「好き好きダイスキ愛してる」
1
炎がぱちんとはじけるのを、あたしは黙ってみていた。
見上げると、彼女がいつもと少しも違わない表情で微笑んでいる。その彼女の胸は真っ赤に染まっていた。それを意に介さないように、あたしを彼女は抱き締める。――いつもより、力が弱い。それでも、残る感覚の全てをあたしに投げかけるように、彼女は私を抱き締めた。
これは夢。あたしは、それを知っている。
それでも何度も、その夢をなぞるように、彼女の胸にすがる。
猫は人間の名前を覚えない。だから、あたしにとっても、彼女はあたしにとって『彼女』でしかない。彼女があたしの、黒い毛を撫でる。その這う指が、あたしに安堵をくれる。
一番大切な彼女。それ以外はただの人間。それんがあたしの認識だった。
「マリア、ごめんね」
彼女の声がか細い。
「マリアは一緒に行けない」
今まで何人もの人間があたしを抱き締めて、無言で去っていった。それとなんら変わらないのに、私はすがる目で彼女を見た。痛覚が彼女の体をむしばんでいるはずなのに、彼女はにこりと笑顔をもらす。とびきり優しくて、とびきりあたしの好きな笑顔を。あたしは彼女の胸に顔を埋める。すると、彼女の鼓動が少しずつ弱くなっていくのが分かる。
声を彼女に出せたら、聞いていただろう。
「どうして、あたしは行けないの?」
馬鹿だ、と思う。多くの人間はあたしから去っていく。彼女もその一つにしか過ぎないのは分かっている。
あたしはそして、行きたくないと思っている。でも、すがる目で今まさに行こうとしている彼女を見つめる。
彼女になら、あたしは殺されてもかまわない。首をしめられても、きっと彼女と同じように微笑める。母親に刺されても、優しく微笑む彼女のように。
人間って種は馬鹿だ。
どうして、もっと割り切って生活を送れないのか、と思う。血が繋がっていても、あたしからしてみれば、赤の他人でしかない。まして血の繋がらない人は赤の他人の外の他人でしかない。他人であることの何に悩むことがあるだろうか? 押し付けがましい干渉は、害意にしかならない。
それを彼女は理解していた。
それを彼女の後発の母は、理解できなかった。それだけだ。
あたしは、彼女の両親を見る。彼女を殺したと思い、夫を殺し、自分の喉元を貫いた哀れな女性。息絶えた今でも、哄笑を浮かべているように見える。
あたしに力があったら、彼女を守れたんだろうか。-------愚問だ。
あたしはただの猫だ。あたしが牙や爪をむけたところで、ナイフに貫かれてお終いだ。
何度も何度も繰り返した。
何度も何度も見てきた。形は違えど、人があたしから去っていく瞬間を。
でも、今この瞬間は今まで見た何よりも痛い。
あたしの毛を、黒から赤に染めても、あたしはこの瞬間が長く続く事を祈った。――そして、この瞬間は長く続かない。それも知っている。彼女の体温が、少しずつ冷めていく、そのわずかな差をあたしは感じていた。猫は敏感だ。全てにおいて。聡いともずるがしこいとも言われるがそれは人間の評価であって、あたしには関係ない。ただ、今この瞬間、彼女の結末を止めれないのならあたしの感覚を奪ってほしい、と思った。それだけ彼女の残り時間を正確に計測してくれる、あたしの感覚か憎い。
炎がパチンとはじける。火を放ったのは彼女だった。その炎が焼く光景を恍惚とした表情で見ながら、彼女はあたしに囁く。
「一つになれることなんか、どんな生き物でもないのにね」
あたしは耳を傾けた。彼女の息が弱くなる。温度が下がっている。熱気は肌を焼かんばかりなのに。
「灰になれば、一つかもしれないけどね」
呟く。言葉にならない。あたしを見ていない。
炎が踊る。狂ったように。
あたしの後ろで、家の柱の一つが崩れた音がする。
あたしは、それでも身じろぎせず、彼女の言葉の一つ一つを最後まで聞こうとする。本能がそろそろ、あたしに『危険』を警告している。それでも、あたしは動かない。彼女は小さく微笑んで、あたしを下ろした。
「マリア、そろそろ行きなさい」
あたしは……。
「ごめんね、一緒に行けなくて」
その言葉は聞きたくない――。
「元気でね」
あたしは彼女の足元にすり寄ろうとしたが、天井が落ちてくる。バラバラ、とコンクリートや木片が雨のように降ってきて、その道を遮断する。あたしは、それでも彼女に駆け寄ろうとした。
そのあたしの首を掴み――否、噛んで、私は外へ放り出された。あたしは呆然として、自分におきた事態を考える。白猫があたしの前で、厳しい目で見つめていた。
「死ぬ気か、馬鹿」
と白猫は呆れるように言い放つが、その口調には優しさと同情が含有されていた。目の前では、あたしの居場所だった家が、燃え上がっている。火の粉が舞い上がり眩しいほどに、輝いていた。
自殺は人間特有だ。猫のあたしがそんな事をするつもりは無い。無い。無い。
無い――今は否定ができない。
「あの人間は気の毒だったな」
と小さい声で白猫は言った。あたしの目に怒りが宿るのが分かる。
「あなたには関係ない」
「そうだな」
炎は今や、家の全てを包み込み、灰にしていく。彼女の体すらも灰になっていくのみなのだ。所詮、命なんて、その程度ものでしかない。分かっている。分かっている。これが夢なのも分かっている。
人間があたしから去って行く瞬間の一例でしかない。
それも分かっている。
分かっているのに、こんな夢を見る。
あたしは――初めて、この人間の好きなことを自覚した。でも、もうその言葉は言えない。どんなに想いをつのらせても、彼女は炎に抱かれて灰になった。その事実は、どうしても変わらない。
あたしの名前はマリア。彼女がその名前をつけたから、この名を名乗っている。
多くの猫はあたしをそうは呼ばないけど。年月を止めた物の怪、化け猫。畏怖の存在として呼称されるが、その呼び名はあたしの本意じゃない。
あたしの黒い猫である事と人間達の迷信を合わせて、猫達はあたしを「魔女」と呼ぶ。
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