四頁、家族

「さて・・・面倒なことになったな、旦那」


アトヌスは軽い口調でこちらに笑いかけた。

実際には「人が迷うほど広く、迷路のように本棚が置かれている巨大図書館の中で、たった一人の「老紳士の娘」を探さなくてはいけない」という何とも難しい任務であるうえ、自分にとってこの任務は、現在の「病を根本から叩き、消滅させる」という使命から大きく外れている。だが是非もない。了承したのは自分自身だ。

面倒なのはお前がよく知ってるだろう、それとも迷宮をさ迷ったことでもあるのか?と自分は小さな愚痴をこぼしたが、それを聞いたアトヌスは、「今までにも死にそうな仕事はあったんだ。今回もなんとかなるさ」と変わらない調子だった。

「神」に関する文献を見つけた一階には、推薦図書や、基本の学術書などが置かれている。

次は二階だ。広い階段を登っていくと雰囲気が変わる。照明は変わっていないが、確かに印象が変わった。


「今は二階の魔術学のフロアですね・・・一般販売されている魔術入門書が置かれてます」


ミシェルはそう言って本棚にしまわれている魔術書を物色している。

カリオンもミシェルが見ている本を覗いている。これではまるで遠足気分だ。

だが正直、その抜けた感覚も許容している自分がいた。実際に自分はこの任務を完了する気でいるが、自分にも得なければならない情報がある。そのうえ、この任務はあくまで老紳士の無茶な願いを受け入れる形で行うことになった任務だ。自分に彼らの行動を阻害してまで任務を完了する権利は無い。というより、元々こちらが頼んだり、関係者が寄越した仲間ばかりなのだ。無くて当然だ。故に通常の行動は彼らの勝手だ。一か八かの作戦ならともかく。


歩きながら適当な本を物色している間に、階段にたどり着いた。次は三階だ。ミシェルは、

「その階段を上がれば神哲学、英霊学のフロアにつきますよ。そのフロアの中心から左に行けば、娘さんがいなくなった地点に着きます」

と地図を指さした。階段の近くの壁にも地図がある。それなりに迷子などの対策はしてあるようだ。

地図を軽く見比べたが、何故だろうか、少しばかり違和感がある。地図は二枚の表裏に印刷されている。一枚には二階分が表裏に印刷されて、計四階が一枚に描かれている。だが、階段の地図と、我々が持っている地図とでは、かなり違う部分がある。

持っている地図に描かれているのに、壁に貼られた地図には描かれていない場所があった。もっとよく見れば、その持っている地図にしか描かれていない場所に通じる道が、どちらの地図にも存在しない。描かれていないのだ。

どうやら自分以外の皆も気付いたようで、カリオンは指でなぞるように道を探している。ミシェルとアトヌスは見つからない道で話し合っているようだった。


「結論としては物足りないが、とにかく行ってみるしかないな」


カリオンはそう言って、階段を先に昇っていった。自分含め他の面々もカリオンに続いて昇っていく。

昇った先は、荘厳な雰囲気で包まれていた。神哲学のフロアだからだろうか、何かに見られている感覚さえある。


今の自分にとっては運が良い。このフロアは情報の宝庫だ。ただ…変な感じだ。先程の激痛と、それによって暴かれた怒りに似た感情に妙な歪みがある。先ほどは怒り、ある意味で初めての感情だ。だが、この感情はなんだ?先ほどとは対照にある、しかし負の感情であることに変わりはない。怒りとは似て非なるもの、これは。


そうか。

自分は恐怖している。あの瞬間に感じたのは怒り。それを誘発させたのはこの恐怖だった。それこそ何度も見てきた、気がする。

もしくは、自分は怒りより、恐怖を先に感じたのか…。正直言って、今は見えない心のどこかで不安を感じている。

このまま自分が思い出す感情が正と負のうち負だけだったら?

人の喜びを知らないまま生き続けることになったら?

目的を達成できぬまま、見捨てられたら?

恐ろしい、そう思えば思うほど恐怖が強くなっていく。少なくとも、仲間を持ったならばすでに、失う瞬間を感じることになるのだ。人は皆、何かを失う時、特に近くにいた人間を失った時、負の感情が露呈するという。

任務に感情を持つな。

どうにかして自分を諌めて、安堵のため息をつく。


そうだ。これは任務なのだ。これは任務。


我らは神 世界の意志 世界を戻すため

 世界に蔓延る 歪められた者達を 浄化せよ――――


あの時は脳だけしか動かなかったが、それさえも神とやらがやったとしか思えない。

首切りで死んだのに、脳が働くわけが無い。脳だけで生きられるわけが無い。かなり馬鹿げているとは思うが、あの場所はきっと神のいる座だったのだ。

反吐が出る。対話している相手の言葉も聞かずに、何が神だ。相手の話を聞くなんて、子供でも出来る。

それとも、神とやらは、まだ生まれたばかりの赤子だとでも言うのか?自分の苦悩などちっぽけに思えてくるほど滑稽なものだな。

そう思うのは正しい事だ。おかげで幾分か彼の足は前よりも良く動き、頭は以前に増して働くようになっている。


「お~い、旦那!ここに興味深いシロモノがあるぜ!」アトヌスが叫ぶ。


皆がアトヌスの声に集合した。

ミシェルやカリオンは「図書館の中で叫ぶな」という旨の注意をしながら、自分は何かの危険が近付いた時のために警戒しながら、アトヌスのところに行き着いた。


「それは謝るよ、だけどこれ見てくれ。これ見たら驚かざるを得ないぜ」


そう言ってアトヌスが見せた本のページには、あの老紳士の姿と、その解説が書かれていた。


「まさかここまで凄い人物だったとは・・・正直驚いたよ」


カリオンの言うとおり、普通なら驚かざるを得ない事だ。その本は実在している英雄をまとめた本のようだった。

そのサンジェルマンという人物のページに依頼をした老紳士の事が書かれている。これだけでも驚くに値する事だが、それ以上にインパクトが強いものがあった。そこには、


人間の賢者、五賢人の一人。魔族の賢者との関わりを持ち、世界を旅して、時空論をまとめ上げた。

この魔族の賢者との関わりが、賢者としての一つの決まりを作り出す事になり、人と魔が共存できる現在の種族協定の先駆けともなった。賢者の中でも特に異質で、一般人に紛れ、裕福な家庭で育った老紳士として、オード・ケツァロスの空中図書館の年老いたオーナーとして生活している。

彼のまとめた時空論とは、端的に言うなら「この世界以外にも別の世界があり、そこはこの世界と別の時間が流れている」という哲学的な次元説の事。「どの世界も真実ではあるが、本当の意味での世界とは、混沌である」という仮定が加えられ、この説は成り立っている。

これらの一見馬鹿げている説は、彼が旅して見た世界と、彼が「もう一つの賢者の石」によって見た別の世界によって確信したらしい。また、世界を巡る旅をするにあたって、彼が見聞きした寓話、童話にも影響されているようだ。


という解説が成されていた。解説はまだ続いているが、かなり長い。見開き一ページに、細かな文字がふんだんに、時に画像が載せられている。だが、時空論だとか種族協定だとかは、今はさほど問題ではない。というか素人には分からない。

あの老紳士は賢者だったのだ。だから旅の者だと分かっていながらこちらに協力を仰いだのか。こちらの素性を見抜いて、こちらにあの莫大な前金を渡して。


「つくづくびっくりだね、賢者ってのは・・・ミシェル、君の師匠もこの本に載っているかな?」


「探せば見つかるとは思いますが・・・でも僕にとってお師匠サマは家族です、英雄じゃない」


そう言ってミシェルは本を閉じ、元の場所に戻した。

皆が館長の愛娘を捜索するために歩く中、立ち去る前に本のラベルが僅かながら見えた。

そこには「SL9」の表記。ここに来て変に違和感ばかりだ。何故単なる英雄図鑑が禁書扱いなのだ?


「きっと手違いか何かだろう…後で館長に言っておくか。何か見つかったか?」


振り向いてそう言ったが、返ってくる返答は「何もない」だった。

その言葉の通り、そこに行くと本当に何もない。血痕はおろか、誰かがいた足跡などの形跡さえ無い。

今までの本棚と本棚に挟まれた、何の変哲も無い廊下。ただただ、荘厳な雰囲気が流れている。


これは困った、とアトヌスが苦い顔をしている。

カリオンはまだ探しているが、途中で顎らしき箇所に手を当て、考えた末に「お手上げだ」と答えた。


「もしかすると、隠し通路とかあるのかも知れません」


そう言ってミシェルは懐から本を取り出し、「使える術があれば良いのですが」と本のページをぺらぺらと早足でめくった。結果としては良い発想だ。ミシェルは「秘密暴き」の術を見つけ、じっくりと文を読み続けた。


「・・・すみません、僕のような術士では扱えない術でした」


「見せてみろ」と言って、秘密暴きの欄を見る。解説には、


隠された物品、道を探し出し、一時的に封印を解く高等魔術。照らし出すための光と、欲による封印破壊のため、闇が必要となる。人の混沌である欲による魔術のため、闇はある程度の火で代用できるが、大部分を闇と光による擬似的な探索に任せるため、闇の魔力を持ち合わせない術士ではこの術は行えないうえに、扱えても隠蔽の細かさや厚さによって完了までの時間が大きく変わるため、扱うのが難しいわりに万能でない、魔術の中でも不遇の術と言える。また、この術には贄が使えず、疑似探索のために目を媒体にしないといけないため、非常に危険な術でもある。


と書かれていた。


「欲だとか、贄や媒体だとか、よくわからんが」


ミシェルが、「欲は人が生まれ持つ混沌です」と答えてくれた。なんでも、人は秩序と混沌の二つを持っているらしく、欲は人が持つ基本的な混沌の一つらしい。他の混沌は矛盾だとか感情の起伏だとかなんとか…。

また、術には基本的に贄と媒体がないといけない。贄は魔術のエネルギー、精神力の代わりとし、媒体は血管と臓器の様なものらしく、無い場合は自身を贄か媒体、もしくはその両方にするためにほぼ確実に自身を傷付けてしまうが、中にはそれらが必要ない、もしくは贄が替えに効かず、媒体として使える物品が存在しない例外もあるらしい。

秘密暴きは贄が使えず、媒体が目という、例外の中の後者の術のようだ。高等魔術だと言われるのも頷ける。


「自分なら目を軽く使えるが…術の適正とやらが無い。秘密暴きの他に道を探す術はあるか?」


「隠された道を見つけるのは魔術としてはとても難しいんです。光の魔力を持っている人が少ないから」


「持ってないと使えないのか?」アトヌスが会話に入ってきた。


「そうではないんですが、光は概念的な魔力ですから、扱いづらいんです。僕が持つのは火の魔力ですし」

その言葉に、皆黙ってしまった。少なくとも魔術を使っているミシェルが言っているのだから、間違いは無いだろう。だからこそ、余計に困る。証拠も何も無し、魔術は難しく、破壊しようものならきっと犯罪者だ。自分にとってはさほど問題ではないのかもしれないが、仲間に迷惑がかかるのは困る。


もう駄目か、皆がそう諦めた時、カリオンが何か気付いたのか、床、天井、当たりを見回し、うーむ、と息混じりに言った。

この階で、館長の娘が消えるという大事件が起こったのだから、この場所には我々しかいないとおかしい。誰かがついてきているという訳でもないだろう、だが辺りを見回して、本棚を確認して…何がしたいのだろう、確かにそこの本棚は本が入ってはいないが、借りられている可能性も否定出来ない。何かの…紋章?のようなものが付いているのは気にはなるが。


「少し待っていてくれないか、館長に聞きたいことが出来た」


あぁ、と一言自分が返事をしたのを聞いて、カリオンは一階へと戻っていった。

我々はカリオンが一階に戻っていくのを見送った後、待つことしか出来なかった。

どうにもならない、と思っているからだ。カリオンが何かに気付いたならお手柄だが…。


「今はカリオンが頼りだな」


ほんの少しの望みをカリオンに託し、残ったメンバーは現場で待つことになった。待つ間暇だったのか、アトヌスとミシェルがカードゲームをプレイし始めた。街中で子供達がそれで遊んでいるのを見かけた。さぞ人気なのだろう。

と、平和ボケをしたような事を考えながら待っていたが、暫くしてカリオンが帰ってきた。


「やぁ、戻ったよ。ちょっと試したいことがあって。ところで、何か変わった本はなかったかな?」


カリオンはそう言って、埃の被っていない本棚を指差した。

「この埃を被ってないところの大きさに合う、妙な本があればそれで良いんだ」と説明をした。

だが、妙な本も何も、カリオン以外の人物は現場でただ待っていただけだ。何もしていないし、めぼしい本もない。それどころか、自分も、顔からして恐らく他の二人も、埃を被っていない事に気付いて驚いた。だが…妙な本。妙な本………。

…あった。

一冊、現段階で見かけた本の中で、一冊明らかにおかしいものがあった。他の面々も見てはいたが、どうも違和感に気付いていたのは自分だけだったらしい。禁書扱いの英雄図鑑。


「少し前にアトヌスが見つけた英雄図鑑は、SLが9だった。最初見た時は手違いだと思ったが」


そう言って、例の本がある場所へと戻り、禁書扱いの英雄図鑑をもう一度、周りと中身を見る。内容におかしな点はない。だが、先ほどの本棚に残されていた紋章とそっくりな印を、その本の背表紙に見つけた。その印はかすかに輝いている。


「これをさっきの本棚に入れれば…」


カリオンがそれを持っていき、紋章のあった箇所に英雄図鑑を入れた瞬間、足下が光り出した。絨毯の床と思っていた場所。

そこから、正方形の眩い光が、天井へと伸びるようにあふれ出した。

突然溢れ出たわけでは無かったから、目を押さえる事は容易だった。眩い光に目を覆うようにしていると、光が止まった。

先ほどまで光を発していた正方形の下には、下の階へのハシゴが出来ている。


「この先に、娘さんがいる・・・?」


「行ってみないと分からん。まずは自分が行こう」


そう言って自分が最初に降りていく。見た感じ大して危険性も無い。安全だと分かったので、残っていたメンバーに「大丈夫だ」と声をかけた。

先程自分が見た光景は、思った以上に広い部屋だった。本棚も何もない、開けた場所。

今にも動き出しそうな巨大な飛竜が「ある」が、ヒビの入った精巧な巨像というだけ。

明かりはあるものの、生物が存在したという感触はなかった。


「あ、貴方達は・・・誰だ!?答えなさい!」


一つの叫び声が聞こえるまでは。


叫び声の主は、一人の少女だった。

薄明るいなりに確認出来たのは、灰色の長い髪、黄色の瞳。ただ人と少し違うのはその頬だった。

その頬には、鱗が付いている。いや、生えているのだ。鱗が皮膚を守るように生えている。

その眼は鋭く、我々侵入者を見据えている。少女は後ろの飛竜を庇うように立っていた。


「…まさかとは思うが、行方不明者の娘と言うのは…お前か?」


自分はそう聞いたが、「なんの事だ」というような返答が飛んできた。

当然だ、本人には分かるまい…。せめて説明をするべきだろう。


「我々はこの館長の娘を探している。館長直々の依頼だ…何か知らないか?」


「知らないも何も…館長の娘は私だ。探している割に、本人は出てこないようだけど」


少女は何かを急ぐように喋っていた。

何を急いでいるのだろう、何かが来る気配も敵意も殺意も感じられないが。ただ警戒は怠らんと思っていたら、カリオンが我々に「出来る限りだが、説得してみよう」と一言伝えて、前に出た。


「あの、何かお探しですか?貴女のお父上は、貴女を待っているようですが…お父上の元に行けば、探し物の在り処が分かるかも知れませんよ」


「無理だ。ここからは離れられない。母様が………!?母様!まだ動いてはいけない!!」


驚くべき光景だった。これが、これは…

…なんだ、これは…!?後ろの巨像、いや、石の飛竜が、突然動き出しただと…!?

冷静に見るなら、ゆっくりと、しかし確実に、揺れるような音を立てながら動いている。絡まっていた蔦は千切れ、地面にはヒビが入り、その一対の瞳を覆う瞼が開くと、輝く眼がこちらを覗き込んでいた。


「そんな、しかし……っ…わかった…」


少女は我々に近付き、一人に一つ宝石を手渡した。宝石は割れ、欠片だけが残っていたが、それは飛竜の瞳に似た輝きを放っていた。すると、突然女性の声が頭に響く。今日は何とも…変な日だ。


「申し訳ない、旅の者よ。私の夫の頼みを聞くために、無知なままここまで来た蛮勇を、賛美、忠告を礼として返しましょう…私は貴方達の前に存在する石の竜です」


目の前の石の竜、このような声をしていたのか。悲しげな母性を感じさせる声を発するその竜は、先程と同じような姿でこちらを見ている。だが、その竜の母を見つめる館長の娘は、先程の鋭い表情が嘘のような、哀しみに満ちた表情をしていた。


「忠告?何かあるのか?」


アトヌスがそう聞くと、竜の母はまた寂しげな声で応えた。


「貴方達はここに来てはいけなかった。ですが、私からするなら本当に良かったとも言えるでしょう…どうか、その娘を連れてお逃げなさい。そして館長に、ここの封印を頼みなさい」


「!?な、何を…!母様っ!!何を言うんだ!!私はあの男の元に戻りたくはない!!それに、母様は…っ!」


竜の娘の必死な反論で、部屋の静寂はかき消された。そのうち、声を張り上げれば張り上げる程、竜の娘は涙と嗚咽で顔をぐしゃぐしゃにして、最後には膝をついた。泣く声は痛々しく部屋に響き、どういう事なのかを、状況をハッキリとさせた。


竜は、死にかけている。

ヒビが入っていたのは、石の皮から脱皮するようなものでは無かった。竜の生命が終わりを告げようとしていたのだ。

竜は支配者であり強者。そのような強大な生命でも、死には勝てない事を物語っていた。これが人の言う失いそうな、もしくは失った時の感覚。悲しきものだ。ただ自分はまだ、ハッキリとはそれが分からない。


突然、その哀しみや虚しさを感じさせまいと言うように、部屋から灯が消えた。


「!?な、なんだ…!?」


突然暗くなり、アトヌス達は声を上げた。驚いたのは自分も同じだが、自分にとっては時間が惜しい。我関せずという様に、竜に質問した。


「竜よ。ここに来てはいけなかった、とは何の事だ?今の部屋が暗くなる事と何か関係が?」


「…影が来ます。貴方達は固まりなさい。そして、希望を捨てないで」


まるでその言葉に呼応するように、暗がりから何かが出現した。黒い、輝きの無い動くもの。闇の中だと言うのに、ハッキリとその輪郭が見えた。いや、輪郭とぽっかり空いた闇が、見覚えのある人の形を取って動いている。呻くように、よろめくように、それはこちらに近付いてきた。


影、それ以外にこの存在を的確に言い表す言葉もないだろう。それは、それの輪郭は、自分にとっての仲間達の姿をしていたのだから。

アトヌス、カリオンの姿を取った影が、複数体こちらに近付いてくる。ミシェルの影は無いが、ミシェルの目にはギストが写っているのか、「し、師匠…?」と一言呟いて、不安げな顔をしていた。アトヌスとカリオンが何を見ているかは分からないが、カリオンはぐぬぅ、と唸り、アトヌスは息が早くなり、焦燥の表情をしている。どちらにせよあまり敵に回したくない者と対峙している事は分かった。


影はその焦りを無視するように、我々に襲いかかった。ドス黒い人型が、一斉に覆い被さろうとする。だが何故だろう。触れる事は出来ず、我々を中心に球状の何かに乗るような状態だった。手の内の欠けた宝石から金色の光が溢れている。この光がバリアの役割を果たしているのだろう。時折影の触腕が中まで伸びてくるが、アトヌス達が攻撃して引っ込めさせる。触れられないものに襲いかかる影の姿は、なかなかにおぞましいものがあった。ドロドロと溶けだし、融合しては、また分裂を繰り返して、まだ呻き声を上げながら襲い掛かってくる。執念、悪意、絶望を形作ったそれの動きは、地獄から逃げているような印象さえ覚えた。


「な…なんだ、これは…何が起こってるのか全くわからない…触れられないようだが…」


剣を構え、光の外の影へ突きを喰らわそうとした…が。

驚く事に影は剣の切っ先を掴むように受け止め、取り込み始めた。握っているフランベルジュのような大剣を片手で振り回す力はある、馬鹿力だと自負もしている。だと言うのに軽々と引っ張られる程の勢いで剣を取り込む。なんて奴だ…いや、奴ら、か…?


「…!?旦那掴まれッ!!」


アトヌスとカリオンに助けられて何とか無事だったが、今まで振るい、使っていたフランベルジュは影に取り込まれてしまった。何処に行ったのだろう…と考えている時、ミシェルは恐怖でうずくまり震えてしまっている事に気がついた。何かを呟きながら涙を流している。


「ミシェル君、大丈夫?」カリオンが手を差し伸べるが、ミシェルは「嫌だ!触らないで!」とその手を払い除けた。ミシェルはその後カリオンを見て我に返ったのか、ごめんなさいと一言呟いて下を向いた。カリオンはそれに「大丈夫だよ」と応え、影の方を向いた。何があったかは分からんが、後で愚痴だけでも聞いてやろう。応戦の為に残った武装の銃を構える。皆が戦闘態勢に入る中、アトヌスだけは違った。アトヌスは武器を下ろし、焦りでかいた冷や汗を袖で拭い取り、真剣な表情でミシェルを覗き込んだ。


「なぁミシェル、少し聞いていいか。」


「…なん、ですか」


「本当になんとなくだが、俺はお前さんが師匠を一番よーく知ってると思ってる。だからこそ言うぞ。俺はあの師匠が弟子はあまり取らないと言ってたのを知ってる。そうだろ?」


その言葉を聞いてミシェルは少しだけハッとして、考え込んだ後に答えた。


「…そうです、はい…確かに」


「だろ?だったら俺としては、君の師匠はかなり信頼を置いてると思うんだ。なんせたった一人の弟子だぞ?お前さんはあの賢者様の、言わば子宝のようなもんだ」


顔を上げたが、直ぐに顔を伏せるミシェル。


「…でも、僕は…あの人の息子じゃありません」


その言葉を聞いてアトヌスは微笑んで、優しくも力強いトーンで答えた。


「たとえの話さ。で、だ。そんな子宝ともとれるお前さんを、あの陽気な師匠さんが嫌うと思うか?殺しにくると思うか?というか、あんな偉大なお方がここに何十も何百も居たら正直…俺は怖い!あの場所にしか師匠さんはいない。そうだな?」


「…そう、ですね。はい。そう、その通りです。僕の師匠は…あのヒトしかいない」


その言葉は、彼に勇気を与えたのだろう。ミシェルは涙を拭き、立ち上がった。その目は、最初の頼りない小さな少年の目ではなく、覚悟を決めたような戦う者の目だった。成長とはこういう事か。人の成長は、時に不思議な感動を起こす。


「そう、そうだ…僕に出来る事は限られてる…でも、お師匠サマは僕に、皆さんの道しるべになれと言ってくれた…僕に優しくしてくれたたった一人の師匠が、僕に任せてくれた」


ミシェルはそう言いながら、言い聞かせながら、懐から本を取り出した。ペラペラとページをめくっていき、途中で栞を挟みながら、火の魔術の最後の欄で手を止めた。乗っていた魔術の名は、「燃ゆる魂」。ミシェルは我々に「あの娘さんの元へ連れて行ってください」と言った。皆、その言葉には驚いただろう。自分を含めて驚いた。それを聞いてアトヌスは「あたぼうよ」と、覚悟を汲むように応えた。それに続いて、カリオンは「了解!」と、自分は構わない、と応えた。


全員でおしくら饅頭のように固まって移動をし、竜の娘の元に辿り着いた時にも、竜の娘は押し寄せる影を、宝石の光の中で一人疲労しながら食い止めていた。涙で赤くなった顔をした竜の娘に、ミシェルは「僕に協力してください、貴女のお母さんと僕達全員を助けるには、これしかない」と、栞を挟んだページを開いた。


そのページは竜についての話をつづり、纏められたものだった。


竜は光と闇、双方の力を持っている。

生きる場所によってその光と闇の属性のバランスが決まるが、生まれつきその属性は決まっているとされている。光に満ちた魂を持っていれば光を統べることが出来、闇に満ちた魂を持っていれば闇を統べるという。竜の場合、太陽に近ければ近いほど光の属性が強くなるが、地下などの太陽の光が届かない場所に長く居ると、魂の属性が闇に近付いていく。長い間太陽を見ていないと、魂は闇だけになり、逆に太陽の近くで生きれば、魂はやがて光だけになるという。


「魔術の属性として見るのなら、闇は混沌、光は秩序。そして、この魔術は混沌が無ければ使えません」


そう言って見せた「燃ゆる魂」のページには、


混沌を使う事で、失われかけている生命を蘇らせる超高等魔術。混沌を使える魔術師は殆ど居ないため、一時期失われた魔術と呼ばれていた。混沌は身近にある割に制御が難しく、この魔術は魂に干渉するためにデリケートでなくてはならず、たとえ混沌を使える魔術師でも扱えない時もあった。また、既に失われた魂には無意味の為、使うタイミングすら邪魔をするというある意味覚えても意味の無い術である。魂を繋ぎ、修復する魔術の為、魂とは関係ない贄を用意する必要がなく、媒体も大した理由がないなら用意しなくても良い点は評価出来る。手っ取り早いのは魂を媒体とする事だが、魂の記憶が映り込んでしまう可能性と、混沌を扱えるぐらいなら媒体無しでも術を行うことは出来るので、魂を媒体にする必要は全くと言っていいほど無い。


と書かれていた。


「貴女の母さんは実質的な地下で生きていました。ならば闇の魂を持つ筈。そして、その娘である貴女も同じようにその魂を持った筈です」


「つまり…どういう事だ…?」


「ここには書かれていませんが…媒体を二つ使いましょう。貴女の混沌と、僕の魂の欠片を媒体とします」


その場に居た皆が驚いた。アトヌスはハッとした顔を、カリオンはふむ…?と、自分は何も言わなかったがただ驚いた。大きく成長したようだ。自らの魂の欠片を使うとは、相当の覚悟があったに違いない。ミシェルの表情は、事実覚悟と勇気に満ち溢れていた。その表情に感化されたか、アトヌスはにんまりと笑った。


「やるな、坊や!その意気や良し!それがお前さんの選択なら、全力でやりな!」


「し、しかし…母様はもう…」


「貴女のお母さんは、希望を捨てるなと仰った。僕は一瞬捨てかけましたが…どうか僕のような、臆病者にはならないで」


ミシェルが少女の手をぎゅっと握る。

覚悟は、少女にも届いたのだろう。少女はまたあの鋭い表情に戻り、力強く頷いた。

それが、君の選択なら。

覚悟が届いた証拠の言葉だった。


「貴女はお母さんに集中して。僕は魂の欠片を媒体として、自らの血を捧げます」腰に付けていたナイフを手の甲に押し付け、出血させた。血は溢れ出て、死にかけの石の竜の足元にかかった。ミシェルは少しだけ苦痛の表情を見せたが、媒体の血を作り出すのは成功し、一安心という表情を見せた。少女はどうすれば?というような表情をしている。ミシェルは「血に触れてください」と一言、少女はそれに応じるように血に触れる。ミシェルは少女の手に触れ、少女に「もう一度言います、貴女は何があってもお母さんに集中を。他の事には気を逸らさないで」と忠告し、詠唱を始めた。


「くっ、光が弱まってきている…」


そうやって覚悟の行動を見せても時間は残酷に流れていく。光が作り出したバリアは少しずつ小さくなっている。宝石に封じ込められた光は溢れ、宝石の檻から抜け出していく。このままでは光が消え失せ、影に取り込まれるのも時間の問題だ。

ドロドロとした影達は少しずつこちらに向かってくる。影の触腕が、今にも触れそうな近くにまで迫っていた。アトヌスを除いて。


アトヌスには、影が近寄ることはなかった。それどころか影達は逃げ、別の標的に向かって攻撃を続けている。

何が違うか、すぐに気付いた。アトヌスの表情は希望に満ちた、大きな笑顔だった。本人は気付いているか分からない。


希望を捨てないで―――


「希望を捨てるな、か…なるほどな」

少しだけ自分の目の周りの皮膚が動いた。目は笑っているのだろう。それだけではない。仮面を被っていたが、仮面の下で口元が歪む。笑顔になっているようだ。感情が少しずつ戻っている事に気付いて、更に嬉しくなった。

これが嬉しい、喜びの感情。希望か。

早々に正の感情と呼べるものが戻った事は嬉しい誤算だった。

宝石の放つ光が、強くなっていく。


「ふふ、そうか、これが希望か」


「気でも触れたのか!?追い詰められたのに笑っていられるなんて…」


「自分は元から気が触れてる。それにまた感情を掴み取ったんだ、笑いたくもなるさ」


機械的な行動しかしなかった自分が突如性格の変わったのを見て少し戸惑いがあったのだろう。君は変わったな、とカリオンは答えた。だがその笑いを聞き、カリオンは小さな希望を持ったのだろう。このまま上手く行けば、大団円を迎えられる…そんな小さな期待を持ったおかげなのか、カリオンの持っていた宝石の光が強くなっていき、光のバリアは影が中に入ろうとも、動きを止められるような強固な結界と化した。


燃ゆる魂の詠唱は続く。

詠唱の段階が進むにつれて、ミシェルと少女の回りを囲む光は強まっていった。その場にいる人は皆、微かに輝く希望を、少しずつ強くしていった。


だが、そう上手くはいかない。

確かに希望は強く、光の結界となって彼らを守っていた。それでも、絶望は、人の影は彼等を侵蝕するようにじわじわと光の中に足を踏み入れる。その場にいる者は皆「希望を失ってはいけない」と分かっていた。だからこそ皆笑顔を絶やさなかった。まだいける、もう少しで勝てる、もうひと踏ん張りだ、と。

現実はそう甘くはない。心の闇は人によって違うが、この影は殺しにかかっている。じわじわと嫐る人の闇ではなく、圧倒的な悪意と殺意そのものと言えるだろう。光の結界が強いのは明確だが、それ以上に悪意が強過ぎた。


「ミシェル!まだ詠唱は終わらないのかい!?こっちはそろそろ限界だ!」


「…っ、生命の炎よ、母なる混沌へと還り、新たな生命と昇華せよ。さすれば更なる運命をなぞる一筋の光とならん…」


ミシェルの動きが止まった。

詠唱は完了したのか?その割に何も状況は戻らない。

…その場にいる皆の、嫌な予感が的中した。


詠唱は失敗だった。

何が足りなかったのか、本人ですら分からなかったのだろう。詠唱は記載されているままを行った、媒体も贄も用意出来ていた筈、だと言うのに何も変わらない。悪意と殺意が押し迫る。結界を割ろうと足を進めている。希望を喰らおうと、絶望に染めてやろうと、影は歩みを早めた。


「な、何が足りない…何が足りないんだ…!ううっ、こんな、このままじゃ…僕のせいで皆を死なせてしまう…!」


ミシェルは無意識に絶望へと染まろうとしていた。

全く動かない。

呼び掛けても何も反応がない。

やっと動く兆しを見せても震えだけだった。

自分への責任が、呵責が、影という形を取ってミシェルに襲い掛かる。少なくとも自分にはそう見えた。ミシェルの手にしていた宝石はもう輝いてはいなかったのだから。

助ける覚悟で手に入れたのは、死への覚悟だったのだろうか。


その時だ、ミシェルの頭上を別の黒い影が通って、ミシェルの目の前に降りてきたのは。


飲み込もうとする影とは違う。黒いマント、表情の見えないように深く被ったフード。回りは超小型の刃が護るように浮遊しており、左手は金色に輝いていた。また、右の篭手に我々の持つ宝石によく似た宝石を付けていた。宝石からは、別の色の光が溢れている。輝く金色ではなく黒混じりの赤色の光。影たちはそれに触れ、怯み、少しずつ退いていく。


その黒い異質な姿と光景に、妙な感覚を覚えた。周りを影が覆うように存在しているうえ、少しずつ退いていく姿もあってか、まるでその黒い男が、周りにいる影達の王の様にも思えた。暴王と、その従者。目の前に見える光景はそう言い表す事が出来るほど、異質で奇妙な光景だった。


「邪魔だ、弱者共」


掠れるような重く低い声で黒い男が言うと、影達が一斉に暴れ始め、黒い男達を取り囲んだ。唸りながら、動きを早めていく。うねり、轟き、殴り、叩く。影はまるで怒り狂っているようにも、苦痛に身を焦がすようにも見えた。


「馬鹿な子供だ。自分の力を過信でもしたか?竜の魂に、お前の魂の欠片が釣り合う訳がなかろうに」


黒い男はミシェルと少女の手を取り、重ね合わせ、石の竜に触れさせた。そこに黒い男が手を重ねる。


「詠唱を始めろ。絶望だけでは何も変わらんぞ」


急かすようにそう言われ、ミシェルは詠唱を始める。我々を覆っていた影がいなくなったおかげで、一時的に安全を確保できた。足元にフランベルジュが転がっている。それを拾い、握った武器を構えた。それに続いてアトヌスとカリオンも、それぞれの武器を構え、その場から一時離脱した。


場所を移動した事に気付いた影達が、離れた三人に襲いかかる。一体一体の動きが特別速いわけでもなかった。

現在の敵の数は四体。まだ戦える数だが、きっとまた増えるだろう。影達がこちらに突撃していく。個々で迎え撃つ為、場所をとるために広がった。


ミシェルの詠唱はまだ続いている事が、少しばかりの声で気付く。媒体の血はまだ乾いていないだろう。彼がどう思っているかはわからないが、黒い男が何者なのかが個人的に疑問として残っていた。

我々を助ける道理なんてない。決めつけるのは流石に頂けないだろうが、話に聞いた黒装束の人物にそっくり…というよりその人物そのものだ。

こんな危険人物と思しき者に助けてもらうとは…奇妙としか言えない。

疑問をかき消すように、黒い男が「集中しろ」と言うのが聞こえた。ミシェルはその言葉通り、石の竜を助ける事を優先して詠唱を続ける。


今、この場の静寂は、詠唱、影の怒り、戦う者の息遣いで乱されている。

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