五頁、凝縮する悪意

少年少女、黒い男。

彼等と離れた場所で身構えて、注意を眼前の敵に向ける。

暗闇の中で六人対何百、何千の戦いが始まった。

目の前に立つ影の数はまだ少ない。だが、これらの影達はどれも我々の気配に気付き近付いてきたものばかりだ。何時かは分からないが、確実に他の影もこちらに来るだろう。

今は影の殆どの注意がミシェル達に向いているとは言え、下手な事をすればミシェル達を取り囲む影がこちらに寄ってくる。光のバリアも無い今の状況で、囲まれるのは死に等しい。

とは言っても自分は今のところ死ぬ事は無い。ただ…嫌な予感がする。影の与える苦痛は想像を絶するものだろう。負けるという事は、恐らく取り込まれるということ。取り込まれて八つ裂きにされるなど、想像したくもないが…そうならないとは決められない。どちらに転んでも、この戦いでの敗北は、自らの身体を動かす事を止めることになる。絶対に負けられない戦い、それを薄々感づいていた。他の皆も同じだろう。あの黒い男…何を考えているかわからない男を除いて。


影はのらりくらりと脚のような身体の一部を動かしてこちらに寄ったり退いたりを繰り返している。間合いを計るようなその動きに対してか、アトヌスは怪訝な顔をした。


「何だ、コイツら…まるで一端の戦士みたいに動いてやがる」


まるで知能も何も無いような、欲に駆られ、発狂した人間のような影達に、戦士としての癖や経験、そういった経験して身にしける知識に似たものを垣間見た。

段々と一体の影の腕と思しき部分が胸のような部分の近くに上がっていく。胸の前に来て止まったその腕と、それによって見えた体勢は、拳闘士のそれにそっくりだった。まるで自らの身を守りながら、攻撃の機会を伺うような体勢に、近くにいたカリオンは気が付いていない。それもそうだ、その影はカリオンの死角、丁度背後に居たのだから。


影が体勢を低くして、カリオンに突進する。カリオンはその瞬間にようやく気が付いたらしく、身構えながら振り向いたが、遅かった。

影の拳はカリオンの甲冑の腹部に直撃した。一撃に呻き、膝をつく。咳き込み、倒れ込んだカリオンに、影は追い打ちを仕掛けようとしたが、カリオンの咄嗟の回避によって攻撃は当たらなかった。

その光景が一瞬だけ、本当に一瞬だけ変に思えた。それで隙が出来たのか、それとも既に近付いてきていたのか。思い切り飛んでくる横からの攻撃に気が付かなかった。身構えるのが遅すぎた…!頬に重い一撃が叩き込まれ、砕けた音がした。一発の重い衝撃と苦痛に、手に持っていたフランベルジュを離してしまった。


「グッ……何だこいつらは…一撃が重過ぎる…ッ」


顔についた仮面の破片を払い、口から出た血を手で拭いて拳銃を構える。

何処だ、自分の剣は………

壁際に寄って、吹き飛ばされたフランベルジュを探す。もしかすると、剣は取り込まれ、消滅してしまったかもしれない。それでも、拳銃だけでは何時か弾が無くなり、餌食になってしまう。見渡して探した結果、武器も、武器を持った影もどこにも居なかった。


何処だ?


何処にも、ミシェル達を取り囲む影達の中にも、我々と対峙する影達の中にも、何処を見てもそんな影は居なかった、武器は無かった。


この状況でどうしろと言うんだ?抵抗しようにも拳銃だけじゃ、致命傷はおろか傷さえ付けられないかもしれないじゃないか。先程の音から察するに、自分の仮面は砕かれた。左の頬はヒリヒリと痛んでいる。


…それでも、冷静さを欠いてはいけない。

一旦落ち着きを取り戻す為に小さく深呼吸をする。現時点の武器は拳銃だけだ。

…武器が拳銃だけとなると、厳しいものがある。いや、愚問だ。確実に厳しい。試しに引金を引いて影に弾を当てる。確かに当たった。しかし傷を付けるには程遠い…いや、違う。


影に傷を与えても、傷はいつぞやの自分のように瞬時に治癒していた。


その自分に似た特性を持ったものに対面して、初めて自分の恐ろしさを、改めて影の対処のしづらさを気付かされた。

無駄弾は出さない、だがもう一度確かめなければ…。

もう一発当てる、だが今度も思った通り傷を与えた後、瞬時に治癒してしまった。


「…畜生め」


端的に悪態をついて拳銃をしまい、慣れない素手の戦いを行うことにした。触れられるなら、受け流せる。力があるなら当たらなければ良い、受け流して躱せば良い。見様見真似とも言えない何かになってしまうが、この際仕方ない。弾丸を込めた拳銃をしまい、構える。これでどうにもならなかったら―――

「その時は、全てが眼前から消える」


辺りを見回す。


アトヌスは自らの周りに群がり、餌を啄む鳥のように襲いかかる影に苦戦を強いられていた。槍を回転させて追い払ったり、敵の脳天の箇所を突いたり、薙いで吹き飛ばしたりして、身を守るのが精一杯だった。


「動きを止められるとはいえ…このままじゃお陀仏だぞ……クソッ」


影はこちらが不安になればなるほど強さを増していく。仕事柄アトヌスの中にある闘争本能、または闘争への愉悦のおかげか、攻撃が急に激しくなる事は見たところ無かったが、徐々に追い詰められている事は確実だった。追い詰められて無心になっているようにも見えた。こちらは観察していたおかげで「人なら致死の攻撃を影に喰らわせれば、再生の為に暫く動きが止まる」事を知ることが出来たものの、伝える為にはあまりにも隙が無さ過ぎた。響かせれば一斉にミシェル達に群がる影までもがこちらに襲い掛かってくるだろう。それ故に大きな声を出して伝えるのはあまりにも危険過ぎた。後ろに居た影を蹴散らし、壁に隣接するような場所へ移動する。勢い良くバックに飛んで移動した為に、背をぶつけてよろめいたが、すぐに体勢を立て直した。


「あぁ…まずいな…」


微かに聞こえたその言葉からして愚痴を言う余裕はあったかも知れないが、途轍もなく危ない状況だった。黒だけの殺意の塊がジリジリと寄ってくる。四面楚歌という言葉が良く似合う状況だった。


…アトヌスの方に注目し過ぎた。カリオンの方へ目を向ける。


カリオンがいない。

先程の第一の疑問から考えてみよう。鎧を無視して攻撃を受けたような、とにかく鎧が意味を成していないように見えたのがそれだ。第一の疑問もそうだが、それ以上の疑問が今生まれた。いつの間にかカリオンが居なくなっていたことに気が付かなかった。

カリオンが影に取り込まれ、"連れ去られた"としか考えられない。


「声も何も聞こえない。カリオンの気配が無い…」


頭の中での独り言によってやっと認識することになったそれは、決定的な死を物語っているとしか思えなかった。

一人の人間だったものが、二度目の死を迎えた。

そんな馬鹿な…人は二度も死ねるとでも…?いや違う、待て。問題はそうじゃない。

影に取り込まれたとして、何処へ行った?影の中か、あるいは…。

考えても仕方が無いとはいえ、仲間を失う事が如何に動揺を誘うか理解してしまった。動揺を隠す事は出来ていないのだろう。肩の力が抜けていた。腕がぶらんと垂れ下がる。何も声を発していないとはいえ、これは…。

…戦意が幾らか消失した気がする。


突然アトヌスの叫びが聞こえた。


「ボーッとしてんなよ旦那!!武器も何も無しで死ぬつもりか、テメェは!!」


その声が酷く響いて、影の何体かはアトヌスの方に移動し始めた。…冗談だろう?そんなに声を響かせてまでこちらに呼びかける理由が見つからない。だいたいそっちは影からの応戦で手がいっぱいじゃないか。


「何故叫んだ?自分が辛くなるだけだろうに」


「んなこたァどうだっていいだろうが!あんたがいなくなったら困るし、叫ぶかどうかは俺の勝手だ!!そんなに俺を犠牲にしたくないんだったら武器持ってドンと構えてやがれ!!」


…これは、なんとも不可思議な。

だが意図は分かった。その言葉が正しいなら、その言葉の、自分の受け取り方が正しいなら、自分が出来るのはいつものように静かに武器を持って獲物を殺す体勢を崩さない事だ。そちらが叫んで注意を逸らすなら、自分は拳銃を持って真っ直ぐ前を見る。当たって傷を負わせるのは難しいかもしれないが、仕方がない。最早これは単純な戦闘ではない。これは防衛戦だ。

襲い来る影を躱しながら、至近距離から頭を狙って引き金を引く。弾数からいつまで持つかは分からないが、こうする他ない。瞬間的に動きを止める事でどうにか安全を確保していた。止まれば八つ裂き、そればかりを考えて避け続けた。

突如影達の動きが止まる。ぐるりと身体を別の方向に向けて、震え出す。

…一体何があったのだ?

向いている方向はミシェル達のいる方向、だが様子がおかしい。影達は近付こうともしない。どうやら何かがあるようだ。目を凝らしてみれば、それがよく分かる。辺りを刃が飛び交っている。影を貫通しながら飛び回るそれには見覚えがあった。黒い男の周りに浮遊していたあの刃。それらが影達の急所を抉りながら飛び交っている。致死量の攻撃を与えると治癒の為に回復する影に対しては強力な防御方法だ。攻撃を与えて止めるだけでなく、抉ることで吹き飛ばして後退させている。その内、刃がこちらへと飛んで来て顔の横を通っていった。振り返れば、ミシェルと竜の娘を連れたあの男がいる。竜の娘の片腕はささくれ立ち、血と肉が惨たらしく見えていた。ミシェルがその傷を治癒しようと術を唱えているが、娘は今にも苦痛で泣き出しそうだ。

アトヌスにもう一度目をやる。かなり苦戦しているが、あと一歩のところで影達は触れられずにいる。囲まれているのにあそこまで戦えるのは、流石としか言いようが無い。


「何をしている?武器が無いようだが」


その言葉には見下すようなニュアンスを感じたが、今のところ味方である事は確かなようだ。先程振り返ったところを狙って影が突撃してきたのだが、黒い男が瞬時に拳銃を向けて一発当て、影が砕けて飛び散った。そして振り向きもせずに後ろに拳銃を構え、黒い男の背後に攻撃を加えようとした影を弾丸で吹き飛ばす。

まるで全てわかっているような動きに、ただただ唖然とした。


「順調に感情が戻ってきているようだな。先程のお前の銃撃方法は正しい。遠くを狙って撃ったところで、拳銃から発射されているのなら致命傷を与える前に途中でポトリと落ちるからな」


…感情が戻ってきている、と言ったのか。まるで、と言うより本当に全て分かっているかのような言葉だ。何者だ、この男は…それとも此奴が『神』か?

悩む前に黒い男が影達に向かって走り、叫んだ。


「影共!そこまで憎いか!?そこまで妬ましいか!苦しみ嘆き踠き叫び、人でなくなった哀れな愚か者共、救いを望むのなら俺を喰らうが良い!復讐を成したいならな!」


その声に呼応するように、影達は突如としておぞましい雄叫びを上げて黒い男に向かって突撃していく。アトヌスを取り囲む影達も、先程まで攻撃を受けていた影達も、その部屋にいる全ての影達が黒い男を飲み込もうと押し迫った。

黒い男の存在が、ますます分からない。まさかスケープゴートになろうとしたわけじゃあるまいし、ましてやわざわざ我々に近付いて死のうとしているとも思えない。そう思っている内に黒い男が影に飲み込まれて、その居所が分からなくなっていた。


黒い影に纏われて何処かへと消えた黒い男には、出会ってから度々驚かされてばかりだ。共闘してきては二人の小さな子を守護し、そして突如としてこちらに戻ってきた時には少女の方は腕が酷く損傷していた。何なんだアイツは。あまりにも考えるのが難しい、いや無理がある。

ともかく、後ろで呻いている少女の腕を見る。酷いとは言ったが、それはかなりの過小評価というものだろう。正直言ってこれは手の施しようがないと思った。

皮膚も肉もぐずぐずに裂けて、血は滝のように流れ落ちる。よくよく見れば骨まで見える程の怪我だった。

――――これは、もはや切断した方が楽だと、そう思わせる程だった。


「…ッぐ……ふぅぅっ…ううっ、あグッ……」


涙目になって腕を押さえている。当然だが、そんな事で治りはしない。だが、それでも彼女にとっては多少痛みを和らげる事が出来ていたのだろう。


「こ、これ…どうしよう、こんな…僕は…」


「…完全に、とは言わん。傷を治す術は無いのか?」


わなわなと震えて本を取り出そうとするが、手に力が入らないのだろう、本を落としてしまった。自分ではわからないが、少年心にトラウマとして残すには充分過ぎたのかもしれない。落とした本を広げ、目次から治癒の術の項目を探す。


「やめておけ。それはもうどうにもならん。放っておけ」


――――不意に、脳に声が聞こえた。

何なんだ。黒い男も不可解だが、それ以上に不可解で、苛立ちを感じざるを得ない。全く、また我が主様は、自分の善意の行動を、折角の感情が大きく現れた行動を止めようと?


「たわけ。俺はその不可解な黒いのだよ。確かにお前は善意でやろうとしたのかもしれんが、お前は正義の味方じゃない。黙って俺の話を聞け」


眉間に皺が寄る。特に、この男が偉そうにこちらに指図をすると腹が立つ。出会ってから時間も経っていないというのに、思わず眉間に皺が寄る程にムカついた。


「ムカつくならそれでも構わん。とにかく、そちらにあの騎士野郎…いや、今は女か。女騎士を落とす。上手くキャッチするがいいさ、放っておくのも構わんがね」


…は?

落とす?落とすと言ったのか、この黒い慇懃無礼は。着弾地点も分からないのにキャッチのしようが―――――


「正義の味方なら、せいぜい上手く助けることだ」


クソッタレが―――――!

落としやがった、本当に、あの纏わりついた影の中から吹き飛ばして、こちらへと、甲冑を着込んだ首無し騎士を飛ばしてきた。しかも運悪く呻く少女の方向へ。


「ミシェル!」


「えっ?…あっ!危ない!」


ミシェルが少女を庇い、自身と同時に突き飛ばしたおかげで、少女に打ち当たることも無く、自分をクッションに止めることが出来た。…重い。


「…息はあるが…」


それは虫の息と言う他なかった。

こひゅー、こひゅー、こひゅー、という呼吸音が聞こえるが、あまりにも…見た目に似合わず満身創痍という印象を与えさせた。

なるべく隅の、出入り口に近い場所に寝かせる。何時でも逃げられるように。


「…派手に吹っ飛んだな、大丈夫かよ」


アトヌスが駆け寄って心配をしてくれたが、それよりも、自分にとって一番気がかりなのは、あの時の違和感――


――何故カリオンはここまで重い甲冑に身を包んでいるのに、酷く損傷したようになっているのか。


人の肉体は余程脆いのだろうか、いやそれでは肉体を持っていないカリオンの満身創痍の理由にはならない。ここまで考えられるのは、現状何故か影達の動きを止められている黒い男のおかげだが…それが何かしでかした可能性も拭えない。もしくは、鎧に魂を結びつけている為に、鎧へと飛んできた重い圧力に耐えられなかったか。


「…ぁ、あの…僕、心当たりというか、その…何となく、分かります」


「…なんだ、その心当たりというのは」


「魂は、あくまで精神体です。そ、それが何に結び付けられたとしても。だから…あの黒い影って、ドス黒い感情そのものみたいな、そんなものを感じました……だから、精神体には、それが重過ぎて…肉体に衝撃が加わったみたいに、なったんじゃないでしょうか…」


…そうか。だからあんな、見様見真似のような型でも重く飛んできたのか。…だがそれでは自分達へ来る殺意と圧力の理由にはならない気がする。


「で、でも…それを特に強く感じたのは、相手が大勢で集まって襲いかかってくる時だけでした…肉体があるものには、ああやって融合して重さを増やさないと、ダメなんじゃ…」


…なるほど。

ただただ納得した。

それにしたって、そう考えるとあの黒い男の異常さがよく目立つ。アレだけ纏わりついて、重さとしてはまるで襲い来る巨大な波のようなものを感じると思うのだが…それさえもものともしないのだろうか…。


「痛いさ、当然。これでも人だぞ。悪魔とは呼ばれるが」


胡散臭い、とはこの事だろう。

少なくとも左腕が光り輝き瞬間移動が出来る人間なんてものは見たことが無い。というかそんな者がいるのだろうか?正直自分はいないと思う。そんな者がいたら銃で自分を撃ち殺してもいい。殺せないのだが。

それ以前に、悪魔と呼ばれる事があるなら、つまりはそれの事だろう。黒い男はその悪魔そのものなんじゃないか?


……待て、悪魔とはなんだ?きっと碌でもない意味なんだろうが。


「いつかその意味も分かる。さて、身構えろよ、文字通りの黒い波が来るぞ」


その一言を聞いた瞬間に影達は形を変え、少しずつ、樹木のようになって、実をつけた枝の集まりのようなその集まりが、膨張して、肥大化して、宙を舞うように浮かび上がって………


ドオオおォぉォォオおぉォォおおオッ!!


―――――弾けた。

叫びのような、爆発のような、地響きのような破裂音と共に、それは先程聞いたとおりの「文字通りの黒い波」となってこちらに向かってきた。波紋のように飛んでくる―――


「じっとしていろ」


一歩も動けない。両足が動かない。

這いずることも倒れることも出来ず、その怒りに、その死の波に。


肉体の全てを貫き通された。


四肢の全てを斬り捨てられた。


霊魂の全てを打ち殺された。


砕かれた全身に、電流のように熱が走る。

全神経の全感覚が麻痺してもおかしくない程の衝撃が飛んできた。



だと言うのに、むしろ―――



―――幼子のように、筋肉が駆け回ろうとしている。全感覚、脳の電流に、別の何かが混ざりこんだ。


これは自分の感覚ではない。

これは俺の感じたことじゃない。

これは僕の知った意識じゃない。

痛み以外の感覚が私の中にいる。

ここが何処か、私が何かがわからない。


全ての意識が、何故自己を変えて話すのかはわからない。だが、まるでそれは、今いる仲間と呼ばれたもののように口調と声を変えて脳に響いた。


―――――全員の意識が繋がった。


知らない感覚、感情が、まるで知っているかのように感じられる。自分が失った筈の、ココロの部分。

刺々しく、柔らかく、冷たく、火傷しそうな、ガッチリとした感覚が記憶中枢に流れ込んでくる。脳が破裂しそうだ。


「―――――じっとしていろ。ゆっくりと目を開けるんだ」


言われるがままに、ゆっくりと目を開く。全員の視界が感じられる。この場の誰もが同じように目を開いていた。目の前には変わらず影の塊が―――


―――いや、少し違う。


爆発して抉れたところに、黒い男が立っている。何か光る塊を手に持っている。それを放り投げて拳銃で撃ち、吹き飛ばした。

弾けたところから風が襲い来る、いや逆だ、弾けたところから、じゃない。弾けたところに向けて風が来ている。背中に強く風が当たっている。


「…っう、くっ……っ!?」


カリオンが起き出したが、運が悪い。足がふらついているというのに背に風が来ているのだから、突然の事に前に倒れてしまった。風は依然強い。弾けた影は舞い上がり、塊の中心に吸い込まれて、今一度自身の塊を形成し始める。


「構えろ。来るぞデカイのが」


また、何時の間にか近くへと瞬間移動していた黒い男の声にはっ、とさせられる。

塊は少しずつ、確実に見覚えのある形を形成し始める。だが―――


「ッ!母様ァーーッ!!」


融合に、石の竜が巻き込まれた。影が竜に纒わり付き、比較的細い指や薄い翼膜を潰していく。肌が、肉が、骨が崩れていく。引力と圧力に裂かれ、老朽化した石像そのものが吸い込まれていく。


…恐ろしい。

強靭、強大、威霊の象徴が、雑多に集まった負の感情、殺意、渇望、悪意…それら全てに襲われて、肉体を崩壊させていく。それ程までにこの黒いモノは、重過ぎる。


「ぁ…ぁあ……ッ…ぅううああぁあぁああっ!!」


あまりにも酷だ。罪悪感さえ感じる。自分達が深入りしなければ、ここまでこの泣き叫ぶ少女に、こんな拷問を、こんな苦痛を感じさせずに済んだのかもしれない。後悔しても遅いことは分かっている、が…くそっ、感覚が流れ込んできて最初は割と嬉しかったが、弊害もあるか。罪悪感が邪魔をして戦闘行動に集中出来ない。


…いや、なんだこれは。

もう一つ何か、強いものを感じる。怒りが流れ込んでくる。だがこれは、この怒りは…


「…さない…」


少女は滝のように涙を流す事を緩めた。腕を押さえていた手を激情により突き放し、瞳に炎を滾らせる。


「……許さない……」


千切れ裂かれて、無残なものになった腕が、急速に再生を始めた。形を元に戻し、さらには…形状を変化させていく。刺突剣のように鋭く細長い棘を、腕の曲線に沿った形で召喚する。形の変化は、少し痛い。無理を押し通すように作り上げているのだ。彼女の何が、それ程までに彼女を突き動かすのか、意識の繋がりで感情をある程度理解した今の自分でも、それが理解ができない。


「…絶対に…許さない…ッ!!」


竜の咆哮が暗闇に響く。怒りと殺意と絶望。しかしそこに、まるで慈愛のようなものを感じさせた。

…これは、復讐心、か。

奪った者へ奪われた者がこそ下す、憤怒。私刑。誅罰。はち切れんばかりの復讐心が、今の彼女にこうもさせたのか。腕まで、その本質まで捨てて、仇討ちを望む姿へと変形させて。


痛みが退いたと気付く頃には、既に彼女は飛び出していた。雄叫びをあげ、固まる黒いモノに変形したての腕を突き刺そうとする。


殺してやる。切り裂いてやる。

殺してやる。轢き潰してやる。

殺してやる。穿ち貫いてやる。


殺す、殺す、殺す、殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺殺殺殺殺殺殺殺殺――――


――だが殺意に満ちた一突きは、黒い男に阻まれた。


「ッ…止めてくれるなっ!!離せ、私はこの黒いのを――――」


「お前の知能はトカゲ以下か?子が母に、ましてや竜に勝つ可能性がどこにある」


「何だと―――」


そこまで言葉を発したところで男は彼女を後ろに放り投げた。飛行練習を始めたばかりの仔竜の如く跳ね飛んだ少女を尻目に、黒い男はまた、握っている光る塊を放り投げる。今度は影の塊に。


影の塊がそれを飲み込んだのが運の尽き、だったのだろうか。


少しずつ、周りの塵や石屑がまとわりつく。まるで岩石の鎧のように、いや…岩石の鎖のように。岩が影に重く張り付く。


「大地の腐り滓とはいえ、弱り果てた人なぞが結合した原素には勝てまいよ」


何だかわけのわからない言葉を発している黒い男の目の前で、それは固まっていく。水が氷になるように、マグマが溶岩になるように、それは歩く液体から凝縮され、縛り付けられた固体へと変貌する。


「効き目はいつか無くなるがね」


獰猛な獣のように、それは暴れ出して鎖から解き放たれた。自分の二倍程の巨体の、人を模擬した姿をした怪物。それはまるで、いつかに見た一端の戦士を模擬するように……いや、少し違う。それは武器を持つかのように、腕を伸ばして、構えた。


その腕はまるで、竜の娘の腕のように、飛びかかり振るわれる。


「……チィッ……ッ!!」


黒い竜翼が羽ばたいて、いつの間にか、自分の肉体を貫いている。これは……っ、痛い、痛みが、腹を裂いている……何故だ、どうして……っ。


「……クソッタレがッ……何故……何故回復しない……ッ!!」


何故なんだ、これは……先程からそうだった、今思えば、くそっ、何故気付かなかったのだ…?


先程から何故、何故俺の傷が瞬時に回復しない……!?


「……黒い痣のせいだ、後で鏡を見ておけ。これから傷の治りが遅くなるぞ、自分の身体は大切にな」


なに、を――――――。

馬鹿げた話だ、いや、なんだ、俺が普通ではないことは分かっていたが、なんだ、これは…違和感が凄まじい。痛みも大きい、このまま抜かなければ……下手をすれば切り裂かれる。まずい……っ。


「クソ……!!」


拳銃を抜き影の頭部を至近距離から撃ち抜く。引き金を引き、撃鉄を起こす。

砕け散った後も融合しようと元の場所へ少しずつ戻る影の欠片を見ながら、影の腕にもう一発。影は悶えるような動きと音を発している。腹に腕が残ったが、もう仕方がない。後で抜くしかない。今は…この影から離れなければ。


「おい、影を抜く時は気をつけろよ、特に事後処理をな。影からなるべく遠くに投げ捨てろ。俺が暫く奴を止めておく」


言われなくてもそうするつもりだ。というか、このような状態でさえ融合しようと動く影を見て、近くに置くのが危ないことは容易に想像出来る。黒い男が止めてはくれているようだが……こんなものを、俺は相手取るのか……?


「明らかに……相手の動きが、なんだったんだありゃ、気持ちの悪い動きをしやがった…」


「……どう、動いていた?」


「ありゃ人には出来ない動きだ……人で言うなら…一歩身を引いた状態から関節を外して前方に、避けられたら頭から地面にぶつかる勢いだぞ、それをあんな……あの突進は……」


「まるでお前みたいだな、ザヴェルダ」


「なっ!?なんで名前を知ってる!?」


ザヴェルダ、というのか。いや、この際名前も、それを知っているこの黒い奴の事も今はどうだって良いのだが。

だが、これは……なるほど、そういう事か。竜を吸収して、影はその肉体の強さと特徴を手に入れた。だからそんな、アトヌスの言う無茶な動きも出来たのだ。きっと骨格の面でも何かしらのメリットがあるのだろうが、だとしたらまずい。少なくとも、斬り結ぶとなると力の差で負ける。かといって死角から攻撃をしたとしても、先程のように回復し始める。と、なると……どうにか核の部分を見つけて破壊するか、あるいは。


「勝ち目がないなら、ここに封印する方が……」


ミシェルの言う通り、封印をする選択肢も無くはないのだ。だが……相手が相手だ、封印は困難を極めるだろう。やるしかないのだが、如何せん情報が少なすぎる。


まぁ、ああ、いつものアレだろうな、取れる方法としては。いつものアレか、もしくは非道に徹して仲間を道具にでもするか。


「……無理だろう、痛みすら、俺だけでも共有していたのに」


かくなる上は殺害だ。

異形を狩り、人を狩り、厚い刃を血で汚し、練り歩く兵器。俺は、自分はそれでここまで生きてきた。仲間がいても変わらない。肉体がそれを覚えていたのだから、使わない手はない。自分の身体は大切にしろと言われたが知るものか、それに痛みが共有されていても、俺の痛みは他の者達には届かない。そもそも俺はもう死んだんだ、大切にするも何も無い。


もはや、選択肢は一つのみになった。


「一撃でどこまで抉れるか」


振るう剣はない。敵が速度を付けて突撃してくるより前に、自ら弾丸となって接触、鉛を零距離から放つ。砕け散った欠片は吹き飛んで、影の怒りと共に辺りに散らばる。欠片の元あった場所には、黒い男の放った光る塊に、自分の振るっていた剣の成れの果て、どす黒く変色している、折れたフランベルジュが突き刺さっているようだった。折れた事は少し残念だが、仕方がない。元々無理な扱い方をしていたのだから。


―――――たった一瞬、ただそれだけ怯んだのがまずかった。

敵のスピードに意識を向けていなかった、そして、影の特性の変化にも注意をするべきだった。もはや急所を狙ったからといって敵は止まらない。胸を弾丸が抉り、削り取ったというのに、人ならばそれは死を免れられないというのに、それは止まらなかった。


「旦那ッ!!」


砕けていない方の腕が、首に伸びる。剣を握るように、首を締め付けている。指が、肉に食い込んでいる。苦しみが全身を駆け巡り、足が浮く、地に足がつかない。不死であろうと苦しみには勝てないと、そう考えたのか?いや、もう分からない、先程からアトヌスが呼んでいるというのに、声が聞こえない、視界が暗転する、いし、き、が――――


「………ふッ!!」


肉体が転落する。バランスを崩し地に落ちて、両膝をついて倒れる感覚がある。これ、は―――――


「こういう時には役立たないと、ね。腕は奪った、早く離脱を」


カリオンの剣が、影の無事な方の腕を斬り裂いていた。その声のままにその場から離脱する。カリオンが心配だが……。


「心配かい?大丈夫、私に任せなさい!私は――」


任せろと言われても、と言いかけた時、カリオンの口…は無いが、声に乗って信じられない言葉が耳に届いた。


―――私は、奴の攻撃を見切った!


「なっ…!?」


「お、オイオイ!見切ったとか冗談だろ!?」


「何も言わなくていい、ただ部屋の壁付近に移動してくれ!ただし後ろの壁には行かない事だ、下手をすれば君達に被害が及ぶ!」


言われるがままに全員が横の壁に移動する。何が起こるかは分からないが、賭けを眺めるしかなかった。カリオンはじりじりと影との距離を保っている。お互いに剣を伸ばしても届かない程度の距離を見極め、隙を見せないように立ち位置を変える姿は、ベテランと呼んでも差し支えない実力を感じさせた。少しばかり見切ったという言葉に信頼感が増すが、心配であることに変わりはない。正直これは仕方がないとしか思えない。……カリオンは煽りまで入れ込んできたのだから。


「さて、いつまでジリジリと、距離を詰めずにいるつもりだい、影くん?お得意の腕の一撃で貫いてみるといい……あぁ、もう腕は無いんだったか」


傷をつけられて怒り狂っている者に、その傷をつけられ、失った部位を煽りの材料にしようものなら、当然影も激昴して突撃してくる、そう狙ったものだということは理解したが……なかなか攻撃を加えてこない。一歩身を引いたり、また前に出たりを繰り返している。まさか、腕でしか攻撃出来ないとは言うまい。


―――瞬間。


「……っかァッ!」


雄叫びと共に突如カリオンが剣を振り下ろし、その一撃が影の肉体を縦に裂いた。いつの間にか突き出された無事な方の影の腕は、カリオンの首を掴みかけて止まっている。一撃で砕け散った影の欠片が空を舞うのを払うように、更なる一閃を見せるように、もう一撃、薙ぎ払った。砕けた影の上半身はずり落ち、核が剥き出しになっている。

カリオンの伸ばした手は、突き刺さっていた折れフランベルジュの柄を掴み、引っ張り抜く。抜き取った瞬間、影の形が歪む。転がっていた影の腕の姿は、竜の爪のような形状から、朧気な人の腕のシルエットに変化した。


「あぁ、運が良い。これで腕の一撃に怖がる必要は無くなる―――グッ!?」


影の蹴りが腹に入ったのはその直後だ、抉り込むように入った一撃でカリオンは大きく吹っ飛び、床を思い切り転がっていった。それでも、あの騎士は俺の得物の成れの果てを未だに掴んでいる。吹き飛んだところを追撃しない様子から影の攻撃はすぐには来ないと判断し、駆け寄って様子を見た。が、先程のように息が切れたようになっていた。当然だ、あんな一撃を腹に貰って、生きている人間なら内臓破裂で即死している。肉体がない分それは無いのだろうが、あの一撃を貰ってピンピンしてる方が怖い。


「……ぅ、ゲホッ……君の、なんだろう……真っ黒だが、受け取って…くれ……」


「……有難く頂戴する」


本当に有難い事だ。諦めかけてもいたのだが、いつも使っていたものは、こう手に取ってみると得難いものがある。いつも握っていたものであるというのに、失ってからその大切さに気付くのは、いつぶりだったか。……いや、記憶は疑わしい。これを知ることは諦めようか。


「……多分、あの塊が、ゲホッ、核になっている……抜いた時に、影が、少し怯んだんだ……あそこ以外に、弱点は……」


「それ以上喋るんじゃない、自分を痛めつけるだけだ。マゾヒストなら止めないが」


冗談言うな、とカリオンは少し笑って、黒い男に肩を借りて一度身を引いた。だが……あぁ、今更だが、何を見切ったのかを聞けば良かった。敵の動きを、また見るしかない。核がどれになるかを知れただけ、まだマシか。カリオンが十分な距離後退したのを確認し、影を見る。いつの間にか、ずり落ちた影は元の位置に戻っていた。ただ、欠片が吹き飛んだ分を埋めるために面積が小さくなっている。核が隙間から少しばかり見える程に薄くなっていた。


俺には敵との距離を保つ技術が無い。基本的に先手必勝、見敵必殺であった為に、間を保つというのは些か苦手だ。……故に。


残された手は一つしかない。突撃する。

神とやらは未だに沈黙している。所詮俺は道具でしかないのだろう。そもそもこれは使命とは別件なのだから、封じられてもおかしくはない。やるならとことん、だ。俺は俺に出来る最大級の戦術を奴に繰り出す。


―――きっと、良い経験になるのだろうさ。


「………ッ!!」


全速力で走り抜け、今一度弾丸になる。風を切り裂き、影の塵を風圧で吹き飛ばすように、いつかの森の時のように動き回る。敵の瞬間的に距離を縮める移動方法の原理は分からないが、きっとあの一撃は直線でしか当てられない。聞いた限りでは、特定の体勢から突進をするのだろう。ゲリラ戦法とは違うが、撹乱作戦は大いに有用だ。

ただ問題は、現時点での武器がどちらも近距離で真価を発揮する武器であるということだ。だからこそ、動き回りながら近付く必要がある。もし回し蹴りや自爆のような、射程が短くとも全方位への攻撃でも繰り出してこようものなら、一溜りもない。


「――――――――ッ!!!!!!」


雄叫びをあげて影もこちらを殺そうと動き始める。前面からは見えなかったが、竜の姿となった以上尾も当然あった。その尾を振るい、こちらを狙ってくる。顔面にぶつかる寸前で拳銃で撃ち抜くが、飛散した欠片で顔に傷が出来てしまった。仮面がないと顔にすら傷がつく。すぐに回復したから良いものの、思い切り顔に尾の一撃を食らっていたらまずいことになっていたのだろうな。


千切れた尾を払い除け、途中で向きを変え、背後に照準を合わせて突撃する。

―――たとえ一瞬でも考えられたはずだ、吹き飛んだとしても短いなりに尾がまだ残っていることは。


影の背後、至近距離から拳銃を構えるものの、尾に思い切り叩き伏せられた。左の肩から叩きつけられた為に、左肩から下を痛みが響く。

……強く喰らったようだ、左上半身が動かせない。痛みが強過ぎて何も感じないような、きっと後で酷く痛むだろう感覚。如何せん見た目では傷口が治っているかどうかが分からない事がもどかしい。


―――――影が、こちらを振り向いた。

ゆっくりと、恐怖をチラつかせながら。


「……………クッ……!」


「クソッタレがァァァーーーーーーッ!!!」


……!?

ザヴェルダ……!?

……貫通させている。娘の腕が、影の肉体を。核を逸れて、ザヴェルダの爪が、棘が、竜の腹を裂いていた。仮初の受肉で肉体のある影は、この一撃によって地に倒れ込んだ。


「このッ!このォッ!!」


憎しみに満ちた腕は、何度も何度も核を逸れて、地に仰向けになった黒い淀みに入っては出ていく。赤い飛沫が瞳から迸るのを見てようやく理解した。何故当たらないのか。

それはきっと、彼女が見えていないからだ。

完全な推論ではあるが、影が光を吸収している。血涙で見えなくなった視界は光を取り込めない。彼女の目の奥は暗いまま、敵の黒々とした肉を抉り続ける。殺せないと知っていても。


「クソッ、死ねッ……死ねェッ……ゥ……ぐぅゥ……ッ」


……何故こうも痛ましいものを、俺は見続けねばならんのだ。やりきれない。


「……もういい、ザヴェルダ。止まれ」


「うるさいッ、黙れェッ!!私は、私はァ……ッ」


「死なんぞ、それでは」


「……ッ………」


これは教えてやるべきか?

心臓を刺し貫くために、俺が先導してやるべきか。だが、まぁ……それで晴れるなら。


「もう少し左にやれ」


「………それが嘘なら、次はお前を殺すからな」


……本質は、竜のそれと同じものか。



ザヴェルダの腕の棘が、音もなく振り下ろされる。憎しみの表情は、悪意ある笑顔へと変化し、死闘は、ただ静かに終結した。

俺はただ、その殺意を見届けた。


声もなく、倒れた影は核を砕かれ死亡した。いや、還ったと言うべきか。

淀みが、地を奔り、地に融ける。天の光から逃げるように。

死んだぞ、と伝えると、ザヴェルダは両の腕をだらんとするように力を吐き出し、へたり込んだ。もう、彼女は憎しみの声も、怒りの顔も、生気も感じさせなかった。


―――あぁ、この空にある地下室は、こんなにも静かだったのだ。


「旦那、大丈夫だったか」


「……何がだ?」


「…その、ザヴェルダちゃんの事だよ。あの男が離すまでずっと暴れててさ、巻き込まれなかったか?」


……あの黒い戯けか。

黒い男を睨みつけ、たった一言「何故離した」と聞いた。


「ああでもしないと、お前は死んでいたろうに」


間違いないが、非常に腹が立つ。

だが、何かおかしい。どうして俺は、初対面の筈のこの男にこうも嫌悪感を抱いている?妙な気持ち悪さが全身をゆっくりと駆け巡った。


「あの娘は?大丈夫ですか……?」


「心配か、ミシェル。簡単に言うと、そうだな…無事ではあるが、精神面でボロボロだろうな。あの様子じゃ発散も出来ていないらしい」


「そんな……」


ミシェルがそう言って俯いた。俺としてはこの後自分を責めそうだとも思ったが、予想は良い意味で裏切られた。

ミシェルはザヴェルダの元に駆け寄って、背中を摩っている。御見逸れした、と言ったところか。この戦いで成長でもしたのか、あるいは元々優しい子だったのか。まぁ、正直どちらでも良いが、悪いことではない。


……そういえば、黒い男からも何かしら、有益な情報が手に入るかもしれない。そう思って振り向くが、そこにはその姿は無かった。この広い部屋の中に溶けていくような色の男は、何処かへと消えていた。

……逃げ足の速い奴だ。

だが、もうどうにもならない。流石にこうなると帰る他ない。娘を連れて帰るという依頼は達成出来そうだ。ミシェルを呼んで、ザヴェルダを連れて部屋を出る。出入口が無いように見えたが、梯子を登る途中でひとりでに開いた。


さぁ、後は帰るだけ。使命から逸れた戦いではあったが、収穫は充分だ。旅の資金、感情の回復。これだけでも俺としては有難い。


無気力になった少女は、ただ歩を進める。

彼女のペースに合わせて、我々も階段を降りていった。

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