包装紙で包まれたそれは、なにか服飾系の小物のようだ。


「火星軌道外縁でオルフェウス号とランデブーしたの、先月の二十四日だったろ? 推進剤も何もかもぎりぎり、艦をあげてピリピリしてる状況で、クリスマスだってのにお祝い一つできなかったから……遅くなったけど、これ。そして初の戦闘航海、お疲れ様」


 マユミはしばし押し黙り、その平たい小さなケースを胸の前で温めるような仕草をした。


「……ありがとう。ごめんなさい、私ったら気づかなくて。あなたにはなにも用意してなかった」


「いや、十分さ」


 クルベに許諾を得たうえで、マユミは包装を開けた。中から出てきたのは名を言えばフォレスターあたりが羨ましがりそうな、高級ブランドのスカーフ二枚。喜ぶ彼女を前にして、だがクルベはまたふと物憂げな様子になった。


「ねえ、クルベ。どうかしたの? 疲れてる?」


「いや」


「じゃあ、何か気に入らないことでも?」


「そうじゃない。あの子の――アルミ・ロビンソンのことを考えてたんだ。脳だけを取り出されて義体に入る……彼女は、俺たちが味わってるようなこんな食事を、楽しむことが出来るんだろうか?」



         * * * * * * *


 ジョナサン・ダルキースト中尉は、二十メートルほどを前方を歩いて行く人影に目を奪われていた。不案内な様子――というよりも、歩くこと自体にあまりなじんでいない、そんな感じの足取りを見せる小柄な人影。


 本来ならば、『流星シューティングスター』作戦を完遂した中隊のメンバーたちと、祝杯を挙げていたはずの時刻だ。ただし、すでにその予定は流れている。


 クルベ中尉はかねてから噂のある母艦の艦長、マユミ・タカムラからのメールに呼び出され、ダルキーストを免税店での買い物につき合わせた挙句にさっさと待ち合わせ場所の天丼屋へなだれ込んだ。

 それも「自分も他と待ち合わせがある」という、ダルキーストが気を回してでっち上げた嘘の予定をあっさり信じ込んだまま。


 クローガー少尉とフォレスター曹長からは、直前になって「急用が入った」という連絡。リー少尉からは「卦が悪い」というよくわからない理由で断りのメールが入った――どいつもこいつも、マイペースにもほどがある。

 だが、もはやそんなことはダルキーストの意識から消し飛んでいた。


 距離が少し詰まった結果分かったのは、眼の前の人影は十代の少女かそれに類する何か――もしかすると、慰安用のセクサロイド――であろうということだ。

 それが不意にバランスを崩し、道路わきの植え込みに向かってぶざまに倒れこむ様子が目に入った。ダルキーストは我知らず、悪態をつきながら駆けだしていた。


 セクサロイドに限らずアンドロイドなら、常人以上のバランス感覚を生み出すジャイロ・バランサーを内蔵している。クラシックバレエ顔負けの旋回ピルエットを何回行おうと、次の瞬間には平然と側転を繰り返しながら、平均台の上を渡り切るだろう。


 だが、首から下のほぼ全身をブルーと黒のボディスーツで覆ったその少女は、つつじの枝が絡み合う中に、あっけなくも仰向けに落ちた。


「おい、大丈夫か!!」


 駆け寄って少女を抱き起した彼が最初に見たのは、スーツのメインカラーと同じ鮮やかなスカイブルーのバイザー・レンズで覆われた、彼女の無機質な目元だった。

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