人を満たすもの

「地球外生命体――その可能性がある、と?」

 クルベは司令官のサングラスの奥を穴のあくほど見つめた。

 

「断言はできんがね。仮にそうだとすれば人類にとって二例目だ――百三十年ぶりくらいになるか。いずれにしても機動殻マニューバ・クラストは脅威に違いない。君たちの戦闘記録は現在、多方面での分析にかけられている。数少ない生還ケースだからな」


 沈黙が執務室を支配した。前途に待ち受けるものの途方もなさに、三人は各人各様に打ちのめされていたのだ。

 地球から火星へ向かう遷移軌道上に、母艦を伴わずに現れる機動兵器。そしてそれが地球外生命体の物である可能性――


「一つ、不可解なことがあります」

 クルベはさいぜんから感じていた疑問をようやく言葉にまとめた。


「それは?」


「……我々がボストンの遭難を認識した時点では、既にその場に敵はいませんでした。こちらと再接触するまでには十二時間近く経過しています。このタイムラグはどういう事でしょう?」


「……現時点では私からはなんとも言えん。ボストンを最初に襲った敵と、君たちが交戦、撃破した敵が同一の機体であるかどうかさえ定かでないからな。だが、その疑問はなにかの糸口になるかもしれん。忘れずにいたまえ」


 そう言いながら大佐は視線を手元に落とし、机の引き出しを開けた。このときはじめて彼はサングラスをずらし、グレーの瞳でじかにクルベとタカムラ大尉を見据えた。

 

「さて。ともあれ君たちにはこれから、それぞれの任務に就いてもらわねばならん――リョウ・クルベ中尉」


「はい」


 レイコック大佐は引き出しから封緘された命令書を取り出して、クルベに手渡した。

 

「君を軌道砲兵第三中隊に配置する。中隊長は先任のダルキースト中尉だが、君には小隊を一つ指揮してもらおう。このあと地球標準時16:30ヒトロクサンマルに中隊宿舎へ出頭したまえ」


「イエス、サー」

 壁の時計をちらりと見た。十三時二十分――二時間半と少々ある。

 

「タカムラ大尉にはすでに艦隊司令部からの辞令が出ているな?」


「はい、16:00ヒトロクフタマルに三番ベイで補給中のヴィクトリクス号に乗船する予定です」


「うむ。艦長代行中のメイナード中尉から指揮権を引き継ぎたまえ。彼はそのまま君の副長を務めることになる」


 タカムラ大尉の顔にかすかな当惑の色が浮かんだ。

「メイナード中尉にはボストン救助にあたって多大な尽力を頂きました――」


 その言葉が言外に含むものをレイコック大佐は正確にくみ取ったようだった。 


「うむ……彼は優秀な宇宙船乗りふなのりだが、その資質は優秀な指揮官を補佐する際にこそ、最大限に発揮される性質のものだ――これはタイバーソン提督の見解だが、私も同意見だ」

 

 大佐はいったん言葉を切った。

 

「メイナードを巧く使いこなしたまえ、タカムラ大尉」


「イエス・サー。善処します」


 人事は無情だな、とクルベは思った。軍艦の指揮権は士官にとって至上の宝――それは十九世紀の帆船時代から変わらない。

 不在の艦長に代わって指揮を代行していたメイナード中尉にしてみれば、タカムラ大尉を指揮官として仰がねばならないことは、決して面白くはないはずなのだ。


 クルベ自身は、先任がいたことにほっとしていた。いきなり中隊指揮など任されても、そうそうできるものではない。

(小隊を預かるくらいからがちょうどいいな。あとはメンバーがちゃんとした連中なら言うことなしだ)


 思えば南アフリカで砲兵士官として働いていた時は苦労したものだった。


 缶の表示を見間違え、飲料水を燃料タンクにぶち込んだ間抜けな新兵のおかげで、百五十ミリ自走榴弾砲が立ち往生するという事態に陥った事さえある――もっともそのおかげで、彼のいた小隊は敵の待ち伏せによる全滅をまぬがれたのだったが。



 司令部を出ると、来た時の喧騒はぬぐったように消え失せ、軍楽隊も既にどこかへ姿を消していた。閑散としてただ戦時につきものの緊張感だけがそこに残っている。歩哨の兵たちに無言で敬礼を返し、二人は敷地を出ようとしてほぼ同時に立ち止まった。

 

 重力ブロックに広がる各種のレクリエーション施設群が目に入る。クルベはにわかに空腹を覚えた――次の予定まで、二時間ほどある。


「クルベ中尉。食事でもご一緒にいかが?」


 驚いたことに、タカムラ大尉の方から声をかけてきた。

 

「夜には司令主催の会食があるけれど……それまでは持たないでしょう?」


「そうですね。マンスレック軍医からも通常食の許可が出てますし……しかしここでどんなものが食えますかね」

 宇宙ステーションに贅沢を楽しむ余地はあまりない。軌道上に持ちこむ物資は先ず酸素、続いて水と相場が決まっている。


「とにかく行ってみましょう」


 クルベにも異存はない。二人は少し足早に司令部前を離れた。食料と酸素の供給を助けるために設置された水気耕法プラントが、通路の対岸に広がっている。

 

 目に心地よいその緑を背景に、奇妙な人影が歩いているのにクルベは気づいた。女のようだが、体の線が出るぴったりした服――というよりはむしろ水着めいたものに身を包んでいる。


 頭には耳元から側頭部までを覆う、ヘッドセット様の物を装着している。髪の毛はあきらかに自然に存在しない、薄く明るいエメラルドグリーン――それが後頭部へ向かって涙滴形に撫でつけられているのがわかった。


 袖を引っ張られるのを感じて、クルベは振り返った。タカムラ大尉が苦笑している。我知らず足を止めてまじまじと凝視していたらしい。

「見るのは初めて? 慰安用のセクサロイドよ、あれは」


「あれが?」


 地球にいたときも噂くらいは耳にしていた。地上に比べて男女比が著しく偏り、各人に殆ど余暇が生じない宇宙勤務では、性欲処理のために精巧なアンドロイドが使われているのだ、と。だが――


「まさか基地内をあんな風に歩き回ってるモノだとは、知りませんでしたよ」


「ふつうは想像しないでしょうね。でも軍では使用者の満足度を考慮して、歩き回っている『彼女』たちに口頭やメールで予約を入れるシステムにしているの」 


 タカムラ大尉は冷ややかに微笑んだ。 

「興味があるなら試してみれば?」


「いや、特に」


 クルベにとっては歩いていようと個室に保管されていようと、どちらでもよかった。彼の嗜好として、生身の人間以外はそうした対象ではないのだ。

 だが、道路の反対側を軽やかに歩き去っていくその人工物は、何かひどく鮮やかで幻想的な印象を彼の中に残した。


「ツダヌマ・プレミアムあたりの製品かな……日系企業の匂いがしますよ、あのデザイン」


「そうかもね」


 それ以上話題にすることは流石にためらわれ、二人は無言で歩を進めた。レクリエーション施設の間を歩いていく二人の鼻孔を、油じみた独特の匂いがくすぐるまでは。

 

「この匂いは……」

 視線を上げた先に、信じがたいものがあった。

 

 『天丼屋・菜種なたね

 

 暖簾を模して濃紺で塗られた看板に、毛筆書体の白い文字が踊っていたのだ。クルベの喉がぐびりと鳴った。

「天丼だと……!?」


 つい数日前、医療センターで目覚めたときのことを思い出す。


 ――大盛りの天丼が食いたい。


 クルベの第一声はそれだった。だが、二十日近くを栄養点滴でしのいだ彼の消化器には、その時点では天丼の摂取は暴挙だった。重湯から徐々にならしてようやく昨日からまともに物を食えるようになったところなのだ。


「ここがいい。タカムラ大尉、ここにしましょう」


「ずいぶん御執心のようね。マンスレック軍医から聞かされたけど」


「プロフェッションの自覚があるのか、あの先生は」

 治療中の患者の妄言を他人に言いふらすとは。だが毒づきながらもクルベの肩は既に店の軒先をくぐっていた。

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