モナカ

「無茶よ……発射時にどれだけのGがかかると思うの」

 多分に修辞的な質問だったはずだが、クレメンス爺さんはしごく真面目に答えた。

 

「オオヤマは出力を調節できるから、それはあまり問題にならんな」


「そうなの?」

 ラティマー女史は医師の資格こそ持っていたが、宇宙航行に関わる数学上の問題にはあまり明るくない。

 クレメンス爺さんは愛用の端末で計算アプリを起動し、これまで何度か試みた計算をもう一度繰り返した。

「……知っての通り、オオヤマは内周軌道へ発電衛星を投入する為に建造されたもんだ。木星を周回する衛星軌道に乗せるには、木星脱出速度をやや下回る、秒速五十キロメートル程度が必要になる。単純計算だが、それだけの速度を持った衛星を射出するには、加速に五十秒かけたとしても総延長千二百五十キロメートルの距離を走り抜けなきゃならん――」


 爺さんは笑みを浮かべて女史に計算結果の画面を示した。

 

「そのケースでは、コンテナにかかる加速度は百Gちょいだ」


――つまり、体重が百倍に増加しつつコンテナ内部の壁に押し付けられることになる。

 

「……そんなの、人間が耐えられるものじゃないわ。耐Gスーツを着込もうが、古典SFでよくあるように水タンクに潜ろうが、結果は同じじゃない」


「そういうこった。だからこそ、発電衛星は無人で軌道投入されてきた。そもそも宇宙船でゆっくり持っていこうにも、あの磁場の中じゃあ、人間もコンピューターもいかれちまうからな」


 木星の強力な磁場は、地球の二万倍の磁力をもたらす。この磁場の中を動く金属製物体には、電磁誘導の原理によって電流が発生するのだ。木星からの距離に左右されるが、およそ一メートルの移動につき数ボルトの起電力となる。

 軌道半径によって細かい数値は変わるが、衛星の公転速度はのオーダー。つまり、一秒に発生する電圧は一万ボルトを優に超える。

 

 発電衛星はこれを利用して電力を生み出すわけだ。マイクロ波ビームで送電されるそれが、『木星3003』をはじめとする居住ステーションのエネルギー源となってきた。

 

「だが、木星の公転軌道を脱出して太陽系中心部へ向かうなら、話は別になる。それに必要な速度はおおよそ秒速十九キロメートル――衛星投入時と同じだけの距離と時間を加速に使うとすれば、コンテナには三十八G程度の加速度がかかる」


「ええと、待ってよ……たしかそれに近い加速度としては……」

 ラティマー女史が記憶の山を懸命にほじくり返して、視線を虚空にさまよわせた。

 

「確か、二十世紀の大気圏内戦闘機で使用された脱出用射出座席が、瞬間的に三十Gに達した、と――」


「流石、いい記憶力をしとるなあ。そういうわけだ、その程度なら現在の技術で作られた耐Gスーツもしくは座席、それに液体内に体を沈めることで何とか克服できなくはない」


「そこまでは試算済みなのね……」


 女医はため息をついた。食堂兼集会所になっている部屋の中を、静寂が通り過ぎた。


「でもやっぱり反対だわ……オオヤマにだって、奴らTHEMはいるんでしょ?」

 ラティマー女史はぶるりと身を震わせた。

「嫌よ……捕まってモナカにされるのは」


 爺さんがゆっくりと首を横に振った。

「わしだって嫌だ。だが、このままここで干からびるまで耐え忍んでも、結局は無駄に生きて無駄に死ぬだけになるんだぞ」


「それは分かるけど……」


 モナカ――その言葉に、アルミも背筋が総毛だった。誰が最初に言い出したのか、それはもう定かではない。

 だが、アルミも一度だけ実物を見たことがあった。まだ彼女たちがここに逃げ込んでさほど日がたたない頃だ。

 ステーションの外部カメラが奇妙な物体を捉えた。発酵したパン生地を焼いたように、幅も厚みも数倍に膨れ上がった人間の形をした物体。

 引きつって張り裂けた衣服の痕跡を身に着けたそれは、気密服をつけずに宇宙空間を漂い、エルンスト電力公社に単独で接近してきたのだ。当時のアルミには理由が知らされなかったが、それはステーション内に迎え入れられた――

 


「なあ、マディソン。実は、まだ話してないことがあるんだ……」

 クレメンス爺さんの声が、ぐっと低くなった。

 

「……どんなろくでもない話なのか、期待で吐きそうだわ」


「最接近時で、地球と木星の距離はおおよそ六億キロメートル。秒速十九キロで出発しても、慣性任せなら三百六十五日かかる」

「ちょうど一年? ずいぶんすっきりした数字ね」


「計算でそうなるんだから仕方がない」

 爺さんは鼻でため息をついた。

 

「幸い、地球まで行く必要はない。内惑星統合軍の一番近い基地は火星の衛星軌道上にある。そこで拾ってもらえれば八か月で済む……だが、それでも、だ」

 爺さんは膝の上に置いた右手を、振り上げて太ももに叩きつけた。

「八か月分を賄える酸素を詰めるだけのボンベは、ここにない! 食料の備蓄が厳しいのはご存知の通りだ。今ある食料はどんなに食い延ばしてもひと月分。代謝抑制剤ハイバネイターを使うにしても、そんなに長期間の投与には人体が耐えられん」


「……そもそも、代謝抑制剤ハイバネイターの備蓄もここにはほとんどないわ。……なによ、結局私たちは死ぬことを前提にここを出るしかないんじゃないの」

 マディソン・ラティマーは心底絶望しきった表情になった。もはや吐くものすらない、と言いたげに、彼女はクレメンス爺さんを見つめた。

 

「……それでもまだ前置きよね、これ。このうえさらにひどい話があるわけ?」


「ああ。まず、これは確実なことだがコンテナに全員は入れん。『オオヤマ』からの射出は、最終コントロールが手動なんだ。そして、射出が終わるまで管制室を防衛する人間も必要だ」


「管制室の防衛は、俺がやる」

 マイヤー軍曹が短く言い切ってうなずいた。

 

「こんなこともあろうかと、拾った部品で小惑星アステロイドタンクを一台、組み上げてある。軍の制式タイプに比べるとちょいと扱いづらいが、その分タフな奴だ」


 アルミにはそれに心当たりがあった。

「格納庫奥のシャッターの先で作業してた、あれ?」

「ああ、そうだ」


「それはいいけど、今ロイが言った物資の問題には解決策があるの?」

 ラティマー女史が食い下がる。クレメンス爺さんは食いしばった歯の間から押し出すように、その問いに答えた。

「……モナカさ」


「何ですって!?」

 ラティマー女史の顔が引きつった。

「私は今日、あと何度『本気なの』って言えばいいのかしら。それで、モナカで何をどう……」


 言いかけて彼女は息をのんだ。


 ――まさか。

 

「昔、ここにたどり着いたモナカには、まだ人間の意識があったよな。あいつは――アンディ・メレンキャンプは結局それが消える前に死ぬことを選んだが、解剖で得られたデータはあんたが持ってるはずだ」

「ええ」

 絞り出すようにやっとそれだけ答えたラティマー女史の声は、ひどく震えていた。


         * * * * * * *


 十年前のあの日。のちに『|隕石アリ(メテオアント)』と呼ばれるようになる地球外生物は、戦艦に匹敵するサイズの巨大な物体として、木星3003の宙域に出現した。

  

 通常の隕石などよりやや低い反射率を示す、腰を伸ばしたエビシュリンプを思わせるその物体は、ステーションの外壁に突っ込んで気密を破ると、内部から小型の物体を無数に吐き出したのだ。

 

 生身の人間が使用するサイズの銃火器をほぼ受け付けない、強靭な歩脚を備えた昆虫めいたそれは、瞬く間に居住区を蹂躙した。


 アルミが3003を脱出して、公社のステーションにたどり着けたのは全くの僥倖だったのだ。両親とはぐれて居住区で右往左往していたところを、マイヤー軍曹に助けられて救命艇に乗りこめたのだから。

 もともと外惑星連合軍の空間戦車大隊に所属していた軍曹は、この時休暇で3003にいた。 

 二人がたどり着いた救命艇の発着場にはほとんど人影がなく、救命艇のほうはかなりの数が残っていた――つまり、ほとんどの住民は隕石アリメテオアントに殺されたことになる。

 

 あるいは、もっと悪い運命に見舞われた――


 ステーションに侵入した奴らTHEMには、その時点で二種類の個体がいた。一つが四対の歩脚を備えて活発に動き回り、構造物を破壊し人間を殺す壊し屋ブレイカー。もう一つは同様な体の後部に柔軟な尾節と、その先端に鋭い針状器官を備えた針刺しスティンガーだ。

 

 個体数は針刺しスティンガーがずっと少ない。都市防衛部隊が抗戦した際には、そのせいで針刺しスティンガーは単により上位の存在だと思われていたのだが、事実は違った。

 

 壊し屋ブレイカーが集めた人間を、針刺しスティンガーが尾部の器官で一刺ししてからどこかへ運び込ませている――その報告は崩壊しかけた軍をさらに震撼させた。マイヤー軍曹とアルミも、それらしい場面を避難中に物陰から目撃している。

 

 だが、針刺しスティンガーによるその行為の実態が明らかになったのは、ラティマー女史がここ、エルンスト電力公社ステーションで、宇宙空間を漂ってたどり着いたアンディ・メレンキャンプを検死解剖した時だった。

 

         * * * * * * *


「アンディの神経系は脳幹部までが別種の生物組織に置き換わっていたわ。そして、体組織のほとんどは、半ば流動性のある硬めのジャムみたいな物質に変わっていた……」


 乏しい機材で何とか分析した結果、それは人間の細胞が未分化な状態に戻され、一種の全能細胞に近い形態に変化したものだと分かった。神経系の侵食は、脳幹部から脳梁を通って次に前頭葉へ向かおうとしていた。 

「生前の彼はまだ話せた。刺されたあと、目覚めた彼の周りには、完全に意識を別のものに乗っ取られた、膨れ上がった姿の市民たちがいたそうよ……」


「ああ。あんたはあの時、それモナカが奴らの幼体によって脳神経を食い荒らされ乗っ取られて、未知の生理活性物質で変化した体組織のエネルギーを、ゆっくりと消費しながら次の変態まで群れの一員として労働に従事する、寄生形態だと結論付けたよな」

「え、ええ……後は、ロイの言いたいことは分かるわ。アンディは気密服なしで外に出ていた。そして食事もいっさいとらずに、脱出までの間数か月生きていた」

 

 その場にいた全員が、凍り付くような恐怖とかすかな希望を宿した、奇妙な気持ちでお互いを見つめ合った。

 

「つまり、こうだ。コンテナに入る人員は、前もって奴らに捕まって、針刺しスティンガーに幼体を植え付けられておくんだ。そのあとは残りのメンバーが速やかにこれを奪い返し、耐Gスーツを着せてコンテナに押し込む」

「……やっぱり、どう考えても常軌を逸してるわね」

 ラティマー女史は取り乱したりはしなかった。彼女もまた、冷徹な科学者の一人だったから。


「我々の中の誰かが今の状況と条件のもとで木星圏を脱出する方法は、これしかない。前頭葉を食いつぶされる前に内惑星統合軍インナーズに救助されれば、再生医療を受けて人間に戻れる筈だ」


 アルミは大人たちの言葉を胸の中で反芻した。木星から生きて地球にたどり着くには、一度モナカになるしかない。それが唯一の方法なのだ。 

 明日はタンジョウビ――さらにおぞましい日々が始まることだろうが、そこには変化と希望というプレゼントが用意されていた。



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