六頁、殺戮予告

「おぉ、おぉ………!」


館長、もとい五賢人、サンジェルマン。

彼も人だ、ザヴェルダを見た途端、ただでさえ泣きそうな目にさらに涙が溜まっていた。溢れ出した涙が立派な髭を濡らす。今の俺なら、その感情が多少わかる。

―――家族、か。


「ぁ………」


ザヴェルダはその顔を見た途端、何も言わず顔を背ける。申し訳ないと思っているのだろうか、それは俺には分からないが。

ただ、彼女の表情は、少し柔らかなものになっていた。

行ってこい、と言うと、彼女は渋々、俯いてサンジェルマンに歩み寄った。


「あぁ……すまなかった、私は……」


「………父、様」


彼女にとっては、どれだけ嫌っていた者であろうと、家族であることに変わりはないのだろう。抱き締められるほどに距離が縮む。

竜の娘の父は、ただ彼女を包み込んだ。


「やっと、やっと………やっとお前に、『ぎゅー』をしてやれた……初めて、父親らしい事を……」


「……っ……痛いよ、父様…」


「ぉ、おぉ、すまなんだ……初めてではどうにも、力加減が分からなくてな……」


笑顔で涙を流す老紳士の父を見て、ザヴェルダも少し安心したのだろう。ふ、と笑顔になったまま、脚の力が抜けていった。

それを抱き抱えたサンジェルマンは、


「この子を一度寝かせます。また話をしましょう」


と、一言伝えて図書館の奥の扉の先へ消えていった。


「……俺達も一旦ここを出るべきかもしれないな」


ボロボロの衣服で、人間にはない特徴のある少女が突然倒れたのだ、当然ながら野次馬が集まってきた。我々を見ても何も言わないのは好都合だ。人に何があったのかを聞かれる前に早めに出てしまおう。

次は何処へ行こうか……。


「一応、お師匠サマのところへ行くべきかも知れません。旅を続けるなら、何かお話も聞けるでしょうから」


「ついでだ、あわよくばそこで一日休ませてもらおうよ」


それを聞いて、ミシェルは少し嬉しそうに頷いた。大方、色々話が聞けると思っているのだろう。なんとなくだが、わかる気はする。俺自身も、自分の正しい記憶のこと、神のことは出来る限り多く聞いておきたい。恐らく、これとは違うのだろうが。


―――――一つ、個人的に気になることがあった。カリオンについて、いや、詳しく言うならカリオンが影に包まれた時に、何を見たのかについて、か。


「あぁ、そうだな……なんというべきか……文字通り、一寸先は闇だった……かな。何も見えないし、まるで……浮いているようだった」


ミシェルとギストの家に戻る途中に聞いたところ、そんな返答が返ってきた。浮いている、というのは……よくわからない。一寸先は闇、というのも、今の俺にはわからない。謎だらけの答えだった。


「でも、うーん……ちょっと、あまり思い出したくはないのだけれど」


――――物凄く、痛かったよ。


続けて返ってきた答えは、その様子からは真実味のない言葉だった。痛かった、だと?あの固まった後の影の攻撃なら大いにわかる、が……その様子じゃ、まるでそのようなことは無かったかのようじゃないか。


「それは、私も思った。だが確かに酷い痛みの記憶が、脳裏に残っているんだ。押し潰し、突き刺すような痛みが……私の全身を走り回ったみたいで」


……人体の自己防衛機能が働いて、感覚を封じた、とでも……いや、それは有り得ない。そもそも肉体が無い。


――――まさか。


嫌な予感が、自分の首筋を通っていった。正直なところ、自分自身にはなんの影響もないことだ。だが、素人なりに考えたとしたら、この騎士は―――――。

真っ赤な色をした、黒混じりの腕が、首を掴むような、そんな予感が、俺のうなじを指でなぞる。


「………ただの妄想であれば良いが」


聞こえないような小声で、そう呟いた。たとえその妄想が現実であれ、対抗手段がない今の俺では、そう祈るしかなかった。




「ただいま帰りました」


ミシェルの言葉に続いて、我々も部屋の奥に入っていく。


「おや、おかえり。遅かったね」


全く、呑気なものだ。我々が死に物狂いで戦っていたのに、この賢者はきっといつも通りに研究を進めていたのだろう。


「そう、その通り。呑気に研究してたよ。でも君達さ、図書館に行ったんじゃなかったのか?死に物狂いで戦う場所じゃないよ、あそこは」


「……なら、いつも通りに心を読んでみろ」


ふむ……と呟いて、その大量に付いた眼をぎょろぎょろと動かす。そのうちに顔が少しずつ歪み始めた。低く唸るように、ふぅむ、とまた呟いて。


「……そうか。アレに出会っちまったか、君達」


「知ってるのか?」


「僕が知ってるかは大して重要じゃない。君達は?触れて何かを知ってしまったのか?知らない方が良いことなんだが」


―――知らない方が良いこと?


他の四人がどう思ったのかは分からない。確かな事は、その四人の中で、この場にいる三人は「特に何も」と答えたことだ。俺がそれに答えるなら、感情を知った、というところか。それを聞くと、その賢者はため息をついて安心したような仕草をし、こうも言った。


「なんだ、その程度なら大丈夫。まぁ変に知る必要は無いよ。僕のようになりたくなかったら、ね」


流石に不明瞭だ。答えの逸らされたその言葉には賛同も否定もできない。いったい何のことなのか、ハッキリしてほしい。


「……わかったよ、長話は好きじゃないが、長い話をするとしようか」


その賢者は、一つ一つ、記憶から摘み取るように話し始めた。


なんでも、ギストは実のところ、元人間だったそうだ。錬金術を学び、良き友と良き師に出会い、自分の術を磨いていた、もとい研究していたという。その頃の夢は、根源であり、生命を産む母であり、広義的な「世界」とされる「混沌」に触れ、失われた原初の概念を再定義する、とかいう御大層なものだったのだという。

ただ、その目的には多くの犠牲を払ったようで、友は二人死に、多くの獣や鳥が血を流した。師も、時折「夢を追い掛けるのを止める」ように説得することがあったようだ。

しかし、ギストは、未来の賢者はその夢を成し遂げた。


―――いや、成し遂げてしまった。


混沌に触れて見つけられたのは、狂気の淵にいてもそれを言うことを絶対に拒むだろう、そう思えるほどの、知るべきではない事象だった。悪夢を、悪夢と信じたいものを見せつけられた。苦労の結果がこんなものでは全てが無駄だったと、単なる手の届かない浪漫のままにしておくべきだったと、たった一人絶望したギストは、その後にやんちゃな寄生型ホムンクルスの幼体を飲み込んで発狂死した、と彼は語った。


「でもねぇ、どうやら……気に入られてしまったようなんだよね、混沌に」


混沌は、人間の知識の部分と結び付きやすいらしい。世界で初めて概念を作り出したものである為、知識として残っている概念と強く混ざり合う、と言われている。錬金術という知識に半ば執着に似た強い熱意を持っていた為か、混沌から生命を分け与えられたのだろう、と彼は言う。ホムンクルスを取り込み、混沌という乱雑な生命の奔流に触れたが故、今の頭部はこうも酷く歪み、融かした鉄と炎の混ざりあったような姿をしているのだろう、と。


「新しく生きる事をやり直したからか、昔の自分を客観的に見られるようになったよ。あの頃は楽しかったけど、正直傍から見て狂ってるようにしか思えないね。そもそも見つけたのはろくでもない事実だったし」


「そんなにヤバいもんなのか?それを俺達が知ったら――――」


「死ぬより酷い目に遭うよ、槍兵くん。もしそうなったらね」


死ぬより酷い目に遭う。

死ぬ事がまずない為に「死の先」を知らない俺としては、馴染みのない言葉だ。死んでしまえば何もかも終わり、ではなく、更に苦しむことになる、という事か。恐らく何時も飄々としているギストが、突然真面目な声色で、スッパリと斬るようにアトヌスに答えた事。それが、今の俺には恐ろしくて仕方が無かった。深く聞くのはよそう、そもそも知るべき事は他にある。


「そうだそうだ、一つ言っておかなきゃいけない事があったんだ。ジャッジ君にね」


「…俺にか?」


「そう。多分、多分だよ、多分君の探してる神についての情報、手掛かりは恐らく本には載ってないよ。該当する者はいるかもしれないけど」


あぁ、なんとなく察してはいた。だが、これが本当だとしたら、あの時の酷い激痛はなんだったのだろうか。本を読もうとしたらあの一撃だ、本に手掛かりが無いなら、何故……。


「うーん、誤作動、とかかなぁ?案外神様は機械だったりしてね」


……語る本人の性格のせいか、冗談に聞こえない。


「お師匠サマ、そろそろ夜です」


「おや、そうだったか。この家は窓が少ないからねぇ、ありがとうミシェル。さて、ボクは研究を再開するから、これを使って宿でも取ってきなよ」


そう言って現金で5,000G程をこちらに渡してきた。リングに入ってる金で充分だ、必要は無いと言うと、ギストは「ボクは君達を気に入ったんだ。好意は受け取っておくべきだよ」と無理矢理金を握らせて、奥の研究室へ入っていった。


「結構な額だけど、もしかして……高級なとこにでも泊まれ、と?」


「と言うと?」


「ここの街だけじゃなく、多くの宿にはいくつかのランクがあるんだ。高ランクのところだと一泊ご飯付きとなると大抵3,000はかかるんだけど、大抵そういう所はリングのチップが使えないんだよ」


そうだったのか。だが、俺は少し前の戦闘で剣を一本折っている。新しいものを買わなくては。そっちに金を回そう、宿は普通の宿でいい。

異形に変貌した者には有効打を与えなくてはならないが、ちょっとやそっとでは死ぬことがない。出血させやすく、傷の治りの遅いフランベルジュが一番なのだが……あるだろうか。


「あっ、いけない。ボクとしたことが……ジャッジ君、君には暫くここに残ってもらうよ。今日は宿で休んでも構わないけれど、明日は予定を空けておいてくれ」


「断る。俺には長い期間扱える武器が必要だ。普通の武器とは訳が違う、探さねばならん」


「君の今後を左右する話であってもかい?君は闇雲に、病の元凶を探すと?」


……………全く。

こういう変な駆け引きは専門外だ。ここは大人しく従おう。ただし武器を探す時間は充分に設けてもらう。その条件を提示したところ、午前中の間ならいつでも来て構わない、午後になると難しいから、用事があるなら午後にするか、迅速に終わらせろ、と返ってきた。


「とりあえず今日は休みなよ。ボロボロで、疲れも溜まったろう。……おっと、自分は不死身だから、はナシだぞ?疲労は見えないところで溜まるものだ」


「……肝に銘じておく」


振り向かずに賢者の家の扉を通り、適当な宿に泊まろうと街に出る事にした。やれやれ、どうにもあの賢者の言うことには逆らえない。宿を探す道中、「地図を持ってるから」とアトヌスが同じ宿に泊まることになった。安い宿だったが、暖かな食事を楽しめた。驚くことに、『神』の邪魔もされずに。

本当に久しぶりに、味のある食事を楽しむことが出来た。こんがりと焼けたパンにつけたチーズの味は、きっと忘れはしないだろう。

もう一つ、小さな発見だが、入浴すると、眠る程ではないが多少疲れが取れることにも気付いた。今まで、血に塗れても、何故か少し眠れば完全に血腥さも血の跡も消えていたので、入浴する必要もなかった。原理は分からないが。


寝巻きに着替えて、自分達が休む部屋に戻る。ベッドも整えられているところを見ると、安くても良い宿に泊まれたようだ。旅が始まったばかりとはいえ、影は本当に強敵だったので、本当に今回は運が良い。

それにしても、純粋な感情が、あそこまで力の強いものだったとは思わなかった。この旅の最終目標は異形の病を根本から消滅させる事だが、手段もまだしっかりとは把握出来ていないし、関連した仕事で出来ることは殺戮のルーチンワークだけだ。そんな状況で、闇雲に旅をして、その度にあのような凶悪な存在と戦闘していては、こちらの身が持たない。特に、自分以外のメンバーが。

そもそも、それを抜きにしても長い旅になることは間違いない。休める時に休まなければ。


「旦那、まだ起きてるか?」


ベッドの掛け布団を持った辺りで、アトヌスが入ってきた。先程まで良さそうな武具屋の話を聞いていた、と彼は言う。良い仲間を持ったものだ。

今の彼は戦闘時の力強い目つきの彼ではなく、どちらかと言うなら色気のあるスッとした目つきの彼だ。……今思えば、あの変わりようは目を見張るものがあった。


「どうした?」


「いや、大したことじゃない。たまにはこうして、他愛ない会話をしたくてね。もしかすると、旦那の感情の封印も解けるかもしれないしさ」


そんな簡単な理由で行われる会話に、封印を解く力はないとは思うが。だが、これはおそらく、彼の優しさのようなものなのだろう。

しかし、何故だ。彼は何故か、俺の目を妙に集中して見ている。そこには何も無いはずだが。


「いや、だってさ、なんつーのかな……旦那の目の下に、そんなホクロあったかなーって」


ホクロ……?

疑問に思い、アトヌスを連れて浴室の鏡の前に立つ。アトヌスが言った場所をよく見ると、確かに見覚えのないホクロがあった。


「これは……こんな箇所にホクロは無かったはずだが」


「なんでも太陽の光に肌が晒されたりすると出来やすいらしいけどさ、それにしたって今日はそんなに外に出てないはず…こんなにすぐ出来るものじゃないと思うんだがなぁ」


無いはず、とは言ったものの、自分の記憶は半ば混濁している。記憶が失われていたり、他の記憶が入り込んでいたり、訳が分からない。単に記憶違いだったか?そう思いながらホクロらしきものに触れる。特に盛り上がっていたりだとか、そういう特徴はない。まるでペンで黒い点を落書きされたようだ。


「……旦那、そのホクロ、触れない方がいい」


アトヌスが眉間にしわを作りながらそう言った。何か警戒しているようだが……。


「いったい何のことだ?……む?」


……なんだ、これは。

明らかに大きくなっている。さっきまで、小指で隠せる程だったのに、明らかに小指では隠せないほど―――いや、これはもはや痣のそれだ、誰かの悪戯のようなものなどと、見くびっていた。これは……何かまずい。


「下手に触れない方が良さそうだぞ……」


「……そうらしいな」


顔に触れることは、暫く控えることにしよう。刺激を与えてこうなるというより、俺自身が触れてこうなったのだろう。入浴している間に、顔には何度も湯が触れたが、もしそうなら顔中に広がっていてもおかしくない。だが、あの本に触れた時の激痛のように、原理が分からない。いや、謎めいた部分の数ではそれ以上だ。あれはトリガーがまだ理解出来たが、この黒い痣はまだ曖昧な部分が多い。現時点での影響は皮膚に黒い痣が広がるだけ、それに入浴中、何度も手が触れたはずなのに、殆ど広がっていない。一体何が原因なのだ?


「まぁ、宿で寝る前まで警戒してたら休むもんも休めないよ。今日ぐらいは楽にしていようぜ」


「……ああ。そうだな」


本当なら、俺は別に寝ようが寝なかろうが警戒はしたいのだがな……と文句を言いたかった。が、契約以外の、彼の提案だ。聞いてやらねばなるまい。


「っと、そうだそうだ。ニュースは見とかないとな。旦那、見方わかるか?」


「いいや。ニュースとやらがこの状況で見られること自体初耳だ」


それを聞いたアトヌスが得意げな顔を浮かべて、慣れた手つきで俺のリングを操作する。端末から開かれた情報には、雑多にタイトルが並んでいる。『「短編集 悪魔と狩人」が発売 完売した街も』『森の賢者の死!?犯人は貴方の身近にいる?』『伝説のギルド 群青の傭兵団 再始動する』……あまり興味のある情報はない。賢者の死も既に知っている。ただ、気がかりなことが一つあった。


アトヌスの顔が曇っている。今まで見せた暗い表情とはまた違う、後ろめたさすら感じさせる顔で。先程本人が言ったこととは真反対の、何かを警戒するような眼差しだった。


「……あー、うん。言っとかなきゃならないな、これは。だいぶ前の話だ、俺はこのギルドに参加していたことがあるんだ」


「それが、何の関係があるんだ?」


「…………裏切ったんだよ。再始動ってつまり、一度解体されたってことだろ?解体の原因がその裏切りなのさ。加担したんだ、俺は」


周知の事件だ、と言うので、ニュースの内容を見たところ、確かにその中にも『過去に内部の亀裂、裏切りを経て解体された伝説のギルド 群青の傭兵団が、この度再始動することとなった』と書かれている。


「きっと、再始動時のメンバーには前にいた奴らも何人かいるだろう。残った奴らは皆忠誠心の高い奴らばかりだ」


「それと、何の関係が?」


「流石に鈍いぜ、旦那。一度解体されるだけでも、そういう奴らのプライドはズタズタだ。俺達を憎むやつも少なくない。事実、俺は今までに残党に何度か暗殺されかけたんだ。俺を買う為にきた客を装ってな」


旅の道中でまた襲われるかもしれねえ、と彼は語る。コネを持ってるから、合法的に始末したい奴らを始末出来るかもしれない、とも。人が何人来ようが、俺は関係ない。治癒能力が下がった点は心配だが、その程度ならまだ殺せる。


「旦那、正直言ってあんたの戦闘技術は武器を軽く振ったことがあるだけの、怪力が取り柄なだけの素人のそれだ。銃の腕はまあまあらしいが、それじゃ複数相手にゃ決め手に欠ける」


「……それも、そうかもしれんな。今までの異形共は、皆動きが単純だったからまだ対処出来たのかもしれない」


「その為に必要なのは、もう分かるよな?」


「武器とそれを振るう技術」


大当たりだぜ、と彼は指をパチンと鳴らした。確かに、命を奪うような旅を続ける以上、戦闘は避けられない。技術は必要だ。ただ、どうやらそれ以上に必要なものがあったようだ。今気付いた。

妙だ、と思った。

自分の事だというのに、どうして今まで気が付かなかったのか?答えは分からない。分かろうとさえしていないのかもしれない。どちらにせよ怪しい部分がある。精神的安定性。


「くぁ…と、そろそろ寝るかぁ。旅の計画は明日の昼辺りにでもしようぜ。リングに地図もある」


アトヌスがそういうので、俺も寝ることにした。消灯し、暖かい布団をかぶる。

寝る前に、今までの出来事を振り返れるだけ振り返る。時折壊れたように歓喜の情が湧いた時もあった。初対面のはずが、何故か黒い男に対して苛立ったりもした。ただの注意が、酷く恐ろしかった事もあった。

まるで獣のようだ。それこそ、あの異形共のような感覚だ。本能で何かを察知している。


今は神の声は聞こえないが、はっきりと思い出せる。うんざりする程には。世界を救う為には、それが必要だ。今まで願望など持ったこともなかったが、きっと俺は、この束縛から解放されたがっている。世界を救う必要が消えれば、俺はお役御免になるだろう。その時こそ俺の解放の日、牢からの脱出の日だ。

急ぐ必要があるかはまだ分からない。今までの街並みを見ても、そう簡単に感染が進行しているようには思えないのだ。しかし、単純に非活性状態になっているだけなのかもしれない。どちらにせよ、仕事は効率化してこそ、だ。精神的安定を保ち、必要な数だけ必要のあるものを殺す。ワクチンのようなものが作り出せれば、それを世界中に配布する。

ただそれが出来れば、他の生きる者達と争う必要も無い。


そうとも。無益な殺生をする必要はない。俺は裁断をしなければならない。審判とはそういうものだ。


瞳を閉じる瞬間、荷物を入れていた大きめのリュックサックの中が、淡く光った。あの竜が渡してくれた、希望の護りだ。俺は希望を失ってなどいない。今の自分を寝かしつけるには、ただそれだけで充分だった。






――――――――――――――。


――――我らは―。


――我らは血の海に立っている。

黒い憎悪が散った後も、この地には戦争と傷口から零れる血と硝煙の匂いが立ち込めている。

全ては人の罪。

憎悪の影も、審判を下す者も、我々でさえも、業からは逃れられない。

繰り返す死の慟哭たるや、まさに滅びの唄。


故に、忌み嫌え。

次の月の光満ちる時、我々の一つが滅ぶ。

大地の罪を断罪せよ。この世界は、続けなければ。





―――。



――――――――。


――――――――――――。


「――――――――ッ!!」


全身が濡れている。

寝間着が乱れている。油汗が滲む。

鳥肌が立った腕の皮膚を撫でる。

―――なんだ、今の、悪夢は。

飽きる程似たような光景を見た。今までに確かに見たはずだ。だが……どうしてこんなに、焦りと悪寒で満たされている?

多くの視界から、大量の絶望を見た。感覚ではない、夢の中で、未来を見るように、瞳が開く。

腐臭、死臭、血臭。病に曝され姿を変える仲間、民衆。魔族と言えるような存在が、地上を殲滅する絵が、無数の眼から脳に伝達された。

これも、また神の見せたものなのか?苦しめる為の罰か?

忌み嫌えだと?忌々しいのはどちらだ?


…いや、少し落ち着こう。悪夢にまで苛立っていては、他のものにはどうなる?どうにもならないはずだ。


「……んぅ、ふぁあ〜……おはよ、旦那」


欠伸をしながらアトヌスが挨拶を投げてきた。ああ、と適当な返事をしながら、洗面台に向かう。……と、顔に触れてはいけないのだったか。


「俺が顔洗ってあげようかー?…なんてな。濡れたタオルで拭くだけでもしといた方がいいぜ」


「ああ、そうさせてもらおう」


彼の言う通りに、タオルを濡らして、折り重ねる。それで顔を拭くだけで、だいぶ目が覚めた。顔の痣も広がっていない。正直にいえば汗を流したかったが、こればかりは仕方が無い。他の者達と合流をしなければならない事もある。服を着て、下の階に向かう。今頃は女将が昨日の夕食のような、贅沢とも言えないが美味しい朝食を作っているだろう。

予想通り、良い匂いが鼻をくすぐる。どうやら既に食事を始めている者もいるようで、それなりに賑やかな感じではあった。


「あっ、おはよう!そこのトレイと器取ってってね、それで一人分よ」


「ああ、ありがとう」


トレイと、その近くにある料理の盛り付けられた器を取って、机に向かう。アトヌスも降りてきたようだ。


腹が鳴る。


久しぶりなんじゃないだろうか、腹が鳴ってから飯を食うのは。この前の夕食は、どうにも疲れで腹の減りもいまいち分かってはいなかったが、腹が減ったと即座に理解出来る程度には、今は何かを口に入れたい。本能というのはこういうものなのだろうか。


ローストされた肉を焼いたパンに挟んで食らいつく。肉が噛み切れず、そのままパンの拘束から解放されて、口の奥に消えていく。

こういう、生きる為の営みという点で言えば、人も獣も、あの異形共と大して変わらないのかもしれない。魔族という存在を知っている以上、人ではないという理由で異形を殺すというのは流石に違うのだろうと思えてきた。そうでなければ、サンジェルマンの行動がお門違いになる。知能があるかどうかで判断しているならば、廃人は皆、死神の手の届く場所に置かれたようなものだ。それともただ単純に、人を傷つけるという理由で、神はあそこまで敵対心を見せているのか……?


終わらない疑問に終止符を打つように、俺はポタージュをスプーンで掬い、息を吹きかけるだとか、冷ましもせずに口の中にスプーンの中身を放り込んだ。舌が火傷したように感じたが、直後に水を一飲みした為に急激に冷えて、ひりひりした感覚だけが残った。

これから先、この急に冷ましたような、ひりひりした後味の悪い感覚が、何度も俺を襲うのか。感情を手にした為に、何度も殺しで精神疲労を溜めるのか。嫌なことを考えながら、食事を済ませた。美味しかった、美味しかったのだが……すまない、女将。きっと女将からはまずいものを食ったような顔に見えているのだろう。


「食い終わったみたいだな、トレイとか片付けて武器でも見に行こうぜ」


アトヌスが声をかけてくれたので、それなりに気が楽になった。アトヌスはトレイを片付けて、女将にごちそうさま、と一言告げて、宿泊者名簿に何か記述して宿を出ていった。同じように、女将に美味しかった、と一言かけて器やトレイを片付けた。優しい笑みを一瞬見た気がする。

名簿の自分の名前の書かれている欄に、チェックアウトを示す印を書く。忘れ物もない、そのまま宿を出た。……良い宿だったな。


「さぁて……良いところを見つけたんだ、こっちだぜ」


そう言って歩いていくアトヌスの斜め後ろを、同じような速度で歩く。人の流れはそう早くはないが、今日はどうにも人が多い。濁流の中に歩く仲間を見失いそうになりながら、近くを歩く。

歩いているうち、広場に出た。丁度人口太陽が照らす範囲のようで、涼しげでありながら陽の光が感じられた。不思議な感覚だ。


「あっ……」


「っと!すまないな、お嬢ちゃん……って、お前さんは―――昨日ぶり、だよな?」


アトヌスが誰かにぶつかった。相手は……どうやら知っている人物のようだ。俺も見覚えがある、かなり早い再開だ。昨日出会ったばかりの、あの少女。名も知っている。

ザヴェルダ。

アトヌスの目の前にいる少女は、確かにあの娘だ。影との戦闘でボロボロになった後、変質した腕。それは今のところギプスを付けているようで、頬の鱗は髪で隠れている。瞳は変わらず黄色だ。こちらでは病のことがあまり知られていないのか、誰も彼女を怪しむ顔も、行動もしない。皆が皆自分の目的の為に生活している。それとも、病は知られていても、そんな嘘くさいものを信じる暇もないのだろうか?


「丁度良かった。今日は父様から貴方達、特にジャッジさんに伝言を預かってきたんだ」


「俺に?……あの賢者はなんと言っていた?」


「詳しいことは教えられなかったけど、次はファルの村を訪ねろ、と……」


俺に対する伝言がたったそれだけとは思えないが、おそらく俺に関連する何かが、そのファルの村とやらにあるのだろう。次の目的地を提示してくれたのはありがたいことだ。


「それと、もうひとつ……これは私の願望、父様にも言って許可を貰った。あとは貴方達に許可を貰うだけ」


「許可?……何かやばいこと頼もうとしてるんじゃないだろうな……?」


「……場合によってはそうかもしれない。あの……私を旅に連れて行って欲しいんだ」


仲間になりたい、ということか。何か企んでいるとしても、一時的にでも戦力になるのなら、こちらとしては有難いことではある。問題なのはそこではなく、彼女の精神面だ。家族の死というのは、俺にはわからない。だから言えることなのかもしれないが、母親の死にあそこまで動揺して、暴れたのだ。これからの旅に同行してもらうとしたら、母親が死に、恐らく心にヒビが入っている彼女には、少し荷が重いのではないだろうか。変貌したとはいえ、人を大勢殺すことになる。比喩でもなんでもなく、彼女にとって呪いになりかねない。それどころか、昨日の夜のこともある。アトヌスを狙って傭兵団が殺しに来ないとも限らない状況で、彼女を連れていくとしたら、下手をすれば彼女にまで本当の人殺しの罪を負わせることになる。

一回だけ深呼吸をして、端的に伝える。


「残念だが答えは『いいえ』だ。お前の自我が消えかねない」


こればかりは、容認できない。彼女には無理をさせられない。目的を、理由を聞くまでもない。


「……まぁ、そうだよね。ごめんなさい、変な事を言ってしまった」


「ごめんな、ザヴェルダちゃん。傷を抉るような言い方になっちまうけど、君まであの竜のようには出来ないんだよ。そんな事になったらあの爺さん赤子みたいに泣き喚くぜ」


「それは……嫌だな、ふふっ」


彼女は少女らしい笑みを浮かべた。が、何処か諦めと、悲しみを浮かべた顔をしている。手を振った後、帰っていく彼女の背中は、やはり物悲しい何かを感じた。


「あんまり、あの子にああいう顔はさせたくないけど……仕方ねえよな」


「理由が何であれ、娘を失って涙を流したあの男が、そんなことを許可するとも思えん。恐らくは無断だ。その真偽がどうあれ、何も分かってないなら、尚更連れていけん」


「そうだな………あっ、武器を買うんだったよな……こっちだ、多分あんたも気に入る」


アトヌスに連れられて、広場から離れていく。人の多い大通りから、路地裏の通路を抜けて、人があまりいない場所まで来た。建物に空が丁度隠れない辺りから、探索した大図書館が見える。相当遠くまできたようだ。カン、カン、という音の聞こえる方へ、アトヌスと共に入っていく。


辿り着いた場所を見ると、波のように燃える炎を背に、老人が金槌を繰り返し振り下ろしている。その仕事姿を見ても鍛冶屋……のようだが、歯車や、何かのハンドル、恐らくは銃身と思われる黒い筒……ともかく、機械の部品のような物も大量に置いてある。武器職人を迎え入れた兵器庫のような場所だ。


「…………おう、こりゃ影……例の野郎か」


「ああ、そうだ。顧客を連れて来た」


「害獣をブッ殺し続ける人間兵器……全く、本当に連れてくるたァな。此処ァタダでさえ鉄臭ェってのに、それでもクッキリ分かる生々しい鉄臭さだぜ」


…………なんだって?


「臭いで分かるもんなのか?」


「馬鹿にしてくれるねェ……生ゴミの臭いにゃ鼻曲げるが、鉄の臭いは嗅ぎ飽きた。他の臭いが混じるなら判別できらァな」


「おい、アトヌス、待て、この老人に、俺の事を何と話した」


「あ?あー……アンタの事話したら馬鹿にしたみたいに笑うもんだから、『ならその人間兵器を連れてきてやる』って―――」


………なんとなく、なんとなくだが……ほんの少し、心外だ。確かに、所業はその通りではある。その通りではあるのだが………。自らが使命の為に狩り続けた者共を、害獣呼ばわりは、少し気が引ける。各々の生もあったろうに。


「御老人。俺は確かに多くのものを殺しはするが、殺すのは人だ。害獣じゃない」


「人ォ!?……ッグァッハハハ!成程この嗅ぎ馴れた異物感はそれか!ガキの頃に何度も嗅ぎはしたが、こんなべっとりとした人の血は……クックククァハハハ、こりゃ傑作だ!気に入ったぞクソガキ!」


全くわけがわからない、老齢の職人という生き物はどれもこうなのか?

鉄を打ち終わったのか、老人は金槌を握る手を止め、眉間に皺のよった俺の顔をまじまじと見つめる。顎を二本の指で撫でながら、この老人は俺の顔の左目の瞼を、空いた手の方で開けた。


「お前、武器は何で決まると思う?」


「………強さか?」


「ああ、そうだな。強くない武器なんて、代わりに杖でも使ってろとしか言えねェ。そういうのは大抵儀礼用だからな。だが美しくない武器ってのは……面白みに欠ける」


戦う為の武器に面白みが必要なのか?と言いかけたが、この老人、いや、この男の何かしらのオーラに気圧されて、口が開かなかった。優しげなものではなく、敵と見倣したものは全力で駆逐するという、ドス黒いオーラ。言えばきっと、不死身でも殺されるという、本能の感覚だった。


「変な黙り方しやがるなァ、お前。まぁとにかく、だ。戦ってる間に、骨肉をぶッた斬る事で快楽を得る奴もいるし、静じゃなしに動、剛に美を見出す奴もいる。儂はそういう奴らのために武器を作るんだ。戦う事が楽しいと思うようになる、そんな武器をな」


「あー…旦那、そんな緊張する必要ないぜ?腕は確かな人だ。仕事を見せてもらったけど、見事なもんだったからな」


いや、見事なものなのは素人の俺でもわかる。背後に飾ってある大振りの剣など、特に目を見張るものがある。それ以上にただ、この男が恐ろしかったのだ。賢者の持つ風変わりなものじゃなく、確固たる、殺戮を望む狂人のオーラ、と言うべきなのか。実質手を汚すまいとしているところなど、特に「らしさ」を感じさせる。緊張しているといえばそうなのだろう、ならこの緊張は、少なくともここにいる間は取れないだろう。


「おう、そんなとこに突っ立ってねェで、こっち来いや。どんな武器が必要か、お前の口からハッキリと聴きたい。なァに心配すんな!取って食うなんてしねェよ、鬼じゃあるまいし」


「…っ、ああ…」


この時の俺は、きっとぎこちない動きになっているだろう。戦えばきっと、俺よりもこの男が優位に立つという、理由はないが何よりも確かな警鐘を、本能が鳴らす。隙を見せてはならない、そう思った。感情も現さず、要件を言うだけで、精一杯だった。


「先程も言ったが、俺は長く使える、不死身の生物を殺せるような兵器が必要だ。人を何人殺しても、威力が錆び付かないものを」


「へェ、不死身への挑戦か。いいねェ、不死人殺しってわけだ。良いぜ、手塩にかけて生み出してやらァ」


男は手当り次第に、大きな歯車や拳銃のグリップ、特に大きいものだとノコギリの刃など、とにかく部品を持ってきた。一つ一つを組み合わせ、小さな部品から大きな部品を作ろうとしているようだ。


「………仕事の邪魔だ。他に用事があるなら先に済ませとけ。夕の頃にまた来い」


あれだけ喋った事実が嘘のように、今度は急に冷めた声になった。他に誰もいない一人の世界に入ったようだ。


言われた通り、残っている用を片付けることにした。今ギストの話を聞きに行けば、恐らく丁度良い頃に終わるだろう。


人々の声の中を無心で通りながら、ギストの家に辿り着く。寄ってらっしゃい、良い物あるよ、と客引きをする元気な者達を見ると、本当に病は流行っているのか、と混乱する。それとも、この街は影響を受けない何かを敷いているのか。結果はどうあれ恐怖させるような事にはなっていないようだ。

家の戸を開けて中に入る。待ち受けていたギストの第一声は、


「さぁさ、ジャッジ君以外の皆は外で暇を潰していてほしいな!」


なんて、明るい調子の声だった。

自分の弟子すら外に出すとは、幸いにも同じ場所に他の大人二人がいる以上安全だとは思うが、それにしてもここまで内密にすることなど無いはずなのだが。


「そこに座って。すまないが、率直に言わせてもらう。ファルの村には行かない方が良い。反対方向のタルマの天文台に向かうべきだ」


「何処でそれを知ったのかはこの際聞くまい。だが何故だ?俺がそれを、お前と同じ賢者から聞いたことは知っているはずだろう」


「だからだよ。あいつらしくない、軽率にも程がある。いいかい、賢者にもヤバいやつとヤバくないやつがいる。五賢魔……この前死んだゴロクスもそうだ、一部を除いて殆どヤバいやつらだ。そのヤバいやつの一人がファルの村にいる。君を狙いに来る」


五賢魔。

五賢人という言葉は聞いたことがあるが、魔族も存在するというこの世界では、人ならざるものにも賢者は当然いるということか。しかし、それには少し疑問がある。何故俺を?今のところ聞いた話からすれば、俺だけを狙っているようにも思うのだが。


「確かにね…ボクには分からないが、何故か五賢魔のほぼ全員が君を狙っているのを鑑みるに、何か大きな計画を動かしているようだ。君を中心に」


「ますます分からんぞ、俺が何をした?」


「それは奴らに聞くしかない。ボクが視えるのは、対面に存在する動植物の記憶領域の中枢まで―――簡単に言えば、心の部分までだ。遠くの存在の脳内なんて見えない」


確かにそれもそうだ。今のところ、これを認識しているのは賢者の間のみだったらしい。ならば、俺としては尚更五賢魔に会わねばならない。理由を聞かなければならない。俺が何の罪を犯したのか。巻き込まれる謂れはないと、そう伝えなければならない。……いや、正当な理由があってこそ、なのかもしれないが。


「何故君に、ボクがここまで協力するのだと思う?」


「……今の俺では分からない。教えてもらいたい」


「─────突拍子もない事だが」



ボクは、明日の朝死ぬ。確実だ。

誰が殺すか─────?



なん、だと。

悪い冗談とは思えない声のトーンだ。

一体誰が。賢魔の一人がか?


目の前の男はこうも言った。


ボクの、弟子。いや、元弟子が、ボクの頭を吹っ飛ばしに来るんだ。


「だから君に、ボクの小さな弟子を預けなきゃいけない。サンジェルマンの娘も危ないだろう。誘拐してでも連れていくんだ」


「巫山戯るのも大概にしろ、俺に罪を負わせるつもりか!?」


「君の今の弱点はそこだ、すぐに動揺する。動揺の結果、ボクにキレた。違うかい?

───それと、少なくともボクは微塵も巫山戯ちゃいないよ。確実にボクは死ぬ。だがボクには殺される理由は記憶にない。恐らく他の人間も殺しにくる」


「娘はサンジェルマンと図書館に隔離出来るだろう、そこを使えば、」


「いいや無理だ。そうなった場合、助かるのは恐らくサンジェルマンのみだ。アイツは別世界に逃げられるから。殺しに来る子はね、面識のあるボクからすれば、狂人だった。最後に姿を見た頃には、彼は命を奪うことに、無心どころか喜びさえ見出していたよ」


そんな奴が、人だらけの、命だらけの街の中に放り込まれたら、どうなると思う?


獣の街の中に、君のような獣を狩る者が現れたら、獣はどうなると思う?


賢者の声から生まれた二つの類似する思考問題が、頭を廻る。

よく知っている、よく知っているとも。血の赤で満ちた地獄が現れる他ない。


あの、忌々しい夢のように?

あれは予知夢か?

そんな馬鹿な。


では、あれはなんだというのだ?


「ボクの弟子を守ってほしいという願いの正当な理由になると、ボクは思うのだがね。サンジェルマンの娘は……ボクが死んだ後に恨まれても、ボクは責任はとれないし」


「───俺がこの街に残る、という選択肢は、」


「無い。君の脳天を弾丸でぶち抜いて動けなくしている間に、大通りにいた人間は皆餌食になる。それ程の男だ。歯車がズレていても、腕は良かったからね」


座ったままうずくまり、歯軋りした。

俺に関係はないと、そう悟っているつもりだった。だが、あの悪夢が再現されると考えた途端に、急激に、いつしか自らに生まれた正義の手で自己嫌悪が組み上がっていく。

俺に、何が出来る?聞く限りじゃ何も出来ない。お前は馬鹿じゃないが、それでも弱過ぎる。



命は数で考えろ。質ではなく、数で。



「……良いだろう。お前の弟子と、娘を連れて此処を出る。…………武器を貰いに行かなくては」


そう言って戸を開け、外に出る。近くには外で待っていた三人がいる。


戸を閉める瞬間、後ろから、


ありがとう。


と、諦めた男の声がした。

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