火星のイカ天丼
「いらっしゃい。見かけない顔ですな」
店に入ると、カウンターの奥から声がした。白い板前法被に身を包んだ、背の高い男がそこにいた。
大型の観光バス一台が入るくらいの奥行きが深い店内は、聚楽壁に似せて塗装された石膏ボードを貼りつけて、宇宙基地の
「天丼が食いたい。タネは何があるかな?」
回りくどいやりとりは必要ない。クルベは率直に尋ねることにした。
「ちょっと今、素材が不足してましてね。万能キノコにナス、タマネギ、ニンジン、イカ。そんなとこです。来週には地表で養殖してるエビがまた入荷するし、ウドの若芽も収穫できるんですが」
思った以上に品ぞろえがいい。万能キノコは宇宙での菌床栽培に特化した改良品種だが、シメジの増殖力とマイタケの風味を兼ね備え、成長しきった子実体を干せばシイタケ同様に味の良い出汁が取れるようになる。バター焼きにしたものはクルベの好物の一つだった。
そして何より、
「十分だ、エビは来週の楽しみにしよう。今日はイカを二つとキノコ、それにタマネギとニンジンはかき揚げにして別の器に盛ってくれ。塩で食いたい」
「分かりました。そちらの大尉殿はどうされます?」
法被の男がタカムラ大尉に笑顔を向ける。彼の風貌はやや浅黒く眉のくっきりとした陽気そうなもので、イタリアあたりのどこか、ラテン系の血を感じさせた。
「私はイカはあんまり……そうね、万能キノコを一つとそれにナスを二つ。あと私にも彼と同じかき揚げを貰えるかしら」
「分かりました……お席はどうされます? お二人ですし、よろしかったら奥の座敷席へどうぞ……それと、ご希望ならディマイ・プロトコルでご提供いたしますが」
耳慣れない響きに、クルベは一瞬眉をしかめた。
「ディマイ・
――『出前』。それはかつてニッポンの地で広く行われた、独特のデリバリー形態を意味する。盛りつけた商品を専用の容器に収め、自転車やバイクで大通りを駆け抜けて、味が落ちないうちに客のもとへ届けるのだ。
「ちょっと興味を惹かれる……だが、冷えてるんじゃないだろうな?」
湿気で衣のサクサク感も損なわれるだろうに――わざわざ味を落とす食べ方ではないか、とクルベは懸念した。
「少し冷えたところを掻っ込むのが美味い、となかなか好評なんですよ」
何やら退廃的だが、古い言葉で言えばフウリュウというやつなのだろうか。このラテン系の店主がそれを供する、というのが妙におかしく思えた。
「……面白そうだ。じゃあ俺はそれで頼む」
「私は
注文が決まり、二人は細い草の茎で編まれたマットの上にくつろいだ。ディマイ様式は少々準備に時間がかかるらしい。
その間、二人は突き出しと称して小鉢で出された、ショウガと酢であえたナスの薄切りをつついた。空気に触れて変色する様子もなく、それはヒスイのような明るいアップルグリーンを保ってさわやかな風味がした。
「百三十年前――サン・ロレ島事件か」
「あの時は、鉱物型の生命体だったらしいわね」
箸を止めて先ほどの司令部での会話を反芻する。人類が最初に地球外の知的生命と出会った事件――それは幾度か映画やドラマの題材になり、巧みに脚色された波乱万丈でヒロイックなストーリーとして、一般には流布されていた。
それ故に、実際にその事件にかかわった人間の実像やその時々の判断については、よほど注意深く調べ、学ばなければうかがい知ることができない。
「私の祖母がね、あの事件に関わった日本人女性に、ヴァイオリンを習ってたそうなの」
タカムラ大尉が意外なことを口にした。世間というやつは時としてひどく狭くなるものらしい。
「ヴァイオリン……じゃあ、その人がたぶん、あのヒロインのモデルでしょうね。平穏な後半生を送れたのかな」
「それは分からないけど。その人が言ってたそうよ……『異質なものと出会った時こそ、人間が人間であることの意味が問われる』って」
「なるほど。その辺が、ドラマ化されるときにああいう形でアレンジされたんだろうなあ」
クルベはうなずいた。彼が見たドラマでは、そのヴァイオリンを愛する少女は宇宙生物に同化されかけながらも、恋人の呼びかけとヴァイオリンの音色によって自我を保ち、生還して二つの種族の橋渡しとなったのだ。
だがその話はそこで沙汰止みになった。厨房の奥から、店主によく似たラテン系の小柄な娘が出てきたからだ。彼女は手には背の高い木製の取っ手のついた箱を掲げ、頭には絞り染めの和手ぬぐいを鉢巻きにしていた。
「イカ天丼、ディマイおひとつお待たせしまシタ」
そういいながら彼女は木箱の蓋を開け、中から透明なラッピングフィルムに包まれた丼を取り出した。
それはガラス質の薄い層で表面を覆われた擬古セラミック製の大きな器で、同じ材質とデザインの蓋が載せられていた。いずれにも、クッキー型に押し込められたウロボロスとでもいった様子の、四角い渦巻き模様が描かれている。
「こちらのティンダレイをかけてお召し上がりくだサイ」
クルベの目の前に、娘は小さな陶製の瓶を置いた。天だれの事であろう。熟成したかえしの香りを放つ、茶色でとろりとした透明感のある液体が少量、その中に湛えられていた。
「うん、ありがとう」
クルベがラップを取り外して蓋を開けると、水蒸気とともに閉じ込められていた植物油の、香ばしい匂いが鼻孔を衝いた。蓋の裏に魚卵のようにびっしりと張り付いた水滴が、雪解け水のごとく伝い落ちる。
「これは……」
想像を裏切るものがそこにあった。幅三センチ、厚みも二センチあろうかと思われる、分厚いイカの肉が薄い衣に包まれて押し込められていたのだ。
それは蓋を取り払った瞬間に、バスタブの中の美女を思わせるしなやかな動きで、どんぶりの縁をはみ出してその白い脚線美を見せつけた。
――何というイカ天か。
「すごい」
クルベはそれ以上の言葉を失った。操られたように箸を動かし、イカの一切れをつまみ上げてその端を前歯でとらえ、噛み切る。ふやけ切らないすれすれ、絶妙な状態の衣がふわりと彼の歯と唇を受け止め、そのまま優しく白い肉へと導いた。
――ぷつり。前歯が弾力のある物体に食い込んでいく感覚。快感。うまみたっぷりの汁が口の中に沁み出し、もっともっとと彼を促す。箸でつまんだ部分の衣がずるりと脱げ落ち、あらわになった白い肉が油で光った。
「……何だ、このイカ。こんな分厚い肉を持つ奴がいるなんて。……どれだけ大きいんだ?」
ちょうどかき揚げ二皿とタカムラ大尉の丼を運んできた店主が、それに答えた。
「ああ、そいつはバイオイカですよ。海で泳いでるわけじゃない。マンスレック軍医が副業で作ってるんです」
「軍医が!?」
予想外の言葉に、クルベはむせた。
「アオリイカの全能細胞をベースに、医療用の体組織培養槽を使って外套膜と筋肉組織を培養してましてね」
「大丈夫なのか、それは」
店主は悪戯っぽい笑顔で片目をつぶって見せた。
「切る前のやつを見たらびっくりしますよ……広さ十平方メートルの、ぷりぷりしたイカの肉がこう、ねえ。
ああ、大丈夫です。培養槽は三つあるし、今のところ補綴用の人体パーツは一通り数がそろってるそうですから」
にわかに気味が悪くなって箸につまんだそれを見下ろす。
記録映像で見たアレッポの石鹸工場に似た風景が脳裏に浮かんだ。床一面に広がった白々と光るイカ肉の上を、大きな熊手めいた石鹸カッターに乗って、水上スキーよろしく引っ張られながらイカ肉を切り出すマンスレック軍医の、得意げな姿がこちらへ近づいてくる。そんな幻想。
「クルベ中尉。大丈夫? 無理しなくても……」
いや、とクルベは手のひらをタカムラに向けた。美味いのだ。このイカは美味い。それは確かだ。
もう一口。再び厚みのある肉を噛み切った瞬間、培養モノへの不信感は口中に広がる快楽によって一掃された。
「うむ! 天然だろうと培養だろうと関係あるか! 美味い、いやこいつは美味い!!」
残ったイカに初めて天だれをかける。濃厚なうまみと程よい甘辛さがイカの味をさらに引き立てて、その下の油を吸った白飯へとクルベの食欲を誘導した。
その炊き具合と粘りも絶妙なものだ。少し冷えて水滴をかぶった状態こそが一番美味いのではないかとすら思わせる、天ぷらとの好相性である。
まだ父が健在でクルベの一家が幸せに暮らしていた、南アフリカ時代――ヨハネスバーグにあった天ぷら屋から出前を取った、上天丼の味を思い出す。
(あれも美味かったが、こいつは比較にならん。どうかしている)
「こっちの『
まだ油の爆ぜる音をかすかに残した衣に包まれた、無数に枝分かれした万能キノコの一切れを唇の間に送り込みながら、タカムラ大尉が満足そうに吐息をついた。
「ご馳走様。美味かったよ。まさか出前の味を再現してここまで美味いものを食わせてくれるとは」
会計を済ませて店主にそう告げ、クルベは店を出かかった。
「よかったら、名前を聞いておきたいな」
「私はハセガワ・ナマノシンと言います。祖父が日本人でして。こいつは妹のミリアム」
店主――ナマノシンは見送りに出てきた娘の肩に手を置きながら、そう答えた。
「忘れそうにない名前だ。舌を噛まない様に気をつけるよ……また食いに来る」
「ぜひご贔屓に!」
火星も意外と悪くない。クルベはそう断じた。軍務は過酷で時として退屈だろうが、それでもここには天丼というものがあるのだ。来週はエビとイカを両方頼もう。そう思った。
通りに出るとすでに
「そろそろ行くわ。艦に顔を出しておかないとね。夜の会食で、また会いましょう」
「ええ、またその時に」
高速移動用のベルトウェイに乗って、タカムラ大尉は自転車ほどの速度で遠ざかっていく。その後姿がベイブロックの奥へ消えたあと、クルベはようやく中隊宿舎のある方角へ歩き出した。
重力ブロックのはずれにある倉庫めいたカマボコ型の建物の前。クルベと同じ銀と緑の記章を付けた兵士が二人、ライフルを片手に立哨していた。
「第三中隊の宿舎はここで良かったかな? 本日付で配属されたリョウ・クルベだ」
兵士は敬礼を返してきた。彼の肩と襟には上等兵の階級章がつけられていた。
「ご苦労様であります、中尉ど――」
だが彼の言葉は語尾まではクルベの耳に届かなかった。基地全域に響いた警報音が、その声を上から無造作に塗りつぶしてしまったのだ。
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