軌道砲兵ガンフリント

冴吹稔

プロローグ:遥かなる遷移軌道(Transition orbit)

輸送艦ボストン、遭難す

 リョウ・クルベ中尉は緊急警報の音で目を覚ました。数秒の間混乱したが、どうにか自分の置かれた状況を思い出した。 

 ここは地球から火星へ向かう輸送艦『ボストン』の船内だ。狭苦しい居住ブロックの中で割り当てられた更に狭苦しいベッドに、体を固縛して仮眠をとっていた――それで間違いない。軌道ステーション『トリポリ』を発っておよそ一千時間。行程の三分の二程度を消化したところ。


 警報音は急速に小さくなっていく。だがどこからか不気味に響くシューシューという音と、鼓膜が内側から膨れ上がる際の頭がキンキンする感じは、そのトーンダウンが決して事態の沈静化を表すものではない、という事実を告げていた。


 それに、まるで雲の中に突っ込んだような、視界を奪うこの白い水蒸気――


(減圧だ……なんてこった、このふねの中は真空に近づきつつある!!)


 『宇宙艦内での就寝時には気密服を着用の事』という偏執狂じみた軍規にも、今ばかりは感謝するしかない。ヘルメットはさすがに脱いでいたが、すぐ枕元に置いてある。

 生命維持装置の酸素残量は二時間分。はなはだ心許ないが、予備のボンベはどこかで調達できるだろう。

 各部のシーリングを確認しながら慎重に、しかし手早くヘルメットを着ける。緊急時にパニックになることなく落ちついた状態で事に当たれるのは、まぎれもなくこれまで受けてきた訓練の成果だと実感できた。

 

 このクラスの輸送艦の構造図を頭の中に描く――個室はそれぞれ通路からドアで隔てられているだけだが、居住ブロックその物は本来、独立に気密が保たれ与圧されている。

 にもかかわらず減圧しているということは、居住ブロックのどこかに穴があいているのだ。うかつに通路に出ては空気と一緒に艦外へ排出される恐れがあった。

 

 警報音と水蒸気が完全に消えるのを待って、クルベはドアを手動で開放した。


(案の定だ……)


 二十メートルほどの通路の奥、操艦ブロックに通じるエアロックのドアが外力で大きく歪み、へしゃげていた。その亀裂の周りには居住区から吸い出された雑多なものが寄り集まっている。


 艦は現在慣性状態にあるらしく、無重力状態になっていた。通路内を漂うようにゆっくり移動して、歪んだエアロックの外を覗き見た。

 

 そこには――何もなかった。


 もう一度、ボストンの概念図を思い浮かべる。

 百八十メートル級の船体。その進行方向最先端には、旧時代に使われたスペースシャトルの機首を大型にしたような、曲線で構成された操艦ブロックがある。

 その後ろには居住ブロック、積荷カーゴコンテナブロック、核融合ジェネレーター及びプラズマ推進機ドライブからなる機関部の順に続いている。操艦ブロックが消失した今、ジェネレーターとドライブは制御を失い緊急停止しているはずだ。


 このままでは宇宙の孤児――いや、チリだ。

 ここから最寄の宇宙軍基地といえば火星駐留部隊のそれぐらいしかない。『ボストン』のVASIMR比推力可変プラズマドライブでもおおよそ二十日強の行程を要する。

 悪いことに、火星の衛星軌道に乗るための軌道修正タイミングはこのずっと後だ。慣性任せでは辿りつけない。

 それに操艦ブロックの消失状況を考えると、どうやら何か大質量の物体――隕石か、もしくは敵が撃ちおろしてくる砲弾と斜めに交差する形で衝突したらしい。そのベクトルが加わっているとすれば、もはや『ボストン』の行く手は、いずことも知れぬ闇の中でしかない。


 火星に着いたところで退屈で過酷な軍務が待っているだけだろうが、クルベはこんな所で死ぬのはいやだった。なんとしても生き延びたい。

 酸素の予備ボンベは居住区外れのロッカールームにあるはずだ。ありったけのボンベをかき集めて――

 

(かき集めて、どうする?)

 名案などそうそう思い付くものでもない。どうする、と自問を繰り返しながら彼は通路を進んだ。

 

 幸いなことにロッカールームはまだ、気密が保持され空気が残っていた。気密服の酸素ボンベを新品に付け替えると、クルベ中尉はほんの十分ほどヘルメットを外し、窒息の恐怖と閉塞感に痛めつけられた神経を休めた。

 

 ゆっくりと呼吸をしながら、次第に浮かんできたアイデアを検討する。

 

(そう言えばこの艦にはオービットガンナー・モジュールが積んであったな……)

 

 オービットガンナー・モジュール――それは主に衛星軌道上で運用される、巨大な人型兵器だ。もともとはステーション建設など宇宙での作業に用いられる、資材牽引艇や作業ポッドの類から発展した。

 

 『ボストン』には、ルビコン社の最新型モジュールである『センチュリオン』が四機、保守用器材や補給物資と共に積みこまれている。起動キーは気密服の小物ケースに収めて常時携帯しているから、コンテナのロックを解けばいつでも動かせる。

  

(とはいえ、あれセンチュリオンで火星まで行くのは現状では無理だ……)

 現状では、だ。実際には全く不可能というわけでもない。モジュールの前身は要するに小型宇宙船なのだ。

 だが推力や燃料搭載量にいささか力不足の感がある。そして何よりも足りないものは、火星までの行程をナビゲートする航法管制システム、これに尽きる。

 

「何か方法はないか……?」

 

 南極での訓練中に受けた座学の内容をもう一度さらう。モジュール『センチュリオン』は、新型とはいえ整備性や補給の利便もあって、もっぱら既存の技術と既成のパーツでごく手堅くまとめられている、と聞かされた。

 そしてモジュールの前身が宇宙船である以上、機体をコントロールするメインコンピューター・システムには、最低限の空間航行プログラムを扱えるだけのキャパシティが残してあるはずなのだ。

 

 船内を探索する必要があった。軍のマニュアルが遵守されているのなら、たとえ操艦ブロックが消し飛んでしまっても、まだどこかに予備のプログラムディスクが保管されている。天文データのバックアップもだ。

 それらをセンチュリオンにぶち込む。あとは何とか『ボストン』のVASIMR比推力可変プラズマドライブを、モジュールからコントロールできさえすれば。

 操艦ブロックからは機関部を遠隔制御するため、長大な通信ケーブルが延びている。モジュールの制御システムをそこに割り込ませるのだ。


 無謀な賭けだし、実現するための作業は膨大なものだ。だが、望みはある。

 

(よし。やってやる。うまくいけばセンチュリオン四機を失うことなく、火星へたどり着けるかもしれん)


 再びヘルメットを注意深く装着する。ボンベから流れ込む酸素分圧たっぷりの気体エアーを心地よく味わいながら、クルベはカーゴコンテナの並ぶ船体中央部へのハッチに手をかけた。ヘルメットの中に彼自身の呼吸音だけが、ひどく鮮明に響く。


 まずはモジュールの検分からだ。宇宙の闇に白く浮かぶ「ボストン」の船体を足の下に見ながら一歩踏み出し――


 次の瞬間、彼は何者かに手首を後ろから掴まれた。

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