第7話 七日目 お師匠様 小説家になるためのその4 お願い

 今朝はなんだか、いつもより少し早く目が覚めてしまった。洗顔も着替えも済ませたことだし、取り敢えず部屋でも掃除しておくか。

 先日、北瑠に掃除をしてもらったが、やはり維持するのは難しかったみたいだ。まあ経年劣化だから、仕方がないとは思うのだけれど。あっ、年じゃなくて日か。そういえば、まだ数日しか経っていなかったのだっけ。北瑠が来るまでには少しでも、元に戻しておかなきゃな。

「ドン! ドン! ドン!」

 これだ、これ。なんだか懐かしい例の近所迷惑な音だ。でも今日は心なしか少し控えめのような気がする。

「お師匠様、お師匠様。お早うございます。弟子第一号です」

 何だ、そのお師匠様って? 恥ずかしいからやめてくれ。俺は慌てて鍵を開け、北瑠を中へ引き込んだ。

「北瑠、気は確かか。いったいどうしたんだ」

「あっ、お師匠様。弟子からすると、先生よりはお師匠様の方が、より相応しいのかなと思ったので」

「やめてくれ。百歩譲って先生までは許すが、百万歩譲ってもお師匠様だけは絶対にやめてくれ。いくらなんでも恥ずかしすぎる」

「分りました、先生……そうですね、やっぱり先生の方がシックリします」 

 相変わらず北瑠は騒々しかった。そして俺を思いっきり振り回す。朝から冷や汗たっぷりだ。それでもどこかで、ノスタルジーを感じてしまっている自分がいた。たった一日、間があいていただけなのに。


「それでは小説家になるための……そのいくつだっけ。確か三までは終わったんだよね」

「そうです。その三の『文章作法の基本と禁則事項』が終わったところです」

「じゃあその四の『人称と視点について』を始めるとしよう」

「先生、人称ってあまり馴染みがないのでよく分らないのですが」

「人称は、この前少しだけ説明したけど、その小説をどの視点で書くかということで、かなり難しくて俺自身、正確にはまだ理解できていないんだ。だから、俺の理解している範囲で説明するということで許してほしい。ただし難しくはあっても、これがブレてしまうと新人賞では致命傷になりかねないほどの重要事項なので、そのことも考慮して人称を選ぶ必要があるんだ」

「難しい上に重要な項目なのですね」

「まず、人称の種類から説明しよう。大きく分けると、一人称と三人称になる。二人称もあることはあるらしいが、現実にはほとんど見かけられないとのことだから、これは無視することにする。俺もよく知らないし」

「……」

 北瑠が訝しそうな表情をするが、知らないことは『知らない』と、はっきりと宣言しておくことにする。

「一人称は、私とか俺とかで言い表せるように、自分自身が語り手となる視点で小説を進めていくスタイルになる。典型的なのは、夏目漱石の『吾輩は猫である』かな。まあ、この場合は人ではなく、擬人化された猫が語り手の視点主だけどね。一人称では私という語り手、つまり視点主の見たこと聞いたこと感じたことを、そのまま地の文として書くことができるんだ」

「先生、地の文って?」

「小説では、会話文と地の文というのがあるのだけれど、会話文はその名の通り会話している文、つまりかぎかっこで括られた中の文のことで、それ以外を地の文と呼ぶんだ」

「そうなんですか……」

「一人称にもそれなりに制約があって、私という視点主の見たこと聞いたこと感じたことを直接地の文で書くことができる代わりに、それ以外のひとのそれは書くことができないんだ」

「……」

 北瑠はわずかに眉をよせながら、難しい顔をしている。

「視点主ではない、例えば『彼がこう思った』などということは、視点主である私では断定することができるはずもなく、その場合、最低でも『彼がこう思ったと私は推測した』などのように、間接的な表現にする必要がある」

「間接的ですか?」

「そう。特に語り手である視点主のいない場面などは、本人が見たり聞いたり感じたりできないのは当然のことで、直接的な書き方ができず、それでもどうしても書こうとするならば、その場面の内容を人から聞いているとか書面で見ているという風に、間接的な書き方を工夫しなければならないんだ」

「何かとても難しいです」

 人称のテーマになった途端に今までの講義と違って、北瑠の可愛い困惑顔が目につくようになってきた。

「更に視点のブレも、注意する必要がある。例えば『俺の顔は真っ赤になっていた』というのは、厳密にいえば自分の顔が真っ赤かどうかは見えるはずもなく、他の人が見たことになり、視点がブレていると判断されてしまうんだ。この場合『俺の顔は真っ赤になっていたに違いない』の表現ならOKだと思うよ。只、これも人によって判断はまちまちで、『見えなくてもそれ位のことは自分で分るはずだ』と判断する人がいるかも知れないけどね。でもまあ、新人賞では、最初からこういう表現にならないように気を付けた方が、無難なんじゃないかな」

「一人称は難しすぎます」

「でも一人称は制約が多い分、書きづらくはあるけれど、誰でもその制約に反していないか、視点がブレていないかの判断がつきやすいので間違いも少なく、そういう意味では初心者向きと言えるんだ」

「三人称は初心者では難しいのですか?」

「いや、それもちょっと違っていて、後で詳しく説明するけど、三人称は視点の置きどころによっていくつもの種類に分れていて、その全てにそれぞれの制約があるのだけれど、一人称と比べるとその制約は緩いので、書きやすいかといえば書きやすく、そういう側面だけでみれば初心者向きとも言えるんだ」

「……」

「でも、それだけに視点がブレているかどうかや、緩いとは言いながらもその視点での制約に反しているかどうかの判断は逆に難しくなってしまい、初心者がそれらのことに気付かずに新人賞に出してしまうと致命傷になりかねないという意味で、初心者向きではないと俺は思っている」

「書きやすくはあっても視点のブレに気付きにくいので、三人称は一人称より初心者向きではないということですね」

「小説の書き方の資料によっては、一人称の方が初心者向きとか三人称の方が初心者向きと言うふうに、真逆の意見が見受けられるけれど、それはそれぞれ違う側面を見ての意見だと思うんだ。だから、結果としては真逆のことを言っているけど、両方とも正しいとも言えそうだね」

「真逆のことを書かれていると、その意味するところがわからなければ混乱しますね」

「実は何を隠そう俺自身が、最初はすごく混乱していたんだ」

「先生でもですか?」

 そうなんだ。人称は人によっていろんな説があって、違う判断をするケースも多々あるので、いったい何が正しいのか判別できず余計に混乱するんだ。だから人称は難しい。

「次に三人称だけど、視点の置きどころによる種類分けがあると、先程説明したよね。一人称だと視点はひとつしかないから、特に気にしなくても済むんだけど。三人称の場合、資料ごとに視点の置きどころの分け方も種類も違っていたりするので、とても説明が難しいんだ。取敢えずここでは一元視点型、完全客観型、多元視点型の三種類について説明しようと思う。但し断わっておくが、俺も三人称はあまり自信がなく、あくまでも俺の解釈での説明だということは理解しておいてほしい」

「大丈夫です。北瑠はどこまでも先生についていきますから」

 またまた北瑠の意味不明な発言が飛び出した。俺自身がまだ道に迷っているのに、どこまでもついてこられても困るんだけどな。

「三人称とは、第三者の視点で、彼、彼女、あるいは名前などを使ってストーリーを展開していくのだけれど、単に三人称といった場合は、完全客観型のことを指す場合が多いようだね」

 俺が一息つけると、北瑠は『ゴクリ』と喉をならせた。真剣さが伝わってくる。

「この視点は物語の中において、常に固定された定点カメラのようなもので、そこから見えるもの聞こえるものは客観的に書けるのだけれど、そこからはなれたものは書けなくて、それからこれが一番重要なんだけど、心理描写や感情表現は直接的な表現ではなく、間接的というか客観的というか、とにかく傍目から見た様子として表現しなければならないんだ。カメラはあくまでもカメラってことだね」

「カメラ視点ってことですか」

「一人称では直接視点主の心理描写ができるので、読者は感情移入しやすいのだけれど、三人称ではどうしてもその部分はデメリットになってしまうんだ」

「確かに直接的な心理描写がないと、感情移入はしにくいですね」

「そこで、三人称と一人称の良いところを併せ持つ、三人称一元視点型が派生的に開発されたらしい」

「後からできた、三人称の中のひとつということですか」

「一元視点型では、登場人物の一人、主に主人公の背後霊のような視点という設定で、限定的にその人物のみ心理描写や感情表現を直接できるようにしたんだ」

「背後霊ですか? なんだかホラーみたいです」

「そうだね。でも背後霊だから、その人物のことを私とは表現せず、名前や彼あるいは彼女などと三人称の呼び方で表現するのだけれど、それ以外のことは、一人称とかなり近いんだ。だから一人称と同じような制約も受けるんだよ。但し、一元視点であっても基本は三人称なので、厳密に言えば一人称とは少し違いもあるのだけどね」

「どんな違いがあるのですか?」

「北瑠は難しい質問をするな……そこが諸説入り混じって、難しくしているところなんだよ」

「諸説って?」

「俺の解釈で説明すると、地の文で書いた内容は、一人称では視点主である語り手の認識であり、単なる思いこみという事実と異なることもあり得るので、よくトリックや伏線に使われるのだけれど、三人称一元視点ではそれは全て事実でないと、読者に対して嘘をついたことになるらしく、そういったトリックや伏線は使えないんだ。あくまでも三人称であり、対象人物そのものではない背後霊の視点という考え方なんじゃないかな」

 北瑠が難しい質問をするものだから、俺自身もだんだんと混乱してきた。でも、ここまできたら混乱ついでに、もう少し説明しておこう。

「それから、三人称一元視点では、場面や章が変われば視点の対象人物を変更することができて、最初の視点対象者がいない場面でも書くことができるんだ。まあ、一人称でも章が変われば、視点変更もOKとする説もあるけどね」

「同じ場面や章の中では、視点を変えてはいけないってことですね」

「そうだね。あと、一人称と同じような制約を受けると先ほど説明したけれど、三人称一元視点の場合はあくまでも三人称であり、視点は背後霊ではあっても対象人物とは同一ではないということで、多少その制約も緩くて、少しならその対象人物の知りえない背景の説明や、対象人物の見えない周辺の説明、例えばその人物の外見描写なども許されるという説もあるらしい。背後霊はその人物そのものではないから、近くにいてその人物を見ることもできるってことなんじゃないかな」

「人称って、こんな説やあんな説ばっかりなんですね」

「北瑠の言う通り。このようにいろんな説があると、ある説ではよくてもある説ではダメという矛盾が生じてしまうので、余計に人称をややこしくしているんだ」

「やっぱり難しそうです……」

 北瑠は、ここまでの話を聞いただけで消化不良を起こしている。無理もない、俺自身がそうなのだから。

「残りの多元視点型は、ワンシーンで視点を自由に変えることができるので、どの人物の感情もリアルに表現でき、しかも物語中のどの場面も、更に過去も未来のことも書くことができるんだ。結局、なんでもありってことかな」

「なんでもありだと、便利で書きやすい視点ですね」

「それを別名神視点という説もあるのだけれど、人によっては、多元視点型ではなく、完全客観型がそうだと言ったり、三人称そのものがすでに神視点であるとしたり、それらとは独立した別物だとしたりと諸説入り乱れているので、俺もどれが正解かは明言できなくて」

「また諸説ですか……」

「それからこの視点は、視点の変更がしやすい代わりにその制御が難しくて、下手に同じシーン内で視点がころころ変わってしまうと、読者を混乱させ視点がブレていると判断されかねず、即ボツになってしまうこともあるみたいなんだ」

「えっ、それじゃあ、この視点では書けないってことですか?」

「書けないということではないけれど、制御するのがとても難しいんだ。どうしても多元視点型でないと書き難い、歴史物とか戦記ものなどもあるにはあるけれど、その場合でも視点の変更は、よほど上手にしないと読者を混乱させて失敗するんじゃないかな」

「初心者では難しそうですね」

「この辺りは、諸説あって俺も何とも言えないけれど、少なくとも新人が何も知らないで書きやすいというだけで手を出すと、痛い目にあうのは間違いないと思うよ。それに例えこの視点が認められていても、書きやすいだけに稚拙な書き手と判断されかねないんだ」

「書きやすさと評価が、反比例するってことですね」

「そういうことだね。それに新人賞では、視点がころころ変わることや、視点移動がスムーズでなかったりブレていたり、どこに視点があるのかはっきりしないというのは、致命傷にもなりかねないほどの減点対象になるんだ」

「でも先生、三人称で視点がブレるというのがよく分らないのですが」

「そこが三人称の難しいところなんだけど、一応の原則として多元視点型以外の視点移動は章を変えるか最低でもシーンが変わらないとしてはいけないことになっているんだ。だから同じ章、同じシーンで視点が移動してしまったら、それは視点がブレていると言われるんだよ」

「視点移動ですか?」

「例えば、一元視点型では、主人公の彼視点で書かれていたのが、あるところだけ急に彼女視点の記述になっていたりしていても初心者では気が付かないことが多くて、視点がブレているといわれてしまうんだ。完全客観型の場合は、カメラ視点なので視点移動や視点のブレはないように思えるけれど、直接的な感情表現を書いてしまうと、それはカメラ視点ではなく、その人物に視点移動してしまっているとみなされて、視点がブレていると判断されるようだね」

「そうすると、私達初心者はどういう人称を選べばよいのですか?」

「もちろんどういうタイプの小説かによっても、合う人称合わない人称っていうのがあるのだけれど、それを抜きに考えた場合、初心者は一人称か三人称一元視点型が一番無難だと思うね。それぞれの制約さえ守れば視点のブレを判断しやすく、審査員の評価も得やすい人称だと思うよ」

「審査員の評価も考えないといけないのですね」

「三人称多元視点型については、あまりにも諸説ありすぎて何が正しいかの判断が難しく、自分が正しいと思っていたことでも、下読みや審査員が違う説を取っていたら、その時点でアウトになってしまうので、初心者は手を出さない方が無難かも知れないね」

「先生……一人称も三人称も難しすぎます」

「北瑠。人称については俺もこのあたりが限界だよ。本当は人称や視点なんてそんなに厳密なものじゃなくて、読者さえ混乱しなければよいと思うんだ。だけど、その読者を混乱させないというのが難しくて、新人賞では特に厳しく見られてしまうので、これから新人賞に応募しようという新人は敢えて意識しておいた方がいいだろうな」

「読者が混乱しないように視点を意識するということですね」

「特に新人賞の下読みや審査員は知識が豊富なだけに、一般読者なら違和感なく読めるようなことでも不快に感じてしまう場合が多いのだと思う。だから新人は取り敢えず特殊な場合を除いて、一人称か三人称一元視点型から始めて、経験を積んで更に学習を重ねてからチャレンジしていくのがいいんじゃないかな。経験や知識の裏付けをしてからの新たなチャレンジなら、いくらしても良いと思うんだ」

 やはり人称については北瑠も混乱しているようだ。でもそれは仕方がない。俺自身も説明しながら自信がないのだから。こればっかりは自分で経験をつんで、体得していくしかないと思う。

「今日の講義は一応ここまでだけど、少し難しかったかな?」

「とても難しかったです。でも、先生が初心者は一人称か三人称一元視点型から始めるのが良いと教えてくれたので、少し安心しました」

 何が正しいのか曖昧なままの講義になってしまったが、北瑠が一先ず安心したということで良しとしよう。


「北瑠……ちょっとお願いがあるんだけど」

 今日の講義が一段落したので、俺は昨日から悶々としていたことを北瑠に切り出した。

「えっ、先生からお願いですか? いいですよ、何でも言って下さい。北瑠は先生の弟子第一号ですから」

 北瑠はまだ、お願いの中身も分らないのに、こう言って快諾してくれた。ありがたくて涙がちょちょ切れそうだ。またまたトモちゃんから『その表現、若くないですよ』っていわれちゃいそうだな。それはともかくとして北瑠にお願いするにあたり、俺は昨日の顛末から話すことにした。

「実は昨日、編集者さんとプロットの打合せをしてきたんだけど……」

「あっ、そうでしたね。それでどうだったのですか?」

「予想通り、めちゃくちゃダメ出しされちゃったよ」

「そんなにですか」

「なんせ、担当の高木遥さんは、ドS編集者だからな」

「じゃあ、ボツになっちゃったのですか?」

「いや、企画自体は面白いから、編集会議にはかけてくれるっていうのだけれど、女子大学生の生態とかラブホについて、事前に調査や取材を進めておくようにって、宿題をだされちゃったんだよ」

「そうですか……それじゃあ先生も、これから忙しくなるのですね」

「うん、そうなんだけど、実は身近に女子大学生の知り合いがいないものだから。確か北瑠はこの間まで、普通に女子大学生だったんだよね」

「ええ、まあそうですけど」

「それなら女子大学生の実態や生態や考え方なんかを、北瑠に取材させてほしいんだけど」

「あっ、そっちの方ですか。いいですよ、私でよければ。私はてっきりラブホの方かと思って」

「いや、そっちは、遥さんが一度だけ付き合ってくれるって」

「それって、どういうことですか? その人は先生のなんなのですか?」

「えっ、いや単なる俺の担当の、ドS編集者だけど」

「先生はSM趣味があるのですか?」

「おいおい、勘違いするなよ。いくら小説の取材のためとはいえ、ラブホに男一人では入りにくいだろう。だから、調査のために一度だけなら担当編集者として付き合ってくれるっていうことで、ドSっていうのは、その担当編集者がむちゃくちゃおっかないっていう意味だよ」

「先生。調査のためなら、何も担当編集者さんの手を煩わさなくても、北瑠が付き合ってあげます。これは弟子第一号としての務めです。但し、あくまでも調査のためだけですけどね」

「えっ、いいのか?」

 何か思わぬ展開になってきて、俺はちょっと戸惑ってしまった。むちゃくちゃベタだけど、こういうのを瓢箪から駒っていうのだろうな。棚からぼたもちは、この場合ちょっとニュアンスが違うような気もするし。俺の語彙力からは、これ以上ピッタリな表現はひねり出せそうもない。一応、文筆家を自任してはいるが、意外と貧困なんだ。俺のボキャブラリーは。

「善は急げです。先生、今から調査に行きましょう」

「ちょっと待って、北瑠。そんなに慌てないで。折角いくのだったら、何を調査するのかを具体的に考えてからにしたいから。もう少し時間……ていうか、日にちをちょうだい」

「先生。プロットができているのに何を調査するのか、まだ決めていないのですか? ブーブー」

 何が『ブーブー』だ。そんなに可愛い顔を豚みたいに膨らませて。そんな顔で文句を言われると、俺はどうやって抵抗すればいいのだ。まったく、北瑠の直情径行には、ほとほと手を焼いてしまう。

 おれだって、ラブホの調査なんか、行ってみなければ始まらないってこと位、分っているよ。でも、北瑠があまりにも気が早すぎるので俺としては、そんな理由にもならないような理由でもでっち上げて、待ったをかけざるを得なかったんだよ。

 いくら『弟子第一号としての務めです』とか、『単に調査のためだけです』とか言われても、北瑠と二人っきりでラブホにいくなんて、俺の心の準備はすぐには整わないんだ。頼むからちょっとだけ、気持ちの整理を付けさせて。とにかく、俺の危ない衝動をそれまでに、何とか寝かしつけておくから。

「北瑠、それよりも大学生のサークル事情について、教えてくれないか」

「サークル事情ですか? 私はクラブとかサークル活動とかはしなかったので、どこまでお役に立てるか分りませんけど」

「サークルって、学生が勝手に作れるものなのかな? 何か許可とか申請とかが必要だったら、LH探検隊なんか許可されるはずもないし、他に表向きのことも考えた設定にしておかないと、小説として成り立たなくなっちゃうからね」

「そうですね……確か公認サークルと非公認サークルがあって、公認サークルになるには、申請も許可も必要だと思います。非公認はそれこそ、何でもありの無法状態なんじゃないですか」

「えっ、非公認でもサークルを作れるの? それならこのままの設定でも大丈夫か」

「でも非公認のサークルには、とっても怪しいのもたくさんあるみたいですよ。中には犯罪すれすれみたいな。もちろん真面目なのもたくさんありますけど」

「じゃあ、LH探検隊は、その怪しいサークルの位置づけになりそうだね。犯罪サークルとは一線を画するけど」

 まあ、多少怪しいのはこの小説の設定上、仕方がないか。

「それでサークルを作った後のメンバー募集なんだけど、どうやって勧誘するの?」

「それはもういろいろです。例えば友達を誘ったり、友達の友達に声をかけたり。でも一般的なのは、大きな立て看板でPRしたり、春なら新入生に大学の入口で直接ビラ配りや声かけで勧誘することもありますね。それから今ならネットでメンバーを集めているサークルも、あるんじゃないかしら」

「そうか、ありがとう。大体サークルについては、考えがまとまってきたよ。その他のことは質問を考えておくので、また協力してね」

「先生、こんなので良かったら、北瑠はいつでも先生のお役に立つことができます」

 北瑠は俺の唐突な質問にも嫌な顔一つ見せず、このように笑顔で答えてくれる。そんな素直な弟子に、俺は大いに感謝していた。

 取り敢えず知りたかったことも聞き出せたし、北瑠のLH調査へ逸る気持ちをそらすことができて、俺はようやく胸をなで下ろす。

「じゃあ、今日はとっても長くなってしまったけど、終わりにしようか。それから明日のテーマも、また少し長くなりそうなんだけどいいかな」

「先生、私なら大丈夫です。いったいどんなテーマなのですか?」

「そのテーマなんだ。小説におけるテーマ・モチーフ・メッセージから始まって、キャラクターシートやバックグランドなどの設定や、起承転結を含めたプロット作成まで行ければいいかなと思っているんだ」

「先生、すごいです。本格的なテーマですね。今からとっても楽しみになってきました」

 そう言って、喜んで帰っていった北瑠を見送って、俺は少々早まったかなと少し後悔した。何も、こんなに一杯のテーマを詰め込まなくても、もっと小分けにすれば良かったのにと。でも、それぞれが密接に関わっている内容なので、ひとつを説明しだすと、それぞれのことも結局触れなければ説明できないのだから、仕方がないと諦めた。

 まあ、取り敢えずできるところまで進めて、残れば次に持ち越してもいいやと思いなおし、いまや恒例となっている予習に邁進することにする。

 この日の俺の予習は困難を極めた。予想通りこれらのテーマは、密接に関わっているため、あっちこっち飛びながら考えていかないといけないのである。複雑に成り過ぎて、どうやって講義しようかと悩んでしまった。

 仕方がない。なるようになるさ。最後は開き直りである。

 諦めと共に、そう達観して寝る前のメールチェックをしてみると、遥さんからのメールが届いていた。

『LH探検隊の件、現段階では進めていくことになりました。明後日、再度打合せをしましょう。但し、これは最終決定ということではありません。待ち合わせはいつもの場所で午後二時に』

 だいたいこのような内容だった。

 ドSの遥さんのことだから、『女子学生への取材』と『もっと工夫するように』って言われていたことが、進捗していなかったら大変なことになりそうだ。

 俺にとっては、新作プロットでの進行がOKになったことよりも、遥さんへの恐怖の方が勝っていた。

 そろそろ寝ようかと思っていた俺だが、この急なメールで危機感を覚え、北瑠への取材内容と簡易プロットからの工夫を、急遽検討して纏めることにする。

 まさかラブホ調査のことまでは言わないとは思うけど。そっちの方は遥さんも一丁噛みしているのだからな。

 こうなりゃもう、講義どころではない。そのことについてそのまま深夜まで、一人悶々と考え込むはめになってしまった。

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