10
兄上様。
ぱたぱたとお転婆ぶりを発揮して、この国の王位継承者が駆けてくる。この国の王位は常に女性だった。男児は騎士となり、国を守る勇士となる。彼はその騎士を率いる将軍となる未来が待っている。
しかし、彼女と彼の約束はどんな時も『彼女を守る』というものだった。彼はその約束を騎士儀礼にのっとり宣誓し、彼女も又、その若い騎士に幸運と武運の象徴である白い百合を贈った。そして交わした接吻はあまりにも幼かったが、秘めた感情の中で根づいた気持ちは、確かに本物だった。
兄上様。
つい今し方、同盟国の姫君との婚儀を拒絶した彼に彼女はぷぅっ、とむくれた表情をする。幼い嫉妬だ。何度も断ったと説明しても彼女の気持ちは晴れないのは、その姫が絶世の美人として名高いからに他ならない。
彼は近くに兵士が誰もいない事を確認して、抱きしめた。
約束。
国が滅んでも守る。
約束。
滅んでも。
約束。
彼女の小さな体の温もりが、体に染み込むのを感じた。
目を開ける。そこに見慣れた顔がいて、彼は驚く。
「おはよう」
と聡一はのんびりとした声で、彼の体を撫でた。白い毛が、ふわっと飛んだ。
「これは……」
と声に出して、人間の言語が口から飛び出て驚く。聡一もまた目を丸くしたが、たいして気にはしていないようだった。彼はむくっと起き上がる。背伸びをする。萌の部屋じゃない? と窓から焼け落ちた家を見て、聡一を見る。
「萌の心配なら無用さ、大丈夫。生きているよ」
と聡一は本に目を落としながら
「家があんな状態だから、一家で押し掛けているよ」
彼はくすっと笑った。あの家族らしい、と言うか。たくましい、と言うか。それを許容する聡一の両親もまた変わり者と言うか、心が広いというか。その点は聡一も苦笑しながら、認めた。
「萌なら今、買い物に行ってるよ。そのうち、帰ってくるけど?」
「……それはいいとして、骸はどうした?」
「さぁ」
と肩をすくめる。
「俺が見たのはアイツが灰になって消えたぐらいだからね」
「──何で、骸が消えて俺がいる! 何で俺だけ生きている! 本来ならアイツの力が消えて、俺も消えるはずだ。時間のルールを無視した俺が、ここに居ていいはずはないんだ!」
突然の咆哮に聡一は驚くが、すぐに優しい目で彼を抱き上げた。
「萌が見ていた過去の記憶を俺も夢で見た。大変だったじゃないか、ここらへんで楽になってもいいだろ?」
「楽になるとかそういうも問題じゃ──」
「萌に何度も言った事なんだけどね、必要の無い存在ってのは無いんだよ」
優しく撫でる。
「ここに存在すれば、それは意味がある」
彼は小さく笑った。その目から少し涙が流れた。小さな雫。しかしその重たさを知る事は聡一にはできない。
「萌は俺の事は?」
「知らないはずだ、夢だと思っているから」
と彼を降ろす。
「あの後、すぐ眠りに落ちてしまってね」
「そうか」
彼は聡一の膝の上に乗った。小さなため息。
聡一は言葉をかけない。
言葉が必要無い時もある。無言で全て通じていた。言葉にするには、彼の歩いてきた時間は膨大すぎて、言葉にするには聡一の生きた時間は短すぎた。
本をめくる音。
静寂。
そしてそれを破る、萌の元気な声と階段を駆け上がってくる音。やかましいくらいだ。
聡一と彼──ルルは、目を丸くして、そして笑った。
「聡一! ただいまっ!」
と入るなり、聡一の膝から飛び降りたルルを踏みつぶす。悲鳴とも絶叫ともとれない声をルルはあげ、萌は慌てる。ルルは悶絶し、聡一は苦笑し、萌はルルが起きた事を喜び、ぎゅっと抱きしめた。
ゆっくりと一つ一つ、言葉をルルに伝える。ルルが目を覚ましたら、一番最初に言おうとした事を。
「お兄ちゃん、お帰り」
ルルは目を点にし、そして聡一を睨んだ。聡一は声を殺して笑っている。忌々しげに鼻を鳴らそうとしたが、かわりに出たのは、照れの混じった、たった一言だった。
「ただいま」
そして100万回一緒の物語は最後の平凡な時代で幕を開けた。
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