9
全てを失った彼は呆然と立ち尽くした。瓦礫だけがそこにある。彼だけが生きていた。悪魔のように帝国兵を切り捨てた彼。血に染まった剣は、刃がこぼれ鋭利さを失っている。目には生きる意志も無い。彼女は死んだ。せめて帝国兵と相討ちにでもなれば気も晴れたであろうが、幸い、彼は生きてしまっていた。
彼女のいない世界で生きる意味を彼は感じれなかった。
「よく生き残ったものだ」
黒衣の男がいつのまにか立っていた。
「強運の持ち主よ、騎士殿」
この時代、多くの魔女や魔術師が存在した。多くは博識であり、国王貴族に助言を与え、平和を好んだ。黒衣は禁忌をおかした方術者の証。夜しか外出を許されず、術の行使も許されない。しかし国そのものが消えた今、そのルールは無意味だった。
「何の用だ」
殺意むき出しで彼は睨む。男は楽しげにその殺意を受け止めた。
「たいした事ではない。御主の力になりたいと思ってな」
「不要だ。もう何も必要ない」
「もう一度、彼女に巡り合えるとしてもか」
顔をあげる。手がかすかにピクンと動き、瞬速で剣を突く。男はよける事もせず、指を鳴らした。男の体が一瞬で消え、彼の正面に姿をあらわす。
「冗談で言ってるのではない。聞くだけ聞いたほうが御主のためにもなる」
「…………」
「よろしい。一回しか言わん、よく聞け。異教徒の信仰に輪廻転生というものがある。死んだ後も別の生命に生まれ変わるという思想だ。その前世で縁のあった人とは後世でも逢える、というわけだ。ご都合主義だが、実践してみたくないか?」
「人生まれれば、必ず死はある。たかが人間にそれをなせるはずもない」
彼は背を向けた。
「それは神への冒涜だ」
「冒涜なんか関係ないな。お前は彼女が大切だった。理由はそれで事足りるだろうが?」
「…………」
「決めろ。イエスかノーだ」
彼は剣をおさめた。瓦礫を見下ろし、眠っている彼女に思いを馳せる。そして静かに決断を下した。
「イエスだ」
そこにルルの姿はなく、ただ一人の男が立っていた。
「馬鹿な」
黒衣の男は困惑した。剣を引き抜き、炎を霧散させた彼はまぎれもなく、夢の中で出てきた萌の騎士だ。聡一はますます事情がのみこめず、混乱した。だが少しずつ整理し憶測し、分かりかけてきた事もある。この炎の匂いだ。あの夢のあの炎に似ている。
憎悪。悲哀。血。涙。絶望。全てがこめられたような炎。
「
と彼は男の名を呼んだ。ビクンと骸は、彼を見る。
「お前はずっとそのつもりだったんだな?」
ぱちん。はじける炎。彼もまた、その炎の匂いに気付いていた。
彼の祖国を焼いた炎。そもそも小国とは言え、ああも簡単に攻め入られた理由が分からない。国境にも警備の兵は配置され、そう簡単に侵入を許すはずがなかった。あえて考えられるとすれば、密通者がおり、内部事情を売り渡していたというのは有り得る。そして王城に近い南側国境は警備がやや手薄であった。ローマ帝国とは正反対であるが、周辺はローマと同盟国やローマ領となった国が多い。移動は容易い。
骸は萌を抱きしめたまま、にんまりと笑う。
「随分と気付くのに時間がかかったな」
哄笑。可笑しげに、笑いを吐く。狂気がその顔に彩られるのを聡一は見た。
「彼女は私の愛を拒絶した」
骸は漆黒の目で過去を思い返す。彼女は言った。私の心に貴方は永遠に映りません。では、と骸は怒りに身をまかせて問う。貴女の心に映る人間とは誰だ? 彼女は答える。貴方はその呪いで私の愛する人を殺すでしょう。呪われたの両眼がそれを告げています。骸は唇を噛みしめ、言葉を飲み込んだ。貴女が愛した人間は彼以外に存在しない。答えは簡単だ。あの騎士を消せばいい。
祖国を敵国に売り渡したのは、それだけにすぎない。報酬は姫君その命。
だが、死んだのは彼女本人に他ならなかった。骸は絶望した。そこに絶望した彼がいた。骸の絶望は一つのショーの開幕のために思考を進めた。長く永遠に近い禁断の劇場。時間という名の砂を止めて、回転する生命羅列の流れを無視し、目的の物を奪い取るための壮大な計画。それは一瞬で決まった。
「私はお前を次の時代に転生させた時に、できるだけ彼女とは縁の無い場所と時軸を狙った。だが、お前と彼女は出会い続けた。お前は私を恩人と感謝した。笑えるじゃないか、とても喜劇な瞬間だ。私は彼女が欲しい。ただそれだけなのだ。幸い、お前と彼女は結ばれることなく今にいたっている」
つまらなげに言う。
「何度か、私も彼女との出会いに成功した。この魔力で彼女の心を私に向けようとした。その度に彼女の心は破綻し、壊れた。人間の原形をとどめず、ある彼女は死に、ある彼女は狂った」
「……聡一」
と彼は聡一に囁く。
「萌を守れよ」
「言われなくてもそうする」
「良し。俺はアイツを何とかする」
「できるのか? ルル?」
彼はきょとんとして、そしてぷっと吹きだして笑みをこぼす。
「その名前は本意じゃないが、まぁいい」
剣を骸へと向ける。
「骸、お前の力はすごいな、確かに。こうやって時間をねじ曲げてまで、俺は記憶をもって生きている。だがな、そろそろ曲げれないものもある事を学習した方がいい」
「笑止!」
「あるんだよ。お前は彼女の心を絶対に掴む事はできない。この時代にいる萌は彼女の前世を奥深くにしまってはいるが、彼女じゃない。萌には萌の気持ちがある。それは俺にもどうしようも無い」
「掴んでみせるさ、私の力を全て使ってでもな」
「そして萌の人格を全て崩壊させるつもりか?」
剣先を骸に向けたまま、彼は侮蔑の表情を浮かべた。
「萌の心は聡一に向いている。それは変えようが無い」
「変えるさ、崩壊させても。また探しにいく。それだけの事だ」
萌の手にそっと骸は手を添えた。その手が黒い蒸気をモクモクとあげる。聡一は本能で、その腕に体当たりする。隙をつかれて戸惑うが、すぐに体制を整える。
「お前が先か」
憎悪が聡一を襲う。彼女が愛したもう一人の男。死ね。消えてしまえ。消去法だ、お前達がいなくなれば、彼女は私の傍にいれる。それが最大の幸せだ。彼女もそれを望んでいる。望んで、望んで、望んでいる────。
「押し付けの感情は迷惑だ」
彼は冷静に剣を降り、憎悪を斬る。その目は冷徹に骸を見据える。その手がぴくんと動いた。剣が踊る。骸の反応が遅れた。その一瞬を彼は見過ごさない。萌を抱きしめていた手を彼はためらいもなく切り落とした。
その手首の断面から血が────流れない。
にたっ、と骸は笑った。
死を捨てた者。それはつまり生を捨てた者。切り落とされた手が黒い霧になる。
聡一が萌に駆け寄る。
「無駄なことを」
もう片方の手をかざす。炎が生まれた。ゆらゆらと。憎しみを一点に燃やして。聡一は萌を抱きしめる。その萌がゆっくりと目を開けた。きょとんとした顔で、聡一を見て、そして聡一の胸に自分の顔を埋める。
「萌……?」
「怖い夢、見てたの」
その声が震えていた。「すごく怖かったの」
「コ、ワ…イ?」
骸は弱々しく呟いた。
「骸、この夢を終わりにしようじゃないか」
すでに生きている事は許されないはずの人間。骸の魔術によって生き永らえた彼もまた、罪は同罪である。無為に時間を垂れ流す事は生きていると言えるのか……。少なくともたった一つの安易な理由で逃げた彼に、生きていると言える資格は無い。事実、彼女探していた事を抜かしてしまえば、幽霊以下にしかすぎない。
火が燃え上がる。
(悪夢でもいいさ)
その目に宿る炎は濁って、色を失っている。彼女を手に入れる。悪夢でもいい。炎が踊る。狂ったように駆け回る。哄笑、その骸の体が少しずつ灰になっていくのを聡一は見た。萌は信じられない表情で凝視する。
「聡一、これって……?」
「──ただの夢だ」
「そう、ただの夢だ」
彼は頷いた。
「こんな夢は終わらせよう」
剣を突く。
炎が消え、灰が舞う。断末魔はなかった。萌はその光景をぼっと見ていた。お兄ちゃん? そう言わせたのは誰の記憶なのか。全ては灰になり、消える。かたん、と聡一の足下に落ちた剣が、小さく燃えて、そしてまた消えた。
後には何も残らなかった。
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