第9話 九日目 LH実地調査
翌日は、久々に朝寝坊をした。昨日、あれこれと考えて寝付けなかったこともあり、又、北瑠が今朝はこないという安心感というか物足りなさのようなものが、そうさせたのかも知れない。
俺は、昨日の夜に考えた内容を、PCで急ぎ纏めてプリントアウトをする。まあ、この前の簡易プロットに追加したり変更したりというもので、そう大したものではないが。それでも遥さんに、前とは違う部分をアピールして見せないことには、どんなお仕置きをされることかわかったものじゃない。なんせ、ドS編集者だからな。遥さんは。
そんなことをあれこれ考えているうちに、何故か妙に腹が減ってきた。そういえば朝寝坊をしたので、まだ朝飯を食っていなかったことを思い出し、こうなったら朝昼兼用だとばかりに、ビッグドリームへ早めのランチを食べていくことにした。
ビッグドリームに着くと、まだランチタイムにしては少し早い時間帯ということもあって、客は一人しかいなかった。それにも関わらず指定席は、その先客によって塞がれていた。仕方なく俺は、空いている席に座った。
「文豪さん。しばらく顔をみせませんでしたね。お弟子さんとは、うまくやっているの?」
早速トモちゃんがお水を持ってきて、多少皮肉を交えたご挨拶。
「何を言っているのですか、トモちゃん。しばらくなんて言って、まだ二日しか間があいていないですよ。いくらトモちゃんのことが好きでも、貧乏作家は毎日、喫茶店に通えるような身分じゃないですからね」
目には目を、歯には歯を、皮肉には皮肉でもってお返しをする。聖書の本来の解釈とは少し違っているのかも知れないが、現在ではこの使い方の方が多いのだから許容されるはず。誤用ランキングまでは分らないが、かなり上位に位置するのではないだろうか。
「文豪。そんなことより、今日は弟子は来ないのか? どうも最近、あの屈託のない顔を見ないと、何か物足りなくってな」
マスターもトモちゃんも、北瑠のことが気になって仕方がないって感じ。短期間でこれだけ人の心をつかんでしまう北瑠は、すごい才能の持ち主なのかも知れない。これだけの吸引力があるのなら小説家よりも女優の方が、はるかに向いているのではないかとつい思ってしまう。
「残念ながら今日はこないですよ。今から俺はドS編集者の、お仕置きを受けにいくところですから」
「いやだ~、文豪さん。Sかと思っていたのに、Mだったのですか?」
「トモちゃん。そのSとかMとか勝手に決め付けるのは、やめてもらえませんか。すごく人聞きがわるいんですけど」
まあ、これ位の軽口はいつものことなんだけど、それでも今の会話を他の客が聞いていたら、俺のことを超ド変態と思うんじゃないかと、少し恥ずかしくなった。こう見えても俺は、結構恥ずかしがり屋さんの常識人だからな。
「文豪、明日でもいいから連れて来いよ。講義なら、ここですればいいじゃないか」
「マスター、よっぽど気に入ったのですね」
マスターに、ここまで言われたのでは仕方がない。俺としては助平なマスターの目に、あまり晒したくはなかったのだが。
ランチを食べ終わった後に、明日の講義の場所を変更するメールを、北瑠に送った。最初は、いやいや交換した携帯番号とメールアドレスだが、やっと役に立つ時がきたって感じかな。
マスターとトモちゃんには、明日まで暫しの別れを告げて、俺は片道約二時間の小旅行に出かけた。北瑠が小説家になったら、一緒にこられるかな? などと、ちょっぴり淡い期待や希望を持ちながら。
待ち合わせの喫茶店に行ってみると、遥さんはまだ来ていないようだった。いつもの席には、先客の女性が座っている。白いブラウスに黒のビジネススーツという、いたってシンプルないでたちながら、かなりの美人だ。肩までの髪の毛も綺麗にブラッシングされ、清潔感があふれている。
んっ? 肩まで? 何か違和感っていうかなんていうのか引っかかりのようなものを覚えて、もう一度その女性を見直すと、こっちに向かって手を振っている。
えっ、もしかして遥さん? め、眼鏡はどうしたの? それにいつもだったら、こっちが恥ずかしくなるくらい大きな声で呼ぶのに、今日は小さく手を振るだけなんて。いったいどうしちゃったの?
「本田くん、気付くのが遅いわよ。さっきから手を振っていたのに」
遥さんは俺が向かい側の席に着くなり、そう言って早速ダメ出しをしてくる。
「でも、全然遥さんだと思わなくて。眼鏡もかけていないし、髪型も変わっちゃっているし。それに声もかけてくれなかったから。いったいどうしちゃったのですか?」
「どうしたも、こうしたもないでしょ。私はこれでも、ちゃんとTPOは弁えているつもりよ。この格好で大きな声なんて出せる訳ないじゃない。仕事の時は仕事、そうじゃない時はそれなりのスタイルってものがあるのよ」
「仕事の時は分るんですけど、今日はいったいなんのスタイルなんですか?」
その時、何故か遥さんの目が急に三角になったような気がした。俺の気のせいなら良いのだけれど、どうやらそうではなさそうだった。知らないうちに、遥さんのスイッチを押してしまったらしい。
「何? 本田君。今日はどういうつもりで来たの?」
「どういうつもりって、プロットの打合せでしょ?」
「何を言っているのよ。LH探検隊のことが会議でOKがでたから、次のステップに行くために呼び出したんでしょうが」
「だから更に詳細なプロットの打合せでしょ?」
「ばかね。プロットなんか何回も打合せしたって無駄じゃない。進めるためには女子学生への取材と更なる工夫と、それよりも何よりもメインのLHについて調査をしないことには始まらないでしょ」
「LHの調査と言われても……」
「本田君、そんなことだから何時まで経っても筆が進まないのよ。そう思って今日はLH調査の準備をしてきたのだから」
「えっ、LHの調査ですか?」
「当たり前じゃない。この前、一度だけ付き合ってあげるって約束したでしょ。今日は午後から珍しく空いていたので、調査に付き合ってあげようと思ったのよ」
「えっ、遥さん。今からLHの調査に行くのですか?」
「何? 何か不満でもあるの」
「いえ、そうじゃないんですけど……心の準備ってものが……」
「男が何をごちゃごちゃと言っているのよ。 女の私が心の準備をして、TPOを弁えてこれだけ支度をしてきているのに」
「えっ、遥さん。眼鏡をかけていないのも、髪型を変えているのもLHの調査のためだったのですか」
「当然でしょ。せっかくLHに行くのに、いつも通りの仕事スタイルなんて味気ないじゃないの。これでも私は、常にTPOを考えているのだから」
どうやら遥さんは、最初からLHの調査のためだけに俺を呼び出したようだ。
「でも遥さん。今の女子学生に取材したところでは、LHなんて言っていると旧世代の人類だって言われるみたいですよ」
「それって、どういうこと? LHじゃだめなの?」
「俺が女子学生に取材したところでは、LHって表現するのは三十才以上で、二十代はほとんどがカップルズホテルって言うようなんです。もし略するとすればCHになるんじゃないですか」
「何、それ? 私のことを三十路のおばさん扱いするわけ? もともとLH探検隊なんてタイトルを考えたのは、あんたでしょうが」
「それはそうなんですけど……俺も三十路なので……」
あまりにも不毛だ。三十路の遥さんが、CHを理解できず、LHに固執するのは分らなくもないが、それを同じ三十路の俺に八つ当たりされても。どうやらまたも、遥さんのスィッチを押してしまったらしい。
いくら眼鏡をはずして髪型も変えて見違えるように綺麗になっていても、遥さんのドS体質は全然変わっていなかった。
「で、遥さん。俺は、この辺りのことについてあまり知らないんですけど、LHってどこに行けばあるのですか?」
「それなら任せといて。多分そんなことだろうと思って、事前に調べておいたわ」
そういって遥さんが選んだLHは、出版社のある地下鉄駅からは、いくつかの乗り換えを経てやっと辿り着くことのできる、大きなターミナル駅に程近いところにあった。これだけ離れていれば、知り合いに偶然会ってしまうというハプニングの可能性は、極めて少ないはず。遥さんはそういうことも計算した上で、この都会型LHを選択したようだ。
「遥さん、俺の後ろに隠れないで下さいよ。俺だって恥ずかしいんだから。ここは、遥さんが選んだホテルじゃないですか」
ホテルの入口近くまでくると、遥さんは急に後ろから俺を前に押し出すようにするのである。来る途中の公園では桜が五分咲きで、『もうすぐ満開だなあ』などと感慨に耽っていた俺だが、遥さんのこの行動で現実に引き戻されてしまった。
「だって……こういうところは、男性がエスコートするべきところでしょ。ほら早く行って。他の人にジロジロ見られて、恥ずかしいじゃないの」
何か調子が狂うなあ。全然遥さんらしくないもの。意外な一面を見て、今までの遥さんへのイメージが崩れていった。でもなんとなく新鮮な感じで、こっちの遥さんも有りかななどと、つい不埒なことを思ってしまう。
中に入ると一階はフロントになっていて、受付の人が丁寧に応対をしてくれた。少し恥ずかしくはあるけれど。
遥さんは相変わらず、恥ずかしそうに俺の後ろに隠れたままでいる。いつもの遥さんではない。仕方なく俺が受付の対応をする。
そして、地上七階だての大きなLHの約三十ある部屋の中から、俺達は最上階の部屋を選択した。
最上階は料金が少し高めになっているのだが、フリータイム料金なので時間はあまり気にしなくてもすみそうだ。
「前から一度、こういうところに来てみたかったのよ。だから多少料金は高くても、いい部屋に入らなくっちゃね」
部屋へと向かう途中、遥さんは誰に言うでもなく急にそんな事を言いだした。
「そりゃあ、遥さん。料金を払うのが俺だからでしょ」
あまりにも身勝手な遥さんの言い草に、そのままスルーすることもできず、小心者の俺はささやかな抵抗を試みる。
「当たり前じゃないの。私はあんたの調査に、付き合ってあげているんだからね。それにこういうところの領収書なんて、会社の経費で落とせる訳ないでしょ」
遥さんには全く通用しなかった。そう、俺の抵抗など蚊が刺すほどにも感じていないのである。人の目がなくなった途端に元々が傍若無人な遥さんは、ドS編集者へと逆戻りしていた。
そんな遥さんに引き摺られるようにして、俺は部屋へと入って行く。
意外と明るい部屋だった。LHって、もっと毒々しいのかと思っていたけれど、まるで海外のリゾートホテルのように、明るくて豪華で居心地の良い部屋だった。
「結構広いわね。見て、このベッドもキングサイズじゃない?」
部屋に入るなり見つけたベッドに早速腰かけて、遥さんは部屋の中を見回している。
「本田君。そこの壁とかカウンターの上って大理石じゃないの?」
そう言って一人で盛り上がっていた。
「遥さん、そんなにはしゃがないで下さいよ。もしかして、LHに来るのは初めてなんですか?」
フロントでは恥ずかしそうにしていた遥さんなのに、部屋に入るなり急にテンションを上げている。そのギャップに、俺はそんな突っ込みを入れずには居られなかった。
「そ、そんなことはないわよ。只……ちょっと久しぶりではあるけど……」
口籠もっているところが、何か怪しい。遥さんは口では偉そうなことを言っているが、意外とウブなのかも知れない。
「ほら、グダグダと言わないで早く調査を始めなさい。せっかく高い料金を払っているのに、無駄にはできないわよ」
「だから、料金は俺が払ったのですから」
俺の抗議は軽くスルーされてしまい、遥さんは室内の探検をし始めた。
「本田君。こういうところはね、まずバスルームから調査するのよ。バスルームの善し悪しで、そのホテルのランクが分るって、ネットに書いてあったわ」
なんだ、遥さん。偉そうに講釈を始めたかと思ったら、ネットの情報ですか。まあ、そんな突っ込みは口にはできないんだけどね。
遥さんに言われるがまま、俺はバスルームへと行ってみた。
「遥さん、何かすごく豪華なジャグジーですよ。円形だけど、四・五人がいっぺんに入っても余裕ですね。それに天井が開く、露天風呂タイプみたいです」
LHで四・五人っていう表現も、少し変だなと自問自答する。さっき遥さんに注意しながら俺自身が、なんだかすごくはしゃいでしまっていた。だって、俺も本当に久しぶりなんだもの。今のLHは、こんなに豪華なんだと感動すら覚えている。
「それより、この洗面化粧スペース、広くて綺麗で清潔だし、鏡もすごく大きくて、アメニティも充実していて、その辺のシティーホテルの比じゃないわね」
結局、二人共気持ちを大いに高揚させながら――それをはしゃいでいるというのだが――バスルームとそれに続く洗面化粧スペースの検分を済ませて、元の部屋に戻ってきた。
「本田君、この液晶テレビの大きさって、どれくらいなのかな? 家のよりはずっと大きいとは思うんだけど。この広い部屋にあると、なんだか小さく見えない?」
「多分これだと、四十インチちょっとじゃないですか」
「そうなの? それじゃあこの部屋なら、五十インチ以上はないと物足りないわね」
「遥さん、そんな贅沢を言わないで下さいよ。これだって十分に大きいじゃないですか。これでカラオケでもゲームでもVOD(ビデオオンデマンド)でも、歌い放題のし放題の見放題なんですから」
「でも、普通こんなところに来てまで、そんなことをする?」
「そりゃあ、時間制の時ならさすがにしないでしょうけど、フリータイムの時だったらするんじゃないですか? いくら元気な若者でも、五時間も六時間も連続でHはできないでしょうから」
「それはそうね……あっ、勘違いしないでよ。私は単に、あなたの小説へのインスピレーションを刺戟してあげるためだけに、いろいろと言っているのよ。別に自分の好奇心で言っているわけじゃないからね。感謝しなさい」
俺もここまでくると、何となく分ってきた。北瑠の言っていた『例え興味津津でも、それを表には出せない女子の心理』っていうものが。遥さんも、なんだかんだと言いながら実は興味津津なんじゃないかと。やっぱり女子の心理は女子に訊いてみるものだと、妙に納得をしてしまった。
「ところで遥さん。この後どうします? まだ時間は、たっぷりとありますけど」
俺は、何気なく素直に訊いたつもりだった。しかし、その後ですぐに後悔をする。無意識で何か意味深なことを訊いてしまったのかなと。
案の定、遥さんも一瞬、『鳩が豆鉄砲を食らったような顔』をする。おっと、またまた小説家にあるまじきベタな表現をしてしまった。
「こ、この後って? ど、どういうこと?」
えっ、何? この雰囲気は? どうしよう、どうしよう――その時何故か、北瑠の猫のような目から溢れる大粒の涙が、俺の脳裏に蘇ってきた。
「い、いや……ふ、深い意味はないんですけど……一通り調査も終わったことだし、時間もあまっているので……カ、カラオケでもどうかと思って……」
この気まずい場を、俺は咄嗟にカラオケで逃げることした。
「カ、カラオケ……?」
遥さんは複雑な表情をしている。やっぱり拙かったな、あんなことを言ってしまって。
遥さんも俺も顔を見合せたまま固まってしまい、次の言葉がなかなか出てこない。
しばらく沈黙した後、遥さんは何か意を決したように切り出した。
「ごめんね、この後すぐに会社に戻らなきゃならないの。また今度付き合ってあげるから今日はもう帰りましょう」
「そ、そうですね。残念ですけどそうしましょうか」
俺達は、その気まずさを引き摺ったままLHを後にした。最寄駅でぎこちない帰りの挨拶をしながら、それぞれの方角へと別れることにする。
何かせつない気分のまま帰路についた俺は、もうどこにも寄り道をする気になれず、真っすぐ安アパートへと帰ることにした。
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