第5話 五日目 お洒落 小説家になるためのその3 本屋さん

 翌日俺は、予定通り午前中に、新作の簡易プロットを完成させた。実は明日、担当編集者さんと、このプロットで打合せをしなければならないのである。北瑠のピンポイント空爆が続いていたので、今日まで延び延びになっていたのだ。ぎりぎりで完成して、滑り込みセーフって感じかな? まあ、まだ簡易プロットの段階なので、完成というほど大層なものではないが。

 午後、昨日北瑠に指定した時間より少し早目にビッグドリームに入ると、早速マスターがからかいにきた。

「文豪作家大先生。今日は、あの可愛らしいお弟子さんは来ないのかい?」

「も~、マスター。大先生なんて、冗談はヨシコさんにして下さいよ」

「おっ、文豪。お前、年に似合わず古いギャグを知っているな。いまどきそんなギャグをいうやつは五十超えしかいないぞ」

「どうせ俺は若年寄りですよ」

「文豪さん。その『若年寄り』って表現からして若くないですよ」

「トモちゃんまで。あんまり俺のことを苛めないでよ」

 そんなふうに俺がマスターやトモちゃんから弄られているところへ、北瑠が物静かに現れた。前回の地響きをたてながら、勢いよく登場したのとは大違いである。

 よく見ると、服装もイメージチェンジしたようにエレガントになっていた。

 くるぶしまでありそうなブルー系花柄のロングスカートに、シルクのような光沢のあるネイビーのTシャツを合わせ、その上からコバルトブルーのロングニットカーディガンを上品に羽織っている。首にはアクセサリーのネックレスが、ゴールドの輝きでその存在をアピールしていた。全体的にブルー系でコーディネートされていて、とてもよく似合っている。

「先生、こんにちは。お待ちになりました?」

 これだから女はわからん。服装が変わっただけで、態度や言葉使いや雰囲気までも変わってしまう。

「き、北瑠……北瑠だよな? なんだかいつもと雰囲気が違うけど……」

「今日は来るまでに時間がたっぷりとあったので、少しオシャレでもしてみようかなと思って。どうですか、先生」

「なんだか、これからデートって感じだね」

「先生、からかわないで下さい。私だってたまには、オシャレなところを先生に見てもらいたかったのです」

 またまた北瑠が、意味深なことを言い出した。しかし、今度はだまされまい。前には確か、俺の勘違いだと言われたんだよな。そうやって大人を振り回すのが、こいつの悪いくせだ。

 そう言えば、昨日だって、ふくれっ面をした時に『冗談ですよ』なんていって、俺のことを散々振り回してくれたよな。賢い大人っていうものは、そう何度も同じ手を食わないものさ。残念でした。

「それでは小説家になるための、その三を始めようか」

 しばらく北瑠の毒気にあてられていた俺だが、気を取り直して恒例になっている講義の開始を宣言した。

「今日は『文章作法の基本と禁則事項』というテーマだったね」

「先生、文章作法っていうと、なんだかすごく難しそうなんですけど」

 エレガントな装いにも関わらず、講義が始まった途端に、北瑠は生徒の顔に早変わりする。本人には多分、そういう意識はないのだろうが。

「いや、そんなに難しいことじゃなくて、ほとんど作文を書く時のルールと変わらないよ。北瑠も小学生の頃、作文を書く時の基本は習っただろう」

 小説と読書感想文を一緒くたにするような弟子だから、俺は敢えてこういうところから始めることにした。

「そんなのでいいのですか?」

「まあ、基本は変わらないけれど、恐らく忘れていることもあると思うので、少し整理してみよう。まず本文の書き始めと、段落が変わって改行した最初は、一マスあけるということだね。ただし会話文などの最初のかぎかっこ(「)については例外で、逆に一マスあけてはいけないんだ」

「先生、それなら北瑠にも分ります」

「でも段落って、どういう時に分けて改行するのか分る?」

「それは……適当で……」

「そう、俺も最初は適当だったのだけど、一応原則があるらしいので説明しておくよ」

「やっぱり適当じゃダメなんですね」

「ダメかどうかは別として、原則は知っておいた方がいいと思うよ」

 知った上で敢えて崩すというのであれば、別に原則通りでなくても良いのだと思う。しかし知らなければ出鱈目な改行になってしまって、読者に違和感や不快感を与えかねないのである。

「まず、段落というのは、大きな内容の変わり目で改行するというのは分るよね」

 これは段落分けの原則というよりは、大前提のようなもの。北瑠は少し怪訝な表情をしながらも、黙ってうなずいた。

「その内容の変わり目を、もう少し詳しく説明すると、『主題が変わった時』、『時間の流れが変わった時』、『カメラアングルが変わった時』、『視点が変わった時』などがあるんだ。その他に、内容の変わり目ではなくても『特に強調したい一文がある時』などは、段落を分けてもいいのだよ」

「カメラアングルと視点って同じようなものですか?」

「カメラアングルというのは、例えば、部屋の中のことから窓の外のことに、話の内容が変わるというようなことが考えられるね」

「確かに部屋の中と窓の外では、内容が違ってきますね」

 あまり自信のない説明だったが、どうやら北瑠が納得しているようなので俺は少し安心した。

「視点というのは少し説明が難しいのだけれど、例えばラーメンのことを主題にしていたとして、ラーメンの味のこと、ラーメンの種類のこと、食べに行ったお店のことなどは、同じ主題のことを言っていても、それぞれ言っている視点が違うということなんだよ。また、ある人物のことを主題として説明する文章でも、例えば外見の説明と今行動している様子の説明では、同じ人物の説明でも視点が違うという考え方なんだ」

「ラーメンという大きな括りでは同じでも、もっと細分化して見ていけば、味、種類、お店では、視点が変わっていると言うことですか?」 

「そう。内容の違いと言っても大きなものと小さなものがあって、小さな視点の違いでも段落を分けることができるんだ。まあ、『視点の違い』というよりは『観点の違い』の方が、分りやすいかも知れないね。北瑠には少し難しかったかな」

「先生、大丈夫です。北瑠は完璧に理解いたしました」

 ホントかなとは思ったが、取り敢えず俺は先に進めることにした。

「それじゃあ、次に禁則事項について説明しよう。主に記号なんだけど、句点(。)読点(、)感嘆符(!)疑問符(?)や閉じかぎかっこ(」)は行頭においてはいけないんだ。ワープロなどの初期設定では多分、こういったことは禁則処理の設定になっているので、どうしてもその位置にきてしまう場合は、行末の文字のすぐ後の欄外にぶら下げをしたり、追い出しや追い込みなどをして行頭にくるのを自動的に避けてくれているはずなんだ」

「何となく、そうかなとは思っていましたが、改めてそういうふうに教えていただくと、なるほどって感じですね」

「あと、感嘆符(!)や疑問符(?)の後ろは、一マスあけなければならないのだけれど、それが会話文の終わりなどで閉じかぎかっこ(」)の手前に来る場合は、逆にあけてはいけないんだ。又、文末ではなく文章の途中に付ける場合も、あけない方が良いみたいだね。それから、これは禁則事項と言えるかどうか分らないけれど、小説では会話文の終わり、つまり閉じかぎかっこ(」)の手前には、句点(。)をおかない方が良いみたいだよ。昔の小説や役所の文書などでは、おいていることもあるようだけど」

「このあたりになると、今まであまり意識していませんでした」

 あまりにも拙く曖昧模糊として自信のない講義を、北瑠は信じられないほど真剣に聞いていた。

 俺は、いたいけない少女を騙す詐欺師になったような気分になる。少々後ろめたさを感じながらも、俺は更に先へと進める事にした。

「次に、北瑠は三点リーダーやダッシュっていう記号名を聞いたことがある?」

「聞いたような気もしますが、よく分らないです」

「見ればすぐに分るのだけれど、普通の人は名前との一致って、なかなかしないんだよね」

「先生、どんな記号なんですか?」

「両方とも、沈黙や躊躇いを表現する時などに使用することが多く、それ以外では説明文を追加するときなどにも用いたりするんだ。三点リーダーは一マスに点を三個並べた記号(…)で、ダッシュは棒の記号(―)のことになる。これにもルールがあって、単体では使用せず最低でも二マス分、たくさん使用する場合は奇数ではなく偶数にしなければならないんだ」

「文章作法や禁則事項って、いろいろと細かなルールがあるものなんですね」

「そうだね。その他にも文章を書く上で、初心者には是非気をつけてもらいたいのだけれど、同じ文末をできるだけ繰り返さないこと。小学生の作文に多く見られるような、例えば文末が、○○しました。○○しました。と同じように続くと、何か幼稚な文章というイメージになってしまうんだ」

 実際に小学生の作文に限らずプロの作家の小説でも、部分的とはいいながら時々同じ文末が続いていることがあって、俺自身が大いに違和感を覚えたという記憶がある。もちろんその感覚は個人差レベルのものなのかも知れないが。

 それでもさすがにプロの作家は、それ以外のところでその違和感を凌駕するほどの魅力を存分に発揮していた。それだからこそプロと言えるのだと思うが、逆にそこさえ直せばもっと良い作品になるのにと、勿体なく思ってしまう。

「だからそれぞれの文末は、その前後の文章とも照らし合わせて何度も読み返しながら、同じ繰り返しになっていないか、更に違和感がないかどうかを確認して、一番しっくりとくる文末を考えていく必要があるんだ」

「本当ですね。私も子供の頃の作文は、そんな感じだったと思います」

 限りなく曖昧で、その上拙く自信のない講義にもかかわらず、北瑠は何の疑いもなく納得をしてしまう。俺は、何とも言えない罪悪感にかられてしまった。

 北瑠には、同じ文末の繰り返しにならないようにと原則論を講義したが、そうは言いながら同じ繰り返しになっていても、その方がしっくりとくるという場合が稀にある。だからこそ何度も読み返して、違和感がないかどうかを確認する必要があるのだ。

 プロほどの実力のない新人は、こういった細かなところに気を付けていく積み重ねで、作品の質を高めていかなければならない。

「最後にもうひとつ。二重表現に注意。これはプロの作家でも、たまに気付かないこともあるので厄介なんだけど、分りやすい例をあげると『馬から落馬』とか『馬の馬糞』などだね。落馬したのなら馬からなのは当然で、馬糞なら馬のものしかないので、結局『馬』という表現が二重になっていて、とっても変な言い回しになっているんだ」

「さすがに『馬から落馬』とか『馬の馬糞』なんて表現は、私でもしませんね。あんまり馬とは縁がないもので」

「でも、馬との縁は別としても、こんなに分りやすいものだけじゃないんだよ。よく失敗してしまうのは『一番最初に』という表現なんだけど、『一番』と『最初』という言葉の意味がダブっていることに気付かないで使用してしまうことがあるんだ。この場合、『一番初めに』とすればOKだと思うよ。このように、よくよく考えないと気がつかないようなものもあるので、注意が必要なんだ」

「それなら私なんか、変な表現だとも気付かず、いつも使っていたような気がします」

 北瑠は、俺の拙い講義を真剣に理解しようとしてくれる。

 このように素直で一途な北瑠に対して、何とか応えたいと思う気持ちは山々ながら、今日用意していたネタは尽きてしまっていた。北瑠が折角乗ってきたところを悪いのだが、『消化不良を起こさないための腹八分目』と自分に言い訳をしながら割り切ることにする。

「これで今回のテーマの『文章作法の基本と禁則事項』については以上だ。本当はもっと細かく、いろいろな作法や禁則事項もあるのかも知れないが、これをやりだすと切りがないので、その問題が発生した時にその都度やっていくことにしよう」

「先生、ありがとうございます。先生の講義が文章のことになってきたので、なんとなく小説家を目指しているんだという実感が、やっと湧いてきました」

 目を輝かせながらそう言われると、なんだか俺も嬉しくなってきた。

「北瑠も頑張れば、数年後には立派なプロの小説家に、なっているかも知れないね」

 嬉しさのあまり、つい根拠のない無責任な事を言ってしまう。

「先生。北瑠はそうなるように、先生のご指導ご鞭撻のもと、一生ついて行きます」

 また始まった。一生などという意味深な思わせぶりが。俺はもう、この手の北瑠のブービートラップには引っかからないようにしているんだ。同じようなことで痛い目にあうのは二度と……いや三度目だっけ?……いや四度目かな?……ともかくもうごめんだということだ。

 それに『ついて行きます』って、普通そこは嘘でも『頑張ります』とか『努力します』だろうが。いかにも他力本願――用法二の意味――の北瑠らしいな。どんなにオシャレをしてしおらしくしていても、やっぱり北瑠は北瑠だな。

「先生。なんだか私、小説家を目指すというのがとっても楽しくなってきました。明日のテーマも楽しみなんですが、どんなテーマですか?」

「悪いが、明日は俺の都合がわるいのでパスさせてくれ」

「えっ、先生。何か別の予定があるのですか?」

「あたりまえだよ。俺だって一応は、作家としての仕事をしているのだからな。明日は都内で担当の編集者さんと、次回作の打合せがあるんだ」

「次回作って? 本が出版されるのですか?」

「まだそんな段階じゃないよ。まず簡易プロットを提出して、それに対するアドバイスをもらうのさ。それで、ある程度担当者さんとのコンセンサスが取れたら、出版社内で会議にかけられ執筆の許可が判断されるのだけれど、その許可が出ないことには執筆しても無駄になってしまうんだよ」

「先生。今の説明の中に出てきた、プロットってなんですか?」

「そうか。北瑠にはまだ分らないよね。プロットは、実はもっと後から講義しようと思っていたテーマなんだ。でも今質問があったので簡潔に説明すると、プロットっていうのは小説を書き始める前に、あらかじめこういう作品を書きたいという骨組みのことなんだ。その骨組みの段階で出版社が、そんな内容じゃ売れそうもないからダメとか、面白そうだし売れそうだからそれで行きましょうとかの判断をするんだよ」

「小説って、小説家が好き勝手に書くものじゃないのですか?」

「まあ、アマチュアの段階ならそれでいいのだけれど、出版社の依頼で書こうとすると、どうしてもそういう手順を踏まなければならないのさ。だから、それに縛られないものを書くためには、他の新人賞も視野に入れた作品を、別途手掛けていかなければならないんだよ」

「それで、その担当者さんか編集者さんか知りませんけど、ダメっていったらどうなるのですか?」

「北瑠は縁起でもないことをいうなあ……その場合は、担当者さんが納得するまでそのプロットを手直しするか、それができないのなら、一からプロットの練り直しをしなければならなくて、それでもダメだったらボツだね。編集者は、あくまでも売れる作品を望んでいるからね」

「小説家って、思ったより大変なんですね」

「そのとおり。だから諦めるのなら今のうちだよ」

「先生。でも北瑠には先生がついているから大丈夫です。どんなに困難な障害があっても先生が助けてくれますから」

 なんなんだ、その自信満々は? それに他力本願にも程がある。ていうかレベルが急上昇していないか? 俺だって自分のことで手いっぱいで、お前のことまでフォローできないぞ。まったく。北瑠の精神構造は、俺にはとても理解できない。

「先生。明日打合せするプロットって、どんな内容なんですか? 参考までに教えていただけませんか?」

 またまた北瑠の不意打ちが飛んできた。

「いや、まだ簡易プロットの段階だから、人に話せるような内容じゃないのだけど……」

「でも担当者さんか編集者さんかは知りませんけど、そのプロットで打合せをするのでしょう?」

「そりゃあ、編集者さんとは仕事だから、恥ずかしくても提示しないと始まらないからね」

「何を恥ずかしがっているのですか、先生。先生と私の仲じゃないですか」

 何が『先生と私の仲じゃないですか』だ。 そんな見え透いたトラップには引っかからないぞ。それはさておき、やっぱり北瑠は大物だ。理屈ではこいつに、どうしても敵わない。何のかんのという屁理屈が、何故か屁理屈に聞こえないのが不思議だ。これはもう天性のものかも知れない。

 結局、嫌々ながらも、その簡易プロットを披露するはめになってしまった。

「絶対に笑うんじゃないぞ」

 披露する前に、それだけは念を押すことを忘れない。

「先生、何を言っているのですか。弟子がそんな大それたことを、する訳ないじゃないですか」

 することがありそうだから言っているんじゃないか。現にすでに目が笑っているだろうが。お前がそんなに殊勝なら、俺はこんなに苦労はしないんだよ。いいか。絶対に笑うんじゃないぞ。心の中でそう毒づくが、当然のことながら北瑠には分るはずもない。

「先生。早く、早く」

 北瑠の催促が、俺の耳にむなしく響く。仕方がない。とうとう俺も観念した。

「一応『LH探検隊』っていうのがタイトルなんだ」

「それってどんな内容なんですか?」

「それが……大学のサークルを舞台にしていて、女子学生が主人公にはなっているんだけど……」

「そのサークルは、なんのサークルなのですか?」

「それは……LH探検隊っていうのが、サークルの名称なんだ」

「LH探検隊って?」

「北瑠が怒るから、あまり言いたくないんだけど……」

「えっ、なんで私が怒るのですか?」

「いや、多分怒ると思ったので……」

「それって何ですか? 怒らないから教えて下さい」

 北瑠はそう言って、俺を追い詰めてくる。しかしそんなことを一00パーセント信用できるはずもない。絶対怒るに決まっている。

「絶対? 絶対に怒らない?」

 無駄とは思いながらも、俺は再度念を押した。

「何ですか先生。そんな子供みたいなことを言って」

「だから絶対に怒らない?」

 かなりしつこいとは思いながらも、そう確認せずにはいられなかった。

「分りました。怒りませんから、そんなに焦らさないで、ちゃんと教えて下さい」

 北瑠も相当に苛立っているようで、これ以上焦らすと本当に怒りだしそうである。ここまで来れば、俺も観念せざるを得ない。

「LH探検隊のLHって、何のことか分る?」

「えっ、LHですか?」

「そう、LHっていうのは、ラブホテルの略なんだ。大学で人間総合科学を学んでいる女子学生が男性恐怖症から、独自に女子学生だけのサークルを作るのだけれど、男性恐怖症にもかかわらず、それでも性への興味があり、それと人間総合科学の研究を兼ねてラブホテルの研究をテーマにしてしまうんだ」

「先生、人間総合科学とラブホテルって、何か関係があるのですか?」

「人間総合科学というのは、人の『こころ』と『からだ』と『文化』を総合的に科学する学問ということで、『心理学』や『人間関係論』や『文化論』などを無理矢理こじつければ、LHとも何らかの関係があるんじゃないかと思うんだ」

「その人間総合科学とLHを関連付けて、研究するためのサークルなんですね」

「そうなんだけど、サークルのメンバーは女性しかいないので、実際にLHを調査しに行くことができず、ジレンマにかられるという設定で……そんな時に、いかにも人畜無害そうな男子学生を見つけて、あの手この手でサークルに勧誘しようとするんだ。そのあの手この手が、ストーリーの前半を占めるのだけれど……そして、とうとうその男子学生を籠絡して、サークルのメンバーにしてしまい、メンバーの女子学生が代わり番こで、ラブホテルに誘って探検していくというのが後半のメインとなる、コメディタッチな恋愛小説のプロットなんだけど……」

「先生は、まだビニール袋入りの本に、未練があるのですか?」

「いや、別にこれは封印している官能小説ではなくて、あくまでもラブコメという位置づけだから」

「あれだけしつこく『怒らない?』って聞いたのは、こういうことだったのですね」

 北瑠は一杯食らわされたというような、嫌な顔をしながらそう言った。

「だから怒らないっていったじゃないか」

「分りました。それで、そのプロットで通りそうなのですか?」

「プロット自体は面白いと思うのだけれど、現実問題、俺自身が現在の大学の実態や女子学生やラブホテルについての知識や体験がないので、これから調査や資料集めや場合によっては取材もしなければならなくて、その辺りをどう判断されるのかは分らない状況なんだけどね」

「えっ、それじゃあ、まだほとんどこれからってことですか?」

「簡易プロットっていうのは、だいたいそんなものだよ。これでOKが出れば、もう少し調べて詳細プロットを作成していくのだけれど。どんなに詳しく調査や資料集めをしても、出版社から承認されないことには、その内容で執筆しても無駄になってしまうんだ。だからこの段階では、そこまでの労力はかけられないのさ」

「そうなんですか……小説って思いついたストーリーを、すぐに文章にして書いていくものだと思っていたのですが、文章にするまでにはいろいろとあるのですね」

「そうだよ。今回はたまたまプロットの話が出てしまったが、他にも小説を書く前にいろいろと準備しておく必要のあるものがたくさんあるので、それについては講義の中で話していくようにするから」

「分りました。じゃあ先生、明日はちゃんと頑張って下さいね」

 疲れた。北瑠にこの一言を言わせるまでに、いったいどれほどの労力をかけなければならないのか。講義が終わった後でも、予期せぬ質問を次から次へと浴びせかけててくるので、なかなか完全終了にまでこぎつけないのだ。先生たる俺の不徳のいたすところである。

「で? 結局、次の講義は明後日ですか? 先生。それに次のテーマは何ですか?」

「そうだなあ、次は明後日しか無理だからなあ。テーマは『人称』にしようかと思っているんだ」

「人称ですか?」

「人称っていうのは、その小説をどういう視点で書くかってことなんだけど、詳しくは講義の中で説明するよ」

 いつまでも続く北瑠の質問を、俺はそう言って遮った。そうでなければ、北瑠の質問は終わらないのである。

 これで何回目の講義が終わったのだろうか。確か今日はその三だったよな。でもその後にプロットの説明も少ししたから、その四にしてもいいのかな。後何回位するのだろうか。

 今日の講義を終えてようやく緊張から解放され、一息つきながら漠然とそんなことを考えていると、向かい側の席から北瑠が俺の顔を下から覗き込んできた。

「先生、大丈夫ですか? 起きてますか?」

「なんだ、北瑠。別に寝てなんかいないよ」

「でも、先生。私が話していることを、全然聞いていないみたいだったから」

 どうやら講義後の疲れからか、少し放心していたようだ。

「えっ、そうなのか? ごめん。ちょっと考え事をしていたみたいだ。それで、今なんて言っていたの?」

「だから先生。『この後少し付き合っていただけませんか』って、訊いたのですけど」

 また来た。この『付き合って』を額面通りに受け取ってもいいものなのだろうか。それともはたまたトラップなのか。『意味深な思わせぶりには引っかからないぞ』と心に誓っていたはずなのに、何故か揺らいでしまう心を抑えることができない。

「いいけど……これから何かあるの?」

 抑えきれない心の動揺を見せないようにして、俺はなんとか平静を装うことに成功した。

「何か急に本が読みたくなったので、駅前の本屋さんに行って、先生に本を選んでもらおうと思って」

 なんだ。やっぱりそうか。そうだよな。あんな他愛もない一言に揺らいでしまうなんて、ほんとうに懲りないんだよな、俺の心は。

「それに、せっかくオシャレをしてきたので、先生とデートをしてみたかったのです」

 キタ―――――――――。ど真ん中のストレートだ。あまりにもど真ん中過ぎて、バッターボックスの俺は意表をつかれてしまい手が出ない。きっと何か裏があるはずだと、疑心暗鬼になってしまうのだ。

 今、俺の心の中では『北瑠のやつ、また大人をからかっているだけなんだ』という声と、『こんなストレートなデートの誘いに、疑う余地なんてある訳がない』という二つの声がこだましている。どっちが天使でどっちが悪魔かなんて、俺には見極めることは不可能だ。

「先生。いやですか?」

「いや……いや、そういうことじゃなくて……いやじゃない……」

 俺は混乱の極致で、自分でも何をいっているのかわからなかった。それでも北瑠は、何とか俺の言いたいことを察してくれたようだ。

「じゃあ、今から本屋さんへ行きましょう。先生、一日で読める面白そうな本を選んで下さいね」

 一方的にそう宣言されると、俺には抵抗するすべもなく、もう北瑠の言いなりだった。

 そして、引き摺られるようにビッグドリームを後にしながら、俺はマスターとトモちゃんの不思議そうな視線を、背中に痛いほど感じていた。


 数年前までは駅前に本屋さんは、小さな個人店も含めると少なくとも三店舗はあったはず。それが今では、大型店一店舗のみになっていた。活字の本が売れなくなって、出版社も書店も受難の時代といえる。それは俺達小説家も例外ではない。

 嬉しさと戸惑いという疑心暗鬼の中、北瑠に引き摺られて駅前まで来た俺だが、書店の激減という現実の前に、小説家としての将来不安を感じて憂慮してしまう。

 果たして北瑠を、このような棘の道に導いてしまっても良いのだろうか。冷静に考えた時、俺は悩まずにはいられなかった。

 一方北瑠にはそんな不安は、まったくと言って良いほどなさそうに見える。他力本願大明神を信奉する北瑠の辞書には、不安と言う文字はないのかも知れない。

 そんな取り留めもないことを考えながらも、俺は北瑠と一緒に駅前に一店舗だけ残っている大型書店へと入っていった。そして北瑠のリクエストに応えるべく、本の物色をし始める。面白くて一日で読み切れるという、厳しい条件付きで。

 書店では売れ筋や売りたい本は、概ねフェア台や棚エンドの平台に陳列している。棚前の平台や棚差しになった本は定番商品にはなっていても、すでに売れ筋とは言い難い。

 俺は当然のことながら、フェア台や棚エンドの平台という売れ筋、或いは書店が売りたい本を中心に探していた。

「先生、私『恋愛小説が読みたい』って、そんな気分なのですが、何かいい小説ってありませんか?」

「恋愛小説か……正直俺の専門外なんだけど。でも『動物図鑑』という小説は、とても人気があるみたいだよ」

「『動物図鑑』なんて、恋愛小説にしては変な題名ですね」

「北瑠はそう思うかい? もしそう思ったのなら、それはもう作者の思う壷にはまっているんだよ」

「えっ、思う壺って? それってどういうことなのですか?」

「小説の題名っていうのは、読者に対する作者の最初の仕掛けなんだ」

「題名が仕掛けなのですか?」

「読者が本に対して、一番初めに認識するものはなにか? それは題名なんだ。だから作者は考えに考えた末、題名で読者に最初のアピールをするのさ。作品の全体を表現しながらも、より奇抜でインパクトがあって注目を集めそうな、ただし反感を買わない程度の。そういう題名が良いとされるんだ」

「そうなんですか……じゃあ、題名も小説という作品の一部なんですね」

「そういうことだね。題名の傾向にも流行り廃りがあるのだけれど、あまり流行を追い過ぎると似たような題名の中に埋もれてしまって、逆に目立たなくなるということにもなりかねないけどね」

 最近は副題のような長い題名が流行っているようで、同じような長い題名の小説が乱発されていて区別がつきにくくなっている。先に有名になった小説にあやかりたいという気持ちも分らなくはないのだが、あまりにもそういう傾向の題名が続くと、いくら何でも節操がないように感じられて、うんざりとした気持ちになってしまう。

「考えてみると題名って、思っていた以上にすごく大事なんですね。本文は読んでみないと分らないけれど、題名だけは表紙を見ただけで分りますものね」

「そうだね。題名は本の顔にあたるからね」

 北瑠はデートと言って俺を本屋につれてきたが、なんだか講義の続きをしているようだった。でも、これはこれで不思議と楽しいし、俺と北瑠の関係からすれば自然なことなのかも知れない。

 結局、恋愛小説という以外は内容もよく分らない、その『動物図鑑』という変な題名の本を北瑠は購入した。

「明日はこの本を読んで、先生に会えない寂しさを紛らわせることにします」

 こっ、この言葉は信じていいのか? いや信じられない。これを信じられるほど俺は素直じゃないし、自分にも自信がない。きっとこれは大人を振り回す、北瑠の得意技なんだ。ダブルアーム・スープレックス(人間風車)並みの大技なんだ。頼むからこれ以上俺を振り回さないでくれ。

「じゃあ、先生。明後日の講義、楽しみにしています。それから、明日は頑張って下さいね」

 猜疑心で乾いていた俺の心に、この北瑠の何気ない言葉が、日照りの中の慈雨のようにじんわりと沁み渡ってくる。俺はその日、北瑠と別れた後も、この思わせぶりで優しげな言葉の余韻に、最後まで浸ってしまった。

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