同行二人

 手ひどいショックを受けたクルベは、危うくその何者かを後ろへ蹴倒し、船外に飛び出すところだった。

 だが、幸いにして訓練がパニックを押さえ込んでくれた。そして、ヘルメットの後頭部になにか硬いものが軽く触れた感触がした。


〈落ち着きなさい〉


 女の声がした。


 その言葉とは裏腹に、すでに喉から飛び出しそうだった彼の心臓はさらに悲惨な事になった。早鐘のようにドキドキと拍動して、まるで落ち着いてくれない。

 脈絡もなく、ハイスクールの頃憧れだったニッポン語古文の女教師を思い出していた。


〈命綱無しで出る気だったの? 帰ってこれなくなるわよ〉


(何だって……)


 慌てて自分の気密服と、腰周りの装備品を再確認する。

 事実だ。モジュールの事ばかり気にしていたせいで、彼は船外作業時に必ず着用が義務付けられている救命ケーブルを、腰のフックにセットしていなかった。

 そう気が付いた瞬間から、ハッチの外の宇宙空間は、果てしない奈落へと続く底なしの虚空へと変貌した。

 クルベはやにわに落下の恐怖にとりつかれて身をよじった。フックの件については後でじっくりと反省する必要がある! ……生きて火星にたどり着ければの話ではあるが。


〈普通なら懲罰ものね。でも今はそんなことを取りざたするのはやめましょう……この船は衝突の際、船体に加わった運動モーメントの影響で、変則的な回転をしながら漂流しています。その影響を受けたままうかつに船を離れれば――〉


「……宇宙に投げ出されるわけか」


 闇の奥へゆっくりと回転しながら遠ざかっていく船を、手がかりもなく虚無の中に浮かんだままで見送る自分の姿を脳裏に浮かべ、クルベはぞっとして身を震わせた。


「で……あんたは何者だ?」


 ハッチを閉じ、船内へと向き直って目の前の女を見る――記憶にない顔だ。


 出航間際にねじ込まれた便乗客である彼には、乗船に際して乗組員全員との顔合わせの場は特に設けられなかった。

 そして十八時間交代の当直には正規乗組員六人のローテーションがしっかり組まれていて、宇宙艦艇の操縦にはほとんど素人の砲兵将校に求められる事と言えば、手狭な船内で邪魔にならないように、おとなしくしている事ぐらいだった。


 それでもここまでの航行中に、あらかたの乗組員とは顔を合わせていたはずなのだが――


 一口に言えば、とびきりの美女だった。

 緑がかったブルーの瞳とプラチナブロンド、抜けるような肌の白さはいわゆるスラブ系の特徴を現しているが、鼻や顎の骨格に見られる幼さとも取れるラインの甘さは、いくらか東洋人の血を引いている事を窺わせる。


 誰何に対する女の返答は、それを裏付けるものだった。


〈私は内惑星統合軍艦隊所属、マユミ・タカムラ・ロバチェフスキー。階級は大尉。第17機甲師団所属の軌道砲兵輸送艦『ヴィクトリクス』に着任するため、火星へ向かう途中でした。この艦では便乗客という事になります〉


「なるほど」


 便乗客なら彼と同様、ボストンの指揮系統からは外れている。稀有な偶然だが、これまで顔を合わせなかったのも全くあり得ないという話ではない。


 ――そして先任か。


 クルベはため息を漏らした。どうやら救助されるまで、この蜂蜜菓子のような美女の指揮下に入らざるを得ないらしい。

 一階級とはいえ、軍の中では歴然とした差がある。部隊の充足率などにも左右されるが、彼のような中尉クラスの士官が指揮するのは、普通中隊規模までだ。大尉クラスであればその一つ上の規模の部隊を指揮することになる。

 ましてや艦隊所属の大尉と言えば、小型艦や特殊任務艦一隻をまるごと任されるのが通例だ。十九世紀以前の表現で言えば海尉艦長コマンダーと呼称されるポストにあたる。当然ながら、宇宙での行動は向こうが専門だ。


「軌道砲兵中尉、リョウ・クルベであります。自分もこの『ボストン』に便乗し、第17機甲師団へと配属される途上でありました」


 タカムラ大尉の形の良い唇が、かすかに失笑の形に歪んだ。


〈変わり身が早いのね。結構です、クルベ中尉。現在の状況を解決するまで、私の指揮下に入ることを命じます。ところで、私の気密服は通信機のバッテリーが消耗してしまっているのだけれど、どこかに予備はないかしら?〉


「あります。酸素ボンベといっしょに、ロッカーに確保しておきましたから」


 この間ずっと、お互いのヘルメットは振動による接触通話のために、まるで情熱的なキスシーンでも演じているかのようにくっついたままだった。


 ロッカーへと移動しながら、クルベはやや苦々しい気持ちを抑えられなかった。マユミ・タカムラ・ロバチェフスキーは美人に違いないが、クルベがあまり好きでないタイプの女性だ。

 階級だけでなく女性としての魅力も指揮下の人員を掌握する武器として使う――それ自体は別に悪い事ではない。だが、苦手だ。


(まあいい。今だけだ)

 運良く火星にたどり着けたら、砲兵である彼は輸送艦自体の指揮系統からは自由になれる。タカムラ大尉をいつまでも直接に上位者として仰ぐ事はないのだ。


 そう割り切れば、ちょっとした社交を持つだけの余裕は生まれてきた。


「タカムラ大尉。ニッポン語はおできになりますか?」


〈できるわ……名前を聞いてそんな気はしたけど、中尉は日系なの?〉

 タカムラ大尉は驚きとかすかな喜びをともなった、興奮気味の声で問い返して来た。


「ええ、日系です」

 その時点で二人の会話は、21世紀末に消滅して久しい極東の小国ニッポンの、古い言語だけに切り替わっていた。


「ひい爺さんの代まで、ナガノに住んでいたそうです。自分はニッポンの土を踏んだ事はありませんが」


〈そう……私の祖母も日本人だったそうよ。生まれた家はカザンにあったけど〉


「カザンですか……」


 その歴史あるロシアの古都は、数年前に外惑星からの巨大砲弾の落下で、名前だけを記憶にとどめるクレーターになっている。マユミ・タカムラの表情を明らかに曇らせたことに、クルベは少しだけ良心の呵責を覚えてしまっていた。


         * * * * * * *


 二人は手分けして船内を捜索し、手に入れた役に立ちそうなものを整理していった。航法プログラムや天文データを保存した量子ディスク数枚、通信機器の予備部品、各種のケーブルとコネクター類、低凝集性の特殊ハンダに燃料電池など。


「こっちの輸液パックは何かしら?」


 メディカルルームで発見した輸液パックの正体が、さし当たっての懸案だった。不運な事に気密服の糧食供給チューブに適合する食料は、衝突物体がちぎり取っていった区画にそのほとんどが集積されていたのだ。 

 艦内備品のデータベースも端末が破壊されていて役に立たない。なんとか正規乗組員の個室から古風な書類挟みを見つけ出して、参謀本部で書類を見慣れていたクルベがそちらを調べることになった。酸素の残量がつまるところ彼らの残り時間だ。ぐずぐずしてはいられない。


「わかりました、大尉。こっちが電解質液、こっちが糖類です」


「それは心強いわね」


 タカムラ大尉がしみじみと答える。救助されるまでに飢えや渇きで息も絶え絶えになるのは願い下げ、といった声音だった。


「もっといいものが見つかりましたよ。この錠剤――こいつは代謝抑制剤ハイバネイターです」


 十二錠単位でヒートシール包装されたその小さな白い錠剤は、人体をごく低い活動レベルの状態に移行させるものだ。

 いわば軽い冬眠状態に置くことで、酸素の消費や細胞の活動、心臓の拍動などを低下させ、不慮の事故などに際して、傷病者を設備の整った場所まで移送するまでの時間稼ぎに使う。


「これを使えば、酸素の残量をギリギリまで伸ばす事ができます。水溶性かどうかわかりませんが、最悪でも懸濁液にしてやればパックの輸液に側管で混入できる」


 気密服には緊急時の救命措置などのため、手首血管に設けられたシャントを通して各種薬剤を投与するコネクターが組み込まれている。

 もともとは長時間使用するための物ではないから、これで栄養点滴や代謝抑制剤を使う事になると、身体は相応に深刻な障害をきたす事だろうが――生還してから考えればいいことだ。


「火星軌道までの間、交代で休眠状態に入るわけね」

 タカムラ大尉は力強く頷いた


 計画はおおよその形を整えつつあった。

 各種ディスクとケーブル類、工具類を船外作業用の資材トレーに載せ命綱に繋留したうえで、二人は改めて後部のカーゴコンテナ・ブロックへのエアロックをくぐった。


 船尾方向へと伸びるガイドケーブルに、トレーの側面についたフックを掛け、ゆっくりと押し出していくと、行く手にようやく目指すものが現れた。


 トラス構造をもった金属骨組みのコンテナ枠に固定され、梱包材に覆われた巨大な物体。オービットガンナー・モジュール『センチュリオン』だ。


 白い塗装の施された特殊樹脂製キャップの下に、デリケートなセンサー群と幾重にも対宇宙線シールドの施されたコックピットが収められた部分――人間で言えば上半身が位置している。少し離れた所には、主兵装として使用される二十五メートルほどのレールガンが固縛されていた。


 気密服に装着した推進器を注意深く噴射し、二人は一機のモジュールの上に取り付いた。

 樹脂キャップを注意書きに従って爆砕、撤去し、梱包材を少し取り除いてハッチ開閉のための空間を確保すると、トレーから下ろした荷物をコンテナの枠内へ持ち込んだ。


「思ったとおりだ。複座になってます」


 最新器材であるセンチュリオンは、受領後に訓練を行う事も考慮して、複座での運用が可能なだけの余裕を機体にもたせてあるのだ。


「単座だったらぞっとしなかったわね」

 タカムラ大尉の声はわずかに震えて聞こえた。


 確かに。二機ものモジュールを並列でボストンのドライブに接続する手間も、互いの顔も見えぬままでコクピットに座って救助されるまでの――もしくは虚空のただなかで最後の酸素を消費して死ぬまでの――長い時間を過すやりきれなさも、できればごめんこうむりたい。


「航法コンピューターの調整はどうします?」


「私がやるわ。もともと航法士から始めたから――」


「了解です、接続ケーブルを見てきますよ」


 クルベはコンピューターをタカムラ大尉に任せて機外へ回り、センチュリオンの腰後ろの部分を検分した。 その箇所にはモジュールの運用条件に合わせて使用する各種オプションを接続するための、ハードポイントとコネクター群があるのだ。


 まもなく彼は目的のものを発見した。南極での訓練の間に、モジュールのことは隅々まで頭に叩き込んであった。

 低温環境適応訓練の合間に読みふけったのはひとつ旧型にあたる量産機、『クルセイダー』のマニュアルだったが、手堅い設計で評価の高いルビコン社らしく、クルセイダーで覚えた事はあらかたセンチュリオンにも適用できる。 

 コネクタの規格は少々異なるものだったが、付属機材のコンテナを開けて中を物色すると、丁度良く手ごろなアダプターが見つかった。


 いつも純正品が使えるとは限らないからこれはあって当然の物なのだが、ボストンの制御系をセンチュリオンのそれで代替する見通しが明るくなったことは、クルベを有頂天にさせた。


(独占企業万歳だ、今ばかりはな!)


 その後、約二時間を作業に費やしてなんとかボストンのVASIMR比推力可変プラズマドライブをセンチュリオンと接続する事に成功した。

 ボンベの酸素残量がかなり少なかったのでクルベはいったんロッカーに戻り、予備のボンベ数本と輸液パックや代謝抑制剤を新たなトレーに載せて、タカムラ大尉のところへ向かった。

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