第14話 十四日目 ランチ 小説家になるためのその9 恋愛小説

 翌日は、昼過ぎにビッグドリームに出かけた。ランチタイムという事もあって、席は粗方埋まっている。仕方なく俺は空いているカウンター席に座った。

 マスターもトモちゃんも、珍しく忙しそうに立ち働いている。

「文豪さん、ちょっと待っていてね」

 トモちゃんはお水だけを置いて、すぐに他の客に注文を聞きに行った。まあ、俺は身内みたいなものだから別にいいけど。二時の講義までには、まだ時間もたっぷりとあることだし。

 ランチタイムのピークが過ぎて、いつもの指定席が空いたので、すかさずそこへ移動する。これで落ち着いて昼飯が食えるというものだ。

 俺はあらためてトモちゃんに、本日のサービスランチを注文した。今日はチキンソテーがメインで温野菜とプチトマト、それにレモンが添えられている。これにコンソメスープとライスかパン。食後のコーヒーまでついていた。喫茶店としては、極普通のランチメニューなのだが、貧乏作家には、とても贅沢なご馳走と言える。インスタントラーメンに比べれば。

 俺は迷わずライスの大盛で注文した。朝昼兼用だし、パンだとやっぱり飯を食ったという気にはならないのだ。

 ランチが来るのを待っている間に、北瑠もお店に入ってくる。

「北瑠。今日は、やけに早いね」

「あっ、先生。先生も来ていたのですか?」

「講義の前に、腹ごしらえをしておこうかと思ったんだ」

「先生、私もなんです」

 そこにトモちゃんが、俺のランチと北瑠のお水を持ってきてくれた。

「北瑠ちゃんもランチでいい? ランチならすぐにできるわよ」

「そうですね。先生のとてもおいしそうだから、私もそれでお願いします」

 店内はすでに空いてきている。北瑠のランチもすぐに来たので、二人で仲良く食事をした。

 俺が早めにビッグドリームに来たのは、何も昼食を取るためだけではない。トモちゃんや北瑠に、それからついでのマスターにも早く会いたいという、実に人情味溢れる理由からだった。

 昨日、たった一日間が空いていただけなのに。ここに来ると、なぜか心が安らぐのである。まるで長い間離れていた、故郷に帰ったかのように。北瑠もそんな気持ちならいいのだけれど……。


「それでは小説家になるための、その九を始めようか」

 食事を済ませた後、いつも通りの宣言をした。どうもこれをやらないと講義をしているという気にならない。単なる雑談の延長のような気がしてしまうのだ。それだけ中身がないということなのかも知れないが。

「今日は、北瑠の作成した詳細プロットを元に、実際に書き出しの文章を考えてみようということだったね」

「先生。昨日がんばってみたのですが、あまり詳細にはならなくて……一応、最初の場面と途中いくつかのエピソードを組み立てて最後の結末までは考えたのですが、とても長編を書くほどの分量にはならなかったんです」

「ひと通り最初から結末までの流れができていれば、気にすることはないよ。それに沿って書き始めれば、自然といろいろなアイデアが浮かんできて、後からでもプロットの項目を追加することができるから」

「そういってもらえると、気が楽になりました」

「でも、後から追加することで、全体としての整合性がとれなくならないように、注意は必要だよ。そうなってしまうと、小説としては破綻してしまうからね」

「わかりました。先生」

「たしか、公園で捨て猫を拾うというのが出会いの場面と言っていたけど、書き出しはどのシーンを持ってくる?」

「どのシーンって?」

「例えば主人公が公園に来るまでの会社でのシーンとか、通勤途中のシーンとか、何か別のことでトラブルに会ったシーンとか。子猫の側にたったときは、例えば捨てられた経緯とか、捨てられた後、カラスや野良犬などに襲われているシーンとか」

「普通に公園で主人公と子猫が出会っているシーンからではだめなのですか?」

「それはそれでもいいのだけれど、よりその出会いを印象付ける為に、そこに至るまでの前振りを持ってくるというのも一つの方法なんだ。それも動きのある展開で、直ぐにメインの出会いのシーンに繋がるようなものがいいんだよ」

「そう考えると、いろいろな事が考えられるので逆に難しいですね。最初の一文さえ浮かんでこないです」

「そう難しく考えずに、そのシーンをイメージしたら、何でもいいから切り取って書いてみるんだ。例えば『その男はいきなり大声をあげた』などのように、何の脈絡もなく訳の分らない文章が、唐突に始まってもいいんだよ。後の文章で少しずつ解明していくと、その訳の分からない事が逆に、読者に興味を持たせ引き付けることにもなるんだ。そうやって解明していくことで、本来メインとしたシーンに繋げることができれば、大成功といえるんじゃないかな」

 唐突な書き出しの小説というのは、随分と多いようだ。但し、それをどう後に繋げていくのか、どうメインのシーンに結び付けていくのかが大事なんだと俺は思っている。

「文章が難しいのなら、たとえば会話文というかセリフから入っても、インパクトのある書き出しになるんだよ」

「いきなりセリフですか」

「例えばだけど『やっぱり猫は可愛いな』というセリフを書き出しにしたとする。主人公は猫好きなのに、自分のアパートでは猫を飼えないので猫カフェに行き、つい漏らしてしまったセリフという設定で。その帰り道に公園を通っていて、その捨て猫と出会うというように考えれば、唐突なセリフの書き出しでも後に繋がり、重要な出会いのシーンを暗示しながら、そのシーンに直ぐに結びつけることが可能になるんだ」

「先生、すごいです。これぞ小説の書き出しって感じです。この書き出しと設定、私の小説に貰ってもいいですか?」

「いいよ。でも今思い付きで考えたことなので、もっと洗練されたセリフ回しや細かな設定や、それに繋がる文章なんかも、北瑠なりにアレンジしてみてね」

「了解です、先生。でも、私がイメージしていた出会いのシーンに、ピッタリな書き出しになりそうです」

「こうやって、プロットの段階では思いつかなかった事も、書き始めるといろいろなアイデアというものが浮かんでくるものなんだ。だから何も完璧なプロットを作成しなくても書き始めていいんだよ」

「先生。私も、書き出しの文章が決まっただけで、出会いのシーンまでは一気に書けそうな気がしてきました」

「じゃあ、次に、出会いのシーン以降はどんなプロットを考えてきたのかな」

「アパートに連れて帰って、世話をしてから寝てしまい、翌朝、綺麗な女性に起こされるというところまではこの前説明したとおりです」

「その後、どんな展開になるのか楽しみだね」

「起こすシーンからなんですけど、寝ていた子猫が朝眼を覚ますと、寝ている男性のところに行って唇をペロッと舐めた瞬間に、いきなり変身してしまうんです。その変身した姿で男性を起こす訳ですが、実はキスをすると変身してしまうという設定で。男性がその女性を好きになってキスをしようとしても、唇が触れるか触れないかの一瞬のうちに、元の子猫に戻ってしまうんです」

「なかなか面白い設定だね。これからどうなるのか楽しみだよ。でも、コメディ色の強い設定なので、恋愛小説としては心理描写を相当に意識した方がいいよ。コメディ色もあっていいのだけれど、それが恋愛色より強くなり過ぎてしまうと、恋愛小説ではなく単なるコメディ小説になってしまうからね」

 俺は北瑠にそう指摘しながらも、良く考えてみると全て自分の事を言っていることに気が付いた。そうなんだ。俺の場合、コメディ色が強すぎて恋愛色が薄いんだ。薄すぎる恋愛色を濃くするために、後で北瑠に恋愛講座をお願いしなければならない。

「先生、ありがとうございます。意識して心理描写をするようにしてみます。でも私、恋愛経験が少ないので、恋愛小説の心理描写って、実はよく分らないんです」

「えっ、よく分らないって? でも北瑠は恋愛小説を書きたいって……」

「ええ。書きたいのは書きたいのですが、経験がほとんどないのでよく分らないのです。だから先生、教えて下さいね」

「……」

 何だか思惑が外れてしまった。まさか北瑠が恋愛についてよく分らないとは……このあと、恋愛講座をお願いしようと思っていたのに、逆に『教えて下さい』だなんて。いくら他力本願な北瑠でも、それはないだろう? 小説の書き方を教える以上に、俺には無理な話だ。

「し、心理描写というのは、じ、自分の感性で表現するもので、ひ、人に教えられるものじゃないんだよ」

「そうなんですか。じゃあ、私も恋愛の感性を自身で磨かないといけないのですね」

「そ、そういうことだね……」

 自分でも声が上ずっているのがわかった。まだ講義は途中だったけど、あまりのショックで、俺はこれ以上続けることができそうになかった。

「それじゃあ、書き出しも決まったことだし、後は北瑠が書けるところまでどんどん書いて行くということで、今日は終わろうか」

「えっ、もう終わりなんですか?」

 やっぱり無理矢理感が、ありありだったか。北瑠も驚いているようだ。

「北瑠も早く小説を書きたいって言っていたことだし、書きたい気持ちのあるときに一気に書く方が、筆が進んでいいんだよ。いずれ、どう足掻いても書けないという時が、きっとくるはずだから」

 俺はいったい何を言っているのだろう。無理矢理感を誤魔化すのに四苦八苦している。そんな醜い俺に比べて、北瑠は天使のように素直だった。

「わかりました、先生。北瑠は自分で書けるところまで、一生懸命に書いてみます」

 健気な弟子に感謝しつつ、その日の講義を終了する。


「ところで先生。昨日の編集者さんの呼び出しは、どうだったのですか?」

 北瑠は北瑠なりに、俺のことを心配してくれていたようだ。いつも遥さんのことを『ドS、ドS』と表現していたので、余計にそう思ったのかも知れない。

「実は、編集会議で『LH探検隊』への横槍が入ったらしくて、このままだと出版中止になりかねないってことなんだ」

「えっ、出版中止って?」

「いや、まだ決定という事じゃないよ。遥さんが味方になって、応援してくれているからね。だけど、方向転換はしなければならなくなって」

「どういう方向転換なんですか?」

「北瑠も知っている通り、『LH探検隊』は、コメディ色の強い恋愛小説という位置づけなんだけど、それでは恋愛もコメディも中途半端になると言われてしまって、もっと恋愛色を強めることになったんだ」

「じゃあ、先生も『恋愛小説』を書くのですね?」

「まあ、そういう事だな。さっき北瑠に偉そうな事を言ってしまったけど、実は俺も恋愛小説は苦手なんだ。本当の意味での恋愛小説は、まだ書いた経験がなくて、自信がないんだよ」

「先生は、恋愛小説が苦手なんですか?」

「そうなんだ。だから北瑠に恋愛小説の事を、教えられなくてごめんね」

「大丈夫ですよ、先生。私、自分で恋愛の感性を磨きますから」

 北瑠の表現は相変わらず少し変だけど、でもなんだか頼もしくなってきた。他力本願だとばかり思っていたのに、どうやらそれだけでもなさそうだ。今まで九回の講義をしてきたが、それを通して少しは成長してくれたのだろうか? 師匠の方はさっぱりだけど……。

「文豪さんが、恋愛小説を書くのですか?」

 どこかで聞き耳を立てていたのか、トモちゃんがしゃしゃり出てきた。

「文豪には無理だよ。女心が分からないんだからな」

 マスターまで参戦してくる。

 気がつくと、いつの間にか客は一人もいなくなっていた――俺と北瑠は客ではなく、身内と見做されているようなので。

「でも『LH探検隊』って、どう考えてもコメディじゃない? これを恋愛小説になんて本当にできるの?」

 トモちゃんは『LH探検隊』の事を誤解しているようだ。俺としてはコメディ一色のつもりは全くない。コメディ色が多少強いとは言いながら、恋愛半分、コメディ半分のはずだった。それを七対三くらいに方向転換するという事で、何とかなるんじゃないかと思っていたのだけれど……。

「できなくても、するしかないんだ。そうでないと出版が中止になっちゃうからね。やっときた出版のチャンスだから、逃したくないんだよ」

 いくらプロ――出版経験のある作家――とはいえ、そうそう出版機会が与えられる訳ではない。一度躓いてしまうと、二度とその機会は無いかも知れないのだ。俺達売れない新人作家は、日々そんな不安に苛まれながら過ごしている。だからこのチャンスは、今回一回だけのことではなく、今後の作家人生をも左右する重要事案なのである。

「よし、分かった。恋愛のことなら俺にまかせろ。女心の機微を、文豪にしっかりと伝授してやるよ」

 マスターは自信満々でほざくが、俺はマスターの事を全く信用していない。

「マスターはダメよ。男から見た女心しか分からないんだから。女心の事なら私に聞いてよね、文豪さん」

「先生。私は恋愛の事はわかりませんが、女心なら弟子として先生に協力することができると思います」

 トモちゃん、北瑠、ありがとう。ついでにマスターも。

 トモちゃんから『文豪さん、その表現、若くないですよ』と言われそうだけど、俺は嬉しくて涙がちょちょ切れそうだった。

 二人とついでの一人に励まされ、俺は何だか勇気とやる気が湧いてきた。

「俺も何とか恋愛小説に挑戦してみるよ」

「先生。私も、先生と同じ恋愛小説を頑張って書いてみます」

「そうだね。俺は恋愛については教えられないけど……でも、北瑠なら、きっといい恋愛小説が書けるよ」

 その場の雰囲気で、つい根拠のない事を言ってしまった。根拠はないけれど、予感めいたものはある……いや、単なる希望なのかも知れない。だけど、希望とは言え、それが俺の願いなのだ。

「ところで、先生。次の講義はどうなります?」

 北瑠は、取敢えず当面の問題が解決すると、直ぐに次の展開をし始める。

 俺としては、もう少し余韻に浸りたいところではあったのだけれど。

「次は、明後日にしようと思うんだ。場所はここで、時間は二時からでいいかな」

「先生。明後日って? 明日はどうするのですか?」

「明日は、俺も北瑠も執筆活動に充てようと思う。そういう日も作らないと、小説なんて進まないからね」

「分かりました。先生も私も、明日からそれぞれの恋愛小説が、スタートするのですね」

「そういうことだね。明後日には、どれだけ執筆が進んだのか、見せてもらうよ」

「でも先生。明日、私の弟と両親が急に来るって言っているので、どれだけ進めることができるのか分からないんですけど」

「そういうことなら仕方がないな。じゃあ今日から少しでも進めておいた方が、いいみたいだね。いずれにしても、北瑠が処女作をどんなふうに書き出すのか、俺も楽しみなんだよ」

「先生、ありがとうございます。北瑠は先生の期待に応えられるよう、精一杯精進いたします」

 おいおい、お前は相撲取りか? まるで大関か横綱に昇進した時のコメントみたいだな。相変わらずの北瑠節には、俺も苦笑いをするしかなかった。しかし、その熱意だけは感じ取ることができた。

 こうして、弟子の北瑠と師匠の俺は、図らずも恋愛小説という同じ土俵でスタートラインにたったのである。これじゃあ、やっぱり二人とも相撲取りだな。

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