第2話 二日目 お掃除

 柔らかな春の朝日は、天使の羽根のように優しく体を包んでくれる。俺は今、天国にいるんじゃないかと愚かにも錯覚してしまうほどに。

 そのような気持ちの良い朝の目覚めに浸りながら『さて、今日の予定は?』などと優雅に考えていると、表のドアを激しく叩く音が聞こえてきた。

「ドン! ドン! ドン!」

 何があったのだ。借金取りがくるような覚えはないぞ。ましてその筋とのトラブルもないはずだ。天国からいきなり現実に引き戻されてしまい、俺は訳が分らないままその状況を分析しようとしていた。

「先生、先生、起きていますか。私です。弟子第一号です」

 えっ、何か聞き覚えのある声だな。そりゃあそうだ。昨日聞いたばかりの声だ。まったく朝から騒々しいやつだ。まだ弟子にしたつもりはないぞ。勝手なことばかりほざく弟子に――いや、まだ弟子にしたつもりはないのだが――俺はそう言ってやった。しかし、本人は全く気にするふうもなくお構いなしである。仕方なく鍵をあけてやると、勢いよく北瑠が飛び込んできた。

「先生。いつまでも寝ていたらダメですよ。もっと規則正しい生活をしなければ。小説家といっても、自己研鑽は必要ですよ」

 何でお前に言われなきゃならないのだ。お前になんか言われなくても、俺は俺なりに日々自己研鑽はしているつもりだ。いくら心の中で叫んでみても、小心者の俺は口にすることができず、こいつにはまったく通じない。

「先生。早く顔を洗って散歩に行って下さい。その間に、お掃除をしておきますから」

 何か訳の分からないうちに、そう言って部屋を追い出されてしまった。

 散歩といっても自分の意思でするものではない。若干の戸惑いを覚えながらも、ともかく時間をつぶすべく辺りを徘徊していると、マスターの出勤に出くわした。

 マスターは近くのマンションに年の離れた若くて美人の奥さんと、保育園に通う可愛い娘さんと三人で暮らしている。俺と大して変わらない位年下の奥さんをもらうなんて、やっぱり助平なんだ。マスターは。

「よっ、文豪、どうした。こんなに早くからウロウロとして」

「登さん、勘弁して下さいよ。朝から昨日の娘が、家に来ているんですよ」

「えっ、あの娘、早速来ているの?」

「そうなんですよ。朝っぱらから……掃除するとか言って、追い出されちゃったんですよ。何とかして下さいよ」

 俺がマスターのことを登さんと言ったのは、本名が秋山登だからである。喫茶店ではマスターと言うことにしているが、それ以外では登さんと呼んでいる。他の常連客とは、そこが違うところだ。

「今からお店を開けるからモーニングコーヒーでも飲んでいくか?」

 意に反したお散歩で時間をもてあましていた俺は、登さん――もといマスターのお言葉に甘えることにした。そして、マスターの淹れてくれた美味しいコーヒーで一時間あまり過ごしてから、部屋の様子を見に行くことにする。

 部屋に戻ってみると、『えっ、ここはどこ? 私は誰?』状態で、自分の部屋はどこに消えてしまったのだという錯覚にとらわれた。見違えるように片付いて綺麗になった部屋の真ん中に、北瑠は正座をしている。

 大きな家具はシングルベッドと机に本棚とカバー付きハンガーラックくらいのものだから、床に散らばっていたゴミを片付ければ座るスペースを十分に確保できるのだ。

「先生。ちょっとここに座って下さい」

 俺に気付いた北瑠は、顔だけを向けて無表情にそう言った。

 何か分らんが、有無を言わせない口調に逆らうこともできず、言われるがまま北瑠の斜め前に正座する。

 斜め前というのは、正面を何故か警戒してしまったためで、正座ではなく胡坐でもよかったのだが、北瑠の口調がそれを許していないように感じられた。

 何で先生の俺が弟子にここまで気を使わなければならないのだ。この理不尽さに内心では大いに憤りながらも、次の展開に不安を感じていた。

「先生……ベッドの下から、こんなものが出てきたのですけど」

 北瑠が右手で指し示したのは、ベッドカバーの上に並べられている数冊の本だった。全て丁寧にビニール袋に包まれている。俺には見覚えがあった。

「先生。いったいこれはなんですか?」

 一切の感情を押し殺したまま、そう言って俺を問い詰める。

 なんですかって聞かれても……『見りゃあ分るだろう』とはとても言えず、何て答えようかと無い頭の全知全能を傾け、もうこれ以上に有効な言い逃れはないだろうというのを思いついた。

 ただし、その言い逃れが成功するかどうかは五分五分である。五分五分というのは結構安心してしまうものだが、実際にはどちらに転ぶか分らないままどちらかに転ぶ訳で、そして転んだ後に後悔することの方が多いのが通例だ。

「それはだなあ……小説を書く時の資料だよ。そう、大事な貴重な資料だよ。だから大切にビニール袋で保護されているだろう……小説家はあらゆるジャンルについて、研究しておかなければならないんだ。恋愛小説や推理小説や時代小説の他、SFやホラーなど……官能小説もしかり」

 冷や汗を掻きながらも、ともかくそう返答をする。はたして結果は――吉と出るのか、凶と出るのか――成功するのか、後悔するのか。

「先生……」

 北瑠は冷やかな視線を俺に向けながら、大きく嘆息をした。それだけで結果は、もう分かったようなものだ。

 それなのに『蛇の生殺しはやめてくれ』と心の中で叫びながら、次の反応を待ってしまう自分が情けなくて悔しい。

「そんな見え見えの言い訳をしなくても、独身男性の必需品というのは、いくら奥手の私でも理解はしています。理解はしていますが、今の先生にはもう必要ありません。なんせこんなにも可愛い弟子の私がいるのですから。だからこれは潔く、綺麗さっぱりと捨て去りますね」

「えっ」

 ちょっと待て。その返答からは、三つのことを考えなければならない。ひとつ目は言い訳がばれてしまって、ちょっぴり恥ずかしいこと。二つ目は、その後にさらっと意味深なことを言われたような――これは俺の気のせいか? そんなことはないよな。最後は、とっても勿体ないこと。この本はすでに絶版になっている、貴重な資料なんだということを知らないのか。もう二度と手に入らないんだぞ。

「先生。ひとつ目は、そんな恥ずかしい言い訳はしなければ良いのです。二つ目は先生の勘違いです。女の子の弟子がいるところに、そんなセクハラモドキのものは必要ないということです。最後はまったく理解できません。却下です。廃棄処分です」

 北瑠は、最高裁裁判長のごとく無表情のまま厳粛に、そして有無を言わせぬ強い口調で最終判決を下してしまった。被告人には弁護士もなく、控訴すら許されない。俺は結局、この愛しいビニール袋入りの貴重な資料と、情状酌量もされない無情な判決によって別れなければならないのか。長年の思い出が、走馬灯のように蘇り残念でならない。

 これが正しい弟子と先生のありかたといえるのか。師弟関係というのはあらゆる分野であると思うが、いったいこのような理不尽な師弟関係が世の中にあるものなのだろうか。いやそれ以前に、あっても良いものなのだろうか。

 昨日、弟子にして下さいとお願いされたものの俺はそれを許可した覚えもないのに、今日はそれが既成事実となっていて、更にはその立場まで逆転している。

 やはりこいつは、末恐ろしいほどの大物なのかと、戦慄せずにはいられなかった。

 こいつに初めて会ったのは、確か昨日の午後だったはず。そう、まだ二十時間も経っていないのだ。

 昨日、公園のベンチで儚げに見えたのは、いったい何だったのか。夢か? 幻か? 鶴の恩返しのように、最初鶴だと思っていたのが、美女となって現れるのなら良いが、その逆バージョン。これじゃあ、おとぎ話のネタにもなりゃしない。

 北瑠は最終判決を俺に申し渡した後「ふう~」と、まるで取って付けたかのように大きなため息をついた。

「なんだか私、疲れちゃった。今日はこれで帰りますね」

 おいおい、昨日といい今日といい、すぐに疲れるやつだな。まあ、この部屋の掃除は相当に大変だったろうけど。とにかくこれで帰ってくれるのなら万々歳さ。

「それからこれは、私が帰りに白ポストへ投函しておきますから、安心して下さいね、先生」

「うっ」

 忘れていなかったのか。これでついに生き別れになってしまうのか。何が安心して下さいだバカヤロー。俺のそんな口にできない憤慨をよそに北瑠のやつ、その後に最後っ屁をかましていきやがった。

「先生。明日はちゃんと、小説について教えて下さいね」

 えっ、明日も来るのか? 『聞いてないよ~』なんてギャグをかましている場合ではない。俺自身、小説は自分流で書いているのだから、人に教えるなんて大それたことなどできる訳がない。それでも、最初だけでもそれらしい講義をして先生としての威厳を保とうとするなら、今日のうちに予習をしておかなければならない。

 今日は、新しい題材でのプロット作成を開始しようかと考えていたのに、北瑠の最後っ屁はピンポイント空爆で、見事に俺の予定を破壊してしまった。

 だいたい小説なんてものは、わりと自由なものだ。確かに決まりごとはあるけれど、そのとおりでないとダメというものでもない。人によっては、また資料・文献によっては真逆の説がまかり通っていることもある。まあ、自分なりの解釈で説明するしかないだろう。

 取り敢えず『小説の書き方』をネットで検索してみると、あるわあるわ両手の指では足りず、両足の指までフル出動させなければならないほどである。

 そのあふれるサイトの中でも、できるだけ超の字がつく、初心者向けサイトを参考にすることにした。なんせ相手は読書感想文と小説を、一緒くたにしてしまうほどの強者だからな。

 結局、その日の残り時間は全ての予定を取りやめて、今までそんなに気にも留めなかったような小説の書き方を、全力で勉強するはめになってしまった。

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