第13話 十三日目 横槍
翌朝俺は、例の二時間余りの旅に出た。電車に乗ると、素早く窓の見えるポジションを確保する。今では見慣れた景色にはなっていたが、そこから流れる車窓を見るのが好きだった。
最初の頃は川を渡ったり、森や林などといった自然豊かな緑の光景が目に付く。やがてビルの見える頻度も建物の高さも、目的地に近付くにつれ、次第に増してくる。
見慣れた景色とはいいながら、田舎から都会へと次第に移り変わる様子が、何故かタイムマシンに乗っているような不思議な感覚で、俺を夢の世界へと誘い込む。そんなことを思うのは俺だけかも知れないが。
途中の背の高いビル群に取り囲まれたターミナル駅から、隣接する地下鉄線に乗り換えた。暗闇に包まれて外の景色が全く見えない地下鉄も、俺にとってはある意味タイムマシンだった。窓の外の闇が、まるで時空を抜けているような不思議な感覚にとらわれるのである。
地下を走るタイムマシンは時空を超えて、俺を出版社のある駅へと導いてくれるた。そして迷うことなくーーもちろん迷うはずはないのだがーー目的の喫茶店へと入る。しかしいつもの席は珍しく空席になっていた。
『遥さん、会議でも長引いているのかな』
独り言を言いながら、俺は仕方なくその席に座ってモーニングを勝手に注文する。
遥さんはドSだけど、ああ見えて結構太っ腹だから許してくれるはず。どうせ経費で落とすのだし。因みに、太っ腹とはスタイルのことを言ったのではないと、取り合えず心の中で言い訳をしておく。
約束の時間から約三十分が過ぎ、さすがに俺も不安になってきた頃、喫茶店の入口にようやく遥さんが姿を見せた。いつもの仕事スタイルで。
「本田君。ごめん、ごめん。会議で遅くなっちゃって」
「いや、大丈夫ですよ。俺も今来たところですから」
モーニングを食い散らかした後のテーブルを前に『そんな訳ないだろ』と自分に突っ込みを入れながらも、遥さんにお愛想を言う。これが大人の対応というものなんだと。
遥さんは、ウエイトレスに自分の分のモーニングを注文した後、いきなり本題を切り出してきた。
「実は本田君の『LH探検隊』が、ちょっとやばい事になりそうなのよ」
「えっ、やばいって? どういうことなのですか?」
「さっきまでそのことで会議をしていたのだけど、『ちょっと中途半端過ぎないか?』って言う横槍が入っているのよ」
「中途半端って?」
「LHというわりにはエロな部分が無さ過ぎて、恋愛というにはありきたりな設定な上、心理描写の盛り上がりにも欠けていて、コメディと言うほどには面白くなさそうだっていうのよ」
遥さんの、この話にショックを受けている俺に、更に追いうちをかけるような言葉が投げかけられる。
「それに『いっそうの事、官能小説に衣替えしたらどうだ』なんていう、野次も飛んでいたわ」
「官能小説って、酷い言い方ですね」
「でも、あながち的外れな指摘とも言えないのよ。エロに関しては別としても、もう一度小説としての方向性を考え直した方がいいのかも知れないわね」
「今更方向性と言われても……」
「問題外なエロな部分は置いとくとしても、今のままでは恋愛もコメディもやっぱり中途半端だと言われても仕方がないのよ。もちろんラブコメというジャンルはあるけれど、主体はどっちなのか、どちらにスタンスを置くのかは、見直した方がいいと思うのす」
「そう言われればそうなんですけど……」
俺も、こういう形でのダメ出しは予想もしていなかった。昨日せっかく遥さん対策を練ったのに、最早そういうレベルではなくなってきている。
洪水対策をしていたのに、いきなり竜巻が発生したようなもので、まったく役に立たなかった。
昨日の対策は一切が無駄となり、もう一度、一から考え直さなければならない。
「この際、恋愛を中心にして、心ひかれるエピソードを入れるとか、読者が感情移入のできるきめ細やかな心理描写を心がけるなど、方向性の転換をしてみたらどうかしら」
「恋愛中心ですか……どうもそういうのは苦手で……」
「そうよね。本田君は女心が全然分かっていないもの。でも勉強だと思ってチャレンジしてみたら。そうすれば少しは、分るようになるんじゃないの。この前、女子学生の取材対象もいるって言っていたことだし」
「そうですね。小説家としての幅を広げる為にも、一度は恋愛小説という大きな壁を乗越えなければならないのですね」
俺は、コメディ中心の恋愛小説なら経験はあるのだが、純粋に恋愛小説というのは、まだ経験がなかった。弟子の北瑠が恋愛小説を書こうとしているのに、師匠の俺が、これではまずいよな。
そういうことで『LH探検隊』は急遽、恋愛小説へと方向転換をすることになる。
「ところで遥さん。すでに何十枚も原稿を書き上げているのですが、やっぱりボツになってしまうのですか?」
俺は、準備してきた四百字詰原稿用紙換算二十枚の原稿を何とか遥さんにアピールしたくて、つい何十枚などと話を盛ってしまった。
「バカね。すでに書いている原稿は、新しい方針に則って、ちょっと手直しすればいいことでしょ。恋愛モードとなる心理描写や、新たなエピソードを追加すれば済む話じゃない。何も無駄にすることはないわよ。何十枚もあるっていうことは、少し手直しするだけでかなり進捗していると考えていいのよね」
墓穴を掘ってしまった。それもかなり深く。ドSの遥さんに悟られないよう、この件は幕引きをしなければならない。
「いや……えーと……もう一度最初から考えてみます」
「本田君。ちょっと。今まで書いてきた原稿を見せてくれる?」
遥さんは敏感に何か感づいたようだ。まずい展開になってきた。
「えっ、いや……まだ手直しをしなければならないので……」
「手直しはいいから、今できている原稿を見せてちょうだい」
アピール作戦は、完全に裏目に出てしまった。俺の動揺を感じ取ったのか、遥さんの追及は更に厳しくなる。俺は仕方なく四百字詰原稿用紙換算で二十枚分の原稿を提示した。
「何、この原稿は? 七・八枚位しかないじゃない。これのどこが何十枚なの?」
「いや、その……四百字詰原稿用紙換算での事で……」
原稿はA4用紙に、概ね四〇字、三〇行前後を基準として書くのが一般的で、文字数は一枚で約一二〇〇字となる。これは、四百字詰原稿用紙の文字数の三倍であり、枚数計算では一枚で四百字詰原稿用紙換算にすると約三枚だった。しかし、実際に二〇字、二〇行に書き換えるとその計算より、もう少し少ない枚数になってしまう。
どちらの方法で計算するのかは、出版社や新人賞によって違うので、それぞれの応募要項で確認するしかない。枚数が微妙な時は、この計算方法が影響する事もあるので注意が必要だ。
「本田君。貴方が遅筆なのは知っているけど、もうちょっとがんばりなさいよ。せっかく私が推してあげているのに」
遥さんはできの悪い弟をできの悪さを承知の上で、だけどやっぱりうんざりとしてしまい、それでも何とか励まそうというお姉さんのようにそう言った。
こういう表現をしてしまうと、俺のできの悪さだけが際立ってしまうのが残念である。
「すみません。遥さん……」
できの悪い弟は、素直に謝った。
「とにかく、次の会議では、恋愛面の心理描写に特に力を入れて、少しだけコメディタッチな恋愛小説という事で、方向転換しておくからね」
「分かりました。何とか恋愛小説になるように頑張ってみます」
これでやっと、厳しい取り調べが終わった。
遥さんは、いつもの如く「忙しい、忙しい」といいながら、バッグに荷物を詰め込んでいく。そして、俺の分の伝票も一緒に支払いを済ませると、出版社へと戻って行った。遥さん、いつもながらご馳走さまです。
遥さんがいなくなると、そこには嵐の後の静けさが漂った。何も遥さんが嵐だと言いたい訳ではない。いや、そう言うつもりはさらさらないのだが……。
そうは言いながらも今回の遥さんは、何故か少しだけいつもより優しかったような気がする。会議では俺の味方になってくれたみたいだし。もう、ドSの「ド」を取ってもいいかも知れないな。まだ「S」までははずせないけど。
帰りのタイムマシンは、あっという間だった。中途半端だと言われたことが、ボディブローのように効いている。まして苦手にしている恋愛小説を書かなければならなくなったというプレッシャーが、俺の車窓を楽しむ余裕を奪っていた。そんなふうに落ち込んでいた俺だが、地元は優しく迎えてくれる。
駅から少し歩くと、ビッグドリームの看板が見えてきた。あたたかなオレンジ色の看板が……。やっと帰って来たのだと、思わず感慨に耽ってしまう。
俺は、ビッグドリームに寄り道していくか、それとも公園を抜けて真っすぐねぐらに帰るのか少し迷ったが、結局このまま素通りすることにした。
どうせマスターは茶化すだけだし、トモちゃんは今の俺の気分にそぐわないハイテンションをぶつけてくるだけだから。
部屋に帰ると俺は、荷物の中から原稿と資料を取りだして、机の上に並べた。
ラブコメといいながら、ほとんどコメディに偏っていた作品を、恋愛モードに切り替えなければならない。PCの電源を入れながら『これは至難の業だ』と思わず頭を抱え込んでしまった。
俺は恋愛小説という引き出しを持っていないのだ。自慢じゃないが、俺の中の恋愛要素は、やはり俺の中で絶滅寸前になっている狼とほぼ同じくらいの少なさなのである。これでは無いものねだりというものだ。
恋愛モードにするには、もう他力本願しかない。北瑠教授の資料を充実させて活用するのだ。明日の講義の後、北瑠に恋愛講座のお願いをしてみよう。そう決めるとなんだか少し心が落ち着いてきた。最早どっちが弟子で、どっちが師匠なのか分からなくなってきている。
俺は、一昨日遥さんのメールがきてからずっと緊張していたので、精神的に疲れ果てていた。戦士にも休息が必要である。今日の残り時間をそれに充てることにした。遅筆になるわけだ。
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