第0話 勇者オウカの大冒険:Lost end
*
何千回と繰り返す中で、あるひとつの可能性に気付きました。
「戻る地点が悪いのではないでしょうか?」
ツムギ様と私の関係、そして二人の方向性を大きく変えたのは、王都の学院で行われた赤竜ベリルとの一戦のあとだと……私は決め込んでいました。
しかし、何度繰り返しても、ツムギ様が犠牲になるという結末が覆らないのです。
行動を変え、発言を変え、思考を変え、前回と違う結果を望んでも、何一つ変わらない。
何が間違いなのかが、分からないのです。
そして、繰り返していくほどに記憶の損傷も発生します。
あの部屋に戻って傷を見なければ、何かを忘れている感覚に襲われ続ける。
だけど、過ちを見つけなければならない。
正しい選択を突き止めなければならない。
「少しずつ戻りましょう」
私は残った記憶を巡らせ、片っ端から自分の行動を変えることにしました。
分岐点として考えられた行動以外を細かく全て、です。
必要な結果はただ一つ。ツムギ様が勇者に刺される結末を阻止する。
そのために自分が何をすればいいのか。階段を降りる選択、大精霊に声を掛けない選択、王女様について行く選択。その一つ一つを見直す。
たとえ繰り返す回数が膨大なものであろうとも、ツムギ様が犠牲になってしまうのであれば同じこと。試行を重ねるしかありません。
「愚かなる時間を喰い滅ぼして。刻喰らい――」
***
私は理解していなかった。
試行を重ねることは、罪を重ねること。
時を繰り返すことは、罰を繰り返すこと。
私という存在は、ただの愚か者でしかない。
いつだったのかは忘れた。
でも考えたことがあった。
いっそ全て忘れてしまえば楽になれるのかもしれないと。
一回だけそう考えた。でもすぐに捨てた。
だけど、考えてしまったことが罪だったのかもしれない。
***
一つ一つ戻って繰り返す。
その度、記憶には傷が入る。
次第に何をしているのか分からなくなる。
身体と本能が覚えているのは、あの方が死んだら戻ることだけ。
死んだら時を戻れ。
死んだら少し前からやり直せ。
見たことある気がしたら失敗だ。
死んだ。戻れ。
死んだ。戻れ。
死んだのは――誰?
次に戻ったのは教会の中だった。
前回と違う地点ということだけ分かった。
次に戻ったのは黒い男の前だった。
前回と違う地点ということだけ分かった。
次に戻ったときは知らない女に首を締められていた。
前回と違う地点ということだけ分かった。
次に戻ったときは火の海の中にいた。
前回と違う地点ということだけ分かった。
なのに分からない。
何が正解なのかが分からない。
私は何をしている?
私は何者だ?
私とは――
ここは――
あなた様は――
***
何かの運命によって私は女神に出会い、いまの場所に妖狐族として転生してきた。
私に与えられた指名は、無我の魔王を殺すこと。
だけど、どうしてだろう。
心の中にはずっと、一人だけ大切な人がいた。
本能で愛している人がいた。
あなたの顔を見た時、剣を握った腕が震えたのは。
心の中が満たされたのは――。
「……そうだ、私は、守るために、ここに来たはずだった」
目の前で死んでいるこの人が誰なのかわからない。
だけど、確かに覚えている恋心があった。
目の前で死んでいる魔王は、私が求め続けていた相手だ。
この人のことが好きだ。愛している。
そうはっきりと言える。確信が持てる。
「なのに、あなた様のことを何一つ思い出せないのです」
想い続ければ奇跡が起こると信じていた。
でも、相手を想うのにはいろんな思い出が必要だ。
声を思い出せば。
表情を思い出せば。
仕草を思い出せば。
温もりを思い出せば。
想いだけでどうにか出来ると思っていた。
だけど、本当に想いしか残っていないというのが、これほどまでに残酷で、醜くて、苦しいとは思わなかったのだ。
名前も知らない想い人へ。
何十年、何百年と愛し続けました。
何千回、何万回と会いに行きました。
空っぽの恋心でも、答えてくれますか?
何も残ってない恋慕を、受け止めてくれますか?
私にあなた様を救えるのでしょうか。
「……世界が」
ふと、気付きました。
「世界そのものが違えば」
傷だらけで穴だらけの記憶の片隅に、誰かの言葉があります。
『お前が悲しんで、泣いて、そんなことをする世界に居てほしくはなかったんだ 』
「こんな世界じゃダメなんです」
辿りついた私の答え。
これから行うことを、あなた様は許してくれるでしょうか。
その先にある結末を、私は私のまま受け入れることが出来るでしょうか。
今までに無いほど膨大な魔力によって喰らう者の力を使えば、その分だけ大きな代償が生まれるはずです。
でも、それでも
「あなた様を救いたい!」
これほどにも
「愛しているのだから!」
あと一度だけ。あと一度だけでいい。
あなた様の笑顔を見せてください。
「世界の時を喰らい尽くせ」
上空に巨大な時計が出現し、針が逆回転を始めます。
「この歪な世界を壊すために、始まりの時まで私を戻して。
アビリティ――刻喰らい!」
世界は黒に染まる。
時間は自我を失う。
私は虚空へ消える。
全てをゼロにして。
*
「……終わっちゃったね」
彼女は小さな声でボヤくと、過去でも惜しむかのように空を見上げた。
夜空に煌めく満点の星空が、地上の小さな私たちですら照らしてくる。
まるで舞台の照明のようだった。残された役者は二人だけで、最後の大役を務めた魔王もすでに事切れていた。
舞台で唯一立っている彼女は白銀の鎧に身を包んでいたが、兜だけを外すと、汗か湿り気かを払うように首を左右に振った。鎧の奥から出てきた白金色の長い髪が揺れ、星の光を吸い込んだかのように煌びやかに反射していた。
「終わった……の、ですね」
「うん、何もかも、終わっちゃった」
限界まで力を使った影響で地に伏せながらも嬉しさを噛み締める私とは違い、彼女はどこか寂しげな様子だった。
「なぜ、喜ばないのですか?
魔王の討伐、それが勇者であるあなたと、あなたに付いてきた私たちの使命だったではありませんか――ミトラス」
そうだ。ここに来るまでに多くの命を犠牲にした。
友を、仲間を、弟子を。
私のことを想ってくれた人でさえ。
「アンセロも、クラヴィアカツェンも、この森を見つけるまで多くの魔族と戦ってくれた。ラベイカは自らの命と引き換えに精霊王を倒し、聖域から魔王城まで繋いでくれた。十の竜と呼ばれた存在すらも倒し、そして魔王を討ち取った」
それだけの犠牲がなければ、この結末にはたどり着かなかった。
勇者と魔王の対決という物語を終えることはできなかった。
なのに、どうして。
「そんな……」
勇者は、つまらなそうな表情を見せるのか。
「だって」
彼女は倒れたままの私に視線を向ける。
青い瞳がじっとこちらを見て、答えた。
「これでゲームクリア。この世界に意味はなくなったんだもの」
「…………は?」
何を言っている?
ゲーム? クリア?
それは――私が元いた世界の言葉だ。
「魔王が魔物を跋扈させ、人々を恐怖に陥れ支配する世界。唯一魔王を倒せるのは勇者と呼ばれる存在のみ。とてもシンプルでしょ?」
子供のような表情で、自慢げに口にする勇者。
いや、だからなんだと言うのか。
ここは紛れもなく現実だ。決してゲームなどではない。
人々が生を全うしている。個々が個々の人生を抱えている。
どこにでもある、はずの、現実だ……。
それが、彼女にとってはゲームだと言うのか?
神ならば世界まるごと「
「君なら理解できるわよね、レイ?」
私の名を呼び問いかける彼女の姿に神々しさなんてない。
ずっと一緒に旅してきた勇者で、一人の女性で。
私が……。
「ふ、ふざけないでください!」
ボロボロになって動かない身体を無理やり起き上がらせ、私は怒気を孕んで叫んだ。
「世界を守るためにみんな戦ってきた。この世界に生きているかこそ成し遂げた。
それを遊びだと、ただ魔王を倒せば終わりだと言うのですか?
世界は生きている。そこに人々も生きている。ひとつひとつの始まりがあり、終わりがある。
ゲームなんて括りじゃ終わらせられないほど、膨大な人生が広がっている。
人間を侮辱しないでください!
ミトラス! 世界はあなたのおもちゃじゃない!」
最後に身体が悲鳴をあげて、私はその場に崩れた。
私自身だってもう時間が無い。魔王は強かった。共に戦う仲間がいてもなお、勝てる確証が持てないほどだったのだ。
持てる力を尽くして戦ったのだ。
だから、これで満足だと。
世界が平和になって人々の生活が続くのだと。
そう思わせて欲しい。
そう願わせて欲しい。
純粋で、単純な、ハッピーエンドを。
「おもちゃ、だなんて思っていないよ?」
ミトラスは不思議そうな顔をして首を傾げる。私の言いたいことが何一つ伝わっていないのだ。
彼女はおもむろに左手を上げると指先を首元に添えた。そこには数字が刻まれている。仲間が皆死に、すでに契約者は私しかいないキズナリストだ。それをまるで埃でも払うかのようにすっと撫でると、赤黒い稲妻が小さく光り、数字がゼロを示した。
何が可笑しかったのか、ミトラスは「ふふ」と小さく笑い声を漏らして笑みを向けてきた。
「まあでも、わたしのやりたいことは終わったわ。だからもう、わたしがこの世界にいる必要はない。
あげるよ、レイ。この世界を」
そう言って彼女は右腕の人差し指を、高く天へと突き上げた。
すると、指先から光が上空へと放たれる。
「空っぽになった世界。君の名前にぴったりじゃない。
そう思うでしょう――
「私は……」
私の口が反論を紡ぐよりも先に、光が空へと到達し空を覆う。
そこから流星のようにいくつかの光が地上へと降り注いだ。
同時に、鐘の音のような大きな音が響き渡る。
「何か混ざったね……まあいいか。もう関係のないことだし」
ミトラスの言葉に、視線を空から戻す。
彼女の身体は光を帯び、足元が粒子状に変わっていた。
消えるのだ。それだけは分かった。
「ミトラス! 私は――!」
「知っているよ、レイ。君はわたしのことが好きだったんでしょ?
でも、わたしにとってこの地に生きるものは全て子どものようなもの。
君の示す愛は親に覚えるそれと同じ」
ならば、どうしてその子ども達を見捨てようとする!
「笑いなさい、レイ。いまこの世界の一片が君のものになるのだから。
神に至る力を手にするのだから」
頭上を指さされ見上げる。
降り注いでいた光のひとつが私の方へと迫って――落ちた。
弾けた光が私の全身を覆うと、焼き尽くすような熱が全身を襲ってきた。
「がっ!? ああああああああ!?」
助けを求めるようにミトラスに視線を向ける。
彼女は嘲笑を浮かべているように見えた。
「さようなら、レイ」
「ミトラスッッ!!」
伸ばした腕が溶けていくようだった。
視界も意識も空白になった私は――。
*
白い壁で作られた聖堂の中で、一人の少女が祈りを捧げるように手を組み膝をついていた。真っ白な修道服の様なものを身に纏い、身長以上に長い金の髪は流れるように少女の周りに広がっている。彼女が頭を垂れる先の壁には一枚のステンドグラスが貼られており、外の光を吸い込み空間を照らしていた。
聖堂内では、少女と同じ格好をした何人もの女が囲うようにして立ったまま両手を上へと向けて伸ばしている。皆、形さえちがうものの、少女と同じ金色の髪をしていた。
ここは天空に潜む
中央の少女の前に一人の女が立つと、声を張り上げた。
「かの大精霊アルベリヒが勇者に討たれ、我々は道標となる王を失った。
故に、ここに新たなる大精霊転生の儀を執り行う」
聖域は魔王城へと繋がる唯一の道である。そこで生活しながら魔王城までの守護者を担っているのが魔族の妖精だ。彼女らは一律に金髪碧眼で人の女性のような姿をしており、体格の差と髪型で個々の区別をしている。
本来、聖域には妖精よりひとつ上の存在である精霊が存在する。全ての妖精をまとめあげ先頭に立つ長の役割を担っていた。
しかし数日前に勇者とその一行が魔王城へ攻めるために聖域へと現れた。精霊は守護者としての役割を果たすために勇者たちと戦い、死をもって敗北した。
精霊が討たれたことで守護者としての役割は失敗。他の妖精たちは勇者一行が魔王城へ向かうのを止めることはできなかった。
ただ、魔王が勇者を返り討ちにすれば問題はない。妖精たちはまた守護者として新たな勇者が来た時に備えなければならない。そのために新たな精霊を妖精から選ばなくてはならなかった。
彼女たちが満場一致で次期大精霊と決めたのが幼い姿をした妖精。その名をクィと言う。妖精の体格の差はあくまでも個性の範囲であり、年齢や強さとは全く関係のないものだ。人間という種族からすればか弱い幼女に見えるクィであったが、実力は前大精霊を上回るのではないかと噂されるほどであり、精霊になる条件のひとつとされるアトゥラティア最上層までの踏破も既に終えていた。
「妖精クィよ。魔王様への祈りを捧げ、新たなる精霊としての命を受けよ」
「はいなのですよー」
クィは組んでいた両手に力を入れて「むむむ」と眉に皺を作りながら祈り始める。魔王への祈りと謳うが、種族転生はこの塔に組み込まれた魔王の術であり、祈りは起動条件でしかない。力んだところで祈りが魔王に届くわけではないのだが、代わりに床一面に紫色の魔法陣が浮き出た。
「クィよ。思い浮かべよ。そなたの精霊としての姿を。その力を。然るべき契約を」
「理想の姿はお姫様。然るべき契約は王子様」
何言ってるんだこいつ、とクィの前に立っていた妖精は思ったが、儀式の最中なので口にはしない。きっと、新たな王都ができたからと連れていった時に見た王女の姿が気に入ったのだろう。
ただ、そんな願いをしても姿かたちが変わるわけではない。儀式はあくまでも種族を変えるためのものだ。もし種族が変わらないなんてことがあれば、別の妖精を選ばなければならない。
無事に転生してくれと祈りつつ、妖精は最後の言葉を発した。
「選ばれし者ならば、魔王様の天啓を受けよ!」
魔法陣が紫から白色へと発色を変える。
同時に、どこからともなく、巨大な鐘の音が響き渡った。
瞬間、クィの中では大きな変化が現れる。
「ふぉおおお!?」
まるで脳内に雷でも落ちたかのような轟きが聞こえ、全身に激痛が走り回る。
「て、天啓なのですよー!?」
それが自身の種族がより上位のものへ変化した感触なのだと確信した少女は、床に流れていく長い金の髪を大きく揺らして顔をあげ――
べちゃり。
温かい液状の何かがクィの顔にかかった。
途端に興奮していた表情は消え、大きな目が細められる。
「……他は誰もなれなかったのですねー」
小さな手の平で軽く顔を拭う。べっとりとくっついたのは真っ赤な血だった。彼女の顔だけでなく、長い髪や衣服にも血は付着していた。
クィが立ち上がり聖堂の内部をぐるりと見渡す。
儀式のために参加していた妖精は一人も残っておらず、そこにあったのは真っ赤な血溜まりだけ。
クィは理解していた。
自分が大精霊になったことを。
契約したのが世界そのものであることを。
響いた雷鳴は脳内の幻聴ではなく、この部屋に大きな力が流れ込んだ時の音であったことを。その力に他の妖精が押し潰されたことも。
全て理解出来る。仕組みを理解している。
いま彼女の中には新たな世界の姿があった。
「魔王様がお亡くなりになり、ミトラス様もどこかへ行ってしまったのですねー」
クィは小さく呟いてから出口へと向かう。
魔王もミトラスも、この世界を覆すほどの力を持っていた。その二人がいなくなり、ミトラスの力の一部を授かったクィは、現状自分に近しい存在がほとんどいないことを少しだけ寂しく思った。
塔から出ると、明るい光の下で多くの妖精が集まっていた。
否、彼女らはもう妖精ではない。新たな魔物である「エルフ」として定義されたことを、クィは当然理解していた。
何十人といるエルフ達はクィが出てきたことに気付くと、一斉に跪いた。ただし、全員がちらちらとクィの顔を見て表情を強ばらせている。すぐに一番前にいたポニーテールのエルフが立ち上がった。
「クィ様、大精霊になられたのです、よね……? その血は……」
「そうですねー、一応なったみたいですよー? これは近くにいた妖精の血ですねー」
「まさか……他の妖精たちは?」
「全員弾けて死にましたー」
クィの返答に、他のエルフたちが騒めく。どうやら彼女たちにも何か異常事態が起きていることは察しがついたらしい。ポニーテールのエルフが腕を横に大きく振ると、全員がまた黙った。
「儀式で死者が出るなど聞いたことがありません! い、一体何が起こったというのですか!?」
「クィが精霊になって、あなたたちはエルフになったのですよー。
それだけのことですよー」
「エ……エルフ? いや、そういうことではなく!」
エルフから焦りにも近い怒気を孕んだ声を受けて、クィは「うーん」と首を傾けて悩むような顔をする。
「直接理解した方が早いですかねー?」
パンッ、とクィが軽く手を叩くと、エルフ達が一斉に呻き始めた。
「ッッ!?」
あまりにもひどい頭痛に、立っていたポニーテールのエルフも膝をつく。
痛みに耐えられなくなったエルフは大きな悲鳴をあげながら次々と倒れていった。
「おしまいですよー」
もう一度クィの手が叩かれると、エルフ達の頭痛が止む。
しかし殆どの者は意識を失っている。残っているのは集団一番前にいたポニーテールのエルフと、一番後ろにいたストレートロングのエルフだけだった。二人とも頭痛のせいか肩を大きく揺らして息をしている。
頭痛に耐えた結果か、それともクィの与えた影響だったから。髪から金の色は落ち、片方は白に、もう片方は黒へと変貌していた。
「はーい、ルーちゃんとリーちゃんはおめでとーなのですよー。
今日から二人は精霊なのですー」
「な、な!?」
白髪へと変貌したルーと呼ばれたエルフは、理解が追いつかないといった様子で動けないでいた。
黒髪に変貌したリーと呼ばれたエルフは限界だったのか、ついに意識を失って倒れた。
「じゃー汚れを落としに行くのですよー」
ひと仕事終えたかのように満足気な笑みを浮かべたクィは、二人を放置し川へと向かう。身体中についた血を洗い落とすためであった。
しばらく歩いた場所に小川が流れており、クィは衣服を着たまま飛び込む。
「ふぃーなのですよー」
身長よりも長い髪を川の流れに任せて放置し、顔を何度か沈めたりしていた時だった。
「およー?」
不思議な気配に首を傾げなから、クィは周囲を見る。エルフたちとは全く異なる、たぶんここには本来いるはずのない気配。その正体が森の奥からゆっくりと歩いてきた。
裸の女。
しかし、その見た目はクィの記憶にない種族だった。
肩まで伸びた桃色の髪からもエルフでないことは明白。加えて頭の上には猫人族よりも長くて大きな獣耳、後ろには犬人族よりもふさふさとした尻尾が垂れ下がっていた。
「…………」
「…………」
言葉を発さず互いにじっと見つめ合いながらも、クィは契約した世界から情報を探し出す。
見つめてくる青い瞳について該当する存在は、一つしかなかった。
「おー! あなたが世界の歪み、妖狐族なのですねー」
見つけた知識は、世界そのものに嫌われ、負の終着点となった新たな種族。
世界の変貌とともに生まれた妖狐族の少女。
クィは川から飛び出すと、身体を大きく左右に振って水気を飛ばし、更には風の力を起こして瞬時に全身を乾かした。
とてとてと小走りで妖狐族の少女に近づくと、両手を掴んではぶんぶんと上下に振った。
「初めましてなのですよー。新たな命の気分はいかがですかー?
でもどうしてこんな場所に?」
「…………?」
妖狐族と呼ばれた少女は小首を傾げた。何を言われているのか理解できないといった様子だった。その反応にクィは「む?」と眉間に皺を寄せる。もしかしてと思い、対応を変えてみることにした。
「言葉は理解できていますかー?」
「……はい」
「それはよかったですー。では、あなたは自分が妖狐族だってわかっていますかー?」
「……いいえ」
「お名前はー?」
「……分かりません」
予想通りで想定外の回答に、クィは素直に「あらら!」と驚いた。
クィは大精霊として世界と契約したが故に、この世界が新しい形に生まれ変わったことも、その変化で生まれた歪みを目の前の妖狐族が担っていることも理解していた。なのに当の妖狐族はそれどころか、自分が誰なのかもわかっていない。
「あー、でもでも、いまさっき生まれたなら当然なのですかねー」
彼女が新たな存在として生まれたのであれば、自分のことを何も知らないというのは当たり前かもしれないとクィは悟る。
「でもでも、世界の新たな理の一つを担っているのに、おかしな話ですよねー?」
「理……?」
もしここで生まれたというのなら、なぜここなのか。どうして赤子の姿でないのか等の疑問も残ってくる。だがそれらについての情報が世界から出てこなかったクィは、世界の領域外で組まれた理であるのだろうと決めつけた。
「そうですねー、とりあえずあなたの名前は
「……それが、私の名前……?」
「そうですよー。名前がないと不便ですからねー。
理ちゃんは世界の歪み、負の感情を受ける存在です。世界のあらゆる生き物、世界そのものから嫌われるのですよー」
「そうなの……ですか」
理と名付けられた少女は少しだけ俯く。思わぬ反応に、今度はクィが首を傾げた。
「嫌われるのは悲しいですかー?」
「いえ……疎まれる存在であることは、なんとなく理解しています。ただ……」
「ただ?」
理は顔を上げて、白く光るだけの空を見つめながら呟いた。
「何かが……とても大切な何かが、思い出せないのです」
瞳は記憶の奥底を覗くかのように、遠い目をしていた。
クィは訝しげな表情を浮かべる。
「生まれたばかりなのにですかー?」
「はい……心の奥にあるのです。大切にしないといけない、誰かを想う気持ちが。
誰かを愛して、尽くしたい感情が。
きっとその誰かに関わる大切な……何かがあったはずなのです」
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