第18話 十八日目 第三の聖地

 夜中は眠れずにいた俺だが、朝方から急に眠気が差して、いつの間にか少しウトウトとしてしまっていた。二十代なら一日位の完徹は全然平気だったのだが、さすがに三十路では――しかも二日目ともなると、かなりきついものがある。

 うたた寝をしながらも、何か騒然とした雰囲気に気が付いて目を覚ます。外がいつもと違ってざわついていた。部屋の中から察するに、複数の人が階段と廊下を行ったり来たりしているように感じられる。どうやら引越しの荷物を運んでいるように思われた。

 長い間、空家となっていた右隣の部屋がようやく決まって、荷物を運んでいるところなのだろう。

 どんな人が来るのかは分らないけれど、左隣の人と同じく滅多に顔を合わせることもないかと思う。現代社会のドライな隣人関係からすれば、たとえ昭和の匂いのするような古くて汚いアパートでも、昔の人情はとっくに廃れてしまっていた。

 どんな人なのかという興味はないが、あまり変な人じゃないことだけは願っている。隣人が変な人だと最悪だからな。

 俺がそんなたわいもないことを考えているうちに、表が急に静かになってしまった。どうやら隣の引越しは、一時間足らずで終わってしまったらしい。あまり荷物が多くなかったのかも知れないが……1DKに入る荷物なんて、知れているといえば知れているのだけどね。

 引越しの終わってしまった隣人のことは置いておくとして、そろそろ繋がらない電話に再チャレンジしようかと思っていると、部屋のドアを激しく叩く音がした。

「ドン! ドン! ドン!」

 やばい、やっぱり隣は変な人だったのか? それでもこれだけ激しく叩かれると、居留守を使うというわけにもいかない。仕方なく俺は鍵をはずしてドアを開ける。すると突然その人が部屋に飛び込んできた。

「先生。お待たせしました」

「北瑠……どうしてここに……」

 そこには、あの屈託のない笑顔があった。

「ビックリしました? 先生。隣に引っ越してきちゃいました」

 そういうと、ペロリと舌を出し、少しはにかんだ顔をする。

 いったいこれは、どうなっているのだ。俺はまだ昨日と同じように、北瑠の残像を見ているのだろうか。それにしては鮮明すぎるような気もするが。

「北瑠……悪いが俺にも分かるように、このミステリーを解読してくれないか」

 俺はもう降参だった。とてもミステリー作家にはなれない。そのジャンルは封印するから、このミステリーを解明してほしい。

 白旗を掲げた俺に北瑠は、得意満面な様子で説明をし始める。しかしこのドヤ顔だけは、さすがに正直なところ少々憎たらしくなった。

 北瑠の話を要約するとこうなる。

 一昨日、田舎へ連れ帰られる途中、車の中で北瑠は、必死で両親の説得を試みたという。その時、弟の南斗君が強力に味方してくれたらしい。『本田さんに会ってみて、とても良い人だと思った。だから任せても大丈夫』と。

 それでも最初は、猛反対していた両親だが、家に帰り着く前には、北瑠の我儘をなんとか許してくれたらしい。

 そこで引越し業者には幾許かの割り増し料金を支払って、荷物をトラックに積んだまま預かってもらい――時期外れだからこそできたことだと思われる――昨日、俺のアパート近くの賃貸物件を一生懸命に探したという。

 そして、俺の右隣の部屋が丁度空部屋になっていることが分かり、速攻で決めて引越し業者には今朝荷物を運んでもらったというのだ。

 なんとも無茶なことをするやつだ。

「ところで昨日、北瑠が俺にメールをくれたのは?」

「あっ、あれですか? 実は引越し先が決まった時に、それだけは何か暗示をしておこうと思って」

「暗示って? いったいどういうことだよ。それにその後、何度電話しても全然繋がらなかったし」

「電話にでてしまったら、全然サプライズにならないじゃないですか」

「なんでサプライズにする必要があるんだよ」

「だって、トモちゃんだったら、絶対にそうしていると思ったんです」

 それを聞いて、俺は愕然となった。誇張ではなく、その場でへなへなと座り込んでしまうほどに。

 この二日間、俺は生きた心地もしなかったのに、単に北瑠がトモちゃんの影響を受けて、その真似をして、俺を驚かせようとしていただけだったとは。どんなヘボなミステリーでもこんな落ちは無いはずだ。

 あれだけ北瑠のことを心配して眠れずにいた俺の心労は、いったい何だったのか。しかも二日間も。体力の限界をとっくに通り越している。今の俺は、北瑠の事を想う気力だけの存在だった。俺の気力は、体力を僅かに上回っていたのだ。

 気がつけば俺たちはまだ、玄関の土間にいた。これでは、落ち着いた話はできないと思い、一先ず北瑠を中へと招き入れる。招き入れるといっても、狭い部屋での行先は限られていた。そう、あの古くて小さなやぐら炬燵に。もちろん北瑠専用の、ふかふか座布団も取り出して。

 久しぶりに俺たちは、その神聖な教場で向かい合って座った――そうか、考えてみるとここも俺達二人にとっては聖地だったな。第三の。

「でも、北瑠はどうして両親の反対を押し切ってまで、ここに戻ってこようと思ったんだい?」

 北瑠が戻ってきたという嬉しさと、それを正面から表現できない照れくささと、反面、両親の心配や病気のこと、そして小説家という棘の道へ連れて行くという後ろめたさなどが、心の中で複雑に渦巻いていた。その疑心暗鬼から俺は、そんなどうでも良いような質問を投げかけてしまったのである。

「先生、それを私に言わせるのですか?」

 俺の質問に対して北瑠は、ややムッとした感じで不機嫌そうな顔をする。

「いや……単に素朴な疑問なんだけど……」

 どうして不機嫌になったのか、俺には全く理解することができなかった。最大限北瑠の事を心配して、発した質問のつもりだったのだが。

「だって、私……せっかく先生の弟子にしてもらったのに、まだ小説家にもなっていないし……」

 北瑠は俯いて、そんなことを何かぶちぶちと呟いていた。そして、その後急に顔をあげると、あの猫のような大きな目で俺の目を真っすぐに見返しながら、大きな声で宣言をする。まるで俺に対して、宣戦布告をするかのように。

「それに、先生と私の恋愛小説は、まだ完結していませんから。先生、もう逃げられませんよ」

 またまた北瑠節の炸裂だ。それもメガトン級の。俺にとっては強烈なインパクトだった。この北瑠節に、いつも悩まされ振り回されてしまうのだ。

 でも、もう逃げたりはしない。何故なら俺はたった今、一生北瑠に振り回され続ける事を覚悟したのだから。

 この神聖な第三の聖地で。

                                  END

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私を小説家に連れてって (私小連 : ししょうれん) ―― 十八日間のラブストーリー ―― 大木 奈夢 @ooki-nayume

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