episode-2:我が赴くは青い星(Earth, My Destination)

エルンスト電力公社

 アルミ・ロビンソンは読みかけの古い絵本を閉じた。七歳でここに来て以来、彼女はろくに読み書きの勉強ができていなかったが、それでもこの本だけは何度も何度も繰り返し読んだ――本など他になかったから。

 とっくの昔に読み飽きたその本の表紙には、まだかろうじて読みとれる英語タイトルが印刷されていた。  

 『グリム童話・熊皮男Baerskin

 

 それは昔から知られた、古い物語だということだった。

 


――長く続いた戦争が終わって、あとに残されたのは戦う事しか知らない兵士。平和な時代に生きるすべを何一つ持たず、途方に暮れる彼の前に、緑の上着をつけた奇妙な男が現れる。男の正体は悪魔で、そいつは兵士に一つの賭けをもちかけるのだ。


「……お前はこれから七年間、体を洗うことも、爪を切ることも、ヒゲをそることもならねえ。カミサマにお祈りをすることも――」


 アルミはもう、本を開かずともそのセリフをそっくりそのまま暗誦することができる。だが今日に限ってはそれが、途中でのどにつかえたように止まった。

  

(七年か……)


 あたしより、ちょっと短いね。アルミはそうつぶやいた。  

  

 物語の中の元兵士は熊の皮を着せられ、髪も髭もぼうぼうに伸び放題、顔は垢だらけのとうてい人間とは思えない姿に身をやつしながら、持ち前の親切な心を失わずに七年を生き抜いた。彼は悪魔との賭けに勝って、最後には幸福な人生を手に入れる。

 

(でも、あたしは誰とケイヤクしたわけでもないからね――)


 羨望とあきらめが混ざった気持ちに肩までひたってため息をついた、その時。

 キャンダイト張りの窓に面した制御卓コンソールの一隅に、黄色いランプがともった。


〈管制室、こちら『庭師のチャンス・ザチャンス・ガーデナー』。いま戻ったぞ、ゲートを開けてくれ〉

 通信機のヘッドセットに飛び込んでくる、十時間ぶりの頼もしい声。軌道作業艇十二号が通信アンテナの有効半径内に戻ってきたのだ。

 

 アルミは絵本を空中へ放り出した。表紙にこげ茶色の汚れをへばりつかせた厚紙の束は、彼女の膝の上、三メートルほどの虚空に浮かんでくるくるとスピンし続けた。紙の繊維やおそらくはカビの胞子も含まれる、薄い灰色のチリの雲があたりに拡がって漂った。


 制御卓に指を走らせて開閉スイッチをオンにする。グリーンのランプが点灯してゲートが開くと、全長二十メートルほどの不格好な小型宇宙船が、しずしずとドッキングベイに進入してきた。

 

 単座型作業ポッドの後部に、多目的キャビンと自動開閉式のカーゴコンテナを接続した、何かの甲殻類を連想させる姿。外惑星植民地向けに生産されて十五年ほどになる、ヨイツマーク社の『シンデンB型』だ。 

 ややオレンジがかったくすんだピンク色で塗装された船腹には、『エルンスト電力公社』の社名ロゴと、『12』の通し番号がステンシル書体で大書されている。ただし、『電力』の部分には緑のペンキで無造作に打消し線が引かれていた。

 そのすぐ下に黒い筆文字でやや小さく『清掃』と書き足されているのは、この船を操るグレッグ・マイヤー軍曹のややひねくれたユーモアの現れだった。

 


「……お帰り、グレッグ。みんな待ってたよ」 

 

〈……元気そうだな。留守中、何も異常はなかったか? ラティマー女史がケツで台車を押しつぶしたとか、お前さんの髪の毛が一夜で真っ青になったとか――〉


 マイヤー軍曹――グレッグは、普段より少し陽気な、からかうような調子で呼びかけてきた。

 アルミは期待に胸を弾ませた。知っている――グレッグがこういうしゃべり方をするのは、なにかいい獲物があった時なのだ。 

 

「特に何も変わったことはないよ。クレメンス爺さんが水虫の薬をとうとう切らしたくらい。そっちはどうなの? 何かいいものが拾えたんでしょ?」


〈ああ。缶詰の大きなコンテナがあったぞ。今夜は久しぶりにご馳走が食べられるな……そういえばアルミ、今日はお前さんの誕生日じゃなかったか?〉


「あー。そろそろだと思うけど……明日かな、多分」


 アルミはためらいがちな声で答えた。タンジョウビ――そんな言葉にまだ意味があるのだろうか? この孤立した小さなステーションでの、ほとんど変化のない日々の中で。

 

〈……しっかりしろよ。クレメンス爺さんたちならともかく、ボケるにはまだ早いだろうが〉


「クレメンス爺さんだって、別にまだボケてはいないじゃん」


〈ん……まあ、お前さんが若いってことを言いたかったんだよ。とにかく積荷、下すぞ。手伝ってくれ〉


「うん、作業スーツ着たらすぐ行く」


 アルミは通信を切り上げてその場で小さくジャンプすると、体の右側にある壁を蹴って体を押し出した。胸ほどの高さをすべるように漂ってドアをくぐり、ロッカールームへの通路を進む。

 ロッカーには、荷役作業に使うパワーアシスト機能付きの気密服が収納されていた。現在残っている気密服のうちで一番小さな一着なら、アルミも最近やっとまともに動かせるようになったところだ。

 

「タンジョウビ、かあ」

 アルミは我知らずため息をついた。ここにきてもう十年、明日で17歳になるはずだが、アルミの身体はろくに発育していない。

 

 不安定で慢性的に栄養不足な食生活が原因だ。医師の資格と経験を持つラティマー女史のサポートがなかったら、アルミたちはみんな、とっくに全滅していただろう。 

 だが、そもそも何のために生存を続けているのか? アルミには既にそこから分からなかった。

 

 熊皮男と違って、何年たとうとこの年季は明けないのだ―― 

 

 

         * * * * * * *

         

         

 太陽系最大の惑星、木星。

 

 恒星になれなかったこの巨大なガス惑星は、かつて数多の小説や映像作品の中で、ヘリウムや水素、メタンといった資源の採取拠点として描かれてきた。

 だが現実の木星とは、たやすく資源をもたらしてくれるような生易しい存在などではない。地球の三百十七倍にあたる巨大な質量は、それに見合った巨大な重力を生み出すからだ。

 木星表面からの脱出速度はおよそ毎秒六十キロメートル――VASIMR比推力可変プラズマドライブが理論上叩きだせる最大速度でも、ようやくその二倍弱に到達するに過ぎない。

 

 木星の大気から宇宙船を用いて有用ガス資源を回収する試みは、主に経済的な理由でそのすべてが頓挫した。採算の取れる量を運べる宇宙船を送りこめば、そのサイズに比例して大量の推進剤を消費することになる。そして推進剤の原料とは、運び出そうとしているガス資源そのものなのだ。

 

 結果として、ガス資源の採取は、より穏やかな環境を持つ土星で行われた。木星圏はあくまで前進基地として、各衛星に豊富に存在する水や、小惑星から得られる鉱物を供給するために開拓された。 

 その拠点の一つが、居住ステーション『木星3003』だった。それはガニメデを周回する孫衛星軌道に建設されていた。

 アルミたちが住み着いて、細々と生存を続けるこのささやかな構造物――『エルンスト電力公社第三ステーション』も、『木星3003』に付随する施設だ。大きさは全長にして辛うじて三百メートルに達するかどうか、と言ったところ。 

 

 元々の目的は、ガニメデよりさらに内周の軌道を回る発電衛星から、マイクロ波ビームによる送電を受け取って、大容量蓄電池に備蓄することだった。 

 その機能はまだ生きている。だからこそアルミたちは、外惑星領域の凍てつくような環境の中で、どうにか生活できていた。  

 だが十年前に破壊された居住ステーションの残骸からは、そろそろ有用な物資を回収することが難しくなってきていたし、宇宙ゴミデブリとの衝突もじわじわと彼女たちの生活圏を脅かしている。気密が保たれた区画は少しづつ減少し続け、今では当初の半分ほどしか残っていなかった。

         

         * * * * * * *


「……『オオヤマ』に乗り込むって、本気なの?」

 温めたベイクドビーンズの缶から最後のひと口をかきだしながら、ラティマー女史が眉をひそめた。

 

「さんざん考えたんだがな。やはり方法はこれしかないと思う」

 クレメンス爺さんはと言えば、せっかくの食事にほとんど手を付けないまま、手元の紙切れと取っ組んでいた。そこには歪んだ同心円と幾つかの数式が記され、込み入ったメモが書き加えられ続けている。

 

「方法って、なんの?」

 いつもと違う雰囲気に不安をかきたてられ、アルミはことさらに無邪気な風を装って問いを発した。


「……我々が今生きているということを、本当に意義のある物にする――その方法だ」

 クレメンス爺さんは一同をぐるりと見まわして答えた。

 

「3003は襲撃以来完全に奴らTHEM――隕石アリメテオ・アントの巣だ。この十年、どこからも救援が来る様子がないところを見ると、木星圏のどこへ行っても同じだろう。悪くすれば、土星もな……そうなると、我々が頼るべきはひとつしかない」

「待って、ロイ」

 ラティマー女史は空になった缶を膝の前へ押し出すと、スプーンを持ったまま右手を顔の前に掲げた。

「それって、もしかして……内惑星統合軍インナーズに、保護を?」


「そうだ」

 ロイ・クレメンスはグレッグ・マイヤー軍曹のほうを振り仰いだ

「軍曹、マディソンに……あと、アルミにも、詳しいことを説明してやってくれ」

 

「分かった、あとは任せてくれ」

 マイヤー軍曹はこの間ずっと、他の三人からやや離れて悠然と立っていた。彼の身体はおよそ四十パーセントが戦傷のために人工物で置き換えられていて、常人の五分の一程度の食事しかとらなくて済むのだ。


「外惑星連合は、もうその機能と実体を失った、とみていい。ここではちょっと具体的な話をしたくないが、俺は軌道上に出ているときに、それを裏付けるものもいくつか見てる」

 軍曹は一度言葉を切った。

「と、なるとだ。俺たちがいま忠誠をつくし、殉じるべきは『人類全て』に対し、という事になる……ここまではいいか、マディソン?」

「ええ、そして、今や人類を代表するのは内惑星統合政府、ってことね。感情として受け入れがたいけれど……分かったわ、話を進めて」

 マディソン・ラティマーは俯いて、こぶしをきつく握り締めた。民間輸送船の船長だった彼女の夫は、十六年前に小惑星帯での紛争に巻き込まれ、自分の船と運命を共にしているのだ。

 

「済まない。自制に感謝する……で、ここからが本題だ。俺たちが今入手して動かせる宇宙船は、蓄電池と化学燃料で動く、シンデンみたいな作業艇クラスまでだ。航続力の問題で、こいつでは木星圏を脱出できない」


「でしょうね」

「で、外には今も奴らのクリサリスが飛び回ってる。奴らは核融合炉を装備した船を見逃さないから、たとえ大型船の長距離宇宙船が手に入ったところで、結局火星までもたどり着けない」

「それじゃ、八方ふさがりじゃないの」

 結局、何度も反芻された議論だ。ラティマー女史はたっぷりと肉のついた肩をすくめて、諦めたような笑いを浮かべた。


 マイヤー軍曹はうなずいたが、そこでクレメンス爺さんの手から先ほどの紙片を受け取り、一同に示した。 

「だから、このプランだ。ガニメデ周回軌道の反対側にある、大型マスドライバー『オオヤマ』のコントロールを奪還し、衛星用コンテナに潜り込んでそいつを太陽方向へ向けてぶっ放す」


 ラティマー女史は口をぽかんと開けて、軍曹と爺さんを交互に見比べた。

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