漂流の記憶

 エアロックを潜り抜けてロッカールームまでたどり着くと、クルベは投げすてる勢いでヘルメットを脱いだ。狭い室内は換気があまりよくないようで、汗や香水、制汗剤デオドラントなどの匂いがこもっている。それでも、与圧された室内でじかに吸い込む空気は心地よかった。


(……まだ遭難のストレスが抜けてないんだな、俺は)

 苦笑いが口元に浮かぶ。


 『ボストン』の回航中、救助される直前の数日は、代謝抑制剤ハイバネーターも既に尽きていた。間近に迫った酸素切れを前に、クルベとマユミはそれぞれ遺書を書いた。酸素ボンベの最後の一個は、マユミが使うことに決めてあった。


 奇跡的にヴィクトリクス号に拾われ、今もこうして生きてはいるが、二人が負った心的ダメージは決して小さくない。

 コクピットに閉じ込められてパニックを起こすほどではない。もしそうならパイロットとしては引退するしかない。

 だがモジュールのコクピットを出た後、ロッカールームまでたかだか十五メートルほどの距離を移動する間、クルベは頭の中が黒くなるような焦燥感にとらわれる。酸素の残量がどれだけあってもだ。

 

 モジュール格納庫は基本的に与圧されない。容積が大きすぎるせいだ。


 ヴィクトリクス号には幅と奥行きがそれぞれ二十メートル、高さ二十五メートルの独立したコンテナ型格納庫ユニットが、両舷に三基づつ装備されている。

 出撃と帰還のたびにこのユニットが開閉される。いちいち庫内に呼吸可能なガスを充填しなおそうなどとすれば、ボンベがいくつあっても足りない。


 それに整備作業では可燃性の塗料を吹き付けることもあれば、電気火花が飛ぶこともある。純酸素などを満たしていればたちどころに爆発を起こしてしまう。

 だから整備作業は真空中で行われ、どうしても必要な場合にはそのユニットにだけ、酸素なり混合気体なりが充填されることになっている。


 ロッカールームにはクルベ一人だった。ほかの隊員はすでに移動した後だろう。遭難体験からくるPTSDについては周りに話していないから、否応もなく最後尾で全員の収容を確認しなければならない立場だった。


 気密服をロッカーに戻し、インナーから不愉快な尿カプセルをむしり取って内容物を水リサイクル装置へ放り込むと、クルベは慣性状態で宙に浮かんだままブリーフィングルームのドアをくぐった。


 先客がいた。ユリア・フォレスター曹長とコンラッド・クローガー少尉だ。今回の迎撃ミッションは、くしくもシルチス基地防衛戦と全く同じメンバーで行われていた。


「お先してます、中尉殿」

 フォレスター曹長はそう言って屈託なく右手を掲げた。


 褐色の肌に色の薄い金髪が特徴的だが、多分先天的なものではなく、人工的にメラニンを増やしているか、髪を脱色しているかだ。美人の範疇に入れていい容姿だが、クルベの好みから言えばいくらか細すぎ、骨格も少年めいて見える。


 上官に席を空けようとして二人が腰を浮かしたので、クルベは慌てて手で制した。


「いや、そのままでいい、楽にしてくれ」


「畏れ入ります」

 クローガー少尉が何やら居心地悪そうに頭を下げる。格闘訓練の教官でも務まりそうな、ごつい体型のこの男がそんな身振りをするのは、なんともそぐわない感じでおかしかった。


「迎撃ミッションは二回目だが、やはり想像していたのとは全然違うな」


 率直な所感を述べると、フォレスター曹長が納得顔でうなずいた。


「あー。火星の衛星軌道上ならともかく、こっちが人工惑星になる速度だとああなりますね……」


「自分もシミュレーションを体験するまでは、飛来する砲弾の前に横一列に並んで相対し、直線弾道で一斉に砲撃するようなことを思い浮かべていたものです」

 クローガー少尉も照れたような笑いを受けべながら、そう言った。


「まあ、俺もじきに慣れるだろう。よろしく頼むよ」


 そのまま自販機のほうへ移動し、よく冷えたパイナップル・スカッシュのチューブを手に戻ってくる。二人の部下は他愛もない雑談を交わしていた。



 ――公債なんか買っても償還されるかどうかわかんないですよ、少尉。だいたい戦費を賄うためのものを、戦費から捻出された給料をもらう私たちが買うって、なんか意味ないじゃないですか。


 ――そうはいっても、前線にいる限り衣食も住居も軍が持つし……給料の使い道がなくてな。


 ――そんなの普通に貯金すればいいんですよ。貯金しましょう? 例えば……ほら、私のために。


 ――なんでそうなるんだ……ろくな利子もつかないのに。


 ――いーなあ、尉官のお給料。あこがれますよねー


(……おやおや)


 下世話な興味をかき立てられる内容だった。この強面のするたたき上げと痩せぎすの名狙撃手は、ああいう会話が冗談として成り立つ程度には親密らしい。


 フォレスターがこんな風にクローガーに絡むのは、いくらかはクルベたちのせいだろう。

 低重力障害を防ぐため、艦内には狭いながらトレーニングジムがある。フォレスターはそこでよくマユミと一緒になるらしいのだ。

 階級の違いはあれ、若い女二人。どんな話をしているかはなんとなく想像がつく。ガールズトークの巻き添えを食うクローガーには、同情せざるを得なかった。


 クルベはパインをすすりながらあたりを見回した。ふと、さいぜんから漠然と感じていた違和感の原因に気づく。

(はて……中隊長殿ダルキーストはどこだ?)


 ブリーフィングルームは本来、ただ軽口をたたきあうような場所でもない。作戦前の打ち合わせや、帰艦後の相互報告、問題点の確認を行う場所だ。にもかかわらず、ダルキースト中尉はここにいない。


 視線を巡らせるクルベに気づいて、フォレスターが言った。


「中隊長なら、帰艦するなりブリッジへ行かれましたよ。呼び出されたみたいです」


「ほう」

 もう一つの違和感もそれで片付いた。マユミからの連絡がまだない。たぶん、ダルキーストが呼び出されたその用事のせいだ。


 マユミは艦長としての職務をこなしながら、ことあるたびにクルベの携帯端末にあてて、ごく短いメールをくれていた。ミッションから戻ったこのタイミングなら、当然着信があってしかるべき。そのはずだ。だが、端末を確認しても、着信の形跡はなかった。


 いったいブリッジでは何が起こってるんだ――クルベは漠然とした不安感に眉をしかめた。



         * * * * * * *


「軌道砲兵中隊のダルキースト中尉を、至急ブリッジへ」


 コアー上等兵に短くそれだけ告げると、マユミはコンソールの時計に目をやった。地球標準時で西暦2158年、11月17日。メッセージに記された日付とは二か月半のずれがある。


「メイナード副長、これまでにこういった通信を傍受した記録は?」


「精査してみないとはっきりしたことは言えませんが、おそらく本艦ではこれが初めてです」

 メイナードは通信士席の横に陣取って、記録を検索するコアー上等兵の手元を凝視していた。ミスが発覚したら取って食うぞと言わんばかりの様子に、コアーは無言ではあるが緊張とうんざりを隠そうともしていなかった。


「ここ三か月ほどの木星の位置なら、電波は三十分少々で火星まで到達するはず。これが初めてというのは、変ね」


 マユミは手元のタッチパネルを操作して、前方のモニタースクリーンに惑星の運行を表すCGモデルを投影した。日付の表示を切り替えていくと、半月分づつ各惑星がその位置を変えていく。公転周期の長い木星がゆっくりと進む内側を、地球と火星が飛ぶように追い越していく様が映し出された。


 ふと思いついて、別のモデルを同じ画面で重ねた。小惑星帯に散らばる小天体が、模式図の上に砂をまいたように現れる。ちょうど木星と火星を結ぶライン上を、時期によって別々だが複数の天体が横切るのがわかった。これだ。


 受信が今頃になったのはさほどの理由もない。途中の空間を遮る天体の陰になっていたのだ。そのことを告げると、メイナードは苦虫を噛み潰したような顔になった。


「なんてことだ。作戦開始前にこの通信が届いていれば、こんな状況にならずに済んだものを……」


 メイナードの困惑はマユミには痛いほど理解できた。彼女自身にはむしろ、より深く突き刺さっていた。

 この小惑星帯派遣艦隊の旗艦艦長として、彼女には所定の作戦を完遂する責任がある。だが、メッセージに記された状況は、マユミ自身の体験と重なって彼女の情緒的な部分をひどく苦しめるのだ。


 壊滅したステーションの生存者――十年の長きにわたって絶望的なサバイバルを耐えしのいだ彼らは、ただ一人の少女にすべてを託し、六億キロの距離を超えて送り出した。かつての敵である地球へ向けて。


 半壊したボストンの船上、センチュリオン・トレーナーのコクピットに閉じこもり、緩慢な死の恐怖に耐えて火星へ這い進んだ記憶がよみがえる。最後の数日はもう、気密手袋越しにクルベとひたすら手を握りあうしか、なすすべがなかった。

 個人的な感情を言えば、その木星からのコンテナとやらを無視することなど、到底できない相談だが――


「副長。この、『敵の情報と過去の臨床データ』という部分……どう思います?」


 その瞬間、メイナードの額に昏い影が差したように思えた。彼はあごに手を当て、視線を伏せたままゆっくりと自分に言い聞かせるように答えた。


「何とも言えません。確かに我々は敵の正体を確定していない……機動殻マニューバ・クラストを作ったのが何者か。地球外知性の未知の技術で作られたものなのか、あるいはそのものが異種の生命体なのか――」


「そうね。もしも情報が機動殻クラストに直接結び付くものなら――」


 指揮官としては不適切なことだが、マユミは自分声がわずかに弾んだのを感じた。機動殻クラストの情報が手に入るのであれば、コンテナの少女を救助に向かう名分は立つはずだ。


 だが、メイナードは淡々と話の穂を継いだ。


「ですが、外惑星連合が我々の想像を超えた技術を開発した結果、という可能性もまだ否定できません。そもそも我々がジュノーへ向かうのは、それを確かめるためです。この状況で敵国の民間人から提供される不確実な情報のために、作戦計画と貴重な資源リソースを天秤に載せてよいものかどうかは、疑問です」


「では、この少女の人命は?」


「我々は作戦行動中だ……無慈悲に聞こえるでしょうが、人命救助は最優先事項ではないはずです」


「そんな……」

 ばかな、と言いかけて言葉を飲み込んだ。自分もまさにそのことで先ほどから頭を悩ませている。


(……だめだ。私では感情的になりすぎて、適切な判断が下せない。戦隊司令官に――ピット大佐に委ねよう)


「司令官は三時間前に自室へ降りられましたが……お呼びすべきでしょうね」

 メイナードが少し考え込む様子を見せた後、ぽつりとそう言った。マユミとは別の思考経路をたどって、同じ結論に到達したらしい。


 マユミは直通回線で司令官の個室を呼び出した――だが、応答がない。


「ピット大佐に連絡がつかない……?」


「何ですと?」


 こんな時に――生ぬるい汗がひとすじ、戸惑いに呼応したようにこめかみのあたりを伝い落ちる。マユミは艦内放送のマイクに手を伸ばした。個室の前には軌道砲兵中隊の兵員が数名、歩哨に立っているはずだ。

 だが、マイクをつかみかけたその腕はメイナードによってとどめられた。折り返しのある袖口を、礼を失さぬ動作で、だが断固とした圧力で握られている。


「副長、何を……!?」


「……落ち着いてください、艦長。このメッセージの情報は、まだ艦内に広めるわけにはいかない……司令官に何か不測の事態があったとしたらなおさらです。ここは本艦の正規の乗組員が確認に行くのが望ましい」


 その言葉の底に潜む侮りを感じて、マユミは頭に血が上るのを感じた。


「私が、指示を与える際に口を滑らせる、とでも?」

 

 こんな物言いをしてしまう時点で、自分は危うい――それに気づいて唇を噛む。

 力なく視線を落とすマユミの表情を窺うと、メイナードはようやくマユミの袖から手を離した。


「部下への直接の指示は、私にお任せを」


 ちょうどその時、圧搾空気の音とともに艦内通路へ続くドアが開いた。銀と緑の制服に長身を包んだ男がそこに立っている。マユミは瞬間的に、この複雑な状況から解放されたような気持になった――クルベをそこに期待していた。


 だが視線を上に移動させると、そこにあったのは短く刈り込まれた金髪の、気品のある顔立ちだった。

 軌道砲兵第三中隊『ガンフリント』の隊長だ。


(ああ、そうだ、さっき私がこの士官を呼んだんだった)


「軌道砲兵中尉、ジョナサン・ダルキーストであります。要請に従い、出頭しました」


 屈託なく到着を告げるダルキーストを、メイナードは呆けたように見つめていた。だが次の瞬間、彼はわずかに頬をゆがめると、素早い足取りで壁の一隅に向かい、そこにあったパネルのボタンを一つ押し込んだ。


「中尉……!?」


 メイナードへの呼びかけだったが、両者がマユミの方を向いた。ダルキーストの後ろで閉まったドアの上には、赤いランプがぽつりと灯っていた。

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