3


 彼は何度も萌に逢っていた。歴史は回る。回転する。繰り返す。

 萌を探す。萌は憶えていない。


 国が幾つも滅び、人が数えられないほど死に、そしてまた彼も数えきれないほど死んだ。


 くるくるまわる。


 鬼ごっこ?


 魔女裁判の火刑台に縛られる萌を見た時、彼は狂った。群衆のギラギラとした目。彼女は魔女と群衆は罵倒する。本当の魔女を知らない人間の妄想の産物に、彼は怒りすら憶えた。彼の時代に魔女はいた。しかし多くは博識であり、邪悪な力を行使するものではなかった。だが群衆は、萌を魔女とみなした。ペスト。感染病。飢饉。戦争。天変地異。犯罪。野心。不安定。全てを魔女という「でっちあげ」にすることで、人民心理を安定させようとした役人の政策に人々は躍らされていた。


 萌に火刑が実行されようとした瞬間、彼の理性は切れた。


 兵士の剣を奪い、ためらうことなく群衆を血に染めた。兵隊が彼を囲む。しかし止められなかった。女子供が泣いたが、彼には関係なかった。命請いする人間をまず殺した。つい今まで萌を殺すことに何の疑問も浮かばない人間に容赦することはない。狂った理性はそう囁いた。


 魔女の下僕だ、と誰かが叫んだ。捕まえろと、誰が言う。その前にお前ら死ぬだろ、と彼は笑う。魔女を殺せ、と悲鳴が上がる。火がくべられる。彼は狂った。殺す、みんな殺す。剣を握る力が強くなる。その感情にあるのは憎しみしかなかった。


 ぱちぱちと火は燃える。焦燥感と嫌悪感。流血。悲鳴。憎悪。恐怖。


 だが、彼女の一言が全てを止めた。優しい──でも、ひんやりとした、寂しそうな声。


「もうやめてください」


 彼の手から剣がぽろり、と落ちた。


「人か死ぬのはもうたくさんです」


 微笑をたたえ、苦痛の顔を見せることなく彼女は焼かれた。それを彼はただ見つめることしかできなかった。魔女だから痛みを感じないんだ、と誰かがご高説を披露した。背中に激痛が走った。腹まで貫通した槍先。だが痛みも群衆も、彼にはもう見えていなかった。


 彼女が燃えた。


 モウタクサンデス。


 その言葉の時だけ、彼女は彼を思い出してくれた気がした。


 時間は進む。さらに進む。


 激痛と苦痛の生。無駄な命を繰り返し、彼は彷徨う。ただ彼女に会いたいというそれだけのために。


 「本能寺の変」


 東の蛮国で、彼女と彼は出会った。

 時は戦国時代、縦に長い小国の覇権を争い、武将達が争乱を繰り返す時代。血は流れ、陰謀が渦巻き、弱き人々が死んでいく時代。その時代に彼は立っていた。


 尾張のうつけと嘲笑された戦国大名が主君だった。彼女を探すことだけが唯一の希望とらえていた彼に、すでに廃れた騎士道精神のかわりに根強くこの国に残る武士道が、彼に力を与えた。騎士道のようなか弱きを守る、という精神は無い。が忠義につくし、志を貫く。それはまさに、騎士道のそれと同じだった。


「死してなお志を貫く」


 死ぬ事は生きるモノに如何程のモノを残せるか。悔いなく、朽ちる事なく。その理の中で命の炎を燃やせるか。久々に生きた感触を取り戻した気分になった。


 主君はその言葉以上の魅力を携えていた。「うつけ」と「阿呆」と言われながら、その裏で的確な思考の元に駒を進める采配の優。「冷徹」とも「残忍」とも言われる兵法の中には、どれだけ戦を早く終わらせるか、という意味合いもこめられていた。それはつまり、どれだけ血を流さずに戦争をするか、ということである。


「天下統一、まさにうつけに相応しい夢ではないか」


 酒をあおりながら、彼はニッと笑う。月に杯を掲げる。奥方は黙ってそんな主君を微笑し、彼は杯をぐっとあおる。主君の嬉しそうな顔はまるで子どものようだ。忠実な臣下はがそんな主君を咎めるが、主君は「猿」と臣下を馬鹿にしてはまた笑う。ふくれる家臣を彼がフォローする。最後には奥方の笑みで、全てが丸くおさまる。


 そんな生活に、彼は初めて充足を感じた。


 偶然と幸運は重なる。彼は彼女と出会ってしまった。彼女は国の茶屋で戦の脅威を見せることなく、快活な笑顔でみんなを癒していた。たまたま「猿」に紹介されてだったのだが、彼はその子が彼女であると一目で分かった。忘れるはずがない。彼女のためだけに、彼は今まで生きてきたのだから。


 野盗に襲われそうになった彼女を助けた時、それは確信に変わった。助太刀してくれた「猿」には目もくれず、彼だけを見つめる彼女。歯車と歯車がカチリと音をたてて、重なり合う感触を感じた。冷やかし半分の「猿」の言葉が妙にむず痒く、赤面したが、初めて大切なものを全て取り戻した気がした。──が、それは錯覚だ。


 彼女は口にも表情にも出さないが、彼に恋心を抱いてくれていた。その気持ちに気付きながら、再び手に入れた主君と理想と守るべきものに、本当の言葉をだせずにいた。


 天正十年六月二日。

 前夜。


 彼と彼女は茶を飲み交わしていた。静かに流れる時間。彼は静かに呟いた。


「殿が天下統一を成すときこそが、俺達の祝言になるんだ」


 彼は何一つ疑わない目で、彼女にそう言った。国をめぐる戦ほど愚かなものは無い。その事を彼は学習していたはずなのに、今の彼は目の前の野心しか見れていなかった。それで自分達の国が滅んだことも彼は忘れていた。彼女の悲しげな表情な意味にも気付かなかった。


「私は貴方が好きですけど」


 微笑は今にも壊れそうだった。


「戦は嫌いです」


「戦は終わる。殿の天下統一で」


 彼女は微笑んだ。お茶を差し出す。彼はそれをゆっくりと飲み干す。デモ、彼女は目で呟いていた。アナタガシネバ、スベテオワッテシマウノデスヨ? その言葉が届かないことを彼女は理解していた。だから、精一杯の微笑みを浮かべ、彼を送った。

 あの時、と思う。もしかすると、彼女は彼の記憶を思い出していたのかも知れない。


 火炎に焼かれる本能寺で、彼は自嘲気味に笑んだ。彼の足下には自刃した主君。介錯したのは彼だった。帰るという約束は果たせなかった。可笑しい。笑える。刀を振り回す。炎。また炎? お前は、俺の全てを焼くんだな? 狂ったように哄笑。炎が全てを焼いた。


 彼は死んだ。そして死ななかった。


 記憶だけを持ち、進み続ける時間を通り過ぎた。

 戦争は常に、彼に悲しみと虚無を与え続けた。


 二度目の世界大戦を彼は呆然と見ていた。彼は詩を綴る浮浪者であり、世界の動向にすでに興味はなかった。 ナチス? ユダヤ?


 無意味な単語だ。


 酒を飲み干す。黄ばんだ紙に詩を書き記す。多くは歴史の裏側を書いた叙事詩であり、残りは彼が生まれた国に伝わる伝説だった。その伝説を話すことを彼女は望み、彼はその要望に答えた。が、彼女が一番喜んだのは、彼が経験した冒険の数々だった。彼女はそれをうっとりと聞いた。お気に入りは黒龍討伐。理性と知性を失った暴走龍を討伐することを国王は命じ、多くの騎士と多くの魔女、多くの義勇兵がそれに参加した。それは彼一人の手柄ではないのに、彼女はまるで彼一人の活躍のように言う。彼はそれに赤面したが、彼女は不思議そうな顔をした。


 そして言う。


「私を守ってくださいね、かの龍を征伐した時のように」


 無力感が心を占めた。


 雨。霧。彼は紙が濡れないように、懐にしまう。この町は騒がしい。彼は憂ういの目で空を見上げる。ドイツの負けはすでに決定している。たった一国の侵略に待っている答えは一つしかない。大帝国の亀裂である。がドイツの無謀な侵略には亀裂どころか、すでに断裂ができている。無意味な思想で民衆は沸き上がっている。


 これが時がたてば、ドイツ国民は愚かな先導者を罵倒する図が目に見える。それは中国に侵攻を続ける日本も同じこと。所詮戦争は、己が祖国の首をしめる諸刃の剣でしかない。権力者は一時の栄華に酔う。しかし歴史はその悪い酔いをほぼ永遠的に、書き記す。人類が滅びる日そのまで。


 彼の生がどれだけ続くか、分からない。無力感と挫折感に阻まれるが、諦めだけは自分の口から出したくなかった。彼女は彼の希望だ。今まで出会えた。それは偶然ではないと信じている。


 どん、と小さな女の子が彼とぶっかり──振り返る暇もなく、逃げていく。

 その表情に凍りつくような恐怖があった。


 (とくん)


 彼の心臓がはじけた。その彼女を追いかける制服の男達。ゲシュタポ。俗に言う国家秘密警察である。ユダヤ人やマルクス主義者をその歪んだ国家理想の元に弾圧する。その情報源は基本的に密告であり、人間の仄暗い底辺を刺激させては、弾圧を加速させる一方だった。


 あの子もユダヤか、可哀想に。と思った。それだけで歩き出そうとした。自分は何もできない。あの子は死ぬ。強制収容所で毒ガス兵器の実験材料となるのがおちか。殴り殺されるか。強姦されるか。この否理性的な情勢では誰もどうする事はできない。騎士道精神は当の昔に死んだ。ここではか弱き者を守るルールは無い。


 だが──警告。奥底に眠る記憶の彼女の笑顔と今の少女の脅えた表情が重なる。

 (まさか?)


 と思ったときには、彼は行動をうつしていた。まさか? ──その偶然が何度あった? 彼は金持ちが路上駐車していた新式の車に飛び乗る。上流紳士の罵声と貴婦人の悲痛な悲鳴が聞こえたが、彼はそれを無視しエンジンをかける。19世紀、20世紀の人類の科学は進歩と言うよりも、進化と言うほうがふさわしい。


 たった200年の間に、見聞だけではどうにもならない知識の差ができてしまっている。彼は古い時代の人間であり、機械というものに抵抗を感じだが、これからも先彼女を探す旅を続けるのであれば、悪魔の技術とも思える科学にも正面から付き合わなければならない。彼はその勉強を嫌々ながらも怠らなかった。


(馬のいらない時代か)


 この排気ガスだけを出す醜い鉄塊には嫌悪感しか抱けない。が、時代は変わる。所詮はそれだけの問題か。


 アクセルを踏み込んだ。


 不機嫌な音をたてて、車は排気ガスをたっぷりとまき散らして、スピードを上げる。その悪臭を浴びせられた持ち主は不快の罵声を、卑猥な言葉で並べるが彼に聞こえるはずもない。


(急げ)


 行く先は山の上の強制収容所だ。少女の足で逃げ切れるはずもない。すでに捕獲されているのは目に見えていた。収容所に連れていかれる前に彼女を取り戻す。


 すでに老いた体には、いささか無理な難問だが、それで諦めるわけにはいかなかった。


 アクセルを踏み込む。車は悲痛な音を上げて加速する。


 その前を走る車があった。座席に男達に挟まれている少女が目につく。ゲシュタポ達は、ちらりと後ろを見たが、嘲笑をたたえたのみでさらに加速させる。彼は拳銃を取り出した。タイヤを狙うが、不安定な走行で照準が定まらない。弾丸は軌道をそれて、宙を撃ったのみであった。


 ゲシュタポの一人が、彼の車めがけて発砲する。


 鋭い音が耳を貫き、彼の視界は宙を舞った。見事にタイヤを射撃され、木へと突進していく。衝撃が彼を麻痺させる。が、怪我には至っていない。精神力のみで車から這い上がり、駆ける。強制収容所まで後2メートル。入れさせるか。銃を連射するが、全て外れた。車は強制収容所の中に滑り込むように入り、そして門はあっさりと固く閉ざされた。


 弾丸のなくなった銃を捨て、膝をつく。


 (そんな──)


 雨がぽつりと、彼の体を打った。小さく、それはは次第に強く。激しく。

 閉ざされた門と堅く厚い壁面。

 彼に絶望と言う楔を打ち込むには、それは充分すぎた。


 

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