5


 静寂の夜が彼は好きだった。むくり、と起き上がる。自分の鼻先には求めていた彼女が幸せそうな顔で寝息をたてていた。


 彼はぴょん、とベットから飛び降りた。

 窓に軽くジャンプして、外を見下ろす。


 電気に埋め尽くされた街は、決して眠る事はない。時代は回るか、とため息をつく。そのため息には複雑な感情か溶け合った。この時代──この国はおおむね、平和だ。無論、この国の中でも犯罪は絶えないし、外では戦争は繰り返されている。技術の進歩と精神の進歩はイコールではない。むしろ全てに感謝する心を忘れているとも言える。それでも、と彼は幸福を噛みしめた。彼女がいる。その事実は何も変えられない。


 たとえ彼女にその気持ちは伝わらなくても。


「…………」


 窓が少しカタンと空き、風が吹き込んだ。一瞬の鋭さ。彼はその風を凝視する。黒い風。微香な甘い匂い。生ではない、しかし死でもない、ある意味では彼と共通の存在。時間がカチンと音をたてて止まる。風は霧になり、霧は夢となり夢は本物となる。そこには黒衣に身を包んだ黒髪の青年がたたずんでいた。瞳のみが紅く、皮膚は完全な漆黒を彩る。間違えば怪物のような造形が、完全に美しい存在に昇華されている。不敵な笑み。空気が震えた。彼は窓から飛び降り、男と対峙する。


「よかったじゃないか、逢えて」


 と微笑んだ。


「長かったな」


 彼はこくりとうなずく。感謝の意を示した。彼に語れる言葉は無い。男は彼を抱き上げた。


「最後の最後で、人間ですらなくなったか」


 と哀れむ。


「猫とは、な。あまりにも酷い仕打ちだ、神よ」


 彼は否定した。彼女の側にいれる。それはかけがえのない至福だ。男はうなずく。このためだけに彼は旅をしてきた。それは分かる。


「しかし破綻する日は来るぞ」


 と体を静かに下ろした。


「お前は絶望する。彼女はやがて、誰かを好きになる」


 彼は彼女の机に飾ってある一枚の写真に目を移す。萌という女の子と聡一という男が笑っている写真。彼女の秘めた感情が確かに誰に向いているのかも、手に取るように分かる。それでも、と彼は言葉にならない言葉で呟いた。彼女を守る。それが騎士宣誓した時から今まで変わらない、不変の約束だ。


「お前の決心がそこまで固いのであれば、何も言うまい」


 と男は黒い風に霧散していく。時間は少しずつ、動き出し、存在そのものが虚ろう。彼はその一秒一秒、目をそらさず見送った。吹き抜ける風。閉まる窓。


 何もなかったかのような、彼女の寝息。寝言が漏れた。一人の男の名前。彼は決していい感情にはなれなかったが、今の彼女にとって一番の大切なもの。それを否定する気もなかった。いささか頼りないが、芯のある男ではあると思う。正直、あの程度の野良犬であれば、彼にとって造作ない事だった。


 ただその中で無謀にも等しいが、身をていして守ってくれた萌の純粋さ。聡一の優しさを感じる。


 息を吐く。

 世の中、上手くいかないものだ。平和だからこその不満に彼は頬を膨らませた。──つもりだったが、可笑しくて笑いがこみあげる。


 彼は騎士だ。軽薄な感情に流されるとは何と弱いことか。守るべきものは一つ。それでいい。気にくわないが、彼女が大切であれば、それも守る。それだけの事だ。感謝しろ、と言ってやりたい。


 ベットにピョンと軽く登り、彼女の顔を見つめた。時間がゆっくりと流れるのを感じる。萌が彼に頬擦りした。寝言。苦笑。やれやれ。ため息がでる。


 彼もまた、目を閉じた。


 ぬくもりが彼の体の疲れを、一つ一つほぐしていく。心地よい眠りが、彼を抱きしめた。


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る