「カミノシマ」

カミノシマ・起動(ブートストラップ)


 風が揺れる。

 髪を撫でる。

 緑がまぶしい。

 鳥のさえずり。

 光がさしこむ。

 優しい眼差し。

 彼はゆっくりと瞼を開いた。頭の中は真っ白だった。

 

 【システム起動・状態良好・初期状態安定・駆動準備確認・信号巡回確認 】

 

 彼女はそんな彼を、優しく見守っていた。木漏れ日の中、うっそうと茂る草木の絨毯の上に何も気にしないように、すわりこみ少年が起きる瞬間を待っていた。彼女の青い目が、銀色の髪が、白い肌が、まるで硝子細工のように美しい。少年は呆然と彼女を見ていた。

 彼女の回りをとりまく動物達。狼がいた。年老いた猫がいた。白い蛇がいた。翼をもった馬がいた。優しい目をした竜がいた。色とりどりの鳥が、枝の上で歌を歌っていた。

 

 【それは夢から覚めた夢、夢を消した夢、夢を抱き締めた夢、貴女が望んだただ一つの夢】

 

 祝福の歌? と少年は思った。


「目覚めたようじゃの、マリア」


 老猫は語る。やや枯れた声で。


「ええ、皆さんに感謝を。やっと私の夢がかないました」


 彼女はにっこりと微笑んだ。本当に嬉しそうに。その表情をみて少年はとても嬉しくなった。この感情は何なんだろう? 考える。これは歓喜。いや回帰? 白い記憶が、濁っていた記憶が、何一つなかった記憶が少しずつ情報を脳裏に形成していく。

 

 【全情報・再構成・再整理・安定率確保】

 

 なんとなく思い出した。マリア――その名前はとてもタイセツ。

 カミノシマ。――ここだ。

 僕は――何だ?

 情報が足りない。ただ、僕の存在が必要な時期になった。それは歓迎すべきことじゃない。決して歓迎すべきことじゃない。喜んでいい事態じゃない。それを脳は警告してくれている。でも、彼女はそれとは無関係に嬉しそうだった。それが少年には理解しがたい。――そして理解している。


 (僕は、マリアとまた会えて、とても嬉しい)


 少年はゆっくりと体を起した。

 マリアはその瞬間、飛びつくように少年に抱きついた。


「え?」


 暖かい。困惑しながらも、少年は抱きしめられるがまま、マリアの温もりを感じていた。見上げた空が青く青く広がる。雲の流れが心無しか早い。いや――速い。速すぎる。その視線の先に気付き、老猫は柔らかく笑んだ。


「再学習じゃの。最終システムは全てを忘れていると思われる」

「分かっていた事です」


 毅然とマリアは、少年から体を離して言う。老猫の見解は間違っている。少年の脳裏にはすでにカミノシマの情報が暴風の如く、流れ込む。


 カミノシマ。


 それはかつてヒト種が繁栄の到達点で生み出した最大の遺産。地上20000マイル遥か遠くに浮かぶ、反重力磁場構成因子集合要素と名付けられた、空飛ぶ島の事を指す。荒廃した地上を再生させるべく、最後の砦として、還元機能を最大限に稼働させている。カミノシマの緑が、砂塵と赤土の大地を、いつの日か緑と青の水で満たされる事を目指した、無人で稼働されている全自動機構である。

 カミノシマにヒト種は存在しない。

 

 【中核たる聖母マリアよ、古の契りとともに、目覚めた英雄の名前を呼ばれることを】

 

 鳥が歌った。羽ばたくたびに、純白の羽根が舞う。

 

 【空に浮かぶ最後の砦】

 【白銀の騎士は眠りから覚めて】

 【神々の黄昏は遠い古の、愚かな夢と消えいく】

 【目覚めた芽を守るがために】

 【ただそれだけを託した世界の選択 我等の選択】

 

「心得ています」


 マリアはそっと少年の頬を撫でた。そして宙に指で弧を描く。まるで硝子を打ち鳴らすような透明な音が鳴り、その度に指先が虹色に輝く。光は雨のような粒子となり、少年へと降り注いだ。


「貴方の名前はネロです」

 とマリアはにっこりと笑った。傍観者達はその儀式に畏怖して見入った。

 

 【認証確認】

 

 老猫は小さく息をついた。


 ヒト種ではない、ヒト種の姿をしたカミノシマの中核システムは非常に人間くさい。それが彼女の長所であり短所である。本来なら大地を再生させる事が目的の中核システムと、防衛ラインである最終システム。彼らに感情というものは不必要のはずだ。だが開発者達は限りなく、彼らに可能な限りの多階層心理ルーチンを組み込んだ。ただし、彼らの稼働目的を害さない程度に。だがそれも意味は無いと老猫は思う。カミノシマの惑星再生という目的はすでにはたしている。すでに自己再生治癒能力を自然は手にするにいたった。


 有史を語られなくなって千年。カミノシマの特殊延命装置の働きによって今まで、その経緯を記録してきた老猫もさすがに疲弊は隠せない。十三回目の最終システムの起動。愚かは繰り返される。きっとヒト種が絶えるまで。ヒト種は貪欲だ。千年で文明の復興と発展を可能にした。それで満足しておけ、と老描は声もなく漏らすもそれで事態がかわるはずがない。


 皮肉かもしれない。

 ヒト種に傷跡をつけられたこの星。


 首を絞めるように、絶滅の危機に陥ったヒト種。

 そのヒト種が残した、自然再生装置――カミノシマ。


 それを守ってきた中核たるマリア。


 有史を忘却したヒト種が、古の技術欲しさに天空へと上ってくる。

 その有史が記した、暴君の名が最終システムにはつけられた。


 紀元37年12月15日に生誕したティベリウス=クラディウス=ネロ=ドルスス=ゲルマニクスという名の皇帝がいた。暴君と評され、没後には名君と叫ばれた、才気の青年。無垢な最終システムの目には、そぐわない感じがするが、最終システムはその呼び名とは関係なく、カミノシマを防衛する使命がある。


 だが――。

 そのカミノシマを守ることに何の意義があるのか?


 老描は疲れすぎて、その答えを出すことはできなかった。

 

 

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