????? ■■■■■■■■■:Not end

***


 私は大精霊である少女の部屋へと連れてこられました。大樹の中に作られた部屋は私の髪と似たような桃色で彩られていました。

 白い修道服を頂いた後、大精霊にどこまで知っているのか問われて、記憶から引き出せるものをある程度話しました。互いに話し合うことでこの世界の仕組みを理解しつつ、齟齬がないことを確認したのです。


 とても歪な世界でした。

 神は世界を捨てたことにより、残された者たちの心の行き場がなくなってしまったのです。象徴でしかなくなった神に信仰を抱いても、本人がいないのですから願いというものは愚かな行為に成り果ててしまいます。

 いくら願い望んでも助けてくれるものはありません。助けられなかった人々は心に負の感情を抱きます。負の感情は徐々に大きくなり、いつか人間自身を殺してしまいます。


 それを形としたのが邪視です。


 負の感情に潰されたもの、影響を受けたもの、直接被害を受けたもの。それらは邪視の形として世界に顕現します。そうすることで世界にある正の感情とバランスを取るのです。

 世界から負の感情が無くなるのが一番でしょうが、残念ながら不可能です。光があれば影が生まれるように、感情には必ず対となる存在がなければ成り立たないのです。

 もし負の感情が消えたとしたら、いまある正の感情が分裂して新たな負の感情が生まれることでしょう。邪視が生まれたのもその現象の一つと言えます。


 神が捨てたのはもう一つあります。この世界を創造したのならば管理も必要です。管理者がいなくなれば、誰かが管理をしなければいつか崩壊してしまいます。

 世界が生きるために行った修正は、選ばれた者たちに力を与えることでした。その一つが大精霊の世界との契約でしょう。

 他にも神の持っていた力が世界のどこかに振り分けられたはずです。


 私にも管理者の力が――役割が与えられたのでしょう。


 妖狐族。この世界に私しかいない存在。


 邪視の根源となり、すべての負の元凶となり、皆の悪の終着点となるために生まれたのです。


「ならば……」


 疑問がひとつだけ残ります。

 私の心の中にある、温かな感情です。人がこれを恋や愛と呼んでいるのを知識として与えられています。私は誰かを好きで、愛していたということです。

 でもおかしな話です。私が生まれたばかりで過去など持っていないはずなのです。初めて出会ったのは大精霊です。でも彼女を見ても同じ感情は湧いてきません。それどころか「理ちゃん」と呼ばれる度、何とも言い難い妙な違和感を覚えます。


 そこで一つの可能性を見出しました。

 私が生まれるために、誰かの魂が土台となっているとしたら。その人には好きな人がいて、愛している人がいて。


 名前が、あったのではないでしょうか。



「そうだとしたら……この世界はあまりにも残酷で、醜いですね」

「そうですかー? 嫌いじゃないですけどねー」


 椅子に座って呟いていた私に、ベッドの上で転がっていた大精霊は笑みを浮かべながら返してきました。


「ところで理ちゃんは、この後どうするのですかー?」

「どう……とは?」

「世界に嫌われる存在であることが、理ちゃんの役割ですー。生き続けるだけでもいいかもですけどー、ここにずっといるのはぶーですよー」


 大精霊はベッドの上で大きく跳んで、派手な動きを加えながら床に降りました。

 

「ここにいても、なりそこないに狙われるですよー? 早めに出て行ってもらうですー」

「そうですか。ならば私の存在理由を見に行こうと思います。世界にどう嫌われて、どう在るべきなのか。歪みとして、何を成し得ることができるのかを」


 そして、心に残った感情の行き先を見つけに。


「おおー、いいですねー! 旅はいいですよー! 素敵な王子様を見つけられるかもしれません。ダンジョンを作って魔物を増やしながら、王子様を探すのですよー」


 大精霊は興奮した様子で荷物を作り始めました。彼女の役割の一つに魔物を増やすこと、そのために新たなダンジョンを増やすというのは先ほど話し合った時に聞きました。


「旅……ですか。旅に、でることになるのですね」


 旅なんてしたことないのに、なんと落ち着く言葉でしょうか。

 まるでそれが私のあるべき形を作る様な、不思議な言葉です。


 間もなくして、私と大精霊は互いに違う方向へ向かって旅に出ました。

 私は巨大な焔の森を抜けて、まずは近くの村を目指しました。


***




 道中で偶然出会った町の傭兵達に殺されました。




***


 なんとも不思議な感覚でした。

 人間が恐怖に顔を歪める姿に驚きも悲しみもありませんでした。

 それが当然なのだと、意識の奥で理解していたのでしょう。

 彼らが恐怖に叫びながら、私に何度もナイフを突き刺す姿はまだ記憶に残っています。

 記憶があるということは、私はまだ生きて――


「ここは……どこ?」


 誰の声? いえ、私の声です。

 でも私は発していません。

 おかしいと思った矢先、今度は地面に倒れていた身体が勝手に起き上がりました。


「あれ? 私は、誰? ここはどこなの? これは……何?」


 勝手に動く身体は、血のついた穴だらけの修道服を見ながら震えた声を上げます。

 あなたは誰ですか?

 何故、私でない私がいるのですか?


『違う……』


 私は世界の仕組みを、新たな理を知っていました。

 だけど、いま身体を動かし、声を出している彼女は何も知らないのです。


 彼女が、本当の妖狐族なのでしょう。


 私は、妖狐族がこの世界に定着するための仮置きでしかなかったのです。


「やだ……怖い。助けて。誰か助けて!」


『落ち着いて。あなたは何も知らない。

 教えてあげるから。必要なこと、全部――』


 私の心の声は届きません。そもそも私の意識がどこに収められているのかもわかりません。

 彼女と同じ五感を有しているのに、そのどれもが私の意思で動かすことができないのです。


「誰か!!」


 彼女は走り出しました。しばらく進めば村があるはずです。


『待って! いま行っては――!』


 声は届きません。

 代わりなのか、道の先に見えた村の入口から大声が聞こえてきました。


「よ、妖狐族だ! まだ生きていやがった!」


 その一言で入り口に多くの人が集まります。おそらく傭兵と話を聞いた村人たちでしょう。

 彼らの手には、弓矢が握られていました。


「助け――」

「撃てッ!」


 飛んできた十数本の矢が、新たな私を貫きました。

 身体が矢の勢いで後ろに弾かれてそのまま倒れます。

 心臓や顔を貫いた矢から地面へと赤い血が流れていくのを感じました。彼女が見た絶望、受けている痛みは、私も共有しているのですから。

 迎えるのは、二度目の死。


『……なんと哀れで、惨めなことでしょうか』


 こんな姿になるために、妖狐族は作られたというのでしょうか。

 これではあまりにも可哀想です。

 誰にも愛されず、愛することもなく。ただ憎まれ、恨まれ、殺され続けるための存在。


 そこに価値はあるのでしょうか?

 そんな価値があっていいのでしょうか?


「……たく、ない」


『そうです、願いなさい』


「……き、たい」


『望みなさい』


「……たす、けて」


『いいでしょう。これは祝福、そして僅かな奇跡。

 あなたに授けましょう――青き瞳の力を』


***


 それから何十年、何百年と語られていくのは、妖狐族の醜い物語です。 

 妖狐族によって初めて滅ぼされた村は、一人を残して村人全員が死に絶えました。その姿は何かにもがき苦しむように、自ら皮膚を剥いでいたとのことです。

 残された一人は瞳を青くし、狂言と暴行を起こした末、処刑されました。負の感情が極限まで高まった結果、邪視に侵されたのでしょう。


 世界は瞬く間に邪視という新たな恐怖に汚染されていきました。

 いままで当たり前にあった負の感情が形として現れるのですから、当然と言えたでしょう。そして、感情の矛先は別の誰か、また別の誰かと向けられ、最後には妖狐族へ辿り着く。


 妖狐族のせいで邪視に侵された。

 妖狐族のせいで不幸になった。

 妖狐族のせいで人が死んだ。

 妖狐族さえいなければ。

 妖狐族さえいなければ。


***


 私は旅をしました。

 正確には、理である私と、妖狐族であるもうひとつの人格の旅。

 どれだけ歳を重ねても姿が少女のままの妖狐族は、様々な場所で恐怖の象徴として語られ、伝聞がさらに負の感情を高めていくのです。

 旅を続ければ続けるほど、妖狐族の危険は大きくなり、殺される回数も増えていきました。その度に私は彼女を蘇生させて旅を続けました。冒険者によって身体がすり潰され土に埋められ、蘇生も不可能なのではと感じた時は、全く知らない土地で新たな人格と共に現れることができました。


 妖狐族は死なない。死にきれない。

 それを知っているのは私と世界そのものだけでしょう。


 だからこそ憎んだ。

 残酷な世界を。

 一人に押し付ける仕組みを。


 それでも私は旅を続けました。人も魔物もいない場所でひっそりと暮らせば妖狐族は死なずに済むかもしれません。ですが私にも目的があります。心の奥にある想いの相手を探さなくてはいけないのです。それこそ理屈ではなく、感情でです。

 それに彼女たちを救うには世界そのものを変えないといけない。

 決意を改めた後、私は妖狐族の人格が何人目なのか数えるのをやめました。


 目指すべきは世界の再構築。

 ならば、世界を壊すだけの力が必要。

 九尾になれば世界の破壊は雑作もありません。それだけの歪みを邪視と妖狐族という関係は持っているのです。

 そして対となる支配の力。全てを喰らい、支配し、新たな形と誘う存在。どこかにあるはずのミトラスの力の欠片。それを手にした人物を見つけることが出来れば……。

 もし手にした者が、理を超えて残る想いの相手ならば――。


***


「ミトラスの使っていた青き瞳の力を見たことはあったが……。

 負の集約点となる妖狐族は所詮寓話の存在。信仰される神とは対象的な、憎悪される空想だと思っていたのだが……実在したとはな」


 目の前の男は黒い外套に身を包み、フードを目深く被っています。顔を晒すことなく、魔王城の玉座に座ってこちらをじっと見つめてきました。


 ミトラスの力の一つを握る男――レイ・ハーニガルバット。

 ハーニガルバット王国の王族の血を持ちながらも、その身分を隠して「名もなき魔術師」として生きた転生者。

 そしていまは魔族の創造主オールゼロとして密かに活動を進めているそうです。

 彼はかつて勇者であったミトラスと共に魔王を討伐した一人。しかし今の姿からは偉大さは微塵も感じられません。

 どちらかと言えば、私に近い匂いを発しています。


 執念と執着の匂い。


 残念なことに、彼に出会っても私の心の奥の感情は高ぶらなかったのです。

 この男は私の求めてた力を持たない。私の求めていた相手ではない。それだけははっきりしていました。


「あなたが望む未来と私が望む未来は、限りなく近いのではないですか?」


 全てではないですが、私は自分の目指す未来を語りました。

 歪な部分を修正し、正しくあるべき世界の再構築。


「……そうだろうな。女神ミトラスの消失によって生じた、本来なければならない要素が消えた世界。私は魔王と勇者を復活させることが、最大の修正になると踏んでいる」

「その結果として歪な部分と妖狐族が消え、世界が綺麗になると言うなら、協力しましょう」


 所詮上辺だけの協力関係です。

 しかし世界を修正しようとすれば、いずれミトラスの力が動く時がくる。それは新たな力の持ち主が誕生する可能性でもあるのです。

 もし勇者となり得る者、魔王となり得る者が転生や転移によって別の場所より誕生するならば、この行き詰った状況も変えられるかもしれません。


 この世界を一通り旅しましたが、私は感情の行き着く先を見つけることが出来ませんでした。もしかしたら、その相手は既にこの世界には存在しないかもしれません。そうなれば私はこの感情を抱いたまま妖狐族と生き続けなければなりません。


 それはあまりにも残酷です。


 転生者や転移者に心の相手がいる可能性に賭けて生き続けること。

 私が解放されるには、小さすぎて拙いものです。


「では、オールゼロ。あなた方に授けましょう。邪視の力を」

「いいだろう、妖狐族の少女よ。対価として、君に必要な情報と手を貸そう」


***


 魔王復活の糸口、そして勇者となり得る存在を探すため、私はさらなる旅を続けていました。

 オールゼロと協力関係を結び、さらに数十年が過ぎただろうという頃でした。


 気配がありました。

 新たな力の持ち主が生まれた気配。

 邪視という形で世界に干渉していたからこそ気付けたのでしょう。


 それからすぐ、オールゼロの作った一人であるアンセロが私の元まで来ると、勇者候補が召喚されたと教えてくれたのです。私は彼と共に王都へと赴きました。

 二人とも白いローブを身に纏い、目元は布で覆い隠しています。これは反邪視の集団が目を見られると邪視に掛かるという迷信から生んだ格好です。そもそも邪視は負の感情が表に出た形であり、この姿は逆に邪視の証である青い瞳を隠すのに一役買ってしまっているのですが、そこをありがたく利用させてもらっているのです。


「こちらに潜伏させている者から、第三王女が勇者召喚の儀式を執り行ったという連絡が入りましてね」

「わざわざ、私たちで確認を?」

「はい。残念ながらオールゼロ様に視覚を共有できるのは、私とラベイカとゾ・ルーの三人のみ。現在王都にいる者ではできません。なので、近くにいた私たちが直接赴く他なかったのです」

「理解しました。勇者の誕生は世界の歪みの修正にも関わるでしょう。私自身も、候補者達を確認したいと思います」


 世界に影響を与えるミトラスの力を持つ者がいる。その事実を隠して私は同行しました。わざわざあの男に教える義理はなかったからです。

 それよりも、全身が疼いて仕方がありませんでした。

 ついに、出会えると。


 ですが、小さな希望も早々に砕けました。


「あれが、勇者になり得る者達……?」


 誰かに見つからないよう、屋根の上から王城内の中庭にいた勇者候補達を眺めていました。どうやら訓練の途中なのか、程度の低い魔法を放っては、的に当たる前に消失させたりしていました。


「これらに、あなた含めオールゼロに作られた魔族は倒されるのですか?」

「いえいえ、これはこれは私も驚きです。この程度であれば上位の魔物で屠れるでしょう。私がいま作っているスカルヘッドゴブリンで足りますねぇ」

「王都のダンジョンに潜ったと聞きましたが……あのレベルで倒せるような魔物を追加するほど、大精霊は暇でもしていたのでしょうか」

「序盤はともかく、二十階層を過ぎれば難しいでしょう。ただただただぁ、報告ではでは、途中から魔物が出なくなったそうですよぉ? さすがに怪しいと感じて一度戻ってきたようですねぇ」


 彼らに力があるとするなら、考えられる可能性はキズナリストでしょうか。

 孤独な物にとっては忌忌しい力です。私の首にも数字が刻まれていますが、もちろん誰一人とも結んでなどいません。

 人数はいるのですから、キズナリストで多少なりとも強くはなれるでしょう。そこらの騎士や冒険者などは容易く凌駕できるかもしれません。

 しかしそれを踏まえても、この者たちが勇者へと昇りつめる可能性を見出せないし、そもそも魔物がいなければ力量もはかれません。

 

 彼らが潜った時点でモンスターが激減していたとなれば……ダンジョンの魔物を消したのは誰?

 

 最初に思いつくのはドラゴンの存在。地中を潜るドラゴンもいるのですから、何かしらの遊びで魔物を食べ尽くしたか。いくら何でも、ひとつのダンジョンの魔物すべてを食べ尽くせるようなドラゴンはいなかったはずです。

 他には隣にいる男か、他の魔族か。誰かが実験で魔物を使った可能性です。それなら説明があってもいいし、そもそもその状況が想定外なのは先ほどの説明から汲み取れます。


 ならば――ここにはいない別の存在?


 ふと隣を見ると、アンセロがニタリと笑っていました。こちらが探しているものの可能性を感じたのでしょう。それは私も同じでした。むしろそうでなければ困るのです。

 目の前にいる勇者候補たちはどれもがか弱い子供。見た目でいえば私もそうでしたが、内面も含めて、彼らは幼稚さしか感じ取れません。

 勇者候補の中に、想い人がいるかもしれない。そんな浅はかな希望を抱いた自分が愚かで極まりません。


 たまたま、あの気配の生まれた時期と重なっただけでしょう。


「ダンジョンを見に行きましょう。何か分かるかもしれません」

「では、ご案内致しましょう」


 屋根を伝いダンジョンの方へと向かう――その時でした。


「ッ……!?」


 あの気配を、感じ取ったのです。ピリピリと肌を伝う刺激が、神経を撫でる感覚が、近くにいると訴えかけてきます。


「如何されました?」


 アンセロが無表情で問いかけてきます。彼は気付けないのでしょう。


「……確認したいことがあります。あなたは先にダンジョンに向かってください」

「困りますねぇ。私だけ向かっても邪視に関わることではさっぱりですし、何よりあなたが直接見なければ――」


 私は青い瞳をアンセロに向けました。


『いいから言うことを聞きなさい』


 アビリティ――言惑


「……承知致しました」


 アンセロは屋根を伝い、一人でダンジョンへと向かっていきます。


 私は一度深呼吸をし、気配のした方へと向かいました。

 勇者候補の使っていた建物とはまた別の、少し小さい建物の中庭に降ります。

 こちらは異様なほど静かで、空気が少しだけ冷たいです。

 私は再度深呼吸をして乱れかけた息を整えました。


 私は目元を覆っていた布を外し、一点を見つめます。

 一番端の部屋。そこから気配を感じるのです。

 全身が震えるのを必死に抑えながら、一歩、また一歩と進みます。

 窓に近づくにつれ、動悸が激しくなります。

 心よ静まれ。脳よ冷静であれ。そう思っても、耳は心臓の音しか受け入れません。


 十数歩の歩みが、果てしなく感じてしまいます。


 でも、ここまで来た。


 何百年と旅を続けて。心に想いを抱え続けて。


 確信できる。


 その窓の向こうに。


 窓際に辿り着き、中を覗き込んで。
















「……ぁ」


 小さく声が漏れました。


 黒髪の青年が、ベッドの上で起き上がり俯いていました。

 その横顔を見た途端――心の奥が弾けたような気がしました。


「みつ、けた……」


 今にも叫んでしまいそうなくらい、全身が熱くなり、心臓が高鳴ります。

 両手で口を抑えて、嗚咽すら響かないように必死に殺します。

 でも、瞳から溢れる涙まで止めることは出来ませんでした。


 いた。本当にいた。

 ずっと探していた。

 何百年と心の隅にあった感情。満たされない人生の抜けた欠片。

 いま、全てが目の前にある。


 歩み続けてよかった。

 諦めなくてよかった。


 人生でこれほど幸せを感じた瞬間はなかった。


 この窓を開いて、飛び込めば。

 子供のように抱きつけば。

 あなた様に触れられる。あなた様の声が聞ける。


 手を伸ばそうとしますが、すぐに指先が窓に触れます。

 涙でぼやけた視界の中で、あなた様をじっと見つめて――


 ―――――。


 私の意識がふっと途切れたような気がしました。

 瞬きをの隙間を縫って視界の景色が変わってしまったのです。

 彼の姿は消え、四方が白に染まった世界。

 深層心理の奥底です。


 空間に浮かんでいたのは、いくつもの鏡でした。

 装飾は一切なく、ただ生み出されたといわんばかりの四角い鏡。本来であれはその一つ一つが可能性の未来を写し出すものです。

 しかし目の前に浮かんでいる鏡には一切何も写し出されていませんでした。それは妖狐族に未来がないと示唆しているわけではありません。


「道は既に、決まっているのですね」


 悟った時、いくつかの鏡が力を失ったように落ちてきて砕けます。

 私がどうするべきか決めたことで、いくつかの可能性が途絶えたのでしょう。些細なことです。この先にある結末は決まったのですから。


 私のすべきことは、変わらないのですから。


 私は一度目を閉じ、深呼吸をするかのようにゆっくりと開きなおします。

 視界は元に戻り、窓の向こうでは、まだ彼が俯いたままでした。

 虚ろな瞳の中に、私は微かな青色を見ました。


 邪視が紛れている。

 それは当然のことなのです。人は必ず負の感情を孕んでいる。この世界に来た時点で、負の感情に邪視が紛れ込むのは抗えないことです。そうでなければ感情が心の中で肥大化し心を殺してしまうのですから。 

 

 私が奇跡的に彼の存在に気付けたのは、意図せず邪視を発動してしまったからでしょう。彼の持つ神の力の欠片が何かしらの形で暴走したのかもしれません。

 私には見えます。その青のさらに奥に、闇よりも深い世界を変え得る力があると。

 あなた様は持っている。世界を壊し、再び作る力を。

 何者をも凌駕する。創造の領域を。

 待ち望んでいた! やはり私の抱く想いは正しかった!


 だから!


 だから……。



 高鳴る胸が徐々に落ち着きを取り戻し、吐き出しそうだった叫び声も腹の奥へと戻っていきます。


 まだ、まだダメなのです。

 いまここで、あなた様と邂逅するのは早すぎる。

 何も知らない、無垢な心と感情のあなた様に、邪視は強すぎる毒。

 あなた様には世界を知り、歪みを知り、残酷さを知ってもらわないといけないのです。


 新しい世界を選んで貰わないといけないのです。

 あなた様が世界を望まなければ意味がないのです。


 私はノックするように窓を軽く叩きます。そしてすぐに屋根へと飛び移りました。

 しばらくして窓が開かれます。

 彼は中庭をじっと見たままです。

 私はそんな姿を見つめながら、声が届くように静かに、はっきりと言葉を紡ぎます。

 

「奇跡、と言うべきか。運命、偶然、でもいい。それでも、あなた様に会えたことを、私は感謝したい」


 彼が微動だにしないのは、邪視の力が使われた影響でしょう。感情に霞がかかっているのです。


「世界はまだ青いですか?」


 問いかけると、彼は小さく頷きました。


「微かにですが、目覚めてしまったのでしょう」


 本当なら正面から彼を見つめ、瞳を見つめていたい。

 ですがいまは旋毛しか見ることは叶いません。


「しかしながら、時として些か早すぎます」


 私たちの出会いは、もう少し先であるべきなのです。

 大丈夫、道は決まりました。あなた様と私の出会いは必然になりました。

 ここで焦ることはありません。


「まだ、もう少しだけ、眠っていて欲しい」


 手の平に青い鳥を作ると、それが粒子となって空に昇っていくように消えていきます。世界の歪みに干渉し、彼の邪視を抑え込むためです。すぐに彼の気配から邪視が消えました。


「私も出会えるように歩みを進めてまいります」


 その為だけに、生きてきた。

 殺し続けて、生き続けた。


「あなたの傍にいられるように」


 私はあなた様を想う。

 今度は、あなた様に想われたい。


 愛しているから、愛されたい。


「どうかそれまでは」


 私のようにならないで。

 大精霊のようにならないで。

 オールゼロのようにならないで。

 世界の歪みに巻き込まれ、孤独を強いられる必要はありません。


 私が、愛し続けているのだから。


「どうかそれまでは、独りにならないで」



 後ろ髪を引かれる思いを振り切り、私は屋根の上を駆け始めました。

 誰にも見られぬよう気付かれぬように、静かに一つ一つの屋根を越えていきます。

 そして王都の中心にあるダンジョンの入口前で屋根から飛び降りました。


「お待ちしておりました」


 未だ私の魔法を受けたままのアンセロが奇妙な動きでお辞儀をしてきます。

 私は一度頷いてから指示を出しました。


「予定を変更します。私はオールゼロとの協力関係を切ります。

 これから私という人格は精神の奥底に封じ込め、本来の妖狐族を表に出します。彼女は人格の誕生と共に封印してあったので何も知りません。

 アンセロ、あなたは北の奴隷商を名乗り、少女を奴隷として連れ歩きなさい。そしていくつかの街で黒髪の青年を探し、私を売りなさい」


「承知致しましたぁ」


 意識の世界で見た未来。あったはず可能性と、それでも辿り着く一つの結末。

 最初に見えたのは、彼との出会い。


 連れて行きましょう。

 辿り着いてみせましょう。

 この醜くて歪な世界を壊し、あなた様と私のための新しい世界に。


 必ず、この残酷な運命を終わらせてみます。



 ■■■■■の■■■:end





























704**


「……空?」


 白い空だった。

 青はなく、どこまでも続く真っ白な空。

 雲に覆われてしまったようなそれが空でないと気付いた時、自分がどこにいるのかを悟りました。


「深層……心理」


 仰向けになった自分の身体は言うことを聞きません。

 ただ、徐々に軽くなっていく感覚が残っていました。


 とても長い夢を見ていたのでしょう。

 私が生まれてからのこれまでの旅。

 あなた様を求めて歩み続けた道。


 視線を横へと向けると、黒髪の青年が青い瞳を細めて私を見ていました。


 ――私は、あなた様に敗北したのですね。


「俺には必要ない。何も必要ない。

 ただ一つ、オウカの幸せだけがあれば……だから」


 あなた様の言葉は確かなものとなりました。

 私は力を使い果たし、もう現実へ戻ることもできません。オウカの意識が戻れば、私は消えてなくなることでしょう。


 あなた様の望む結末です。

 そこに私はいないのです。


 なんて無様で惨めなことでしょうか。

 長い年月の歩みが、ひたすらに焦がれた想いが。

 あなた様の一つの返事ですべて無に帰してしまった。

 何もない、いまの私には何もない。

 あなた様は私を必要としない。

 本当の意味で私は誰にも必要とされない存在になった。

 私が必要としたものは手に入らなかった。


「だからお前を殺した。さよならだ、理。

 オウカ救ってくれて、ありがとう」


 そう言い残して、彼の身体は粒子となって消えました。意識が現実に戻ったのでしょう。


 ……これで良かったのかもしれません。

 最後の一言で、救われてしまった気がします。


 私はあなた様を愛し続けた。

 そして愛されたいと願った。

 それが叶わぬなら死ぬのも良いでしょう。

 やっと終わりになるのです。

 終わることの出来なかった命が朽ちるのです。

 諦めがつくのです。

 あなた様に殺されて幸せです。


 ここで、ひとりぼっちで。


「……ああ、まだあなたがいましたね」


 視線の先に現れたのは、青い鳥。

 私の意識だけを飛ばす時に形になったもの。


「ねえ、青い鳥さん……どうしたら、あの方と一緒になれたのでしょうか」


 青い鳥はただこちらを見るだけで答えてくれません。


「ひととき、見たかったのです……幸せな世界を。あの方とずっと居られる世界を」


 溢れ出る涙を抑える力はありません。

 残された悔しさが、悲しさが、切なさが。

 愛しさが。

 ただ一つ、願わせるのです。


「お願いです、青い鳥さん。

 一度だけで、いいから……」


 幸せな夢を、見せてよ。















































































































「夢は十分に見たんじゃない?」


 そんな言葉が聞こえてきたのです。

 閉じかけた瞳を再び開くと、目の前にいた青い鳥は消え、代わりに誰かの素足が見えました。

 私は四肢の流れに乗るように視線を上へ向けます。

 私を見下ろしていたのは、背中まで伸びた透き通るような白金の髪を揺らす裸の女性。

 彼女は慈愛に満ちた笑みを浮かべて、言いました。


「もう一度、やり直す?」


 軽い口調で問いかけられた言葉の意味を理解できません。

 そもそも、彼女が誰なのかわかりません。


「あな、たは……」


「あ、そっか。記憶がないんだもんね!」


 彼女は小さく咳払いをすると姿勢を正し、目を細めてこちらを見つめてきます。

 そして先程の軽い口調から打って変わり、静謐で神秘的な声音で言いました。


「初めまして。わたしは盟友の神。名をミトラスと言います。

 残念ながらあなたは死んでしまいました」



 next:Badend

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