第11話 十一日目 演技力 小説家になるためのその7 焼き肉の話

 朝目覚めると俺は、まずシャワーを浴びることにした。昨日の疲れを一掃し、気分転換をしようと思ったのだ。今日の午後からの講義についても、テーマを決めて午前中に下調べをしておかなければならないし。

 しかし今回は、俺もテーマを決めかねていた。大きなテーマはすでに取り上げていて、後に残っているのは小さなテーマばかりなのである。小さなテーマとはいっても、それを無視できるほど影響力も小さいということではない。

 さて、どのテーマを取り上げようか。結局俺はその小さなテーマをアットランダムに取り上げることにした。こうすれば、その日可能な量のテーマを済ませて、残りは次の日に持ち越せるはずである。

 一通りの予習を午前中にすませると、俺はビッグドリームに行く前に、前から買い置きをしてあったカップラーメンで昼食をとることにした。

 以前はカップラーメンが主食みたいによく食べていたが、さすがにそれでは健康に良くないと思って、最近は少し控えていた。だから、カップラーメンを食べるのは久しぶりだった。

 塩ラーメン、味噌ラーメン、醤油ラーメン。その他にはご当地ラーメンなど、バラエティに富んだ買い置きをしている。同じ種類ばかりだと飽きてしまうという、主食にしていた時の習性がまだ残っていた。

 多種ある中から、今日は激辛ラーメンをチョイスする。午後からの講義のために、俺は脳を活性化させようと思ったからだ。この辛さが脳を刺激してくれるのである。しかし、ピリピリとした刺激は脳ではなく、俺の唇と舌と食道だけを刺激していた。

 少し寂しくて味気ない――でも味は濃い――昼食の後、講義に行く準備をして外に出ると、昨日の雨が嘘のように空は晴れ渡っていた。

 ビッグドリームへは、例の公園の中を通り抜けて行くのだが、その日はいつもより園内が賑やかに感じられた。どうやら、満開真近の桜が原因らしい。公園の桜は、昨日の雨を耐え忍び、今日の晴天に春を謳歌するがごとく、一斉に咲き始めていた。

 雨の中、人通りもなく寂しげだった昨日に比べ、今日の公園にはたくさんの花見客が訪れている。

 桜の木の下にシートを広げ、すでに宴会らしきものを始めている団体もあちこちに見受けられた。今日が日曜日ということも影響しているのかも知れない。

 そういえば最近、花見なんてしていなかったような気がする。小説家っていうものは、結構孤独な職業だからな。

 来年は北瑠と一緒に、マスターやトモちゃんを誘ってみようか?

 実現するかどうかは別として、今の俺にとってはそんな他愛もない希望を持つことが、ささやかな願いとも言えた。いや、それとも儚い夢なのだろうか。

 北瑠と出会ってからは何故かこの公園に来ると、俺はセンチメンタルになってしまうのである。


「文豪、昨日はどうだったんだ。トモちゃんに聞いても、全然教えてくれないんだよ」

 ビッグドリームに入ると、俺の公園での感傷などそっちのけで、マスターがいきなり喚き立ててきた。

「だって、みんな揃ってからって約束したんだもの」

 なんだ、トモちゃん。律義に守っていたんだ。別に話してもいいのに。

「俺に話せないってことは、やっぱり何かあったのか?」

「マスター。変に勘ぐらないでよ。俺は全然やましいことはないんだから」

「そうよ。昨日のことは三人だけの、ヒ・ミ・ツ」

「トモちゃん。そうやって話をややこしくするようなことを言うのはやめてよ。とにかくその話は北瑠への講義が終わってからにしてくれます。今の俺は講義のことで一杯一杯なんだから」

 まったくトモちゃんは仕様がないな。マスターをからかって喜んでいるのだから。

 マスターも可哀そうに、今日は朝からトモちゃんに散々振り回されて、くたくたになっているみたいだ。これで、俺が北瑠に負わされている苦労の何分の一かは、分ってくれることだろう。

 しかし、俺とマスターとトモちゃんは、やっぱりこんな不毛なやり取りしかできないのかな。

 そんな不毛なやり取りをしている中、北瑠が先日と同じように、物静かに現れた。

 何故かこの前とも違う、別バージョンのオシャレをしてきている。まるでイブニングドレスのようにボディーラインがくっきりとでるような、ちょっと色っぽい衣装である。

「マスター、トモちゃん、ごきげんよう。先生、お待たせいたしました」

 北瑠、どうしたんだ? いつもと違ってその艶めかしい雰囲気は?

「先生、昨日はとてもよかったです。でもあのことは、マスターには内緒ですからね」

 な、なんなのだ? その意味深な発言と、あまり似合っているとは言い難いセクシーなポーズと、取って付けたような下手くそなウインクは。

「そうよねえ、北瑠ちゃん。あのことは三人だけの秘密だものね」

 トモちゃんまで。何があったのだ。この訳の分らないシュチュエーションは? いったい誰のシナリオなんだ? 開いた口が塞がらないとはこのことか? しばらく俺は塞がらない口を開けたまま、茫然としていた。マスターも俺と同様、状況を呑みこめないでいる様子。

「トモちゃん、やっぱり無理です。私、こんな演技は」

 突然北瑠が、こんな意味不明なことをほざき始めた。いったいどういうことだ。

「北瑠ちゃん。ダメじゃない。最後までちゃんと演技しなきゃ。そんなんじゃ名女優にはなれないわよ」

「だってトモちゃん。私、小説家は目指しているけど女優は無理だもん」

「もう~。せっかく私の考えた台本が台無しじゃない」

「何なんだ、二人共。俺達を騙そうとしていたのか」

 おそらくこの茶番劇は、マスターも知らなかったのだろう。

 しかし、この女子二人はいつのまに結託していたのだ。俺とマスターを騙くらかそうとして。まったく油断も隙もありゃしない。

「トモちゃん。台本って、いったいどういうことだよ」

 これはもう、俺の理解の範疇を遥かに超えている。頼むから俺にも分るように、説明をしてほしい。

「せっかくの面白いネタだから、もっと盛り上げようと思って、昨日寝ないで一生懸命台本を考えたのよ。その台本で、朝から北瑠ちゃんと電話で打合せしていたのに。北瑠ちゃんも、もう少し頑張って演技をしてもらいたかったわ」

「トモちゃん、ごめん。でもやっぱり私には無理」

 どうやら二人で演技して、俺とLHで何かあったのではないかとマスターに思わせて、面白がろうとしていたらしい。とんでもないやつらだ。さすがに北瑠は罪の意識で、演技を途中で中断したのだろう。俺はそう信じたい。まさか本当に演技力が無かっただけということではないよな?

「トモちゃん、いったいどういうことだ。俺にはさっぱり分からないぞ。昨日のことをちゃんと報告してくれ」

 俺にはなんとなく二人の企みが見えてきていたが、マスター一人は蚊帳の外にいて、今ひとつ状況をつかめていないようだった。皆から置いてけぼりにされて、ヤキモキとしている。

「マスターもトモちゃんも、その話は講義の後からにしてもらえます? 俺、さっきからのやりとりで講義の内容が、すでに半分以上飛んじゃったのですから」

「いや、悪かった。別に講義の邪魔をするつもりはなかったんだよ。でも終わったら三人共、昨日のことを包み隠さず正直に報告するんだぞ」

 昨日は変なことにはなっていないということをマスターもようやく悟ったようで、渋々ではあるが取敢えず引き下がってくれた。


「それじゃあ早速始めようか、北瑠」

「先生、ごめんなさい。私、先生の講義前に何か騒がせちゃったみたいで」

 師匠の俺を騙そうとしたことをさすがに反省したのか、北瑠にしては珍しく殊勝な顔でそう言った。

「大丈夫だよ。おこちゃまのセクシーバージョンも見ることが出来たことだし」

「先生。また私のことを子供扱いにする。プンプン」

 北瑠は怒った顔も可愛いな――と思ったが、これに反応してしまうと講義が進まなくなってしまうので、俺は敢えて見ても見ないふりを決め込むことにする。

「確か今回は小説家になるための、その七だったよね。そこで今日のテーマなんだけど、特に大きなものは決めないで、小説を書き出す前に考えておいた方が良いことを、思いついた順に話していこうと思うんだ。俺も体系だった知識がないので、順不同ということでいいよね?」

「先生、北瑠は先生のことは、何でも受け入れます」

 また始まった。北瑠の不適切な言い回しが。こんなことで、本当にまともな小説が書けるのだろうか。師匠としては、心配せずにはいられない。

「小説を書き始める前に考えておくことや準備しておくことについて、今まで『小説とは何か』『ジャンルの選定』『文章作法の基本や禁則事項』『人称を選ぶ』『テーマ、モチーフ、メッセージを考える』『バックグランド、キャラクターを設定する』『起承転結を考慮したプロットを作成する』などについて説明してきたよね」

「そうか……考えて見ると、今までのは全部、書く前の準備だったのですね?」

「そういうこと。それ以外にもたくさんあるので、俺の思いついた順で説明するね。最初は、『文体』について」

「文体って?」

「小説を書く時に全体をどういう文章のスタイルにするかということは、あらかじめ決めておかないと統一感がなくなって、小説として破綻する恐れがあるんだよ」

「文体って、文章のスタイルのことですか?」

「そう、スタイルといってもいろんな側面があるんだ。『文語調(書き言葉)』か『口語調(話し言葉)』か。一人称ではほとんど口語調になるとは思うんだ。その方が読者も感情移入しやすいし。但し一人称でも全て口語調にする場合と、心情以外の説明文は敢えて文語調にする場合もあるようだけど」

「また人称ですか」

 北瑠は人称に対して、アレルギーがあるのかな。

「その人称だけど、三人称の場合はやはり『文語調』が多いみたいだね。次に『常体(である調)』か『敬体(ですます調)』かも統一しておいた方が良いだろうな」

「そうですね。何となく文章スタイルというものがイメージとして湧いてきました」

 アレルギーがありながらも、一生懸命に理解しようとしている。

「それから文章にはリズムというのがあって、これはどうすべきというのではなく、それがその作品の個性になるので、ここでは項目だけを挙げることにするから、自分で個性の出し方を考えてみてほしい。もしその作家が全ての作品で文体や文章のリズムについて統一した個性を前面に押し出せれば、その作家のブランド化にもつながるんだ」

「如何に、作品や作家としての個性を創出するか、ということですね」

「一応、五項目について説明しておこう。一番目は平均的な一文の長さ。作者の意図によって長くも短くもできるので、工夫すれば個性を出す事ができるんだ」

「一文を短く統一したり、長くしたり、ミックスしたりと、作者が意識すれば、いろいろなパターンが可能ですね」

「二番目は読点(、)の位置と数量。読点というのは、その位置によって意味やニュアンスが変わったり、文章リズムも変わるのだけれど、どこに付けるかは作者の自由だからね」

「えっ、どこに付けても自由なのですか?」

「そうだよ。ただし、読者に違和感や不快感を与えたり、文章のリズム感を損なったり、意図した意味やニュアンスと違うということにならないよう、十分に注意する必要はあるけどね」

「逆に自由な方が難しそうです」

「三番目は改行するタイミング。これは段落分けにも関係するのだけれど、改行から改行までの間の長短というのは、文章のリズムを大きく変えてしまうからね」

「えっ、段落って短くしたり長くしたりできるのですか?」

「前に段落は、大きな内容の変わり目で分けると説明したよね。でも内容の変わり目といってもあやふやなもので、分けても分けなくても良いようなところが結構あるんだ。それに同じ内容が長く続く場合では、ある程度のところで段落を分けるというテクニックもあるので、自分なりの文章リズムや長短を考えて判断することが可能なんだよ」

「本当ですね。それなら一文の長さだけでなく、段落の長さもコントロールすることができそうですね」

「四番目は体言止めの活用。体言とは名詞や代名詞のことで、それで止めてしまうのでそう言うのだけれど、所々で活用するとリズムがよくなるという効果があるんだ。ただし無闇に多用するものではないけどね」

「たまに活用するとアクセントになるということですね」

「五番目はひとつの場面の長短を考えるってことだね。場面の長さというのは、文章リズムというよりは、その小説全体におけるストーリー展開に係わってくるリズム感だと思うんだ。これらを自在にコントロールすることで、その作品独自の個性が生まれるんだよ」

「文章のリズムが大切でそれが個性になるのはわかりましたけど、具体的にはどうすれば良いのですか?」

「四番目以外は自分で考えて工夫する以外ないのだけれど、四番目の体言止めによる文章リズムの調整は、前の文章作法の時に少し説明した文末の工夫に関係しているんだ」

「文章リズムと文末の工夫ですか?」

「文章作法の終わりの方で、同じ文末を繰り返すと幼稚な文章のようになってしまうと説明したけど、幼稚なだけではなく文章のリズムも悪くなるんだ。対処法は、前後の文章と照らし合わせて何度も読み返しながら、違和感がないかどうか確認した上で、一番しっくりとくる文末を考えると説明したよね。その際に体言止めは、同じ文末を避けて文章リズムを整える、有効な手段に成り得るのだよ」

「文末をどうするかも、文章リズムに関わってくるのですか?」

「そうだね。読んでみて違和感のある文末というのは、文章リズムも悪くしているということなんだ」

「それを防ぐには、何度も読み返して確認するということですね」

「いろいろと難しい講釈を垂れてきたけど、結局はどうすれば読者が違和感なく、気持よく読むことができるかということが重要なんだ。せっかくの良い小説も文章リズムが悪くて、読者にストレスをかけるようじゃ本末転倒だからね」

「先生……私、本末転倒って、よく分らないのですけど」

「よく分らないって言われても……説明するとなると難しいな。要するに本来、根本的で重要としている内容にしなければならないのに、いつの間にかその本筋から外れて、あまり重要ではない些末な内容にすりかわってしまったり、或いは逆の内容に取りちがえてしまうことをいうのだけれど、この場合、本来読者から良い小説として評価して貰わなければならないのに、逆に読者にストレスを感じさせてしまう結果となることを、本末転倒と表現したんだよ」

 北瑠の素朴な質問は、本人は意図していないにも拘わらず、ときどき俺を困惑させる。

「先生、ありがとうございます。とってもわかりやすかったです」

 もっとましな答えもあるのだろうけれど、咄嗟に的確な説明をするのは難しい。取り合えず、苦し紛れでも何でも良いのだが、北瑠から納得したという返答を引き出せたことは、自分で自分を誉めてあげたい。

「次に描写についても少し触れておこうか」

「描写って、心理描写や情景描写のことですか?」

「描写の種類については人によって違うので一概には言えないけれど、その二つは一般的に認められているみたいだね」

「でも描写って、なんだか難しそうなんですけど……」

「確かに。小説というのは、最初の講義でも説明したように、いろいろな必要要件の組み合わせで構成されているのだけれど、中でもこの描写の質と量が小説のレベルを決定付ける重要な要素になるんだ」

「質と量ですか?」

「たとえばここに赤いリンゴがあったとしよう」

「えっ、赤いリンゴ?」

 北瑠は俺の言葉を反復しながら、不思議そうな顔をしている。

「それを文章にしたときに『赤いリンゴだった』と書いてしまうと、単なる事実の説明だけになってしまう。それをもっと詳しく、読者に分りやすく表現するのが描写なんだ」

「分りやすく表現すると言われても……」

「どのように赤いのか? 数量は? 大きさは? 形は? 美味しそうなのか、不味そうなのか? そんなふうに考えていけば、いくらでも描写の量を増やすことが可能で、描写の量が増えるということは、それだけ分りやすくなるということなんだ。ただし、あまりくどくならないように適度な量を、自分で判断することにはなるけどね」

「先生、量については理解いたしました。でも質って?」

「北瑠は『赤い』で思い浮かぶものって、何がある?」

「赤ですか……たとえば郵便ポストとか消防車とか……」

「そうすると『郵便ポストのように赤いリンゴだった』や『消防車のように赤いリンゴだった』というように描写することができるけれど、なんだか堅そうだし美味しそうじゃないよね。他に美味しそうな赤い色はたくさんあるはずなのに」

「そういわれればそうですね」

「同じ『赤い』を描写するのでも、対象に相応しい表現を工夫するというのが、『描写の質』を考えるということなんだ」

「質って、そういうことなんですね」

「そう。無限大にある描写の中から、より相応しく、さらに付け加えると、人とは違うセンスのある描写を心掛けていくのが、小説家なんじゃないかな」

「でも、人とは違う描写を考えるっていうのは、無茶苦茶難しそうです」

 北瑠はまだ、眉を寄せながら唸っているが、俺はスルーして次に進めることにした。

「そこで次に方法論になるのだけれど、『修辞法』の中の特に『比喩』を活用することで、比較的簡単に描写をすることができるんだ。『修辞法』には『比喩』以外にもたくさんあるけれど、話が難しくなって俺では説明しきれないので、今回は『比喩』だけの説明にしておこう」

「先生……『修辞法』とか『比喩』っていう言葉自体が、すでに難しいのですけど」

「そうか……俺も難しいことは分らないので、できるだけ簡単に、比喩の種類を『直喩』『隠喩』『擬人法』に絞って説明しようと思う。細かく言えば他にもたくさん種類はあるようだけど、この三つは押さえておきたい内容なんだ」

 まだ結末の見えないドラマを見るように、北瑠は怪訝な表情をしている。

「北瑠は『比喩』ってどういうことか分る?」

 俺は北瑠には受け身ではなく、積極的にこの講義に参加してもらいたいので、敢えてそう質問してみた。

「え~と……何かにたとえて説明することじゃないですか?」

「北瑠はよく分っているね。ほぼ正解だよ。一応資料の説明を紹介すると『比喩とは、物事の状態や様子を他の物事にたとえて表すことをいう』ってあるんだ。そのたとえの仕方で『直喩』と『隠喩』と『擬人法』にわかれるんだ」

「先生。『擬人法』なら、なんとなくわかります。人以外のものを人のようにたとえて、表現することですよね?」

「すばらしい。北瑠、完璧だよ、今の説明は。もう俺の説明はいらないくらいだな」

「先生。意地悪言わないで、最後まで説明をお願いします」

「いや、別に意地悪で言ったんじゃないんだけれど……とにかく『擬人法』については今北瑠が言ったとおりなんだ。そこで残り二つの内『直喩』について説明すると、何かをたとえる時に、『~のよう』『~みたい』『~のごとし』のような表現を使って、直接的にたとえることを言うんだ。陳腐な表現にはなるけれど『君はバラのように美しい』などが『直喩』と言えるね。別名『名喩』とも言うんだ。先程のリンゴの赤を説明する『郵便ポストのように』や『消防車のように』という描写もこれに当たるんじゃないかな」

「先生。その表現なら、私もいつも使っているように思います」

「そうだね。一番活用される比喩が、これにあたると思うよ。次に『隠喩』だけど、これは逆に『~のよう』『~みたい』『~のごとし』という表現を一切使わないで、断定したような表現になるんだ。たとえば、『貴女は私の太陽だ』『男はみんな狼だ』などのように。貴女が太陽でないのも、男が狼でないのも明白なんだけど、そういうイメージというのは良く伝わるよね。これが『隠喩』で、別名『暗喩』とも言うんだ」

「先生、『隠喩』って、とても難しそうです。そんな発想ってあまりしたことがないように思います」

「確かにそうだと思うよ。あまり使われないが故に、直喩より隠喩の方が読者に対するインパクトも強くなる傾向にあるようだね。だからそれなりの効果も期待できるはずだよ。次に『擬人法』だけど、これは先程、北瑠が言った通りなんだ。たとえて言うなら、雨が降っているようすを『空が泣いている』、山が噴火しているようすを『山が怒っている』などと表現することが考えられるね」

「結局、描写の質と量を考えるというのは、このような『直喩』『隠喩』『擬人法』をできるだけ活用しながら読者に分かりやすく、読者にも共感できるような、それでいて人とは違う独自の描写を工夫していくということですね?」

「俺はそう思っているんだ。北瑠がそれを理解してくれたら、もう何も言う事はないよ。今日の講義はこれで終了だ」

 今回は北瑠に質問して講義に参加してもらう方式を試してみたが、思った以上の成果をあげることができた。やはり一方通行的な講義よりも双方向的な方が、理解しやすいのかもしれない。

「先生、もう終わりなんですか?」

 北瑠は何か物足りなさそうである。それだけ講義に集中していたのだろう。拙い講義をここまで熱心に聞いてくれる北瑠に、俺は満足だった。しかし、今日のネタはすでに尽きてしまっている。

「ごめんよ、北瑠。今日用意していた内容は出尽くしちゃったんだ。これ以上は逆さに振っても俺の頭からは何も出てこないよ」

 その俺の言葉が終るか終らないかのうちに、手ぐすねを引いて待っていたマスターが、野次馬根性丸出しで割り込んできた。

「文豪。もう講義は終わったんだろう」

「マスター、いきなり何ですか?」

「終わったのなら、さっきの続きをしようじゃないか。トモちゃんもこっちに来て」

 何とも暇な喫茶店だ。たった二人だけのマスターとアルバイトが、揃って客と茶飲み話をしようというのだから。

「でもマスター。お店をほっぽいといていいのですか?」

「今、客はいないからいいんだよ」

「えっ。それって、俺たちは客じゃないっていうことですか?」

「何を水臭いことを言っているんだ。文豪も北瑠ちゃんも、最早身内みたいなものだよ」

 俺と北瑠は、いつマスターの身内になったのだ、などという疑問が湧かないでもないが、そこは敢えてスルーしておく。

 客がいないのをいいことに、俺達がそんな愚にもつかないことでワイワイと盛り上がっていると、喫茶店の扉がいきなり開いた。どうやら身内ではない本当の客が現れたらしい。

「あっ、ママ」

 何故かトモちゃんがそう叫ぶ。そこにはトモちゃんより少し背が低く、ショートカットで端正な顔立ちをした少し年配の女性がいた。ベージュのTシャツに、ひざ下丈のデニムのスカートを会わせている。言うまでもなくトモちゃんのお母さんだ。

 年齢は多分五十近いのだろうが、さすがにトモちゃんのお母さんだけあって、どう見てもマスターと同じ位の、アラフォーにしか見えない。しかも年不相応に、とっても綺麗でチャーミングで可愛いのだ。可愛くはあっても本当の客とは言えず、結局、身内なんだよな。マスターには悪いけど。

「皆さんこんにちは。いつもトモがお世話になっています」

「どうしたの、ママ。いつもは来ないのに今日に限って」

「ごめんね、トモ。実は今朝、本田さんのことをお父さんに話したら、急に職場の状況を確認してこいって、うるさくって」

「何勘違いしているのよ、パパもママも。本田さんにはれっきとした北瑠ちゃんがいるのに」

「えっ」

「えっ」

 二人同時だった。俺も北瑠もトモちゃんの言っている意味がまったく分からない。

「別に、そういう意味じゃないんだけど、お父さんは『事実関係だけは把握しておくように』ってことなのよ。私もトモのことは、知らないことがいっぱいあるので」

「ママ。そういうことを何でここで言うの? 家で私に訊けば済むことなのに」

 急に始まった親子喧嘩――喧嘩と言えるかどうかは分からないが――に、俺と北瑠は当然のことながら、マスターもどう扱って良いのか分からず、ただ茫然と傍観するしかなかった。

「昨日、前から小説家だと聞いていた本田さんを初めて見て、トモにも素敵な男性がいたんだと思って、つい今朝お父さんに話しちゃったのよ。ごめんね、トモ」

「だから、私と本田さんはそんな関係じゃないって。そんなことを言ったら、北瑠ちゃんが勘違いしちゃうじゃない」

 トモちゃん、なんでそこまで全力で否定するの。いつものことだけど。ついこの前まで、トモちゃんのことを追っかけていた俺としては、複雑な思いで結構心が傷ついている。

 でも今は不思議なことに、傷つく以上に心が再生していた。北瑠という新薬の登場によって。但しこの新薬は最先端過ぎて、厚労省の認可はまだ受けていない。まして北瑠本人の承認も。どんな副作用があるのか、まだ分からないのである。

「マスター、ごめんなさい。ちょっと誤解を解きに家へ帰りたいので、今日は早引きをさせて下さい」

 まあ、いわゆる身内しかいない喫茶店なので、マスターも忙しいからという理由では、拒否することもできない。

 結局トモちゃんは、そそくさと帰り支度をして、お母さんを連れて早退してしまった。

 今日は日曜日なのでお父さんも家にいて、お母さんの報告を待っているのだろう。波乱含みの家族会議となりそうだ。


「文豪、ややこしいことになったな」

 マスターが、腕組みをしながら呟いた。確かにややこしいことには違いない。だけど、俺はまだ釈然としていなかった。北瑠も多分、同じ思いだろう。そんな二人の思いを察してか、マスターが不可解な話をし始めた。

「文豪。トモちゃんが、この前、焼き肉の話をしていたんだよ」

「えっ、焼き肉ですか?」

「そう。以前焼き肉屋さんで、仲の良い友達同士、宴会をしたことがあるというんだ。それぞれ仕事をしていたので遅れる友達もいて……とりあえず、時間通りに宴会を始めたらしい」

「トモちゃんが焼肉好きとは知らなかったな。今度みんなで誘ってみましょうか?」

「文豪。この話は最後まで聞け」

 いつになくマスターは真剣だった。

「トモちゃんは自分の目の前の網に並べられたお肉が、よく焼けるのを楽しみに待っていたそうだ」

「楽しみに待っていたお肉に限って、焼ける寸前に目の前でさらわれることって、よくありますよね」

 北瑠もそんな経験があったのか、結構リアルに言っていた。

「実際にトモちゃんは、そういう目に会ったらしい。遅れてきた友達は全然悪気はなく、目の前のよく焼けたお肉を食べてしまったんだ」

「えっ、まるでマンガみたいですね」

「文豪。お前が言うな。これはすべてお前のことなんだからな」

「えっ」

 俺のことと言われても……まったく身に覚えがないのだけれど……。

「トモちゃんは素知らぬ顔をしながらも、目の前の網でお肉が焼ける頃合いを、楽しみにして待っていたんだよ。だけどそれが自分の物だという、マーキングをしていなかったんだ。だから、お肉自身もそのことを知らず、当然、遅れてきた友達がそんなことを知るはずもないので、その友達を恨むこともできないってことさ。後悔先に立たずってことだな」

「……」

 俺も北瑠もようやくマスターの言わんとするところが、なんとなく見えてきた。まさか俺がお肉だとは思いもしなかった。トモちゃんは、今までそんな素振りを一度も見せたことがなかったのに。

 たしかにややこしいことになった。俺もどうして良いのか分らない。まして北瑠は困惑の表情のみで、一言も発することができないでいる。

「文豪。トモちゃんはすでにこの件は過去形にしているのだから、絶対に蒸し返すんじゃないぞ。世の中、焼肉は食べ放題なんだから、すぐに美味しそうなお肉が現れるわよって言っていたからな」

 マスターのやや遠回しな表現は、俺の心の中に、しみじみと沁み渡ってくる。でも、多分これってマスター創作のたとえ話なんだろうな。だってトモちゃんが、焼肉の話なんかする訳がない。実際に食べていても、大好物であっても。全然、似合わなさ過ぎる。それにしても『焼肉は食べ放題』なんて。マスターも他に表現はなかったのだろうか?

 たとえ作り話でも、俺はトモちゃんの気持ちを知って、とても嬉しかった。北瑠に会うまでの俺なら、きっと宇宙の彼方まで舞い上がってしまったことだろう。

 だけど今の俺にとってトモちゃんか北瑠かなどというのは、究極の選択といえる。それにも関わらず、その選択の結果は――究極とは言いながらも――迷うことはなかった。トモちゃんには悪いのだけれど。

 結局LH探検隊の報告会は、トモちゃんのお母さんが現れたことで中止となった。マスターもトモちゃんが早退してしまった以上、その話は封印するしかなかったのだろう。

 暫らく気まずい雰囲気のまま、沈黙が続いた。耐えられなくなった俺は、そこからの脱出を試みる。

「北瑠、取り敢えず今日は解散することにしようか。それで明日の講義なんだけど、北瑠の書きたい小説の、簡易プロットを作成してきてくれるかな」

「えっ、もう小説を書き始めてもいいのですか?」

「いや、まだ本文ということではなく、簡易プロットからイメージを膨らませる実践をしていこうと思うんだ」

「いよいよ実践なんですね? それで明日はどこで何時からですか?」 

「そうだな……やっぱり今日と同じく、ここで二時からにしよう」

 とりあえず明日の予定のみ決めてから、俺たちは解散をした。


 帰り道、例の公園にさしかかると、人出が昼間よりも更に多くなっていた。大勢の人たちが、夜桜を楽しむために繰り出してきているのだろう。かたや宴会を楽しみ、かたやそぞろ歩きを楽しんでいる。

 まだ少し明るいが、もっと暗くなればライトアップもされることだろう。さほど広くはない公園だが、所々に屋台も出店していて、夜桜への準備も万端に、花見の雰囲気を醸しだしていた。

 本来なら、俺もワクワクしながら浮かれて歩くところだが、今日は何故か湿っぽくなっている。前に、遥さんとぎこちなくなった時もそうだが、今回のトモちゃんのことはその比ではなかった。これで北瑠ともそうなってしまったら、俺はどうすれば良いのだろうか。そんな思いが、公園内の賑わいと相反して俺を憂鬱にしている。

 思い出のベンチには、二十才前後の若いカップルが仲良く並んで座っていた。特に美男美女というわけではないが、ほほえましい光景である。いつの間にか俺は、そのカップルを羨ましそうに眺めていることに気がついた。

 幸せそうなカップルは、そんな事にはお構いなしに、お互いの手と手を絡め合いながら、仲睦まじく寄り添い合っている。急に恥ずかしくなった俺は、視線を逸らせながらその場を立ち去った。

 公園を出ると安アパートまでは、すぐそこである。あまり居心地が良いとは言い難い住み家に帰ると、ようやく俺は人心地が付いた。やはりどんなに狭くて汚くても、自分の城は心安らぐものである。

 今日は北瑠に宿題を出したので、俺の予習はしなくて済むし。そう思いながら夜のメールチェックをしてみると、遥さんからのメール連絡が入っていた。

『LH探検隊の執筆状況はどうですか? 明後日、進捗状況を確認したいので、午前十時にいつもの場所で。執筆に関して困ったことや悩みがあれば、その時相談して下さい』

「明後日か……」

 遥さんはいつも、俺をメールで呼び出す。しかも律儀に二日前に。

 この前の気まずい別れの後、初めてのメールになるのだが、『悩みがあれば相談して下さい』などという優しい内容なので、普段通りの対応をしても大丈夫そうだ。

 その点については少し安心したのだが、LH探検隊の執筆状況を確認したいとの事で、俺は愕然とした。実はまだ、本文は一行も進んでいないのである。

 これは、この前の気まずさ以上にまずいことになりそうだ。遥さんに、ドSの本領を発揮されたのではかなわないからな。

 結局、その日は深夜までかけて、四百字詰原稿用紙換算で十枚程度の本文を下書きした。これでとりあえず、スタートしているとの言い訳位にはなるだろう。

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