第17話 十七日目 二ヶ所巡礼

 翌日は、あまり早いと迷惑になるかという思いもあり、それに余っ程せっついているのかと思われるのが何となく恥ずかしく癪でもあって、午前九時まではじっと我慢をすることにした。

 南斗君の言っていた『いくらなんでも明日になれば、親父も携帯電話を返すでしょうから』という言葉に期待を寄せながら。

 九時を過ぎてから、満を持して北瑠の携帯に電話をしてみる。しかし何度電話をしても、答えは同じだった。

「おかけになった電話は電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないためかかりません」

 このままずっと北瑠と連絡が取れなくな ってしまうのだろうか。言い知れぬ不安に襲われて、俺は思わず身震いをしてしまう。

 午後二時までは安アパートで粘ってみたが、結局答えは同じだった。

 部屋の中で繋がらない携帯電話と睨めっこをしていると、何故か落ち着かない気分になってくる。

 いつも一人で快適に過ごしていたアパートのはずなのに、この居心地の悪さはいったいどういうことなのだろうか。何かイライラと、いやムカムカと今までにないような異常な精神状態になってしまう。いてもたってもいられなくなり、俺は思わず外へと飛び出してしまった。

 アパートを飛び出してしまうと、俺の行先はビッグドリームしかない。今まで俺は、自分のアパートをそれなりに評価していた。『狭くても汚くても、一番心安らぐ俺だけの城』と。

 しかしビッグドリームは、そんな独りよがりで孤独な城ではなかった。自分は決して一人ではないのだということが実感できる、あたたかな人の愛に満ち溢れている。

 北瑠がいなくなって初めて気付いたのだが、マスターとトモちゃんは、俺と北瑠の事をマリア様ように優しく見守ってくれていた。別にキリスト様でもブッダ様でもアッラーの神様でも良いのだけれど。

 短期間ながら俺と北瑠、そしてトモちゃんとついでのマスターとの心の絆を育んでくれたビッグドリームは、俺達にとっての聖地と言える。

 俺はその聖地に、巡礼者のようにうつむきながら、とぼとぼと歩いて向かっていた。途中には、例の公園がある。その中にあるベンチは、北瑠と俺が初めて出会ったメモリアルスポットなのだ。

 その思い出のベンチの上には楠らしき大きな木が、桜の季節も過ぎて更に色濃くなった緑の葉を、まるで廂のように覆いかぶせていた。そして相変わらず、人々に涼しげなスペースを提供してくれている。しかし今は利用者もなく、意味もなくそよ風が吹いていて、やけにさびしげに感じられた。

 北瑠とここで出会ってからは、俺も何故かこのベンチに落ち着いて座って、作品の構想をあれこれ練ることはなかった。北瑠への講義の為に、作品の構想をゆっくりと練るゆとりが無かったせいでもあるのだが……。

 それなのにこのベンチを見る度に、不思議と心切なくなってしまうのである。ノスタルジーを感じるとか、センチメンタルになってしまうとか、そういうありきたりの言葉では言い尽くせない、複雑な感情が渦巻いてしまうのだ。ここも俺達二人にとっては何よりも代えがたく、思い出深い聖地となっていた。

 言い訳をする訳じゃないけれど、聖地は一つに限るという法律はないはずだ。二つあっても三つでも四つでも五つでも構わないと思う。ビッグドリームとこのベンチは、それほど俺にとって、そして多分北瑠にとっても外せない大切な場所になっている。

 二つ目の聖地を後にすると、俺は一つ目の聖地へと向かった。順番は逆だけど。

 お遍路さんは、四国八十八ケ所の霊場を巡るそうだが、俺の場合、二ヶ所ですむので、お手軽といえばお手軽である。二ヶ所巡礼……少し有難味には欠けるのだけれど。

「文豪さん。北瑠ちゃんとは連絡が取れたのですか?」

 マリア様が心配そうな顔で俺を迎えてくれた。

「それがトモちゃん……まだ電源が切れたままなんだ」

「文豪、なんで北瑠ちゃんの田舎の住所を訊いておかなかったんだ」

 口髭をはやしたキリスト様は、俺を詰るように吠えている。

「マスター。俺だってまさか北瑠が急にいなくなるなんて、思ってもいなかったんですよ」

 そう言い訳をしながら、俺は無意識で指定席に座っていた。そして目の前の席に、誰もいないことを未だに信じることができずにいる。

 今にも、あの屈託のない笑顔が、店の入り口から飛び込んでくるような気がしてならない。

 そして俺の前の席に座ると、捨て猫のように儚げな表情をしたり、裁判官のような冷めた表情をしたり、豚のように可愛くホッペを思いっきり膨らませたり、いたずらっ子のようにペロリと舌を出してはにかんでみたり、ビー玉のような大粒の涙をボロボロと降らせたり……。

 誰もいないはずなのに、そんな残像が見えるような気がしてならないのである。

 トモちゃんが横からそっとコーヒーを差し出してくれた。マスターもカウンターの奥で、腕組みをしたまま小さく頷いている。

 今の三人には、言葉はいらなかった。そこにいるはずもない人の姿を、三人三様に眺めているのだ。俺のつたない講義を真面目に真剣に聞いている、健気で一途で一生懸命な北瑠の姿を。

 三人がそんなセピア色の世界に浸っている中、突然俺の携帯が、けたたましく鳴りだした。携帯画面を見て、北瑠からの着信メールと分かった。

 俺の心臓が、早鐘のように暴走しだす。

「文豪さん。北瑠ちゃんからなの? 何て言ってきているの?」

「文豪、早く開けてみろ。何が書いてあるんだ」

 二人に急かされてメールを開くと、そこには極短い文章があった。

『先生。私は諦めませんから。必ず戻りますから』

 北瑠らしい少しピントのずれた言い回しだった。何だか懐かしく感じてしまう。

 そんな短い文章を読むのに、俺は相当の時間を費やしてしまった。いや、読むのに時間がかかったというのではなく、何度も何度も読み返してしまったのだ。

 携帯画面から目を外す事ができずに、固まったままの俺に焦れて、トモちゃんと マスターが横から覗きこんでくる。

「北瑠ちゃん、戻ってくるのね……」

 メールを覗きこんだトモちゃんは、少しだけ安心したように呟いた。

「文豪。すぐに電話をかけろ」

「そうよ、文豪さん。今なら電話も繋がるはずよ」

 そうか、メールが来たということは、北瑠の手元に携帯があるということなんだ。

 俺は、昨日から何度もかけ続けていた発信履歴から、北瑠の電話番号を震える指先で押した。そして耳元に携帯をあてがう。

「おかけになった電話は、電波の届かない場所にあるか電源が入っていないためかかりません」

 抑揚のないメッセージが虚しく流れてくる。

 何の感情も含まれないロボット音声が、俺には腹立たしくてならなかった。そして携帯を耳に押し宛てたまま、茫然となって目だけをマスターとトモちゃんに泳がせる。メールを見たことで期待が大きかっただけに、激しい喪失感に襲われたのだ。

「マスター……トモちゃん……繋がらないよ……」

 携帯を手に、固まったままそう答える。

「何でなの? 全然、訳がわかんない」

 トモちゃんは、この状況に頭を抱え込むようにして絶望感を漂わせていた。

「文豪……こういうのをミステリーっていうのか」

 マスターまで、そんな答えようのない質問をしてくる。

 そんなの、俺にだって訳が分らないよ。いくらミステリーでも謎のヒント位はあるはずだけど、それもなく全てが謎のままで終わるミステリーなんて聞いた事もない。誰か分かる人がいたら、頼むから俺にも教えてほしい。

 このメールが届いた後、何度も何度も北瑠の携帯に電話をかけ続けた。夜になってビッグドリームから俺の安アパートへ帰ってからも。それこそバッテリーが切れても尚、充電をしながら何度も何度も。

 今度こそは北瑠が出てくれるんじゃないか。いや次こそは……繋がらない携帯を手に、そんな期待をしながら電話をかけ続ける。しかし結果は同じだった。

 期待を裏切られる度に、不安といら立ちと焦燥感と訳の分らない恐怖を覚えて、怯えてしまう自分がいた。このままずっと連絡が取れず、ついには迷宮入りしてしまうのではないかと。

 さすがに夜中に電話をすることについて、常識人を自負する俺は控えることにした。そのせいで悶々として眠れぬ夜を過ごすはめになってしまった。かけたくてもかけられないというジレンマを抱えながら。

 本来なら、こういう眠れない夜を執筆活動に宛がえば、遅筆も少しは解消できるのかも知れないのだけれど……しかし今の俺は、とてもそんな気分にはなれなかった。特に恋愛小説は。ましてコメディ小説や官能小説など、もっての他な気分である。

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