第3話 三日目 涙 小説家になるためのその1 悪魔か天使か

 翌日は、北瑠が来る前に部屋を抜け出して、普段しないような朝の散歩に出かけた。そして散歩の後、開店する時間を見計らって喫茶ビッグドリームに入る。

 北瑠が俺の安アパートに押しかけてきても、留守という寸法だ。これで諦めて帰ってくれればと、内心では願っている。

 俺が指定席に座りモーニングを注文すると、暇をもてあました野次馬達が早速しゃしゃり出てきた。

「文悟も悪よのう。あんな可愛い子をすっぽかして、待ちぼうけをさせようだなんて」

「本当。文悟さんて見かけによらず、結構Sだったのですね」

 マスターもトモちゃんも俺にとって、あの可愛い顔をした悪魔(魔女)との対面が、どれほど苦痛でストレスの利子を雪だるま式に貯めていくのか、分っていないからそんな勝手なことをほざけるのだ。貯金の利子なら、いくらでも有難く頂戴するけどね。

 こういう時だけ、いつものように名前の語尾を伸ばさないことも、何か嫌な感じ。それに俺は越後屋でもないし、ましてSM趣味もない。

 二人から、そんな軽い非難を浴びせかけられてもものともせず、取り敢えずモーニングを食しながら携帯用のノートPCを使って、昨日できなかった新しい題材のプロット作成に取り掛かることにする。

『予定が一日遅れてしまったな』と思いながら。

 その時だった。何か地響きのような足音が近づいてくる気配を感じていると、喫茶店の扉がいきなり開いて、あの可愛い顔の悪魔(魔女)が飛び込んできた。

「先生。やっぱりここだったのですか。探したんですよ。本当に」

 何か必死な形相をしているのが、変に可愛い。あれっ、こいつってこんなに可愛かったっけ? 

 立ったままでいる北瑠の顔を改めて見上げると、ただでさえ大きな目を猫のように更に大きく見開いて、そしてあろうことかビー玉ほどもありそうな、大粒の涙をポロポロと降らせ始めた。

「先生は意地悪です。私が来ることは分っていたはずなのに、外出してしまうなんて」

 集中豪雨を続けながらそう詰られると、俺はぐうの音も出ない。それでも何か言い訳をしないことには収まりそうもなかった。

「いや、悪かった。実は昨日できなかった新作のプロットを考えるのに、場所を変えて気分転換をする必要があったんだよ……本当にごめん」

 半分本当で半分嘘の言い訳をしながら、ともかく謝る。そして立ったままでいる北瑠を促して、前の席へと座らせた。

「トモちゃん。こっちにもモーニングセット一式、大至急でお願い」

 咄嗟に思いついた収拾策である。

「先生。そんなのでは誤魔化されませんよ」

 北瑠は席に座ると、そう言いながらテーブルに備え付けてあった紙ナプキンを使って、大粒の涙を拭っている。一見プンプンと怒ってそうだったが、涙を拭う手の間からは、そこはかとなく笑顔も見えた。

「ごめんよ、北瑠……今日は本当に悪かった」

 なんとか許してもらえそうだったので、テーブルに手をついて再度謝った。

 先生にここまで平身低頭させるとは、やはりこの弟子は只者ではない。もしかしてダイヤの原石なのかも。そんな予感めいたものが、俺の頭の片隅をかすめていく。

「もういいです。その代わり今日は、ちゃんと小説について教えて下さいね」

 何とか北瑠のご機嫌が直ってきた頃、ようやくトモちゃんがモーニング一式を持ってきてくれた。

「文悟さんも、こんな可愛いお弟子さんを泣かしちゃダメよ」

 トモちゃん、それはもう言わないで。十分に反省をしているのだから。

 ひとまず二人で仲良く――なのかどうかは分からないが――モーニングを食してから、小説家になるための講義を始めることにする。

 北瑠は朝から走り回っていたせいで腹が減っていたのか、先に食べていた俺よりも早く食べ終わってしまった。


「それじゃあ、今日は小説家になるための、その一から始めようか?」

 食べ終わったモーニングをトモちゃんに片づけてもらうと、俺はおもむろにそう宣言した。宣言だけは一人前だが、はたしてどこまでできることやら。

「先生、できるだけ解かり易く、それでいて手っ取り早くでお願いしますね。私も早く小説家になりたいんです。そうでないと田舎に連れ戻されちゃうんです」

 そりゃあ若い娘が就職もしないで、ふらふらと一人暮らしをしていたら、親としては心配にもなるだろう。そのまま連れ戻されちゃってくれたら、俺としても楽になっていいのだけれど。

 それにしても弟子のくせに、『解かり易く』だとか『手っ取り早く』などと、勝手なことをほざくやつだ。そんな北瑠に俺は、師匠として厳しくとも正しい道を諭してやることにした。愛の鉄槌というやつだ。何事も最初が肝心だからな。

「でもね、小説家になるための特急切符はないんだよ。それぞれの駅に大事な要素があるので、特急列車に乗ってその駅を飛ばしてしまうと、小説を書く上での大切な要件が抜け落ちてしまうんだ」

 うん。我ながら、なかなかうまいことを言えたと感心する。昨日必死で考えただけのことはある。ただし鉄槌と言いながら、厳しさのかけらも出すことができず、肝心な最初をしくじってしまったようで、それだけが残念だった。

「それから、最初に断わっておくが、小説家を目指すにあたって何が正しくて何が間違いかなんていうのはわりと曖昧なもので、最終的にはいろいろな説の中から自分なりに解釈して判断をするしかないんだ。だから、これから君に教えることも、正しいか間違っているかは別として、俺自身が解釈した内容で教えていくので、そのつもりで聞いてほしい」

 取り敢えず、これだけは最初に宣言しておかないとまずいよな。まあ、俺の自信のなさのあらわれともいえるのだけれど。

「そこでその一なんだけど、北瑠は『小説って何?』って考えたことはある?」

 北瑠の顔が『ハテナマーク』一色になる。のっけから計算通りの反応をしてくれて、俺は嬉しくてならない。

「普通に物語っていうか、ストーリーのことじゃないのですか?」

 テーブルの上に開いていたノートを前にして、躊躇いながら宙をさまよわせていたボールペンを、北瑠は無意識のうちにこめかみへと当てている。これほど分り易いリアクションもないだろう。

「実は、小説に対比されるものとして大説というのがあるんだ」

「えっ、大説ですか?」

 北瑠は不満そうに、そう呟いた。小説に対して大説とは、あまりにも安易だと思ったのかも知れない。

「そう。大説とは、君主の命令で国家や政治に関する志を書いたものとされていて『四書五経』などがこれにあたるらしい」

「先生、『四書五経』ってなんですか?」

「北瑠には少し難しいかな。これは中国の儒教で特に重視される文献を総称して、そう表現しているんだ。例えば四書では『論語』など、五経では『春秋』などのことをいうようだね」

「『論語』とか『春秋』とか言われても、良く解らないのですが……なんだか、難しそうな話なんですね」

 ここまでのところ、北瑠は俺の想定通りの反応をしてくれた。このまま最後まで行ってくれれば良いのだけれど。いくらなんでもそろそろ突っ込みが入りそうである。ここで突っ込まれてしまうと、俺も答えに窮してしまうところだ。

「これは、小説家を目指すと一度は聞く話なので敢えてしたのだけれど、小説を書く上では特に必要ないので、あまり難しく考えずにこういうものだということだけ、分ってくれたらいいんだよ」

 必要のない話ならしなければ良いのにというのは、素人の考えである。こういうどうでも良いようなことを、さもありがたそうに蘊蓄を垂れるのがプロというものだ。まあ、俺が世間一般的に認められるようなプロといえるかどうかは別として。

 それにしても、我ながら突っ込みどころ満載な解説だと思った。

「分りました、先生」

 あれ、北瑠は意外と素直なんだな。ここで何か突っ込みが入るんじゃないかと警戒していただけに、俺はなんだか肩透かしを食らわされたような気がする。

 こういう素直な面て、今まであまり見たことがなかったので、ちょっぴり新鮮な感じがして本当に可愛くなってきた。弟子としても女としても。これは少々やばい傾向かも。

「一方、大説と相対する小説は、個人の持つ哲学的な概念や人生観などの主張を、一般大衆に分りやすく表現した物語とされているんだ」

 素直になった北瑠に少し困惑しながらも、俺は講義を続けた。

「こっちの方も、なんだかとても難しそうです……」

 素直になっても難しいことは理解不能らしい。

 北瑠は眉間に皺を寄せた渋い顔で、手に持ったボールペンを鼻の下に挟み、唇を尖らせている。マンガでは良く見かける象徴的なポーズだった。少し変な顔に見えなくもないが、本人は全く気付いていない。

「まあ、難しい事は置いておくとして、大説は国家、小説は個人が主体ということだな……それから今、北瑠が物語とか言っていたけど、小説とは言えない物語もあるらしい」

「小説じゃない物語ですか?」

 そう呟きながらも北瑠は、まだ変な顔を続けている。どうやら俺の解説には、納得できていないようだ。

「一説だからそうでない説もあるのかも知れないが、何が小説なのかを考える上では参考になると思うんだ」

「どんな説なのですか?」

 北瑠は得心できない様子で未だに唇を尖らせているが、ようやくボールペンを鼻から外した。

「小説に求められる重要な要件として、『必然性』と『人情』があるのだけれど、その要件を満たさない物語は小説とはいえないってことなんだ。もちろん北瑠のいう『物語』や『ストーリー』があるのは前提だけどね」

「先生。『必然性』とか『人情』ってどういうことですか?」

 唇を尖らせたまま、北瑠が問い返してきた。

「それだけだと分らないよね。『必然性』をもう少し説明すると、小説では内容から導かれる必然性のある展開をしなければならなくて、展開を偶然性に頼るご都合主義はダメということなんだ」

 ご都合主義。小説の世界では、一番嫌われる言葉だ。

「偶然はご都合主義になるのですか?」

「現実の世界では偶然による出来事は日常茶飯事だけど、小説では何らかの理由付けをして、それが必然になる工夫をしなければならないんだ」

「小説の中での出来事には、そうなるための理由がいるということですね」

 どんなに些細な出来事も、理由がなければ小説としては成り立たないのである。

「そのとおり。でないと読者が納得しないからね。逆に小説とは言えないとされる物語は、偶然のつながりで構成されていくことが多いんだ。例えばおとぎ話のように」

「じゃあ、おとぎ話は小説ではないということですか?」

「そういうことになるのかな。まあ、おとぎ話なら読者も、偶然性についてそこまで目くじらをたてることはないと思うけど」

 おとぎ話の定義は小説に比べると、とても大らかだった。それに比べると小説は、諸説有るとはいえ、難しい定義を科せられる。偶然性というご都合主義には頼らず、何らかの形で必然性を示唆しなければならないのである。

「そうではないという説もあるのかも知れないけれど、小説にとって『必然性』というのは、それほど大事な要件と言えるんだ」

 元々が作り話である小説で偶然性を是とするなら、貧乏すれば宝くじが当たったり、窮地に陥れば突然救世主が登場したり、主人公の前に美女が次々と現れたりなど奇跡ばかりが起きて、読者が興醒めするような展開になってしまう。

 このように何でもありのご都合主義なら、ドキドキもハラハラもするはずのないことは今さら言うまでもない。もちろん宝くじが当たっても、突然救世主が登場しても、美女が次々と現れても、それらが不自然にならないような理由付けや展開や設定がきちんとなされ、読者が納得できるのなら問題はないのだけれど。それがとても難しいのだ。

「次に『人情』について。これは坪内逍遥が、小説の定義を『人情を映す文学作品』としたことに由来するらしい。個人が主体となる小説では、個人の主張を分りやすく表現しなければならないのだが、それを登場人物、特に主人公の心情を通して間接的に表現することになる。そういう意味でも人情を映す心理描写というのがとても大切なんだ」

「個人の主張を、登場人物の心理描写をすることで表現するということですね」

「そのとおり。小説では登場人物の心理的な葛藤や決断をもとにストーリーを展開することで、個人の主張を分りやすく表現しながら読者を物語の中に引き込んでいくということが最重要課題なんだ。もちろん、それ以外の描写も大切だけどね」

「先生、『必然性』と『人情』の大切さについて、北瑠は理解いたしました」

 本当かな? そんなに簡単に理解できるようなことではないはずなんだけど……でも本人がそう言うのなら、そういうことにしておこう。

「今、必然性の話をしたばかりで、北瑠を混乱させるかも知れないけれど、小説は必然性を求めることで限りなくリアリティを追求しながらも、あくまで作者の創造作品であり、架空であり、虚構であり、フィクションだということも理解しておいてね」

「大丈夫です、先生。小説が事実とは、誰も思いませんから」

「ごめん、蛇足だったね。あと小説では、登場人物、特に主人公の魅力をどれだけ引き出せるかが、大変重要なんだ。まあ、人ではなく、擬人化された動物や物という場合もあるけどね。よく『キャラが立っている』と表現されるけれど、それは主人公や登場人物が、魅力的に表現されているってことなんだよ」

『キャラが立っている』と表現すると、どこかで『クララが立った』などというふざけた声が聞こえてきそうだが、この際それは無視をする。

「小説では、登場人物が魅力的に描写されていないといけないのですね」

「そういうことだね。だけど、それだけではまだ足りないんだ」

「えっ、それだけじゃないのですか?」

「まず、何のために小説を書くのかを考えた場合、『売れたい』とか『自己顕示欲』とかもあるかも知れないけれど、それら煩悩的なものを除くと『何かを読者に伝えたい』『訴えたい』『表現したい』ということだと思うんだ。そのことについて、先ほど『小説では、個人の主張を分りやすく表現しなければならない』とも言ったけど、それを直接的に書いてしまうと、それは小説ではなくて『論文』になってしまうんだよ」

「論文ですか。私、卒業論文も、あまりまともに書いていないんですけど」

「論文ではなく、小説にするには、作者の主張を直接的に書いてはいけないんだ。登場人物やストーリー展開や描写によって、間接的に読者に伝える、訴える、表現する。それをするのが小説家なんじゃないかな」

 俺は一息ついて、北瑠の様子を探りながら続ける。

「読者は、登場人物やストーリーや描写によって間接的に作者の主張を知ることで、共感することもできると思うんだ。読者は論文を読みたい訳じゃないからね」

「間接的って何か、まどろっこしくないですか?」

「だけど北瑠は、例えば子供の時に悪さをして、お母さんからそれについて直接ストレートに叱られたら、素直に聞けると思う? 多分、普通は反発してしまうと思うんだ」

「それは……そうかも知れませんけど……」

「でも、ストレートではなく間接的に、例えば他所の子の話として諭されたりしたら、そんな悪さをしてはいけないと思わないかい? 今、例え話をしたけれど、何故人は例え話をするのかというと、その方が理解しやすいからだと思うんだ。両方ともあまり適切な例えと言えないかも知れないけれど、人は間接的な方が素直になれて、理解しやすいものなんだよ」

「先生……何か、心理学の講義を受けているみたいです」

 北瑠は自身の理解不能なことをそんなふうに表現していた。心理学とは、人の心と行動を科学的手法によって研究された学問のことを言うようだが、普通の人には訳の分らないことの代名詞のようになっている。俺もそうだが、一般人はそういう便利な言葉として使用することの方が多い。

「俺も心理学のことはよく分らないけれど、読者に理解してもらいながら共感を得ようとするなかでは、自然と心理学的な要素が含まれているのかも知れないね」

「読書感想文とは、大違いですね」

「そうなんだ。それがわかっただけでも、今日は収穫があったよ」

 最初は『難しい』と言って戸惑っていた北瑠だが、意外ともの分りも良く理解しようという前向きな気持ちがあるので、俺は安心して講義を進めることができた。

 昨日の一夜漬けの内容なので、意地悪な相手であれば、この講義は破綻していたかも知れない。北瑠が、俺の拙い講義を素直に聞いてくれて、本当によかった。

「そこでその一のまとめだけど、小説で必要なことは『個人(作者)の主張』『ストーリー』『必然性のある展開』『人情を映す心理描写やその他の描写』『フィクションであること』『登場人物の魅力』『主張の間接的な表現』ということだね。これ以外にも大切なことはたくさんあるけど……あ、そうそう、何よりも『面白い』がなくては話にならないね」

「小説ってそういうことをいうのですね。なんとなく分ってきました」

 北瑠は何かに気付いたように、パッと目を輝かせて納得顔になる。今日の講義のテーマと内容とが、ようやく頭の中で一致してきたのだろう。

「まあ、いろいろと小説に関する講釈を垂れてきたけど、人によってさまざまな考え方もあり、時代によってもそれは変化してきているので、あまり堅苦しく考えず、もっと自由でも良いと個人的には思うんだ。ただし、新人賞や文学賞では通用しないかも知れないけどね」

 もう限界だ。勘弁してくれ。本当にこの内容でよかったのかどうかなんて、今は考えられない。まあ、北瑠が納得しているようだから、これで良しとしよう。

「ということで、今日はここまで。あまりいっぺんに詰め込むと訳が分らなくなるからね」

 このまま講義を続けていると、北瑠ではなく俺の方が、訳が分らなくなってしまいそうだった。俺は、内心の不安を出さないように表面を取り繕いながら、そう言って終了を宣言した。

 何はともあれ、初日をやり終えることができてほっとする。しかし、明日からはもっと大変だろうな。俺は漠然とそんなことを考えていたが、北瑠はまだ講義の後の余韻に浸っているようである。

「ありがとうございました、先生。小説って、なんだか私の思っていたものと少し違っていました。それがわかっただけでも本当に良かったです」

「そうだね。これから小説を書こうとしていても何が小説なのかが分っていないと、小説を書いているつもりで全然違う別のものを書いていたという笑い話にもなりかねないからね」

「先生に教えていただけなかったら、私は小説ですと言って読書感想文を出していたかも知れません」

「まあ、いくら北瑠でもそこまでのことはしないだろうけど、実際に新人賞の最終選考に残った作品でさえ、選考委員から『これを小説といえるかどうかは疑わしい』とまで酷評された実例もあるんだよ。だから小説とは何かということは、一番初めに考えておくことが大事だと思うんだ」

 実際に、そんな書評を自分の作品にされたらショックだろうなと思いながら、改めて今回の講義のテーマを、最初に選んで良かったと思った。

「ところで先生。今日は、もう頭が疲れちゃったので帰ろうと思うのですが、明日の講義のテーマはなんですか?」

 北瑠……お前は、本当に疲れやすい体質なんだな。それも今日は頭だなんて。やっぱり頭が『困ったちゃん』だったのか。それは別として俺も実際、今日は相当に疲れてしまったよ。

 帰ってくれるのはありがたいのだが、明日の講義のテーマといわれても……えっ、明日って? やっぱり明日も来るのか? 今日も予習でつぶれるのか?

「そうだなあ。それじゃあ、明日は小説のジャンルについて説明しよう」

 今日逃げ出してしまったという引け目から、拒絶することもできないので、俺は取り敢えず緊急避難的にテーマを決めた。このテーマなら、少しの予習で何とかなるだろうと思ったからだ。

「ありがとうございます、先生。それじゃあ、先生の携帯番号を教えていただけませんか?」

「えっ、携帯番号?」

「そうです。今日みたいに、先生が突然行方不明になってしまったら困りますので、万一の時でも先生と連絡が取れるようにしておきたいのです」

 お前……さらっとそんなことを……許すと言っておきながら、今日のことをまだ根に持っているな。でもまあ今日のことは俺が悪いので、何とも反論はできないが。

 仕方なく俺達は、赤外線送受信機能を使って携帯電話番号とメールアドレスを、お互いに登録し合った。

「先生。もうこれで逃げられませんからね」

 北瑠は、携帯電話(スマホ)を水戸黄門の印籠のように片手で俺の目の前にかざして、満足そうな顔でニヤリと微笑んだ。

 ニヤリと微笑んだという表現も、俺としては『なんだかなあ』とは思うのだが。それに満足そうな顔というのも。

 こういう時の顔って、なんて表現すれば良いのだろうか。ドヤ顔? したり顔? してやったりの顔? なんでもいいや。とにかくそんな感じ。

 こんなだから北瑠に敵わないのかな? やっぱり小説における描写とか表現というのは難しい。

 おっと、今はそんなことが問題じゃなかった。北瑠の言った『もうこれで逃げられませんからね』が問題なのだ。この言葉を聞いて俺は、何故か背筋に寒いものを覚えた。例えは悪いが、女郎蜘蛛の巣に貼り付いてしまった昆虫のような気分になった。

 つい先ほどまでは、弟子としても女としてもとっても可愛いと感じていたのに、これはどうしたことか。いったいどっちの北瑠が本当の姿なんだ。できれば女郎蜘蛛の方は、勘弁願いたいと思うのだが。

「先生。それじゃあ、今日はこれで失礼します。明日は逃げ出さないで、待っていて下さいね」

 にっこりと微笑みながらさらりとのたまう言葉の、俺に対する圧迫感は半端ではなかった。

 俺にとっての北瑠は、いったいどんな存在なのだろうか。俺を精神的に威圧する悪魔(魔女)なのか、それとも可愛らしくて愛おしい天使なのか。俺自身でさえ、答えを見つけられずにいる。


 北瑠が自分の言いたいことだけ言い残してルンルンと帰っていった後、マスターとトモちゃんが野次馬根性丸出しで、俺の席へと押しかけてきた。

 幸い――と言って良いのかどうか分らないが、店内に客は俺一人だけだった。俺を客として認めてくれているかどうかは別として。

「文豪。可愛いお弟子さんじゃないか。なんでお前はそんなにビビっているんだ」

 マスターは俺と北瑠の目に見えない精神的バトルを知らずに、そんな気楽なことを言っていた。そうなんだ。傍目からは圧倒的に、そういうふうに見えるんだ。そこが一番の問題だと、俺はすでに気付いている。

「そうですよ。文豪さんは、どうしてあんなに可愛いお弟子さんを泣かしちゃうわけ?」

 トモちゃんも、どちらかといえば俺の敵方へまわろうとしていた。そうか、これは北瑠によって周到に仕掛けられた、ブービートラップなんだ。一見何もないように見えて、実はどこかに罠や地雷が仕掛けられているというやつさ。

 マスターもトモちゃんも地雷なんて見えないから、俺に『何をビビっているんだ。早く進め』と号令をかけるが、俺には目に見えていなくても、どこかに地雷が仕掛けられていることは分っているのだ。

 見えない地雷ほど厄介なものはない。俺はこれから、ベトナムやカンボジアの大地のような北瑠と、ロバート・キャパや一ノ瀬泰造の心境で接していかなければならないのだろうか。あれ、いつの間にか女郎蜘蛛から地雷に変わっているぞ。やっぱり今日の俺は疲れているんだ。精神的に。

「でも、どうしてマスターもトモちゃんも、あいつの味方ばっかりするのですか? 付き合いは俺の方が、ずっと長いのに」

 約五年間も通い詰めていた俺よりも、昨日今日来たばかりの北瑠の味方をする二人の心理を、俺には理解することができなかった。

「俺はいつでも、可愛い方の味方だからな。それは仕方がないよ」

 あまり論理的ではないが、マスターらしい答えに不思議と納得してしまう。

「助平なマスターは別としても、トモちゃんまで」

「おいおい、助平はないだろ。文豪」

 マスターの条件反射の如き突っ込みはスルーして、トモちゃんが俺の素直な質問に答えてくれる。

「だって、とても一途で真っすぐで可愛いんだもの。バタバタと入ってきたかと思うと急に泣き出して、泣き止むとそれまでとは打って変って予想外ないい笑顔になるし、それに文豪さんのことを『先生、先生』ってすごく慕っていて、見ていて微笑ましくなっちゃうのよ」

 トモちゃんの答えは、マスターよりもずっと論理的だった。

「そんなものですかね。でも俺、先生って柄じゃないし、すごくプレッシャーを感じちゃうんですよ。それでそのプレッシャーに押しつぶされそうになって、逃げ出したりしてしまったんですけど」

「まあ、そんなに深刻になるなよ。単に自分の知っていることを教えてあげたり、アドバイスしてあげるという程度で十分だと思うよ。押しかけの弟子なんだし。それにまだ何にも知らない娘なんだから、それ以上のことを教えようとしても、どっちみち消化不良を起こすだけだと思うな」

 プレッシャーで思い悩んでいる俺を、マスターはそう言って慰めてくれた。いつもは俺のことを弄ったりからかったりばかりしているが、ときどき兄貴のように親身になってくれるのだ。

「そうですね。なんだか俺、先生、先生って言われて舞い上がってしまって、それに応えなきゃっていう、強迫観念にとらわれていたようです。もっと楽に、彼女と接するようにしてみます」

 何か滅茶苦茶ベタな表現なのであまり使いたくはないのだけれど、『目から鱗が落ちたような』気分だった。

 いままでの北瑠に対する悪魔(魔女)的なイメージは、結局、俺のプレッシャーが作り上げた虚像でしかなかったのだ。そう考えれば、全ては辻褄が合う。そして俺は、可愛いだけの北瑠をイメージすることができた。でもそれはそれで、俺の中にある危ない衝動をも目覚めさせるという、背反する事象に戸惑ってしまうのだが……なんだか面倒くさい性格だな、俺は。

 結局その日、新作のプロット作成はスタートすることなく終わってしまった。この分では当分の間、スタートできないかも知れないな。

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