オオヤマ
「本来ならもっと早く実行に移すべきだったろうな。だが地球や火星と木星の距離が近づく、このタイミングを待つ必要があった……」
クレメンス爺さんの声にため息が混じる。だがその憂いを、アルミたちの明るい笑い声が吹き飛ばした。
「水虫の薬が切れたんで、ヤケになったんじゃないかと思った」
「バカなことを言うな。木星の公転周期は十二年あるんだぞ、ようやく巡ってきたチャンスが今なんだ」
軍曹の後ろに位置するキャビンからは、ずっと和やかな会話が聞こえていた。まるでキャンピングカーを仕立てての家族旅行だ。ロイ・クレメンスとマディソン・ラティマーはその間ずっと肩を寄せ手を取り合って、むつまじく寄り添いながら微笑んでいる。
軍曹は再び、操縦席の観測窓から見える星空と、コンソール中央のモニタとを油断なく凝視した。
軌道作業艇十二号『
公社ステーションがガニメデを周回する、離心率の小さな楕円軌道から増速して外周へ離れ、そのあと後方から廻りこんでくる巨大なマスドライバーに向かって、減速して近づくのだ。
「見えてきたぞ、皆。あれがオオヤマだ」
「大きい……! でも輪っかなのね。あたし、長くて真っ直ぐなヤツ想像してた」
キャビンに設置されたモニターに目を凝らしながら、アルミが興奮した口調でそういった。
艇の進行方向に、途方も無く巨大なリング状の建造物が浮かんでいる。周辺にこれといった対比物がないために定かではないが、あるいは3003よりも大きいのではないか、と思えた。
「見るのは初めてだったか? あれの直径はざっと二十キロメートルあるんだ」
「へえ……」
クレメンス爺さんの説明にアルミが息をのむ。
「必要な距離のトラックを直線で作ると、いくら宇宙に浮かべていても強度が足らんからな。衛星コンテナは射出前にあの中を二十周くらい廻って加速されるのさ」
アルミが知る由もなかったが、『オオヤマ』は、ローンチ・リング型と呼ばれるタイプのマスドライバーだ。コンパクトな円の中で加速された物体は巨大なエネルギーを与えられ、重力の地獄のただなかへ、または宇宙の彼方へと弾き飛ばされる。
円運動を極意とした、二十世紀の偉大な武道家の名を冠するのは、故なきことではなかった。
「二十キロかあ……グレッグたちがあたしとラティマ―さんを迎えに来るとき、迷わないといいけど」
「なに、実際に中に人間がいて仕事をしてた区画は大した広さじゃない。管制室が非常用の予備も含めて三つ、電力供給設備とコンテナの倉庫にトラックへの搬入路に作業艇の発着場、それに居住区ってくらいのもんだ」
爺さんは手元の端末をいじって、アルミに『オオヤマ』の概念図を見せた。
「……なんか、昔買ってもらった、おもちゃの指輪みたい」
「大丈夫よ、アルミ。発信機はつけたでしょ」
ラティマー女史がアルミの肩を優しく叩いた。
二人の手首には軍用の超短波ビーコン発信機を組み込んだ、ずっしりとしたブレスレットが取り付けられていた。内部に送り込まれる際には、これに予備として奥歯で噛みしめて保持するマウスピース型の発信機が加わる。
「そいつは俺が軍で使ってたものと同じやつだ、信頼性は保証するよ。受信機はファブニールの操縦席に取り付けてあるし、隔壁の多い公社ステーション内でのテストも問題なかった。必ず迎えに行く」
「うん……そうだよね、大丈夫だよね」
アルミの返事はわずかに震えて聞こえた。
施設の詳細な状況が確認できる距離まで近づくと、軍曹は目の前の光景に胸がむかつくような気分を覚えた。チタン合金製の梁材を何本も伸ばした上に作られた、平坦なデッキを持つ発着場に、なにか得体のしれないものが居座っているのだ。
「爺さん、ちょっと操縦を代わってくれ」
「そりゃ問題ないが……どうしたんだ?」
「モニターを見てみろよ。発着場がちと厄介なことになってる」
「なんと、こりゃあ――」
さまざまな色をした薄片で覆われた、べっとりとした質感の不透明な物体が、ところどころに何か別の大きな塊を包み込むようにしてへばりついているのだった。少し視線を動かせば、同じものはオオヤマの主要区画を構成する外壁の、そこかしこに見受けられた。
「このままじゃドッキングできん。俺はファブニールで先にあそこのクソの山を片付けに行く」
「あ、ああ。わかった」
クレメンス爺さんと入れ替わりにコクピットを出ると、マイヤー軍曹はキャビンを通って後部エアロックへ向かった。
その先は軌道作業艇のカーゴコンテナにつながっている。本来はオオヤマまで物資や補修資材を輸送するためのスペースだが、今そこには
「一旦増速して上空へ。オオヤマ基準で背面飛行しつつ少し前へ出てくれ。戦車隊の流儀で降下する」
〈無茶してタンクを壊さんでくれよ……! そいつにはみんなの運命がかかっとるんだ〉
通信機から響いてくるクレメンス爺さんの哀願するような声に、軍曹は奥歯をかみしめた。
(わかってるさ。だが、あれを排除するにはこいつを使うしかあるまい――)
操縦席に身を沈め、コンソールから延びるケーブルを左側頭部の機械部分に開いたポートに挿し込んだ。網膜ディスプレイに輝く文字列が次々に現れて、視界の下方へスクロールしていく――
蓄電池残量九十九.六パーセント。
火器管制システム作動中。
脚部トレッドのバインディング解除――全システム、コンディション
「『ファブニール』降下開始!」
背面飛行に入った『
オオヤマ――同期軌道でガニメデを周回する、この巨大人工衛星の軌道速度はおおむね秒速二.五キロメートルと言ったところ。その途方もないスピードに同調しなければ、接触した瞬間、双方の運動エネルギーによってタンクは粉砕されるのだ。
加速に使えた距離はごく短かったが、軍曹は軽いGを感じただけですんだ。作業艇がすでに、オオヤマのそれにほぼ等しい運動ベクトルを得ていたからだ。
空中で姿勢制御バーニアを一回噴射し、逆落としの姿勢から反転――脚部を
その時、デッキに盛り上がった粘着物の中から、『それ』が現れた。
盛り上がった塊の内側から、焼きたてのピザを食いちぎるように糸を引いて出現した物体――溶けかけた八面体を組み合わせて作った、人間のトルソーめいた形状のもの。
「
顔を擦り付けんばかりの至近距離で出現した敵性物体に、軍曹の全神経が警報を鳴らした。血中に放出される大量のアドレナリン。
だが、
(いつもこうだ。軌道上で何度かすれ違ったが、やつらは融合炉を持たない船やポッドに対してはとことん無関心なんだな……)
見過ごしてもらえるならそれに越したことはない。軍曹は相変わらず発着場をふさいだままの、汚らしい山に注意を引き戻し――その瞬間、理解した。
粘着物の山を覆う、色とりどりの薄片。わずかに水分を含んだまま凍り付いているそれには、人間の手で施された仕事のあとがあった。ささやかなレースの切れ端、あるいは縫い付けられたボタン。
それは千々に引き裂かれた衣服だった。つまり――
「モナカか! こいつはモナカのなれの果てか!!」
半分残った生身の頭に、血が駆け上った。
おそらく、モナカとして人体を消費しつくした
極低温の真空中で数分維持される、堅牢な泡を形成する高分子ゲルに、不安定なハロゲン化物を酸化剤として組み合わせた化学兵器だ。ファブニールには二発しか搭載していないが、目測する限り一発で事足りるはずだ。
砲塔左側面のポッドから、太く重いミサイルが低速で射出された。それは目標の直上で着火し、薬液を高速で噴出した。
何十体とも知れぬモナカの残骸を覆って広がった泡は、内側の接触面から潰れ、内包する気体が発光と高熱を伴う激烈な反応を開始する――
泡が消えたときには、そこには焦げ跡のついた発着場と、燃え残りのわずかなモナカが残っているだけだった。
「こちらファブニール。デッキを確保した」
〈えらく派手にやったもんだ。発着場の奥は隔壁が三重になってるから、榴弾で壁ごとふっ飛ばしても構わなかったんだがな〉
知る由もなかった情報だ。軍曹は操縦レバーから指を離して右耳の後ろを掻いた。
「えらく詳しいじゃないか……先に言ってくれ。そういう事は」
〈作業艇の操縦は久々なもんでな、ちょいと緊張してたんだ〉
ああ、やっぱりな――軍曹はひそかにうなずいた。ロイ・クレメンス爺さんが何者なのかは、ずっと疑問だったのだ。彼は語ろうとしなかったが、どうやらもともと公社の従業員だったらしい。今では唯一の生き残りだろう。
彼以外の従業員の運命は悲惨なものだった。3003からの避難民が救命艇で乗り付ける前に、核融合炉搭載の外航船でステーションを離れた――そこまではよかったが、その船は軍曹たちの眼前で
「なあ爺さん、ここにもよく来てたのか?」
〈ああ。3003襲撃の当日は、丁度わしの早期退職のタイミングでな――〉
ファブニールが確保したスペースに、オオヤマと速度を合わせた作業艇十二号がゆっくりと降りてくる。
四枚の接地プレートを持つ十字型花のような着陸脚が、デッキにそっと触れる。機体が完全に停止すると、キャビン後部のエアロックを開けて女たちが這い降りてきた。
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