第10話 十日目 雨 小説家になるためのその6 LH探険隊

 朝目覚めると、カーテンの隙間から覗く窓の外が、まだ薄暗くどんよりとした雰囲気だった。ベッドから起き上がると俺は、すぐにカーテンを開けて確認をする。

『今日は雨か……』

 ここのところ良い天気が続いていたので、お百姓さんにとっては、久しぶりの恵みの雨といえそうだ。しかし俺の心の中には恵みがなく、この雨と同じようにジトジトジメジメとしている。

 まだ昨日の、気まずい気持ちを引き摺っているのかな。最後は遥さんに、ちょっと悪いことを言ってしまったみたいだし。あんなこと言っちゃったので、なんだか妙に意識しちゃって。

 そういう目で見てみると、あの時の遥さんは年上とはいえ、めちゃくちゃ美人で俺のドストライクだった。あれでドSでさえなければ、俺も強気で最後まで行っちゃっていたのかも知れない。

 でも、どうしてあの時、北瑠の涙顔が浮かんだのだろう。目の前にいたのは遥さんなのに……別に北瑠のことを、忘れていたという訳じゃないのだけれど。

 今まで北瑠にはずっと振り回されっぱなしで、途中悪魔(魔女)のように思ったり、女郎蜘蛛のように思ったり、地雷のように思ったりで、まあ未だに疑心暗鬼ではあるけれど、反面どこかで愛おしく思う気持ちもある訳で、そのことが今回AEB(自動緊急ブレーキ)として働いたのかも知れない。

 どうやら俺の心の中には、北瑠という名の自動安全装置がついてしまったらしい。まるで高級車みたいだな。しかし、三十年落ちの軽自動車に付けても、勿体ないだけという気がするのは俺だけだろうか。

 そんなことは別として昨日の遥さんには、なんだか少し心がときめいてしまった。俺って男はやっぱり気が多いのかな? そういやトモちゃんにだって、未だに捨てがたいって思っているし。勝手にそう思ってドキドキするだけならAEBも作動しないし、許されるよね。結局、男ってそういうものなんだから。もし違っていたらごめん。

 俺はそんな愚にもつかないことをぐだぐだと考えながら、ひとり寂しく朝の準備をしていた。

 それはそうと、今日は講義する場所を、ビッグドリームに変更したのだっけ。北瑠とも、なんだか久しぶりに会うような気がする。たった一日空いていただけなのに。

 マスターの『あの屈託のない顔を見ないと、何か物足りない』と言っていた気持ちが、なんとなく分るような気がする。

 準備を済ませて外にでると、雨は思ったよりもしっかりと降っていた。まだ風がないだけましかと思いながら、お気に入りの大型ジャンプ傘をさしてビッグドリームへと向かう。

 途中公園の中を通っていると、例の、そう思い出のベンチが見えてきた。雨が降っていると、いつもと違った景色に感じられる。人通りもなく、どこか寂しげに。傘に当たる大粒の雨音だけが、心の中で静かに響いていた。満開を控えている桜も、今は我慢のしどころと、じっと耐えて濡れそぼっている。

 ここで、あの儚げな北瑠を見たのは何日前だったろうか。確かまだ、十日くらいしか経っていないはず。こんなに短期間で北瑠は、俺の心の中に難攻不落の砦を築いてしまっていた。墨俣一夜城を築いた、秀吉にも匹敵するほどの大物ぶりである。

 ビッグドリームに着くと、すでに北瑠は指定席で悠々とモーニングを食べていた。さすが大物の面目躍如といえる。

「先生、おはようございます。マスターに、モーニングを奢ってもらっちゃいました」

 屈託のない北瑠の笑顔を見た瞬間、朝からのジトジトした気分や外の雨はどこか忘却の彼方にすっ飛んでしまって、俺はなんとも言えないとてもホンワカとした気分に包まれてしまった。

「よっ、文豪。久しぶりに弟子の顔を見たら、急に嬉しくなっちゃたんでな。今日はおまえの分も奢ってやるよ」

 難攻不落の砦は、マスターにもしっかりと構築されてしまっているようだ。北瑠恐るべし。

「マスターありがとうございます。さっき起きたばっかりで、まだ朝飯を食っていなかったので助かります」

 取り敢えずお礼を言って席に着くと、トモちゃんがお水を持って来てくれた。

「文豪さんと北瑠ちゃんが揃って来るのって、何かすごく久しぶりな気がしません?」

「またまた大げさなんだから、トモちゃんは。まだ四日しか経っていないじゃないですか」

 トモちゃんにはそう言って茶化してしまったが、その気持ちはよく分る。

「先生。昨日、先生のメールを見て感激しました。まさか先生の方からメールをくれるなんて、思ってもいなかったので」

「北瑠もトモちゃんに負けず劣らず大げさだな。実は昨日マスターが、どうしても北瑠を呼んでくれって煩くいうものだから、メールをしたんだよ」

 北瑠にはそう言い訳をしながらも、なんだかとても嬉しかった。やっぱり講義の場所をここに変更してよかったよ。こういう軽口を叩けるのも、ビッグドリームならではのことだもんな。

「ところで先生。昨日の打合せは、どうだったのですか?」

「えっ」

 北瑠の何気ない質問だった。しかし、この何気なさが恐ろしい。さっきまでホンワカとした気分に浸っていた俺は、いきなり頭から冷や水を浴びせかけられてしまった。

 そうなんだ、昨日はプロットの再打合せっていうことになっていたのだ。まさか遥さんと、LHに行っていたとは言えないし。さあ困った。またまた無い頭の全知全能を傾けなければならない。

「いや……女子学生の心理的なことや、ストーリーの工夫なんかについて打合せをしたんだけど……散々ダメ出しをされちゃったよ」

「どんなダメ出しだったのですか?」

「いや……もっともっと調査や取材をして、更なる工夫をするようにって……」

 だんだんと説明が苦しくなってくる。全知全能を傾けても、所詮無い頭からは何も出てこない。早く話題を変えなければ。

「それでは小説家になるための、その六を始めよう」

 唐突ながら、俺は北瑠に有無を言わせないように、強い口調でそう宣言をした。苦し紛れである。

「先生、今日のテーマは何になるのですか?」

「今日はこの前の続きになるのだけれど、プロット作成までの具体的なことについて説明しようと思う」

「これからが難しい話になるのですね?」

 何とか昨日の事から、北瑠の注意を逸らせることができそうなので、そのまま講義になだれ込む。

「プロットが物語の骨組みみたいなものと、この前説明したよね。だけど骨は、最初から全て揃っているものではないんだ。何もないところから、何かのヒントを元に膨らませていくのが小説だからね」

「言っている意味はわかりますけど、じゃあどうやってプロットを作成していくのですか?」

「まず、小説を書こうとした時に、何かその切っ掛けとなるものが、必ずあるはずなんだ。それは最初の場面であったり、途中の一場面であったり、結末のようなものであったり」

「切っ掛けとなる場面ですか?」

 北瑠はまだ納得できないようで、不服そうな顔をしている。

「そう。そこからイメージを膨らませていくのだけれど、例えば最初の場面からスタートした場合、どういう結末にもって行くのかをいろいろと考えていくはずで、それが骨組みになっていくんだ。逆も同じで、結末を最初にイメージしたならそこまでの過程をいろいろと考えていかなければならず、その内容が骨組みになるんだよ」

「じゃあ、スタートとなる場面はどこでもいいけど、それを繋げて最初から終わりまでの骨組みを考えていくっていうことですね」

「そういうことだね。まあ、場面ではなく題材を先に思いつく事もあるけど、ストーリーの骨格を膨らませるということでは同じなんだ。最初の切っ掛けとなるものを、俺は『小説の種』と呼んでいるのだけれど、その『種』を大事に育てて、最初から終わりまでの骨組みを建てていくのがプロットなんだ」

 どんな些細な事を切っ掛けにした『種』でも、想像力を逞しくして膨らませていけば、立派に『小説』と成り得ることを俺は経験から学んでいた。そのグレードについては、また別の話だが。

「その種からプロットを膨らませていくには、前回少し説明した、イベントやエピソードやシーンなんかをいろいろと盛り込んだり組み合わせたりして繋げていくといいね。そこに起承転結という考え方を入れていくと、物語に起伏ができて魅力的になるのだよ」

「起承転結……ですか」

「起で読者を引き込み、承で主題を展開し、転で視点を変えて興味を引き、結で全体をまとめるっていうことだね」

「その四つで、物語は構成されるということですか」

「それが基本であり原則ということだけど、全てこのとおりでないといけないというものでもないよ。だから理解した上であれば、敢えてその原則を崩してもいいんだ。起承転結とは別に、序破急や首胴尾という三段階の考え方もあるくらいだから」

「序破急? 首胴尾?」

「まあ、似たようなものだけど、序破急は序で読者を『誘引』して、破で読者の『期待』をあおり、急で読者に『満足』をあたえるということで、首胴尾は首が『序論』、胴が『本論』、尾が『結論』という意味なんだよ。批判を恐れずに敢えて対比するならば、起=序=首。承・転=破=胴。結=急=尾と言えるんじゃないかな」

「承と転がくっついちゃうのですか?」

「もともと、承も転も本論のことなんだ。承で本論をまず展開してから、転でその本論の視点を変えたり、より深く切り込んだり、より内容を広げていくという技術的な面で分けられたと思うんだよ」

「でも先生、その四つだか三つだけだと、長編のプロットは難しいのではないですか?」

「そうだね。そこで例えば、起の部分を更に起承転結で分けるんだ。もちろん起以外の承転結も同じようにね。そういうふうに段々と細かく深く掘り下げていけば、長編小説のプロットも作成可能になるんだ」

「それなら、なんとなくできそうな気がしますね」

「プロットっていうのは、特に形式が決まっているものではないので、最初の起承転結だけでも、それをさらに細分化したものでもプロットということができるんだ。それから、途中での変更や追加もOKなんだよ。なんせまだ完成したものじゃなく、あくまでも小説の途中段階だからね。プロットは成長していくものなんだ。基本は基本としても、自由に発想を広げていけばいいんじゃないかな」

「自由にできるのなら、自分なりのスタイルで作ることができますね」

「そのとおり。極端に言えば、プロットなど一切作成しないと、豪語する作家もいる位だからね。でも初心者は何かしらの骨組みは、あらかじめ作っておいた方がやりやすいと思うよ。プロットという小説の骨組みを考えることで物語の全体が把握できるし、バランスを考えたりページ配分なんかもできるからね」

「本当ですね」

「それから、プロットとも密接に関わってくるのだけれど、その物語のバックグランドやキャラクターシートについても、同時に考えて作成しておいた方がいいと思うんだ。この内容がプロットに反映されることになるはずだから」

「そうですね。バックグランドやキャラクターの一切関係しないプロットって、あり得ませんものね」

「後、プロット作成に際して、追加したり変更したり削除したり順番を入れ替えたりなどをするのに、大変便利なツールがあるので紹介しておこう」

「そんな便利なものがあるのですか? 先生」

「市販のソフトやフリーソフトもあるのだけれど、ワードなんかでも付いている機能で、アウトラインプロセッサというのを使うんだ」

「アウトラインプロセッサ?」

「そう。これは全体をツリー状で表示できるすぐれものなんだ。レベル(階層)でプロットの骨組みを表示でき、さらにそのレベル(階層)の深さを変えることで、より詳しい内容を作成できるんだ。そうやって段々と詳しくすることで、詳細なプロットに仕上がっていく仕組みなんだよ」

「プロットを成長させていくのですね?」

「プロットだけじゃなく、最終的には一番深いレベル(階層)で本文を打ちこんでいけばそのまま小説になってしまうんだ。簡単に追加や変更ができ、更にそれぞれのレベル(階層)における内容を一纏めのブロック単位にして、順番を入れ替えたり、削除したりが、自由に簡単にできるというメリットもあるんだよ」

「すごいです、先生。これを使うと簡易プロットから詳細プロットへ、それから小説本文へと一連の流れで繋がっていきますね」

「これは好き嫌いがあるので、使うか使わないかは自分で判断して決めてくれ」

「わかりました、先生」

「最後に、その小説の良さとか面白さとか特徴などのセールスポイントも、プロット作成と同時並行させながら、自分なりに纏めておいた方が良いと思うよ。それを意識するだけでも、その小説の出来不出来が大きく違ってくるはずだから。それに、新人賞では関係ないかもしれないけれど、編集者と打ち合わせをするときには役に立つと思うんだ。編集者は、商業ベースで売れるのかどうかを一番重要視するからね」

「ありがとうございます。ところで先生、この前の講義で最初に説明のあった、テーマやモチーフやメッセージはまだでてこないのですが、どうなるのですか?」

「う~ん。これについては、どう説明しようかと迷っていたのだけれど……というのは俺の中でも、三通りの考え方があるんだ」

「三通りですか」

「ひとつ目は、最初にテーマ、モチーフ、メッセージを決めてから、それに沿ってプロットを作成するという、ごく一般的な方法と、二つ目はプロットを考えながら同時進行で決めていくという方法と、三つ目は作者が敢えて決めなくても、テーマもモチーフもメッセージも読者が読んで感じることなんじゃないかという考え方なんだけど、まだどれがより良い方法なのか判断できないんだ」

「先生でも判断が、できないのですか?」

「もちろん、最初に決めておくのが良いとは思うんだよ。当然テーマやモチーフやメセージが最初から明確で、それに沿ったプロット作成及びストーリー展開というのは理想だとは思うよ。だけど、最初に決めると物語に制約ができてしまって、自由な発想ができなくなるような気もするんだ。それに、俺自身が、そんなことをまったく意識せずに書いていた頃の小説でも、後から読んでみるとそれなりにテーマもモチーフもメッセージも、立派に存在していたという経験があるので、しっかりとした書きたいものがある時は、そんなに書きたい主題がブレることもないだろうから、一概に最初に決めなくても良いのではないかと思い始めているんだ」

「そう言われると、確かに判断に迷いますね」

「まあ、強烈なテーマやモチーフやメッセージが最初からある時は別として、後はケースバイケースでいいんじゃないかな。但し、最終的に読者が、テーマ・モチーフ・メッセージを一切感じられないというような小説は論外だけどね」

 これで、今日講義しようと思っていた、テーマやモチーフ・メッセージ、更にはバックグラウンドやキャラクターシート、それに基づくプロットに関する講義内容は全て終わってしまった。

 もちろん全て俺流の解釈なので、これが全て正しいとは思ってもいないし、これを北瑠に押し付けるつもりも更々ない。北瑠がこれを参考に自分なりに考えて、最終判断をしてくれれば良いと思っている。

「どうだい、北瑠。ここまで来たら、一度自分の書きたい小説っていうのを、考えてみないか?」

「えっ、もう書き始めても良いのですか? 先生」

「書き始めるっていうのとはちょっと違うけど、どういうものを書きたいのかを考えて整理し、そうだな……できればプロットらしきものを作ってみるっていうのも、いいんじゃないかな。実際にそういう作業をしてみることで、今日の講義の内容を自分で体験できて、自分なりの解釈や判断ができるんじゃないかと思うんだ」

「先生、これが私の処女作になるのですね。それなら一度じっくりと、構想を練ってみます」

「そうだね。でもそんなに力むと、かえって考えがまとまらなくなるから、取り敢えず練習だと思って気楽に始めた方がいいよ」

 北瑠が目を輝かせながら、早く書きたいオーラをビンビンに出しているので、俺は少しだけ抑制してあげることにした。野球でもそうだけど、ホームランを打ってやろうとして力を入れすぎると、得てして凡打になりやすいものだ。

「北瑠が、これからの新たなチャレンジとして、自分の小説に関するプロットを考えていくということで、少し長くはなってしまったけれど、今回の講義は終りにしよう」

 そう言って俺は、強引に講義の終了を宣言することで、一応の区切りを付けた。そうでもしないことには、北瑠はいつまでも意見や質問や感想を繰り出してくるので、切りがないのである。一生懸命なのは良い事なんだけど。

 結局、今回も結構長くなってしまった。回を重ねるごとに、徐々に長くなっていくような気がする。それなのに北瑠は近頃、まったく疲れた様子を見せなくなった。最初の頃は、少しのことでもすぐに疲れていたのに。

 それにつられてか俺自身も最初の頃、この講義が非常な苦痛であったにも関わらず、今では講義をすることがすごく楽しみになってきた。人に教えるということは、人のためでもありながら自分自身の研鑽にもなって、そして喜びにもなる。一石三鳥の効果があるようだ。

 ある意味、北瑠には感謝しなくちゃな。北瑠が弟子にならなかったら、俺はここまで小説について、その書き方について、今のように真摯に考えていなかったかも知れない。北瑠のおかげで、小説家としての初心に戻れたような気がする。

 このようにめったにない真面目なことを考えていたのに、マスターとトモちゃんの野次馬根性は、そんな事にはお構いなしに俺を現実世界へ引き戻そうと手ぐすねを引いて待っていた。

「文豪。もう講義は終わったのか? LH調査の件、もう弟子に頼んだのか?」

 マスターは突然、こんな突拍子もない質問をしてくる。もう、野次馬根性以外の何物でもない。俺も北瑠も唖然とするしかなかった。

「えっ、マスター、急に何を言っているのですか。それはまあ……一応、OKはもらいましたけど」

「文豪さん。LHに北瑠ちゃんと二人っきりなんて危険だわ。狼に餌を与えるみたいなものじゃないの。いいわ、私がお目付け役になってあげる。調査のためだけって言っても二人だけで行かせるのって、やっぱり心配じゃない。ねえ、マスター?」

「そりゃあそうだ。助平な文豪と俺の大事な可愛い北瑠ちゃんを、二人っきりでLHになんか行かせられないよ」

「ちょっと待ってよ。っていうか、誰が助平なんですか。俺、マスターにだけは言われたくないんですけど。それにトモちゃんも。俺の狼はとっくに絶滅して今は草食動物ですから。ベジタリアンですよ」

「文豪。そんな羊の皮を被ってもダメだよ。なあ、トモちゃん」

「そうですよ。北瑠ちゃんは、一途で真っすぐで素直な性格だから、先生のお願いならなんでも聞いちゃうかも知れないけど、いくらなんでも危な過ぎるわよ」

「そうだとも。二人っきりなんて俺は絶対反対だからな。もしトモちゃんの同伴がいやなら、俺が付いて行ってやってもいいぞ」

「マスター。前にも言いましたけど、マジ気持ち悪いから」

「で、いつ行くんだ? 善は急げだ。今から四人で行くか?」

「何を言っているのですか。マスターはお店があるでしょ。いくら話を面白くしたいからといっても、現実逃避はしないで下さいよ」

「そうよね、やっぱりマスターはお留守番で、私がお目付け役で行くしかないわね。私も一度LHって行ってみたかったのよ」

「えっ、トモちゃん。今まで行ったこと無かったの?」

「いや……行ったこと……ないこともないんだけど……」

 何かトモちゃんの歯切れが、急に悪くなってきた。きっとトモちゃんも遥さんと同じで、威勢のいいことを言ってはいても、結構ウブなんだ。

 LHについて興味津津なのにそれを直接表現できず、お目付け役などという口実を設けているだけということが、北瑠教授の論文によって、ようやく俺にも分るようになってきた。

 男にとって女性心理というのは、それほど複雑で難解で奇怪で、一筋縄ではいかないものなのである。

「先生、私もトモちゃんが一緒なら安心です。なんだかワクワクしてきました。今から三人で探検に行きましょう」

「ちょっと待って、北瑠。まだ俺の心の準備が……」

「文豪さん。男のくせに何をグジグジと言っているのよ。北瑠ちゃんと私の両手に花じゃないの。こんなに綺麗な花って他にはないわよ」

 歯切れの悪かったトモちゃんが、この機を逃さず急に息を吹き返してきた。しかも北瑠と自身を『両手に花』とか『他にはない綺麗な花』などと、自信満々で例えている。その自信はいったいどこからくるのか。そうは言いながらもそれを認めざるを得ないのが、俺にとっては少々癪にさわるところではあるのだけれど。

「マジで文豪が羨ましくなってきた。一発殴ってもいいか?」

 やけくそ気味のマスターは、もう支離滅裂だった。

「マスター、ちょっと待ってよ。それって妻子持ちの言うことですか」

 俺もマスターに殴られるのは嫌だから、取敢えずささやかな抵抗を試みる。

「そうですよ。マスターはお店があるのだから、大人しくお留守番をしていて下さい。結果報告は、ちゃんと私からしますから」

 トモちゃんのこの最後通告で大勢が決まってしまい、遂になんの心の準備もないまま北瑠とトモちゃんの二人をつれて、LHの探検に行くことが決定してしまった。

 これってもしかして、小説のなかの主人公の女子学生と、人畜無害の男子学生そのものなんじゃないだろうか? 草食動物の俺だから、この設定にぴったりだし。ただ、いつベジタリアンからの宗旨替えをしないとも限らないけどね。まあ、それはそれで小説に活かせそうな気もするし。積極的な二人に表向きドン引きしながらも、何故かそんな不埒なことを思い浮かべてしまった。

「でも先生。どこのLHにいくのですか? この近くの駅前にあるのは、知っている誰かに見られそうで、さすがに恥ずかしいんですけど……」

「北瑠ちゃん、安心して。少し離れた郊外型のLHに私の車でいきましょう。車なら、知り合いに見られる心配もないし、そんなに恥ずかしくはないでしょ」

「トモちゃん、車を出してくれるの? ありがとう、助かるよ。車なら駐車場から直接部屋に行けるので、三人で行っても怪しまれずに済むからね」

 実際のところ俺は車を持っていなかったので、どうしようかと案じていたのだが、トモちゃんのお陰でその心配は杞憂に終わった。

「三人共、調査結果はちゃんと報告するんだぞ。一人あたりレポート三枚以上だ。コピペのレポートは受け付けないからな。特にトモちゃんは、文豪の不審行動を詳細に報告するように」

 一人留守番に決まってしまったマスターは、腹立ちまぎれにそう言って俺たちに八つ当たりをする。まあ、どんなに腹をたてても妻子持ちのマスターが、ましてお店をほっぽいといて行ける訳がないのは、最初から分っていたことなんだけどね。

 結局、北瑠と俺は一度家に帰ってから、お店が暇になる夕方に、トモちゃんの待つビッグドリームで待ち合わせをするということで、話が決まり解散をした。

 外に出ると、朝から降っていた本格的な雨はすでに止んでいて、お土産に大きな水溜りを残している。もう傘はいらないな。家に置いてこよう。


 夕方、準備をしてからビッグドリームへ戻ると、トモちゃんはすでに車に乗って待っていてくれた。マスターの顔を見るのもなんだか気まずいので、俺は喫茶店の中には入らず、そのままトモちゃんの横に滑り込む。

「LHの探検なんて、何かすごくワクワクするわね。きっとこの小説はヒットするわよ、文豪さん」

 トモちゃんは正面を向いたままハンドルをギュッと握りしめ、目を輝かせながらそう言って俺に声を掛けてきた。LHに対してなのか探検に対してなのか、はたまた三人で行くという異常事態に対してなのかは分からないが、一人で興奮して盛り上がっている。純粋に俺の小説がヒットすれば良いのにという希望的観測から、そういっているだけなのかも知れないけれど。

「はあ、そうだと良いのですが。まだ何も書いていないので、海のものとも山のものとも谷のものとも空のものとも分りかねます」

 トモちゃんのテンションについていけず、俺がそんな弱気な返答をしていると、前から北瑠が歩いてくるのが見えた。何か知らないが午前中の服装ではなく、この前とも少し違うオシャレな服に着替えをしてきている。

「北瑠ちゃん、リキ入っているわね。何か負けそう」

 まだ外にいる北瑠には聞こえないのだろうが、トモちゃんが独り言のように、そう呟くのが俺の耳に入ってきた。

「先生、トモちゃん、遅くなってすみません。私、LHって初めてなので、どんな服装で行けば良いのか迷っちゃって」

 遅くなった言い訳をしながら、北瑠も後ろの座席へと滑り込む。軽自動車ながらファイブドアなので乗り降りはしやすそうだ。

 おっと、そんなことはどうでも良いのだけれど、北瑠はLHに行くのが初めてだったのか? 遥さんもトモちゃんも久しぶりなんていっていたから、俺の周りはウブなのばっかりだな。美人揃いなのに勿体ない。

「それじゃあ、LHに向かって出発進行、レッツゴー」

「トモちゃん。何なのですか、そのハイテンションは」

「だって楽しいじゃない、探検するのなんて」

「私もです。小さい頃に近所の子供が集まって、近くの神社やお寺の中を探検した時のことを思い出します」

「だけど今日はLHだよ。女の子なんだから、もっと恥ずかしそうにできないの?」

「何を言っているのよ。相手が文豪さんで、しかも北瑠ちゃんと私の女が二人もいるのに、何で恥ずかしがらないといけないの」

「トモちゃん、その言い方って、結構へこむんだけどな。俺のことを男として見ていないってことじゃないですか」

「だって文豪さんは草食動物なんでしょ。それに女の子が二人もいるのだから、そんな変なことにはなりっこないっていう安心感があるのよ。だから、思いっきりLHの探検が楽しめそうじゃない」

 LHって、本来と異なる使い方をして楽しいものなのだろうか? 俺は小説のための調査だから仕方がないけど。何かLHに対しても悪いような気がする。『本来の使い方じゃなくてごめんなさい』と、取り敢えず心の中で謝っておく。

「文豪さん。この通りにはたくさんあるみたいだけど、どこに入ります?」

「先生。私メルヘンチックで、可愛いところがいいです」

「北瑠はそういうところがいいのか? おこちゃまだな」

「先生。またそうやって私のことを子供扱いにする。プン、プン」

 北瑠はそう言って得意の可愛いふくれっ面をする。最初にこれを見た時は、俺も事前情報を持っていなかったので、本当に怒っているのかと不覚にも思ってしまったが、こんな可愛いふくれっ面を見て何故そう思ったのか、今では不思議でならない。

「北瑠ちゃん、あそこなんかどう。可愛らしい男の子と女の子の天使の絵が書いてあるところ」

「トモちゃん、そこはダメなんだ。三人では入れないんだよ」

「えっ、文豪さん、どうしてそんなことを知っているの?」

「いや、三人っていうのが、どうしても気になってしまってね。来る前に、このあたりのLHの許容人数について、ネットで調べてみたんだ」

「LHって一部屋いくらじゃなかったんだ……」

 さすがのトモちゃんも、人数制限については知らなかったようだ。久しく来ていないというのは、どうやら本当らしい。

「それなら、私たち三人でも入れるLHって、あるのですか? 先生」

「その次に見えているところは、四人までOKだけど、男は一人しかダメみたいだね」

「じゃあ、マスターがいなくて幸いだったわね、文豪さん」

「北瑠、どうする? 全然メルヘンチックじゃないんだけど……」

「先生、私に訊かないで! 私初めてなんだから、先生に全てお任せします」

 今更ながらではあるが、北瑠の言い回しは本当に変だ。俺以外の男なら絶対に勘違いしてしまうぞ。これで本当に小説家になれるのだろうか。まあ、小説家という人種は、人とは違う表現や描写をしようと躍起になっているので、それはそれで向いているのかも知れないが。

「じゃあ、文豪さん、そこに車を入れるわね。あんまりウロウロしていると目立っちゃうから」

 俺たち三人を乗せた軽自動車は、LH入口にぶら下がっているビニール製のれんを潜っていった。普通、こののれんを潜る一歩を踏み出すのは、相当に勇気がいるものなんだけど。そういう意味では、トモちゃんは怖いもの知らずだ。男とは違う感性があるのかも知れない。

 中に入ってみると、このLHはフロント受付タイプだった。窓口は小さいので、お互いに顔を合わせるということはないのだけれど、直接やり取りするのはやっぱり気恥ずかしい。無人でパネルを見て選択するタイプだったら良かったのに。これだけは初めてのLHだと、入ってみないことには分らないからな。

 さっきまで威勢の良かったトモちゃんも北瑠も、俺の背中に貼り付いて隠れてしまった。

入ってしまったものは仕方がない。勇気を出して、俺が窓口でのやり取りをする。そして鍵を受け取ると、そそくさと部屋へと向かった。


「見て見て。岩盤浴があるわよ。それにお風呂は全室露天風呂だって」

 部屋に入った途端、トモちゃんのハイテンションが復活し、早速部屋の中をあっちこっちと探検し始めた。北瑠は初めてのLHで戸惑っているのか、トモちゃんの後ろを金魚の糞の如くついて回っている。

「北瑠ちゃん、こういうところはね、まずアメニティをチェックするのよ。評判の良いLHっていうのは大概アメニティが充実しているものなのよ」

 トモちゃんは、北瑠が初めてのLHだと知って、お姉さんらしく――っていうか偉そうに講釈をし始めた。だけど、本当かな? 遥さんは確かバスルームが最初って言っていたようだし。

 トモちゃんにしろ、遥さんにしろ、俺は今一信用することができない。二人とも久しぶりのLHだって言っていたけれど、それ自体もなんだか怪しく思えてならないんだ。やっぱり、年齢的なものがそう言わせているんじゃないかと思って。

 北瑠は若いから、素直に初めてですって言えるのだと思うけれど、トモちゃんも遥さんも、とても初めてですと公言できるような年齢じゃないからな。ごめんね、こんな穿った見方をしてしまって。でも、そんな二人と素直な北瑠が、俺は大好きだよ。頭の中で、そんなハーレム状態を勝手に妄想しながら、人には言えない心の声に一人陶酔していた。

「文豪さん、何一人で落ち着いているのよ! 探検隊の隊長はあなたでしょうが」

 自分とのテンションの違いに気付いたのかトモちゃんが、一人感慨に浸っている俺を見咎めて、そういってダメ出しをする。

 ソファーに座ってあらぬ妄想に耽っていた俺は、トモちゃんのテンションに圧倒されて、夢の世界から現実世界に引き戻されてしまった。妄想中に蘇りかけた絶滅寸前の狼を、俺は再び闇の中へと葬り去らなければならない。

「トモちゃん、そんなに慌てなくても、時間はたっぷりあるのだから。慌てるとインディージョーンズみたいに、次から次へとトラブルが舞い込んでくるよ」

 別に俺はインディージョーンズを否定している訳ではない。只、ここは迷宮でも秘境でも魔宮でも魔境でもないのだから、慌てて探検しなければならない理由がないと言っているだけだ。

「先生、でもせっかくだから、みんなで一緒に探検しましょうよ。私、どこから探検すれば良いのかよく分らないし」

「しょうがないなあ。北瑠は初めてだから知らないと思うけど、こういうところはフードサービスが、どれだけ充実しているかを見るだけでもランクが分るんだよ」

「フードサービスって? 出前かなんかあるのですか?」

「出前じゃなくて、ホテル内で最終調理をしているんだよ。このLHはワンドリンクとワンフードがサービスになっているのだけれど、取り敢えず何か注文してみないか?」

「文豪さん、やけに詳しいわね。前に来たことがあるの?」

 トモちゃんはソファー横のベッドに、腕組みをしながら腰掛けて、冷やかな視線を俺に投げつけてきた。

「いや、ネットで見たお得情報なんだけど……」

 鋭い突っ込みに、俺はタジタジとなって言い訳をする。本当に初めてなのに、なんだか疑われているみたいだな。まあ、昨日、遥さんと下見をしてきたという実績と自信が、知らず知らずのうちに態度に出てしまったのかも知れないが。

「さっき、フロントでメンバーの申し込みをしておいたんだけど、いろいろな特典があるらしいんだ。利用料金の割引の他にドリンクやフードのサービスもついているんだって」

「文豪さんって、やっぱり羊の皮を被った狼だったのですね」

 トモちゃんは、どうしても俺を狼にしたいらしい。だけど、いくら狼でもレンガの家には手も足もでないもんな。煙突の下では火がくべられているし。

「北瑠。そこにメニュー表があるから、好きなドリンクとフードを一品づつ選ぼうよ」

 俺は北瑠にそう言って、一先ずみんなで食事することを提案した。これが調査ではなく本来の使い方で来ているのだったら、羊の皮をかぶった狼は、きっとそれを後回しにしてしまうところだけど。

「文豪さん、運転免許って持っていますよね?」

「何? トモちゃん。免許は持っているけど車は持っていないよ」

「それなら、帰りは文豪さんが運転してくれない? 私、なんだかビールを飲みたくなっちゃったのよ」

「先生、私もビール。こういうところでビールを飲むのなんて、すごく貴重な体験って感じがするんですもの」

「えっ、おこちゃまにビールを飲ませるのは、なんとなく気が引けるんだけど」

「先生。また私のことを子供扱いにする」

 北瑠のふくれっ面は、何度見ても可愛いな。これが見たいがために、敢えてそんな意地悪を言ってしまったような気もする。

 それはそうと、そうなると俺は必然的にノンアルコールか。まあ、二人共俺の取材に付き合ってくれているのだから、贅沢は言えないけどね。

 このLHはドリンクもフードもメニュー豊富で、値段もそれなりに手頃感があり、LHとしてのランクはかなり高そうである。

 しかし、フードの方は軽く済ませようということで、それぞれ好みのパスタを選んで注文した。三人なので一人分は実費になってしまうけれど。なんだかLHに来たというよりは、単に食事会をしているだけのような気もする。


「文豪さん、折角LHの探検にきたのだから、いろいろと体験してみたいんだけど」

「えっ、いろいろって?」

 食事の後、トモちゃんがそんな意味深な発言をしだして、俺はなんだかドギマギとしてしまった。これが北瑠だったら、又俺を振り回しているだけと思うところだけれど。

「あっ、文豪さん。今、変なこと考えたでしょ。私が言っているのは露天風呂とか岩盤浴って、普段なかなか体験できないので、北瑠ちゃんと二人で体験してみたいってことなの。その間、文豪さんはゲームしたり、DVDを見たりを体験していてくれていいわよ。だから絶対に覗かないでね」

 なんだ、これじゃあ、やっぱり北瑠と同じじゃないか。それに、いくら草食動物だとはいえ、お預けはちょっと厳しいかも。目の前に美味しそうな餌をぶら下げられて、我慢できるのだろうか。

「わかったよ。いいよ、二人で入ってくれば」

 内心では、湧きあがってくる邪心と戦いながらいろいろと葛藤していたが、表面は取り繕ってそう返事をした。これって、やっぱり羊の皮を被っているっていうことになるのかな。でも結局、絶滅危惧種の狼にはなりきれないんだよな、俺は。

 しかし、よくよく考えて見るとLHの取材なんだから、あいつらじゃなく俺自身が体験しないといけないような気もしてきた。あいつらは結局、取材協力とか言って、自分が楽しんでいるだけなんじゃないだろうか。そう思うと素直にゲームをしたりDVDを見て待っているのが、急にバカらしくなってきた。

 よし、こうなったら俺の中で絶滅寸前になっている狼が、どこで生存しているのかを確かめてやる。そうだ、俺の中の野生を再び蘇らせるのだ。

 そう意気込んで、VOD(ビデオオンデマンド)を検索しながら、DVDのタイトルを見ていると、やたらと『S』とか『M』とかが目についた。トモちゃんには、よく指摘されていたけど、俺って本当にそんな趣味があったのかな。そう考えるとなんだか嫌な気分になってしまって、DVDをみる気にもならなくなった。やっぱり俺の中の狼は、絶滅してしまったのだろうか。

 テンションを下げながら、他に何をしようかと辺りを見回すと、何故かその場には少し不釣り合いなマッサージチェアが目についた。

 文筆家っていうのは、結構肩がこるものだ。それに腰も悪いんだ。よしこの際、待っている間にマッサージをしよう。

 その場に少し不釣り合いとは言ったが、マッサージチェアそのものはかなり豪華で、最新式のように見えた。いろいろな部位を好みによって選択できる。俺は迷わず全身を選んだ。首筋から肩、背中、腰へと続き、ふとももやふくらはぎや足首、それに腕までもんでくれる。果てはおしりのお肉まで。全身コースという名に偽りは無い。

 俺がマッサージチェアで入念に体をほぐしていると、露天風呂と岩盤浴の体験を終えたトモちゃんと北瑠が戻ってきた。

「何? 文豪さん。お年寄りみたいなことをして。てっきりHなDVDでも見ているのかと思っていたのに、本当に絶滅してしまっているのね」

 ト、トモちゃん、それってどういうこと? 俺って軽蔑されている? 狼は絶滅させない方が良かったの? 結局俺はどうすればいいの? 

 その時俺は、男を振り回すのは何も北瑠だけの専売特許ではないことを悟った。女はすべからく、みんな男とは正反対なんだ。男が良しとすることはダメで、男がダメとすることは良しとする。要するにあまのじゃくなんだ。それが女の本質だということは、今まではうすうす気づいてはいたけれど、今日は確信するにいたってしまった。

「先生、とっても良いお湯でしたよ。先生も入ってくれば?」

「そうよ、文豪さん。ゆっくりとお風呂を体験してきて。その間に北瑠ちゃん、二人でカラオケの体験をしましょう」

 わかったよ。いくよ。露天風呂でも岩盤浴でも。でもこういうのって一人で行くのは、すごく味気ないんだよな。両手に花なんて言っちゃって、二つの花自身が楽しんでも本体は、ちっとも楽しくないんですけど。

 せっかく調査に来たLHだし、この前の遥さんの時のように何の体験もしないで帰るというような勿体ないことはしたくなかったので、岩盤浴は別としても露天風呂だけでも体験して帰ろうかと思いなおした。

 露天風呂といっても、いわゆる温泉旅館のようなものではない。リゾートホテルのように、近代的でオシャレな楕円形のジェットバスだった。バスルームの上方に斜めに付いている大きな窓が開いて、辛うじて空をみることができるので、露天風呂と称しているようだけど。

 すでにお湯はためられていたし、ジェット水流で表面も激しく泡立っている。誰もいないので、俺は勢いよくバスタブに飛び込んだ。まあ、味気なくとも、一人だからこそできる特権だよな。

 ジェット水流を腰に当てながらくつろいでいると、正面に浴室TVが見えた。あるに越したことはないのだろうが、風呂に入ってまでTVを見る気にはなれない。何より画面が小さくて音も聞き取りにくいし。トモちゃんの歌うハイテンションなカラオケの音が、ここまで響いているせいでもあるのだけれど。

 トモちゃんは、結局何しに来たのだろうか。俺のお目付け役なんて、口実としか思えないんだ。あれだけ一人ハイテンションではしゃぎ回られると。そう考えると北瑠の方がまだましに思えてきた。言い回しは変でも、少なくともここまで俺をないがしろにはしないからな。

 そんな取り留めのないことを考えながら浴槽をでると、俺はトモちゃんのカラオケをBGMに、取り敢えず頭と体を洗うことにした。『これで家に帰ってから、風呂に入らなくても済むな』などと、ちょっぴりせこいことを考えながら。


 身体を綺麗さっぱりと洗い流し、その後も存分にジェットバスを体験してから風呂をあがると、カラオケは北瑠の番になっていた。スローなテンポの歌を、情感たっぷりに熱唱している。意外とうまいじゃないか。北瑠なら女優でも歌手でも、売り出し方によってはいけるんじゃないか。さすがにアイドルは無理があるけど。小説の師匠の俺がいうのもなんだけど、やっぱり北瑠を小説家にするのは勿体ないような気がする。

「先生。先生も何か歌って下さい」

 歌が終わった後、無意識で大きな拍手をしていた俺に、北瑠は照れた様子で無邪気にそう言ってリクエストをしてきた。

 でもカラオケって俺は、ちょっと苦手なんだよな。遥さんとの時は咄嗟の逃げにカラオケなどと言ってしまったけれど、本当は映画にしておけば良かったのにと後から後悔していたんだ。あの時は、遥さんが帰ると言ってくれたから助かったけど。

 自分ではあまり分らないのだけれど、多分音痴なんだ。俺の歌を聞いた人は、みんな笑うし。やっぱり人から笑われるのっていやだからな。

「歌は勘弁して。俺は音痴だから。きっとトモちゃんも北瑠も笑うと思うし」

「何言っているのですか、先生。弟子が先生のことを笑うなんて、そんな大それたことをする訳がないじゃないですか」

 前にもそんなことを言っていたよな。でも、言っているそばから口角が上がってきているのは、いったいどういう訳だ。すでに笑う準備をしているんじゃないだろうな。

「文豪さん、私も聴きたい。文豪さんの歌って、まだ一回も聴いたことがないもの」

「そうですよ、先生。音痴かどうかなんて、聴いてみないと分らないじゃないですか」

「でも、二人共絶対笑うから……」

「笑いませんよ。ねえ、トモちゃん」

「本当に? 本当に笑わない?」

「も~、文豪さん。往生際が悪過ぎ。さっさと歌っちゃってよ。その次にもう一曲私が歌うんだから」

 まったく、トモちゃんには敵わないな。結局このLHの探検では、トモちゃんが一番楽しんでいるんじゃないだろうか? 単なるお目付け役のはずなのに。

 仕方なく俺は、十年以上前の歌を選曲した。はっきりいって、今の歌は全然知らないんだ。選曲からして『若くないですよ』などと、トモちゃんに言われそうでいやだったんだけど。

 俺が歌い出すと二人共、顔面神経痛になってしまった。唇の端がピクピクと痙攣しているのが、歌いながらも見てとれる。もういいよ、笑いたければ笑っても。そんなに必死で堪えている顔をされる方が、よっぽどプライドが傷つくってもんだよ。

「先生、大丈夫でしたよ。思ったほどじゃなかったし」

 北瑠……いくら弟子だからって、まだ口角を元に戻せず痙攣させながら、そんな皮肉にしか聞こえないような、見え透いて嫌味なお世辞を言わなくてもいいんだよ。

「でも、文豪さんの後だと、歌いやすいのだけは確かね」

 まったく容赦無しだな、トモちゃんは。俺の繊細なハートはズタボロだ。ある意味、遥さんよりSかも。

 その後結局、トモちゃんが三曲、北瑠が二曲歌ってお開きにした。当然のことながら俺は最初の一曲だけである。


「先生、LH探検隊って、意外と楽しいですね。また今度連れてって下さいね」

「北瑠ちゃん、本当よね。大学生じゃないけど、いっそうのこと私達でLH探検隊のサークルを作っちゃいましょうか」

「それは勘弁してよ、トモちゃん。いくらベジタリアンな俺でも、そう毎回お預けでは身がもたないから」

 俺の運転する帰りの車中でも、このように北瑠とトモちゃんのテンションは上がりっぱなしで、俺の小説のイメージとは全然かけ離れていた。

 小説の中の女子学生は、もっとドキドキハラハラとして恥ずかしそうにする設定なんだけど。少し軌道修正した方がいいのかな? 現実とあまりにもかけ離れた小説って、やっぱり問題があるよな。

 それはさておき、北瑠とトモちゃんを送って行かなければならないので、俺はそれぞれの家の場所を確認することにした。すると、奇妙な位置関係にあることがわかった。

 最寄駅からすると、その南側徒歩五分位のところに喫茶ビッグドリームがあり、そのすぐ南には例の公園がある。ビッグドリームは公園の北側に位置することになる。北瑠の住むワンルームマンションは、公園の南東側に位置し、トモちゃん家は南側、俺のアパートは南西側に位置していた。要するに、それぞれが公園を取り囲むような位置関係になっているのである。それがどうしたと言われればそれまでなんだけど。

 その位置関係を分析した結果、俺は最初に北瑠のワンルームマンションへと向かうことにした。

 都心から二時間も離れた田舎にしては、近くにいくつかの大学があることから、ワンルームマンションも珍しくはない。そうは言っても、昭和の匂いのする安アパートではなく、設備の整ったワンルームマンションに入れる学生は、恵まれた存在と言える。

 恵まれた存在の北瑠は、恵まれない存在の俺に、お別れの挨拶をした。

「先生、今日は楽しかったです。また今度連れてって下さいね。ところで、明日の講義はどうなります?」

 そうか。明日のことは全然考えていなかった。まいったな。

「明日か……取り敢えず午後二時からビッグドリームということでいいかな? テーマはまだ考えていないのでそれまでに考えておくよ」

「文豪さん。マスターへの報告はそれまでしない方がいいですか。やっぱりみんな一緒の時の方が盛り上がりますものね」

「それはどっちでもいいけど。でもトモちゃん。それって話を面白くしたいということだけですか」

「そりゃあそうよ。近頃これだけ面白いネタって、めったにないもの」

 その返答に何かいやな予感がしながらも、結局俺はそれに反論することもままならず、ワンルームマンションへと消えていく北瑠を見送った。

 北瑠を送れば、次はトモちゃん家だ。トモちゃんの案内で車を移動しながら家に着くと、そこは玄関横に二台分の車庫がある、俺の思っていた以上に立派な一軒家だった。表札には『牧村』とあった。

 確かトモちゃんは『智美』だったから、『牧村智美』になるのか。ビッグドリームにはトモちゃん目当てで長いこと通い詰めていたが、フルネームまでは知らなかった。今まで知らなかったフルネームを知ることができて、なんだかトモちゃんのことが、急に身近な存在に思えてきた。

 車を入れる際、俺はエンジンをあまり吹かさずに、なるべく家人に気付かれることのないよう注意する。

 トモちゃんのことは前から好きだったけど、まだそんな関係でもないし、今では北瑠のこともあるので変に勘ぐられたくなかったからだ。

「トモ? 誰かと一緒?」

 車を駐車して、そっと外へ出てからトモちゃんにキーを返していると、家の玄関から年配の女性が現れた。どうやらトモちゃんのお母さんのようだ。俺の隠密行動は失敗したらしい。忍者失格である。

「こ、こんばんは……ほ、本田と申します……きょ、今日は、トモちゃんのお車をお借りいたしまして……」

 見つかってしまったものは仕方がない。霧隠才蔵ではあるまいし今更隠れることもならず、俺はドギマギしながらもそう言って挨拶をした。

 背はトモちゃんより拳ひとつ分位低く、髪の毛も年配者らしいショートにしているが、どこかトモちゃんとの血の繋がりを感じさせる端正な顔立ちをしている。

「あっ、本田さんですか。いつもトモから小説家のお友達がいると、話は聞いています」

「売れない小説家で恐縮です」

 いいのかな、こんな挨拶をしていて。

「ママ。本田さんのお弟子さんと一緒に、小説の取材に付き合っていたの。今、お弟子さんと別れたところなのよ」

 さすがトモちゃん、的確に、しかも当たり障りなく状況を説明している。何でみんな、こんなに小説家よりも表現力があるのだろうか。俺は自信を喪失してしまう。まあ、もともと自信なんてないんだけどね。

 トモちゃんのお母さんは、『中でお茶でも』と頻りに勧めてくれたが、お礼を言いながらも丁寧にお断りして、一人歩いて家路についた。

 安アパートに帰り着くと、俺は何故か疲れ果てていた。もう何もする気にもなれず、そのままベッドに倒れこむ。

 今日も長い一日だったな。風呂も済んでいることだし、まあいいか。

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