第6話 六日目 ドS編集者

 翌日、俺は静かな朝を迎えた。近所迷惑になるようなドアを叩く音も、思わず恥ずかしくなるような呼びかけの声もなく、何か物足りなさを感じている。いつの間にかあの騒々しさが懐かしくなっていた。

 編集者との打合せのために朝起きてから一人寂しく、そして黙々と準備をしている俺を第三者的に後ろからながめることができたのなら、背中から滲み出る哀愁のオーラを見ることができたに違いない。

 そんな空気を目一杯に漂わせながらも、必要な準備を整えて俺は目的の場所へと出発する。

 編集者とは、出版社近くの喫茶店で待ち合わせをしていた。そこまでは片道で二時間程度かかる。電車の中で俺は、もう一度プロットの内容を反復してみることにした。

 LH探検隊のLHが、ラブホテルのことだと説明したら、遥さんはきっとドン引きするだろうな。なんせ担当の高木遥さんは俺より年上だけど、まだ三十代半ばだもの。

 遥さんはいつも、わざとに野暮ったい黒縁セルフレームの眼鏡をかけ、肩までの髪の毛を無造作に後ろに束ねている。それが遥さんの仕事スタイルらしい。しかし、本当はかなりの美人だと、噂では聞いていた。打合せでたまにしか会えないので、その真相をまだ確かめてはいないのだけれど。

 それよりも俺にとっての遥さんは、ドS編集者そのものだった。打合せをすれば、いつもダメ出しを連発してくるのである。今日も、どれだけダメ出しをされるのかは分らない。LHの説明については特に慎重にしなければならない。そんなことを考えているうちに、待ち合わせの喫茶店に着いてしまった。

「本田く~ん。こっち、こっち」

 中に入ると遥さんは、広い店内の一番奥の席をすでに確保していて、俺を見つけると大きな声で呼びながら手を振ってくる。遥さん、恥ずかしいからやめて下さい。

「本田くんもモーニングセットでいいよね。もう頼んじゃったけど」

 もう頼んだのだったら訊かないでよ。などという突っ込みは恐れ多くて、とても口にはできない。なんせドS編集者なんだから。遥さんは。

「あっ、俺もそれでいいです……」

 なんて従順なんだ。俺は。

「で、LH探検隊だっけ? 新作のプロットは」

 席に着くなり早速のお言葉。ここからなんだ、ドS編集者の本領発揮は。ここからは言葉を慎重に選ばなければならない。

「ええ、まだ簡易プロットの段階なので、説明しないと分りづらいと思います」

 そう言って俺は、A4一枚にプリントアウトした簡易プロットを遥さんに渡して、北瑠にしたのと同じような説明をした。ただし、LHについては、特に追加説明をする。

「女子学生が、ラブホテルを探検するというストーリーですが、一応コメディタッチな恋愛小説という位置づけなので、エロな部分は極力出さない方向で考えているんです」

「そんなことはいいのよ。多少エロさがあるぐらいでも。それより、結末が曖昧よね。どういう結末を考えているの?」

 さすがドS編集者。早速、鋭いところを追及してくる。

「最後は、人畜無害と思っていた男子学生がだんだんと良い男に変身していって、主人公の女子学生もその男子学生のおかげで、男性恐怖症を克服して結ばれるっていう感じなんですが……ありきたりですかね?」

 小心者の精一杯の説明だった。しかし遥さんには全く通じない。いともあっさりと、いやむしろバッサリと切り捨てられた。ドSの本領発揮である。

「ありきたりね。それに主人公が女子学生ということだけど、本田君に女子学生の視点で書けるの? それからラブホのこともそんなに詳しそうには見えないんだけど」

「いや、それはそうなんですが……これから調査したり取材したりして……」

「それじゃあ、いつまで経っても書けないわよ」

「あのう、女子学生については一応、取材対象の目星を一人つけているんですけど……」

 俺は咄嗟に、北瑠を思い浮かべていた。北瑠も、ついこの間までは女子学生だったのだから大丈夫だろう。こうなったら北瑠に、協力をお願いするしかない。

「そう。じゃあ、そっちはそれで取材を進めておいて。ラブホの方はどうなの? 誰か一緒に調査に行ってくれる当てはあるの?」

「いや、そっちの方は今のところまだ……」

「そう。じゃあ、一度位なら、私が付き合ってあげてもいいわよ」

「えっ、遥さんが?」

「何よ。私じゃ不満なの?」

「いや、そういうことじゃないんですけど……」

「言っとくけど、あくまでも調査のためだけだからね」

「えっ、あっ、はい。分りました。よろしくお願いします」

「OK。まだまだ修正は必要だけど、題材が面白そうだから編集会議にかけてみるわ。だから詳細プロットでは、もっと工夫しておいてちょうだい」

 この言葉で、遥さんの尋問がようやく終了する。

 遥さんは『忙しい、忙しい』と言いながらバッグに荷物を詰め込んで、俺の分の伝票も持って支払いを済ますと、出版社へと戻っていった。遥さん、ご馳走さま。

 一人になった俺は、まだ残っていたモーニングを食べながら、さて、北瑠にはなんといってお願いしようか。それにラブホの調査も……一度は遥さんが付き合ってくれるとして、その後どうする? まさかこれも北瑠にお願いするなんてことは、絶対にできないよな。そんなことを悶々と考えていた。

 遥さんと打合せしていた喫茶店を出ると、田舎者の俺は久しぶりに出てきた都心の雰囲気に誘われて、最寄駅周辺の街並みを探索することにする。断わっておくが、田舎といってもそれはあくまで都心と比べてということだ。俺の住む、地域住民の皆様に失礼のないよう、誤解を解いておく。

 最寄駅とは言いながら、半径一キロ以内にはいくつもの駅が存在しているので、実際には、それら駅周辺ということになる。都心ならではの事情と言える。

 歩き始めると、大都会の真ん中にも拘わらず、開花し始めた桜の木が、あちこちで目についた。この季節でなければ、桜と気付かず素通りしてしまうところだ。

 そんな自然も所々に見ることのできる街並みなのだが、立ち並ぶ都会の高層ビル群が道行く人々の視界を遮っていた。背の高いビルの林は見通しが悪く、近くまで行ってみないことには、そこに何があるのか分りにくい。

 こんなところに大学があるのか、あんなところに大きな病院やホテルが、などと新しい発見をすると、何かしらウキウキワクワクといった気分になってくる。

 近くに皇居があることも、日本の中心にいるのだということを実感できた。世界の中心ではないけれど。

 さすがにこの辺りには、LH探検隊で調査をするようなホテルは見当たらないな、などとちょっと不謹慎なことも考えながら。でも、こういう好奇心は、小説家として必要不可欠な要件なのだからと、自分で自分にむなしく言い訳をしている。

 結局、ちょい田舎者の俺は、本屋に立ち寄ったことと昼食を取ったこと以外、ただ周辺をウロウロとしただけで疲れ果ててしまった。

 それから約二時間をかけて地元に戻ってきた俺は、どうしてもこのまま安アパートに帰る気にはなれず、ビッグドリームへと寄り道をする。

「文豪さん、今日はおひとり?」

 早速トモちゃんが、お水を持って現れた。

「今日は、久しぶりの自由を満喫させてもらっているのでね」

「そのわりには、冴えない顔をしているわよ」

「えっ、そんなに酷い顔をしている?」

「鏡、貸してあげようか?」

「いや、そこまでしなくてもいいけど……実はドSの編集者さんから、散々ダメ出しをされてしまったので」

「昨日、北瑠ちゃんと話していた、プロットがどうのこうのって言っていた、あれのこと?」

「そう~なんですよ、川崎さん」

 無意識で、かなり古いギャグをかましてしまった。やっぱり俺って若年寄なのかな。

「文豪。おまえいったい何才なんだよ。年ごまかしていないか?」

 ありがたいことに、すかさずマスターが突っ込んでくれた。こういう突っ込みのタイミングは絶妙だね。最近の若手漫才師も見習ってほしいくらいだ。もしこれでスルーでもされようものなら、恥ずかしくて後の話ができなくなってしまうよ。

「……」

 さすがにトモちゃんは何のことかわからず、『私は川崎さんじゃありません』てな顔をしている。

 今更説明してもよけいに恥ずかしくなるだけなので、おいてけぼりのトモちゃんは放置プレイにすることにした。

「実は、新作プロットのLH探検隊っていうので打合せをしてきたのだけど、『どうせあなたはLHについて、詳しくないでしょ。次までには実地調査をしておきなさいよ』って、ドSの編集者に命令されちゃったんですよ」

 俺は話を、少し誇張して説明した。けっして嘘ではないのだけれど。遥さんごめんなさい。取り敢えず心の中で謝っておく。LHについては、説明するのも何だか恥ずかしかったので、敢えて略語のままにした。

「LHって、昨日ちらっと聞いたけど、ラブホテルのことなんでしょ?」

「なんだ、トモちゃん。聞いていたのですか」

「そりゃあ、あれだけ大きな声で話していたら、いやでも耳に入ってくるわよ。それに『笑わない?』とか『怒らない?』なんて痴話げんかみたいなことを言っているから、聞耳だって立つってものよ。ねえ、マスター」

 そう言って、トモちゃんがマスターの方に振り向き同意を求める。

「そうだよ、文豪。あんまり見せつけるものだからトモちゃん、ヤキモチをやいていたんだぜ」

「マスター、話を作らないでくれます」

 トモちゃんは、間髪いれずに否定した。

「えっ、トモちゃんがヤキモチをやいてくれたなんて、ようやく通い詰めた俺の気持ちを分ってくれたんだね?」

「何言っているのよ、文豪さん。そんなたわごとを言っていると、北瑠ちゃんに話しちゃうわよ」

「トモちゃん、それだけはやめて。俺、まだあいつのこと、操縦不能なんだから。これ以上余計な操作を増やして、複雑にするようなことはしないでよ」

 ここに来るまでは少し落ち込んでいた俺だが、マスターとトモちゃんから弄られているうちになんだか楽しくなってきた。二人のいつもの軽口が、俺の憂鬱な気持ちをいつのまにか吹き飛ばしてくれていたのである。

「ところで文豪。お前の冴えない顔と、そのドS編集者の命令と、何か関係があるのか?」

「それがマスター。ラブホの実地調査をするようにって命令されても、男一人だと入りにくいでしょ」

「なんだ、そんなことか。何なら俺が付き合ってやろうか」

「マスター。マジ気持ち悪いから」

「おまえも贅沢だな。女が良いならトモちゃんでどうだ」

「いいわよ、私なら。でも操縦不能が暴走しだしても知らないわよ」

「トモちゃん。それって俺が絶対にできないのを、知っていて言っているでしょ」

「文豪、いっそうのこと、弟子に頼んでみたらどうだ。弟子なんだから、先生の執筆に協力するのは当然だろう」

「マスター。それができる位なら、こんなに悩みはしませんよ。マスターも俺ができないのを知っていて、話を面白くしようとしていませんか」

 結局俺は、マスターとトモちゃんから散々弄り倒されて、挙句なんの解決策も見いだせないまま、築何十年の安アパートに帰る。そして、明日の講義の準備がまだできていなかったことを思い出し、インターネットで予習をすることにした。

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