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「ねーちゃんっ!」
と弟が興奮した声で、萌と聡一では無く、純白の猫に興味が集中している。
「どーしたの、それっ!」
「それって物みたく言わないでよ」
と頬を膨らませて濡れた体を撫でた。自分が濡れていることなどすっかり忘れている。弟の俊は受験も終わり、高校入学を控え、毎日家でぐーたら街道まっしぐらである。元々、萌と同じように動物好きなこともあり、暇と相まって興味津々に猫を見ていた。これで母親の家事手伝いでもすれば可愛げもあるが、これぐらいの男の子にそんな殊勝な心がけがあるわけもない。家にいる時は萌と喧嘩するので常で、もはや恒例行事と母親は笑顔で見過ごしている。
聡一はそんないつもの風景に苦笑せずないられなかった。
「あら、聡一さん」
と萌の母まで出てきた。猫に一瞬、固い顔をしたが、全身ずぶ濡れの二人と一匹に困った顔をした。おまけに聡一は手には噛まれたような傷があり、血をにじませている。手には折れた傘。そして萌の腕に抱かれる猫。母はそれで事情を飲み込んだが、あえて何も言わない。
「どうも、途中で萌と会って、でこの有り様なもので」
と笑ってごまかす。
「風邪ひくとまずいしね、僕はともかく」
「すいませんね、聡一さん」
と母は気の毒そうな表情を浮かべる。
「どうぞ、上がって暖かくしていってください」
「いや、その必要は──」
と断ろうとしたが、そこに萌の父まで出てくる。猫におっ? という顔をしたが状況を飲み込み、聡一に上がるように勧める。この状況下で断る事は難しい。聡一は萌に困った表情をして見せる。それもむなしい抵抗でしかないのもまた分かっているのだが。
「聡一、腕の手当てしなきゃ」
「こんなの唾つけとけば直るよ」
「ダメ!」
とむきになる萌。にやにやする弟の俊。心配そうに頬の傷を見上げる母。少し複雑な表情の父。そしてどうでもいいと、欠伸をする猫。諦めの境地か──予想していた展開だが、観念するしかなさそうだ。
「お言葉に甘えさせていただきます」
と渋々、聡一は言った。猫もまた微妙な表情を見せたのは気のせいだったろうか……?
雨は色々な事を考えさせた。
新米高校教師はやることが多い。たまに早く帰っても、どうしても学校の事が頭を占めてしまう。だいたいは順風万風であったが、生徒の抱くそれぞれのハードル。それを安易に無視したくないという想いが聡一にはあった。先輩の教師からすれば、それに関わればきりがない、と笑われるが。
聡一を教師に導いたのは萌だ、と言っても過言ではない。本人に言う必要は無いし、言うつもりも無いのだが、間違いなく萌が聡一を教師という職業につく決定的な要素になってくれたのだ。
誰かのために真摯に考え、相談に乗り、一緒に乗り越えること。
それが教師だ、と聡一は思う。一生懸命の萌に、聡一はいつも教えられる。誰だって最初から何でもできる人間なんかいない。大人は獲得した知識で、何でもできるかのように思う。子供と大人を同等に扱うフシがある。が子供は成長過程であり、大人の理論は子供に適合するはずがない。それでいて子供を頭ごなしに叱り怒鳴る。大人のように扱いながら子供だから、と怒りをあらわにする。その理不尽に挟まれたとき、子供はどう思うのだろうか?
雨の音に混じった犬の唸り声に、聡一は思考を一時中断した。
聡一はゆっくりと顔を上げた。
空き地の真ん中に萌が、黒い犬と睨み合っていた。腕には白い猫を抱えている。傘は空き地にほうり投げてある。聡一は事情を飲み込んだ。あの馬鹿。舌打ちして駆け出す。たかが猫のために体を張るなよ。
「聡一?」
ぱっと萌の顔が輝いた。それと相反するように、犬の唸り声。明らかな敵意で、萌と猫とそして自分を威嚇している。
(勘弁してくれよ)
と冷や汗が流れるのと、犬が跳躍するのは同時だった。
「萌、どけるんだ」
と傘を振り回す。犬はたくみにその防御をくぐりぬけ、聡一の腕に噛みついた。痛みが走るが、唇を噛みしめ我慢する。かまわず、傘を振り回す。犬の爪と牙にすでに裂けてみるも無残だが、関係ない。問題なのは萌を傷つかせない事、戦意喪失にさせる事。その二点だ。動物というのは自分より強い動物には逆らわない。逆を言えば、自分より弱ければ容赦は無い。自分が強いとは思わないが、ここで逃げるわけにもいかない。
(損な性格だなぁ、俺)
と苦笑して、犬を蹴り上げる。犬の悲鳴、戦意がゆらいだ。よし、と思った瞬間、白い影が犬に向かって飛んだ。猫が、犬の鼻腔に爪をたてる。勇敢なヤツだな、とニヤッとする。聡一も遠慮なく、傘で叩きつけた。
犬はきゃんきゃんと悲鳴を上げて、尻尾をまいて逃げ去る。
それに安堵して、聡一は場所も考えず、ぺたんと座り込んだ。今になって痛みが体中をかけめぐるように、聡一を苛む。猫が聡一を見上げた。
──よく戦った。
そう言ってる気がなぜかした。お前のためじゃなくて、萌のためだ。猫にだけ聞こえるように呟く。猫はにゃー、と鳴いたが、分かって鳴いたのかどうかは知らない。たかが猫だ、そんな事まで分かるはずもない。
「聡一」
と萌が泣きそうな顔になっていた。
「ごめんね」
無傷。雨に濡れているが、無傷。聡一に笑顔がこぼれた。いつものように、髪をくしゃくしゃ撫でる。猫がそんな二人を見上げる。萌は泣き顔と安心と照れが、入り交じって、慌てて傘を拾いにいった。
萌は猫を抱き上げ、ごまかすように言う。
「帰ろう?」
「ふーん」
と弟の俊は姉の話しを聞いて、ますますニヤニヤしている。
「なによ?」
と萌は聡一に消毒をしながら、俊を睨む。「言いたい事があるのなら、はっきりと言いなさいよ」
「べーつーにぃー」
と意味深に萌と聡一を見る。あからさまに何か言いたげである。
「姉ちゃん、愛されてるなぁ、と思って」
反撃の一言が出る暇もなく、萌は顔を真っ赤にした。聡一まで喉をつまらせたような顔をする。そんな二人を見て、俊はますます楽しそうに笑った。
「いい加減にしないさい、俊」
とたとしなめたのは、母だ。ちらっと、父の顔を見る。何とも複雑な顔で、聞こえないふりを決めている。新聞を読んだりとわざとらしいが、それが昨日の夕刊である事に全く気付いていない。娘を持つ男親の感情というのは単純すぎるほど分かりやすいのだが、あいにく、萌の父は人が良すぎた。単なる近所づきあいではない聡一に感謝こそすれ、追い出すなんて芸は不可能を百万字書いてもたりない。
「イテッ」
思わず聡一は声を上げた。萌の応急処置はお世辞にも、上手とは言い難いものがある。それでも彼女は彼女なりに一生懸命やってくれているので、それを無下に断れない。そういう意味では聡一と萌の父は似ているかも、と俊は密かに思っていたりする。
「我慢して」
と萌は真剣そのものな表情で、包帯をぎゅっと力任せにしばる。さしずめ、実験動物の絵だね、と俊は思ったが、口に出さなかったのは、自身の保身故に他ならない。
「はい、お終い」
と萌のその言葉に聡一は安堵の表情が浮かんだ。包帯の巻きすぎで、どこを怪我しているのかよく分からないが、彼女なりの一生懸命だ。今日中に病院にさっさと行こう、と聡一は心の中で誓った。
「応急処置だから、すぐ病院に行ってね。狂犬病になったら、大変だもの」
「分かってるよ」
「狂犬病になったら姉さんのせいだね」
「俊!」
じろりと睨む姉の目も今日は怖くないようである。
「ま、男は狂犬病ならぬ狼だからね、聡一さん、こんな姉さんでよければもらっていって。そうじゃないと、結婚は一生無理っぽいし」
「俊!!!」
と結局恒例の姉弟喧嘩が勃発するわけである。冷やかされるのは別にいいが、聡一に向ける萌の父の複雑な視線にどんな顔をしたものか、と悩みたくなる。萌に恋愛感情を特別にもっているわけではいない。かと言ってもっていない、と言えば嘘になる。が、年の差を考えると、そういう考えは頭の奥にしまいこんでしまう。
定時制とは言え現役高校生と新米とは言え高校教師。通っている学校はまるで違うが、学校から父兄からPTA、教育委員会、揚げ句の果てにはマスコミまで、騒ぐ材料にこれほどいい関係も無い。
実際、萌が自分の事をどう思っているのか知らないし、今の曖昧な近所付き合い以上というのも悪くない。ただ小さな頃の萌を知っている身としては、この子の将来への選択を見届けたいというのがある。今回の猫はそういう意味では選択の一つではあるかもしれない。
「で、萌」
と聡一は切り出した。
「その白猫、どうするつもりだ?」
その一言に、一家はしんと静まった。萌は父と母の顔を見る。そして猫をぎゅっ、と抱きしめた。萌は昔から自己主張の少ない子供だった。欲しい物や言いたい事を自分の心の中に押し込んでしまう。もしも今回、父に『猫は飼えない』と言われてしまえば、本音とは別で納得してしまうかもしれない。動物を飼うというのは生半可な気持ちではできない。動物は玩具ではない。ペットと言う名のぬいぐるみではない。それは聡一が勉強を教える合間に、萌に言っていた事の一つだ。捨て犬のニュースを一緒に見ながら、まるで自分が捨てられたかのような表情になった萌。萌は優しすぎる。
聡一は萌の父が聞きずらかった事を率直に聞いた。
萌は白猫を見て、父と母と俊を見て、そしてもう一度、聡一を見る。
「この子を一人になんかできない」
真っすぐな目で、そう言う。
「俺にじゃないよ、萌」
と聡一は優しく微笑む。萌はコクンとうなずいた。
「お父さん、お母さん、私、この子を家族の一員にしたい。だってこの子、独りぼっちだもの。そんな寂しすぎるよ」
「萌」
父は一応、威厳をもってたしなめる。が、今回は萌はひるまなかった。
「動物を飼うって事が簡単じゃないって事は私もよく分かる。聡一にも何度も教えられたから。でも、私はこの子を一人にできない。みんなに迷惑はかけないつもり。だから、この子を……」
猫がにゃー、と鳴いた。聡一には「俺にかまうな」と言っているように見えた。萌はそんな白猫をぎゅっ、と抱きしめる。猫は萌を見上げた。
雨の音が、強くなった。
答えはもう決まっている。意志を出さない子だった萌が、明確な意志を出すようになった。猫よりも父と母はそれで驚いている。聡一はうなずく。いつまでも弱いままの萌じゃない。確実に変わりつつある。そして変わっている。それを目の当たりにして、聡一は素直に嬉しかった。
「分かった」
と父はにっこりと笑った。
「世話は萌がするんだぞ、絶対だからな」
「うん」
本当に嬉しそうに萌は猫を抱きしめる。猫は目を白黒させるが、萌はそのへんはおかまいなしである。
「よかったね、聡一」
「は?」
「怪我が無駄骨にならなくて」
「……はははは」
から笑い。何か報われない感じがする。
「姉ちゃん、名前は何てするの?」
「へへぇ、ずっと考えていたのよ」
と白猫にを抱きしめながら
「ルル。お前はルルだよ」
もう一度、ぎゅっと抱きしめる。俊は猫の後ろ足を覗き込み、
「でも姉ちゃん、こいつオスだよ。つくもの、ついてる────」
皆まで言わないうちに、萌の鉄拳が俊の顎を直撃する。防御する余裕もなく、俊は悶える。
「姉ちゃん、ひどい……」
「俊! 何でそう下品なのよ!!」
「いや、俺は事実をそのまま言っただけだろ、バカ姉!」
「姉にむかって馬鹿とは何よ、性悪!!」
「うるさい、胸無し!」
「……」
時間が凍った。父と聡一は速やかに避難する。まぁ、萌と俊の姉弟喧嘩は毎度の事なのではあるが、間近にいることだけは避けたい。母はすでに知らぬ顔で、台所で夕飯の料理をしている。有る意味では昔の気弱な萌の方が良かったかも知れない、と思う聡一だった。
いつも通りの喧騒が鳴り響く。
聡一はソファーの後ろに隠れながら、萌よって踏まれた白猫を見た。ま、ここに居着くのなら、これも日常茶飯事だ、耐えろ。心から同情しつつ、笑いがこみあげた。猫は慌てて、聡一の所に避難する。
「まぁな、同情するよ」
と苦笑いする聡一に、ルルは恨めしそうににゃーと鳴いた。
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