第16話 十六日目 南斗くん
翌日も、午前中一杯を執筆活動に集中した。執筆のストックは前日に使い果たしていたので、アイデアや文章は新たに考え出さなくてはならない。
遅筆な俺だが北瑠への講義が始まる午後二時頃までには、何とか合計で五〇枚程度には――あくまで四百字詰原稿用紙換算で――しておきたかった。師匠が弟子より少ない執筆量という訳にはいかないからな。
気がつくと、いつの間にかお昼を回っていた。朝からなれない執筆活動――小説家のはずなのに――に熱中していたせいなのか、珍しく時の立つのを忘れていた。
俺はワナビに相応しい昼食を取るために、数あるコレクションの中からトンコツ味を選択する。たまにはコッテリもいいかと思って。
午後二時少し前、計算通りビッグドリームに入った。時間には遅れず、それでいて北瑠もすでに到着し、トモちゃんやマスターも俺の来るのを今や遅しと待ちかまえている。そんな自分勝手な状況を想定していた。
入口で、三人の視線を一斉に浴びることを期待しながら指定席を見る。しかし、そこには想定していた北瑠ではなく、見知らぬ青年がこっちを向いて座っていた。
「文豪さん。さっきから『本田さんに会いたい』と言って、待っているのですよ」
トモちゃんが、直ぐに近寄ってきて、俺にそっと耳打ちをしてくれた。
その青年は、俺に気付いたらしく、その場で立ち上がると軽く頭を下げて、会釈をしてくる。
全く見ず知らずの青年だったが、白い歯を控えめに覗かせながらの笑顔に、何故か好感を持ってしまった。それになかなか礼儀正しそうでもある。
「本田さんですか? 初めまして。俺、冬咲北瑠の弟で、冬咲南斗といいます」
えっ、北瑠の弟? 道理で好感を持ってしまうはずだ。そういえばどことなく似ているところが無い訳でもない。でも弟なのに北瑠よりも落ち着いて見えるのは、いったいどういう訳だ。姉を反面教師とした結果なのか。
「本田です。よろしく。でも北瑠ではなく、君が来たのは何か事情があったのですか?」
そうなんだ。本来は北瑠がいるはずなのに、北瑠がいなくて代わりに弟が来ているのは、何か訳があるはずだ……事故なのか、病気なのか……俺はいやな予感がして、悪い方に悪い方にと考えてしまう。
「実は、昨日姉が発作を起こしまして……」
やっぱり病気だったのか。
「えっ、発作?」
「いえ、大した事はないのですが、とりあえず、病院で様子を見ているところです」
「どこの病院ですか?」
「それは……親父から堅く口止めをされているので」
何か込み入った事情がありそうだ。
俺は北瑠の弟である南斗君に、いったいどういうことなのか、教えてくれるようにお願いをした。
病院名こそ明かさなかったものの、これまでの事情については北瑠から依頼されていたのか、少しずつ話してくれた。
南斗君の話では、北瑠が大学を卒業して就職浪人になってしまった時、両親はすぐに田舎へ帰ってくるよう強く求めていたとのこと。しかし、北瑠は小説家の先生に就いて、小説家を目指すといって、断固拒否して帰らなかった。あまりにも突拍子もない話なので、最初は北瑠が、嘘を言っているのかと思ったようだ。
北瑠は、元々軽度の心臓病で――何やら難しい病名を南斗君は言っていたが、医学的知識のない俺にはさっぱり分からない――普段から疲れやすい体質の為、親としては離れて一人暮らしをさせるのが心配でならなかったという。
難しい病名のわりには、ハードな運動さえしなければ、疲れやすいという以外に日常生活での支障はあまり無いらしい。それでも親として目が離せないという気持ちは、俺も分からなくはない。今の一人暮らしも、大学を卒業するまでとの条件付きで、渋々許していたということだ。
どうやら就職が決まらなかったのも、多少この持病が影響しているらしい。まあ、身の丈に合わない大企業を、高望みしていたというきらいもあったようだが。大企業ほど社員の健康状態に関して、過敏で厳しいのはいうまでもない。
どう言っても帰ってこない娘を心配した両親は、『これはきっと悪い男に騙されているからだ』と勝手に決めつけてしまい、何が何でも連れ戻さなければと思い詰めていたという。そういう事情もあって今回は、実力行使で有無を言わせずに連れて帰ることを、北瑠に内緒で画策していたらしい。
昨日、そのことで家族会議が開かれ、その言い争いの最中に北瑠が、発作を起こして倒れてしまったというのだ。
すぐに病院に連れて行ったので、大事にはいたらず今はもう落ち着いていて、病院で様子を見ているとのこと。
北瑠は病院に入るとき、両親に携帯電話を取り上げられてしまったので、俺に連絡することができず、両親よりはまだ話の分かる弟の南斗君に、ビッグドリームに行くよう、お願いをしたというのだ。
これで、だいたいの事情は呑み込めた。どうやら俺は『悪い男』にされてしまっているようだ。
「それで、病院名はどうしても教えてくれないんだね」
「本田さんが悪い人じゃないのは、会ってみてわかりました。でも親父と約束してしまっているので。それに今から病院に行っても、もう居ないと思います」
「えっ、それは、どういうことですか?」
「親父が、何があっても今日連れて帰るって息巻いていたので。ワンルームマンションもすでに解約して、引越し業者が荷物を運び出しているはずです」
「えっ、もうそこまで手回ししているの?」
「親父は来る前からそのつもりで、周到に準備をしていましたから」
あまりにも突然な別れに、俺の頭の中は北極の大氷原のように、寒々しく真っ白になってしまった。いったい俺はどうすればいいのだろう。ホワイトアウトしまった頭では、何も見えず何も考えられず、ただおろおろと途方にくれるだけだった。
北瑠の小説家になりたいという夢は、まだ始まったばかりである。俺も教えながら、北瑠がどんな恋愛小説を書くのか、とても楽しみだった。それが、書き始めた途端に潰えてしまうとは。俺たちの恋愛小説は、結末を見ずに終わってしまうのだろうか?
全身から、肌にネットリと絡みつくような嫌な汗がにじみ出る。
「本田さん。姉には明日電話してやってください。いくらなんでも明日になれば、親父も携帯電話を返すでしょうから」
南斗君は途方にくれている俺を見かねたのか、最後に希望を繋ぐ言葉を残して帰って行った。
『明日電話してやって下さい』とは言われたが、とても明日まで待ちきれず、俺は南斗君が出て行ったすぐあとに電話をかけてみる。しかし、予想通り電源は切られていた。念のため、もう一度かけなおしてみるが同じだった。やはり明日まで待たなければならないのか。
携帯が繋がらないことを確認した後、俺は南斗君の後をつければ何か手掛かりが得られるのではないかと思いつき、ビッグドリームを飛び出した。しかし、その時にはすでに南斗君の姿はなく、後をつけることもできなかった。
いったい俺は何をしているのだろうか。全てが後手後手になっている。
もう一度ビッグドリームに戻ると、マスターとトモちゃんが、心痛な面持ちで俺を見ていた。俺を心配してというよりも、北瑠ともう会えないのかも知れないという不安と悲しみをその表情からは読み取れる。そう思うのは俺の僻み根性なのか、それとも俺自身がそう思っているせいなのか。
「文豪、大変なことになったな……」
マスターは自身の無念さを、俺への同情に被せて言った。
「文豪さん。北瑠ちゃん、どうなっちゃうの?」
トモちゃんはすでに、目に涙を一杯にたたえ、決壊寸前である。なんのかんのといいながらトモちゃんは、北瑠の事を実の妹のように可愛がっていたのだ。
マスターも俺もトモちゃんも北瑠も、最早他人ではない。いやある意味、家族以上かも知れない。北瑠はこの短期間にそれほどの絆を、俺たちの心の中に築いていた。
「マスター、トモちゃん。俺は諦めませんから。北瑠を立派な小説家にしてみせますから」
俺自身、何を言っているのか分からない。こんな訳の分らないことを言っているようじゃ、北瑠と変わらないな。人間パニックになったら、自分でも何を言っているのか分からなくなってしまう。要は、北瑠の師匠を卒業するつもりはないということを言いたいだけだ。誰にいくらどれだけ卒業勧告をされようとも。
その日は結局、北瑠と連絡を取ることができず無為に過ぎていった。メールも送ってはみたが、電源が入っていないので当然なしのつぶてであった。
夕方遅くに俺は、狭くて汚いアパートの一室にへと戻る。そして何もわからず何も進展しないままに、俺は一人悶々として過ごしていた。
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