第1話 一日目 野良猫

 まさか、こんな野良猫を拾うはめになろうとは……世の中何が起きるのか一寸先は闇のようなものだな。

「マスターもなんとか言ってやってくださいよ。俺だって飯食ってくのが、やっとの身分なんだって」


 お天気の良い日に限るのだが、俺は気が向けば、さほど広いとは言えない近くの公園を気分転換と称して散歩することにしている。その日も春の陽気に誘われて、目的もなくその公園へと出かけていった。

 昨日、桜の開花宣言が出たことも影響しているのか、数日前に来た時と比べると人出も目に見えて多くなっている。

 園内はすっかりと春めいてきて、生命の活気にあふれていた。目の前に広がる新緑色鮮やかな芝生も、心なしか生を自己主張しているかのように見える。

 普段人から鈍感だと評されている俺でも、思わずその場で深呼吸がしたくなるほどの、春の息吹を感じ取る事ができた。

 柔らかな若草色の絨毯と化した芝生と、乾いた砂利の敷かれた遊歩道との境には、アーチ型に模られた茶褐色の柵が緑を縁取るかのように多数設置されている。

 柵の内側には一本の大きな木が植えられていた。楠なのだろうか枝を孔雀の羽のように大きく広げ、柵で仕切られた境界線の上を遥かに越えて、前にあるベンチの方にまで目一杯に張り出してきている。そして生命の躍動を感じさせる生き生きとした葉を、これでもかという位に生い茂らせていた。

 その枝と葉が前にあるベンチには格好の日除けになっていて、俺たちに心地よいスペースを提供してくれている。

 春の恵みを受けたそのベンチは、俺にとって特別な存在だった。いや、別段春に限った事ではないのだが、時折そこに座っては作品の構想をあれこれと練っていたのだ。

 しかしその日は先客がいた。

『仕方がない。今日は散歩だけにしておくか……』

 一旦はそう思案しながらも、その先客のことが妙に気になってしまった。

 別にうら若き女性だからとか、美人そうに見えたからという訳ではなく……まあ、そういう面も敢えて否定はしないが、その女性がとても儚げに見えたのだ。

 黒っぽいスーツ姿でバッグを膝の上に載せ、肩をすぼめるようにしてベンチの端に遠慮がちに座っている。やや前傾姿勢で俯いたまま微動だにせず、何か思い詰めているように感じられた。

 ショートカットながら髪の毛が横から頬にかかり、実際の表情を伺い知ることができず余計にその思いが強くなる。

 俺の心の中で秘かに眠っていた義侠心が、むくむくと起き上ってきた。断わっておくが、あくまでも義侠心だ。

「お嬢さん、どうかしましたか? 何か困っているんじゃないですか?」

 あー、恥ずかしい。普段なら絶対にこんな気障ったらしい言葉は、小っ恥ずかしくって吐けない。この時の俺はどうかしていたのだ。鏡があれば恐らく、顔から真っ赤な夕日の飛び出すのが見えたことだろう。

 言ってしまったものは仕方がない。俺はその女性の隣に少し離れて座りながら、恐る恐る顔を覗き込んでみた。

 驚いたように顔を上げた女性は、大きな目を猫のように見開いて、真っすぐに俺を見つめ返してくる。少し涙目のように見えたのは、俺の気のせいだったのだろうか。

「私の話を聞いてくれるのですか?」

「えっ」

 思わぬ言葉に、いや本来なら当然の言葉なのだろうが、その時の俺はそんなにストレートな言葉が返ってくるとは予想もしていなかった。変化球に山をはっていたバッターが、ど真ん中の直球に手が出ないのと同じである。

 その女性は、膝に載せたバッグの持ち手をギュッと握りしめたまま、なにやら思い悩んで切羽詰まったような、そして今にも泣き出しそうな顔を俺に向けていた。その不安定な表情と大きく見開かれた目からは、まるで捨て猫のように俺に縋り付いてくる必死感が伝わってくる。

 その目を見た瞬間、俺はどう対処して良いのかわからず、金縛りになったように固まってしまった。あたかもメドゥーサの目を見てしまったかのように。アテーナーからアイギスの盾を借り受けていない俺は、ペルセウスのようにはいかなかったのだ。

「声をかけてくれたのは、私の話を聞いてくれるからですよね」

 返事をすることもできず石像のようになってしまった俺に、その女性は再度そう言って念を押してくる。不思議な事にその再度の言葉が、魔法を解く呪文を唱えたかのように俺を金縛りから解放してくれた。

 正気を取り戻した俺は、ようやくその女性を冷静に観察することができた。

 ややタイトなスカートの、黒っぽいビジネススーツを着用している。その胸元からは真っ白なシャツブラウスが襟をのぞかせ、清潔感と初々しさを醸し出していた。

 年の頃は二十代前半というところだろうか? 服装から察するに、十代ということはなさそうに思われる。顔だけなら、もっと若く見えなくもないのだが。

 さらさらとした黒髪のショートボブが小顔を際立たせ、スマートな体型によくマッチしていた。

 ショートボブといっても、いろいろとあるので少々イメージしにくいかも知れないが、けっして『サザエさんのワカメちゃん』や『ちびまる子ちゃん』のような、オカッパ頭ということではない。もっと現代的で、まるでヘアースタイルのカタログにでも出てきそうなオシャレな髪型である

 カタログに登場するモデルは、当然のことながら髪型だけの存在ではない。フェイスも重要なポイントで、その善し悪しがヘアースタイルのイメージをも、大きく左右することになる。

 そこまで言ってしまうとその女性の事を、少し美化し過ぎのような気がしないでもないのだが――要するに不細工ではなさそうだということだ。

 冷静に観察できたとは言ったが、一瞬のことなので写真を見るような観察は、どだい無理な話である。

 それでも思った以上に若くて端正な容姿を見て、俺の中で長い冬眠から覚めたばかりの義侠心が、再び鎌首をもたげて蠢き始めた。いうまでもなく、あくまでも義侠心だ。

「何か込み入った話のようですね。それなら、どこか落ち着いた場所に移動しませんか? 今から行きつけの喫茶店に行こうと思っていたところなんですよ」

 こうして俺の義侠心が捨て猫を拾うように、その女性を拾ってきてしまったのだ。どこまでも態度は紳士然として。

 猫を拾った俺は、逆に猫を被っていたのである。


 その喫茶店は『ビッグドリーム』といって、アラフォーのマスターとアルバイトのトモちゃんが切り盛りをしている。

 俺の記憶に間違いなければ、マスターは確か俺より十ほど年上だったと思う。短髪で丸縁眼鏡に口髭という、見ようによってはかなり助平な――いや失礼――個性的な顔をしている。

 身長は一八〇センチには届かないものの、細身ながら筋肉質で引き締まった立派な体型だった。アラフォーでこれだから、昔ならもっと凄かったのだろう。

 学生の頃は、バスケットボール部でフォワードをしていたという。活躍の程までは知らないが、一七〇センチそこそこしかない貧弱な俺からすれば、うらやましい限りである。

 お店の方は、白を基調にオレンジをアクセントとした明るい雰囲気で、四人掛けテーブル席が三つとカウンターに四席あるだけの、どこの街にもありそうな小さな喫茶店だった。『ビッグドリーム』などという大層な店名のわりには。

 一番奥のテーブル席が、俺の指定席である。厨房に近いことと、そこに座れば客席全体を見渡せることから、ほとんどの常連客が自分の指定席としていた。それでも俺は、その席の占有率ナンバーワンを自認している。

 丁度というか珍しくというか、空いていたので連れの女性を促して席に着くと、早速看板娘のトモちゃんが、お水を入れたグラスをトレイに載せて現れた。

 トモちゃんは、二十代半ばながら長い髪をポニーテールにして、ミニスカートにエプロン姿という、実に若さあふれるお色気を振りまいている。

 因みにエプロンは、ビッグドリームのイメージカラーとなっている明るいオレンジを採用していて、派手でキュートで可愛いトモちゃんにはピッタリと合っていた。

 このコスチュームに合わせるには、何よりもスタイルが重要だ。オレンジという色が膨張色であることは周知の事実で、普通の体型では残念な結果になってしまう。

 トモちゃんは全体的にほっそりと、出るところは少し控えめに出ていて、引っ込むところは十分に引っ込んでいるという、いわゆるモデル体型だった。要するに何を着ても似合ってしまうコスプレ体型なのだ。もちろんオレンジのエプロンは、似合いすぎて困ってしまう位である。

 それでもほんの少し勿体なく感じるのは、身長が約一六五センチとファッションモデルになるにはやや不足していて、そのためかどうかは知らないが、パリコレからはお声が掛らなかったようだ。当然お声が掛っていれば、今頃こんなところにいるはずはないのだけれど。

 身長以外のルックスやスタイルなら、文句なしに合格だと俺は思っている。

 このトモちゃん目当ての男性常連客が随分と多いのだが、何を隠そう俺もその中の一人なのだ。

「今日は女性同伴ですか? 珍しいですね、文豪さん」

「いよっ、文豪。さすがに小説家はモテモテだね」

 ランチタイムも過ぎて暇な時間帯だったのか、早速トモちゃんとマスターが俺にそんな軽口をかけてきた。常連客ならではのことである。

「トモちゃんもマスターも、冷やかさないでよ。それにその呼び方も。俺の名前は文豪じゃなくて文悟なんですから。後ろを必要以上に伸ばさないでよ」

 二人とも、俺が小説家の真似事をしていることと、名前の本田文悟を引っかけて『文豪』などと呼ぶが、何か揶揄されているようであまり好きじゃない。でもまあ、周りの人にはそんな意地悪な意図はなく、単に親しみを込めて言っているだけというのは、ちゃんと理解しているつもりだ。

 俺達がそんな他愛もない軽口を言い合っていると、何故かその女性の目がキラリと光ったように感じられた。

「小説家さんだったのですか……」

 誰に言うでもなく、独り言のようにそう呟くのが耳に入ってきた。

 マスターは小説家などと大げさに言ってくれるが、俺はまだワナビに少し産毛の生えた程度のヒヨッコである。

 親から『三十にもなって、いつまで夢を追っているのだ』と責められながらも、マイナーな新人賞にはなんとか入選を果たすことができ、本もようやく何冊かを出版するまでにこぎつけた。

 しかしまだまだ売れない新人で、それだけでは食べていくことはできず、小説以外でライターのアルバイトなどをやりながら、他の新人賞への作品を執筆している。

 例え新人賞に入選して本が出版されたとしても、初版は三千冊から始めるというのが一般的だった。印税は単行本でも一冊当たり百円程度のもので、総額は三十万円位にしかならないのである。文庫本なら更に少なく、十万円から十五万円位。

 それだけではとても生活できるものではない。もちろん大幅に増刷されることがあれば、その分収入が増えることにはなるのだが――俺にとっての現実は、せいぜい数回程度の増刷が限界だった。

 仮に増刷に増刷を重ねることができ、単行本で十万冊も出版されることがあったとするならば、それだけで一千万円近い印税収入にはなるのだろうけれど。売れない無名な新人作家にとって、それは夢のまた夢――そう、到底叶わぬ儚い夢なのかも知れない。

 結局、本業の傍らライターのアルバイトなどに精を出すしかないのである。時々どっちが本業なのかと、自分自身でも疑問に思ってしまうこともあるのだが。それが売れない無名な新人作家にとっての現実だった。

 いくら売れない無名な新人作家でも、一度本を出版してしまうと、すでにプロと看做されるのが業界の常識である。それにもかかわらず新人賞によっては、プロ・アマ問わずというところが意外と多いのだ。表現は悪いけれど、売れない新人作家の再生工場みたいなものだな。

「落ち着いたら、話せる範囲で話してみて。言いたくないことは別に言わなくても良いのだよ。俺も話を聞くことくらいしか、できそうにないから」 

 トモちゃんに二人分のコーヒーを注文した後、俺はここに来た目的を思い出して、その女性に声をかけた。いうまでもなく紳士然とした態度を保持しながら。

 その女性は暫らく躊躇した様子で、目を伏せたまま俯いて口をつぐんでいたが、突然顔を上げると、何か決心したかのように表情を一変させた。そして例の猫のような大きな目を、真正面から俺に向けてくる。

「私、就職浪人になっちゃったんです。もう決定です。最後の頼みの綱が切れちゃったんです」

 いきなり堰を切ったように喋り出した。かなり興奮しているようだった。しかし、それだけでは就職活動がうまくいかなかったのだろうなとは推測できても、全体像がつかめない。俺はその女性の興奮をなんとか鎮めながら、なだめすかして最低限必要な情報を聞き出した。

 名前は冬咲北瑠といって、四年制大学をつい先日卒業してしまったらしい。親が田舎に帰って来いというのを拒否して、最後の最後まで就職活動を頑張っていたのだが、結局、希望をつないでいた最後の一社にも落ちてしまったというのである。

 そこに入れていたら、なんとか就職浪人をせずとも済んだのだろうが。これで浪人が決定してしまい、人生に絶望していたということだ。

 確かに四年制大学の女子が、就職浪人をしてしまうと厳しいものがある。まだ短大卒の方が、女子に関してはつぶしがきくというものだ。絶望するのも分らなくはないし、悲観するのも致し方のないことだとは思う。

 それにしても、やはり聞くことくらいしかできそうにはないなと、その時までは俺もそう思っていた。それなのにその冬咲北瑠という名の女性は、突然とんでもないことを言い出した。

「文豪さん。いえ先生と呼ばせて下さい。私を弟子にして下さい」

 な、何なのだ、こいつは。いったい何を言っているのだ。頭が『困ったちゃん』なのか? こいつがこんな突拍子もないことを言い出したため、俺の言動がつい乱れてしまった。もっと冷静にならなければと心の中で反省する。

「先生は小説家ですよね。就職浪人を回避するには、もうこれしかないんです。どうか私を小説家に連れてって下さい」


 いやはや、こんなことになろうとは……マスターに助け船を求めたのに無駄だった。

「文豪も弟子を持つ身分になるとは、立派になったものだな。それに人助けだと思えばいいんじゃないの?」

 こんなふうに、茶化したりそそのかしたりで話にならない。

「文豪さん、もてるのもほどほどにしたら?」

 トモちゃんまでも、何か訳の分からない嫌味というかなんていうのか、結構冷やかな態度で。まあ、やきもちならそれなりにそれでも良いのだけれど、そんなつっけんどんなことを言い出して横を向いてしまう始末である。

 一方、北瑠という名の女性の方は、『私を小説家に連れてって』などとほざいているが、その表現からして小説家には向いていないと思うんだけどな、俺は。まあ、『私を小説家という高みにまで引き上げてほしい』という意味での『連れてって』と解釈することもできなくはないが、そんな解説のいるような言葉では。

「ちょっ、ちょっと待ってよ。だいたい君は小説を書いたことはあるの?」

「ええ。読書感想文くらいなら、何度も経験があります」

 小説と訊かれて、何の躊躇もなく読書感想文と答えている。俺は耳を疑った。

「えっ、読書感想文? 読書感想文を経験といわれても」

 やっぱり『困ったちゃん』だったのか。自信満々で読書感想文と小説を、一緒くたにしているようじゃ……。

 ここで俺のなすべきことは、いったい何なのか? やっぱりきっぱりさっぱりと断わることだろう。それが大人の対応というものだ。ここはビシッと厳しい現実を、わからせてあげようではないか。

「小説家というものは、君が考えているような甘いものじゃないんだよ」

 そう言って牽制しながら次を言おうとすると、逆に反撃されてしまった。

「だって、先生でも小説家になれたのでしょう? それなら私だって、なってもおかしくないじゃないですか」

「……」

 一番痛いところを突かれてしまった。それだけは言っちゃあ、おしまいだろう? そりゃあ俺だって、『俺は小説家で偉いんだぞ』とかは全然思っていません。でもね、それなりに引け目を感じながらも健気に小説家として、いやそこまでなっていなくても小説家というものを目指しているんです。読書感想文しか書いたことのないような、お前にだけは言われたくないんだよ。

 小説家というものがどれほど大変な職業なのかも知らず、気楽にそんなことを言うようなやつは、何があっても絶対に弟子になんかするものか。そう心に誓っていると、そんな俺に肩透かしをくらわすようなことを言い出した。

「先生。先生のお家を教えて下さい。弟子が先生のお家を知らなかったら、教えを請いに行くことはできませんから」

 いったい誰が弟子入りを許可すると言ったのだ。まだ誰もそんな大それたことは言っていないはずだ。

「おいおい、俺はまだ弟子になんかするとは言っていないぞ」

 内心の腹立ちを抑えながらも、紳士らしく鷹揚にそう言ってやった。なんせ俺は大人だからな。理性も分別も備わった紳士は、二十歳そこそこの小娘とは違うんだ。どうだ、まいったか。

「でも先生。私、もう決めちゃったんです」

 人の話を聞こうともせず、まったく独りよがりなやつだ。

「おいおい、弟子が勝手に、そんなことを決めても良いと思っているのかい?」

 勝手なことをほざく弟子を諭すように、俺はそう言ってやった。ざまあ見ろ。

「先生。今、私のことを弟子って言いましたよね」

「……」

 俺は一瞬で、失言をしてしまったことに気がついた。

「マスター。マスターも今聞きましたよね」

 北瑠はこの機を捉えて、攻守逆転を図ってくる。

「ああ、確かに言ったよな……」

 マ、マスター。俺を裏切るのか? もう裏切り者には構っていられない。せめてトモちゃんだけでも味方につけなくては。

「ト、トモちゃん。べ、別に弟子にするとかどうとかっていうことじゃないよな?」

「でも、先生は私のことを、確かに弟子っておっしゃいました」

 北瑠はここぞとばかりに、そう言って強引に主張しやがった。

「私は知りません。勝手に二人で話し合えば?」

 ついにトモちゃんにまでソッポを向かれてしまい、万事休すである。

 世の中気がつけば、みんな裏切り者ばっかりだ。誰だって直接自分に関係のないことには、首を突っ込みたくはない。俺だってそう思っていたのに変な義侠心から、こいつに捕まってしまったのだ。

「先生。私は単に、たまに弟子が先生に教えを請いたいと思っても、お家の場所が分らないと行くことができないと言っているだけです。だから場所だけ今日教えていただければ、どうってことないはずです」

 何か詭弁のような気がする。いや、多分詭弁だろう。絶対に詭弁だ。そう思いながらも拒絶する理由が見つからない。周到に仕掛けられた、罠に嵌まってしまったらしい。


 喫茶『ビッグドリーム』から徒歩十分位のところに、俺の住む安アパートがある。築何十年という二階建ての二階。家賃が少し安いこともあって、五部屋あるうちの丁度真ん中に位置する部屋だ。

 右隣は空き部屋になっているのだが、左隣は夜中に出入りしている年齢の分からない女性という以外の情報を、俺も持っていなかった。たまに見かけても帽子とサングラスにマスクまでしていて、年齢だけではなく素顔も美醜も正体すらも分からないのである。

 それから築何十年のアパートとは言ったが、実際の築年数は俺もまだ五年ほどしか住んでいないので、正確な事は分からない。それでも、この地域でこれだけ古いアパートは珍しく、文化財的価値があるのではと勝手に思っている。

 二階へ至る鉄製の階段は、すでに塗装が剥げてしまい、ほとんど錆だらけ。階段を上ると、狭い廊下を更に狭くするように住人の所有物が置かれている。テレビドラマなら、昭和の匂いのする映像源として重宝されることだろう。

 北瑠を追い返すことに失敗した俺は仕方なく、そんな自虐的レトロな場所へと案内するはめになってしまった。

『まさか部屋の中までは来ないよな』などと、何の根拠もないことを取りとめもなく考えながら、北瑠を先導して錆だらけの階段を上がる。

「場所さえわかれば、すぐに帰るんだぞ」

 いつまでも後ろをついてくる北瑠に、俺は二階に上がるやいなや、そう言って帰宅を促してやった。

「先生。そんなつれないことを言わないで下さい。中も確認しておかないと、次に来た時に困るじゃないですか」

 なんのかんのと理屈をいうやつだ。しかし、そんな単純な理屈にも反論することのできない自分が、どうにも情けなくてならない。

 仮にも文筆家と称している俺が、読書感想文しか書いた事のないようなド素人に、理屈で負けてしまうとは……こいつはもしかして、とんでもない大物なのでは? 悔しいが、ふとそんなことまで思ってしまう。そんな自分が更に悔しい。

 結局、北瑠は中にまで押しかけてきた。

 売れない無名な貧乏小説家は『贅沢は敵だ』とばかりに、三畳のキッチンが別に付いた六畳部屋、いわゆる1Kという質素な部屋に住んでいる。一人暮らしなら、これで十分だ。それに、部屋のどこにでも三歩で手が届く、便利さが自慢でもある。

 中に入った北瑠は、そんな俺のポリシーを、いきなり一撃で否定した。

「なんだか狭くて汚い部屋。それに少し臭くないですか?」

 よけいなお世話だ。ほっといてくれ。だから中には入れたくなかったんだよ。

「ふう~ん。これが小説家さんの部屋なんですか……狭くて汚いからこそ、創作意欲が湧くのですね」

 なんだ、それ。狭くて汚いことは敢えて否定しないが、何かずれていないか? その表現は。それとも極度に洗練された、最高レベルの嫌味なのか?

「でも……狭いのはどうしようもないけど、汚いのはやっぱりダメだと思います。明日私が掃除してあげます」

 えっ、明日も来るのか? 確か、たまに弟子が教えを請いにくるとか言っていなかったか? たまにと。明日も来るなんて、心の準備ができていないぞ。

「それじゃあ先生。私、今日は疲れちゃったので、お先に失礼します」

 おいおい、お前が疲れてどうする。疲れたのはこっちだぞ。北瑠はそんな突っ込みに返すこともなく、まるで台風のように去っていった。

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