六億キロの誓い
居住区の奥、浴室ユニットから聞こえていたシャワーの音が止まって、十分ほどが過ぎた。マイヤー軍曹は頭部音響センサの感度をわざと下げた。タンクの砲塔に十二.五ミリガトリング機銃を取り付ける作業に集中したかったのだ。
だが、逆効果だった。静寂はかえって様々な想念を軍曹の心に呼び込んだ。少し迷った挙句、彼はそれに逆らわないことに決めた。
(……あの二人、やっとお互いの気持ちに素直になれたんだな)
ラティマー女史とクレメンス爺さん――56歳と65歳。黒と白、二色の肌が絡み合うさまが、軍曹の脳裏をかすめる。それは不思議に美しいイメージだった。酒があったら密かに祝杯を上げたいような気分だ。
いささか遅きに失した感は、ないではない。だがこれまでは二人ともどうしようもなく忙しかったし、あらゆる物資が不足していた。時間やステーション内の資源を、純粋に自分たちのためだけに使うことなど、あの二人には到底できなかったのだ。
いつも率直過ぎる言葉で丁々発止と意見を戦わせてきた二人だが、そこにはこの小さな拠点で住人の生命と安全を守ってきた賢人同士の、尊敬と信頼がはぐくまれていた。だから、数日のうちにほぼ永遠の別れを告げることが確実になろうとしている今、二人が結ばれることはごく自然だと思えた。
「何だか変な感じ……ねえ、あの二人は今、何をしてるの?」
ガレージの虚空に漂うスパナを掴んで、アルミがゆっくりと漂ってきた。
「簡単なことさ。つまり、その……二人は、結婚したんだ」
「へえ!」
アルミはヘルメットの中で顔を輝かせた。だがすぐにその表情はいぶかしげなものになった。
「でもさ、結婚って――『二人はいつまでも、幸せに暮らしました』ってやつでしょ?」
アルミが言いたいことは、おおよそ理解できた。だが軍曹は一言返すだけにとどめた。
「ああ……絵本の『
「うん」
彼女はスパナを軍曹に手渡しながら言った。
「ねえ。あたし、知ってるよ……軍曹と爺さんは、自分たちが残って、あたしとラティマーさんをコンテナに乗せるつもりだって――」
「そうだな。昔ながらの伝統、レディ・ファーストってやつだ」
「そしたらさ、もう会えないじゃない? どうして? なんで今、結婚したの?」
「いけないのか?」
言いつのる十七歳の少女を、軍曹はじっと見つめ返した。彼女は次第に眼のふちを赤くし、泣きじゃくり始めた。
「だって、だって……それじゃ『幸せに暮らしました』ってならないじゃない……『めでたし、めでたし』じゃないじゃない……」
――アルミ。
気密服のグローブに包まれたアルミの手を、軍曹は大きな両手で包み込んだ。
「結婚ってのはな、単に男と女がこれから一緒に幸せに暮らす、ってだけの事じゃないんだ。いろんな形がある。辛いことに一緒に立ち向かうためにすることもあるし……人生を終える最後のひと時に、お互いの関係に最後の答えを出すために、することだってある」
「……グレッグの話、難しい。よくわかんない」
「遠い、遠い昔……俺の先祖が住んでた国には――熊皮男と同じ国の話だけどな、戦争で都が敵の手に落ちる直前になって、いつもそばにいた女の人とやっと結婚できた、気の毒な王様がいたそうだよ」
「ふうん……」
まだ難しかったらしい。可哀そうに――世が世ならこの年頃の女の子は、体も心も豊かにみずみずしく成長し、光の中に花開くように恋を知るのが普通だろうに。
「爺さんと女史は多分、この脱出計画を心を一つにしてやり遂げるために、そうしたんだ。心が一つなら、どれだけ遠くはなれたところに居ようと、生きていようと死んでいようと……」
そういいながら、軍曹はむかし結婚していた女の顔を思い浮かべた。ジェインはもうとっくにこの世にいないが、目を閉じればいつでも微笑みかけてくれるのだ。
「じゃあ、あたしもグレッグと結婚する」
軍曹は後頭部を殴られたような衝撃を感じた。幼い子供の他愛ない言葉だと思いたい――だが、アルミの目は真剣そのものだ。
言うべきことはしっかり言わなければならない。軍曹は自分の声がかすかに震えているのが、ひどく厭わしかった。
「それはダメだ」
「どうして?」
「俺にとってお前さんは……娘みたいなもんだ。いや、爺さんと女史が結婚したなら俺は居候の叔父さんってとこだから……姪かな? どっちにしても結婚はできないんだよ」
「そうなの? でももう会えなくなるなら、あたしもグレッグと心を一つにしたいよ……」
「そう思うのなら、アルミ。お前さんは女史と一緒に、何としても内惑星系にたどり着くんだ。そして、再生処置を受けて人間に戻れたら……本物の恋を見つけろ。熊皮男が、あの末娘と出会ったように。いつまでも幸せに暮らせる、そんな恋を。未来につながる恋を」
「それが……グレッグと心を一つにすることに、なるの?」
「ああ、そうだ。俺は、お前さんが幸せになることを心の底から願ってる」
だから、幸せになれ――そう言い切ることがいかに無責任で残酷なことかは、解っていた。だが彼はあえてその道理を奥歯でかみつぶした。半ば機械化された彼の身体に、アルミの全てを受け入れるための機能は残されていないのだ。
「大丈夫だ、アルミ。結婚しなくても、俺とお前さんはもうとっくに家族さ。ここで十年、一緒に生き抜いたんだからな。爺さんが言っていたろ? 俺たちが――いや、アルミたちが
「うん」
「家族のうち半分、地球や火星で人間の社会に帰りついてくれたら、それで俺や爺さんが生きてきたことも、無意味じゃなくなるんだよ」
しばらく考えた後、アルミはふと何かに思い当たったようだった。俯いていた顔が上げられ、琥珀色の瞳がもの言いたげにさまよった後、軍曹に向かって再び据えられた。
「じゃあ、じゃあさ……あたしが向こうにたどり着けたら……ティモシーやガープが死んだことも、無駄にならなくて済むかな……?」
――そうか、と軍曹は胸に落ちるものを感じた。
(そんなことをずっと胸に抱えていたのか、この娘は)
電力公社ステーションに逃れた生存者は、最初からたった四人だったわけではない。幸運というべきか否か、総勢三十人ほどの老若男女が、当初ここに身を寄せていたのだ。
だが、その命は些細な事故やその他の原因で次々に失われた。互いが持ち込んだ病原菌による感染症、あるいは、軌道上に出てもほとんど何も見つけられない日が続いての、物資の欠乏。そんなたぐいのことで。
ティモシーもガープも、アルミと同じかもっと年下の子供だった。ティモシーはデブリ衝突で起きた居住ブロックの破損で、真空にさらされた。ガープは食料の備蓄が切れかけたときに、缶入りの洗剤を誤飲して中毒死した。
「みんな、だんだんいなくなって……子供はあたしだけが生き残って……なんだか……なんだかさ」
彼女が生き残ったことには、むろん何の罪もない。運がよかった、そして、大人の言いつけを守れる程度に賢かっただけだ。それでも彼女は、生き残れなかった仲間に負い目を感じているらしかった。
「……ああ、もちろんだとも、アルミ。お前さんが向こうにたどり着いたら、あの子たちのことも誰かに話してやれ……思い出してやれ……それで、あいつらの命も無駄じゃなくなるんだ」
「うん……わかった。あたし、頑張る」
いつの間にか二人は、タンクの砲塔の上で抱擁を交わしていた。ガレージの中は暖房が入らず、二人を隔てる二着の気密服には、うっすらと霜が貼りついている。軍曹は顔の右半分に残った生身の頬を緩めると、アルミの肩を掌で包み込んで、ゆっくりと優しく互いの間の距離をあけた。
「さあ、とっととこいつの飾りつけと点検を済ませてしまおう。『オオヤマ』に乗り込むときはこのタンクが頼りだからな」
「うん!」
アルミも吹っ切れたような表情でそれに応えた。
二人の下には、廃材と代用部品から組み上げられた、武骨で巨大な
回転による人工重力を生み出す機構はこのステーションにはなく、車体は浮き上がるのを防ぐために、暫定的に定められた『床』にワイヤーで固定されていた。
「こんなに近くでみるの、初めて。グレッグは昔、これで戦ってたの? むこうの人たちと」
「ああ。こいつよりもう少しスマートで小さいやつだったがな。小惑星パラスに降下したときは、軌道砲兵モジュールとか言う搭乗型ロボット兵器を、八機ばかり食った」
「すごい!」
アルミは声を弾ませた。3003襲撃時の混乱の中で自分を助けてくれた軍曹は、やっぱり最高の英雄なのだ。
「じゃあ、これなら
「多分な。3003では運が悪かったんだ。警備隊が街中で使ってたタイプは武装が貧弱だったし、数も少なかった。だが今度はこいつがある」
タンクの砲塔から突き出した物々しい大砲を、軍曹は掌で叩いた。前線に投入される車体に標準装備の、八十八ミリ低圧
軌道上での『清掃作業』中に、補充部品のコンテナに入って漂っていたこの砲を見つけたことが、グレッグ・マイヤー軍曹がこの六年にわたって続けてきた作業のきっかけだった。
こんな日が来ることを予期していたわけではない。いつ果てるともわからない幽閉生活の、気晴らしのつもりだったのだ。
だが機会と幸運は、準備を怠らなかったものにだけ訪れる――
私製
足を拡げたハエトリグモのようなその姿を上から見るとき、漢字を知る人間なら『共』という字を連想するだろう。
三段重ねになった車体、下部
操縦席を内蔵した上部
「そっちの即用弾二十四発は、砲塔の自動装填装置にセットしてくれ」
「わかった」
低重力環境は子供にはある意味優しい。重量物の持ち上げに、さほどの力が必要ないからだ。
慣性が付きすぎないよう、ゆっくり動かしさえすれば怪我をする気づかいはなかったし、アルミはそういう作業の仕方に慣れている。
「少なくないかな……『オオヤマ』にはきっと、
大きな砲弾を砲塔後部に押し込みながら、アルミは素直に懸念を口にした。
「一匹づつ撃つようなまどろっこしい真似はしない。即用弾の三分の二はクラスター弾頭だし、接近してきた奴には機銃か――」
あれを使う。
そういって軍曹が指さしたのは、ファブニールの前脚、人間でいえばふくらはぎの部分に組み込まれた短かめの
「
氷で覆われた衛星の地表では、通常の履帯では空転してしまうことがある。その対策として導入されたのが、鋭い突起で氷の表面を荒らして摩擦を確保するこうした履帯だった。
「うわ……」
こわごわと履帯をのぞき込んだアルミが少し青ざめた。
「あれで押さえつけて駆動ギアを高速回転させれば、ミンチの出来上がりだ」
軍曹は自分がいくらかサディスティックな気持ちに駆られていることに気づいていた。
(いや、いかんいかん。ここは冷静にならんとな……せっかく四十パーセントは機械なんだ。熱くなるだけが能じゃないぞ、グレッグよ)
オオヤマについたら一度、アルミたちを壊し屋かあるいはモナカの手中にゆだね、幼体を植え付けられた頃合いを見て救出に行かねばならない。冷静に、そして果断に事を運ばねば。
タンクの整備は、地球時間準拠でその明け方まで続いた。
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