第249.5話 レイミアの夜這い大作戦 下 「ベッドで」
深い海の中。
真っ暗な世界は、しかし何かに包まれるように温かい。
身体は宙に浮いたかのように揺らぎ、意識はどこか遠くを目指して潜り続ける。
次第に俺という人格が戻ってくる。感覚が神経を逆流し、つま先の形を思い出したところで、浮遊感は消えた。
これは夢だろうか。
それとも、意識の最奥部だろうか。
どちらでもいい。早くここから出してほしい。
「何をそんなに逃げたがっているんだ?」
目の前にいるのは、俺だ。
ただ懸念していた姿ではなかった。
今の俺と変わらない、鏡に映したような。
いつも問いかけていた相手の姿だった。
「ここは精神の中じゃないのか?」
声は普通に出た。が、目の前の俺は薄ら笑いを浮かべる。
「半分は間違ってないよ。ただお前は思ったんだろう、『ここが精神の世界ならば、幼い頃の姿をした自分がいる』とね」
その通りだった。
今日の練習で教わったとおりなら、ここに現れるべきは幼い姿の自分であり、決して鏡写しの自分ではない。
「その答えは簡単だよ。お前がそれを拒んでいる。それだけさ」
「……半分の間違いは?」
「お前が拒んだ結果、ここはまだ精神世界の入口だということだ」
目の前には、ひとつの扉があった。
「紡車紡希は問いかけ続けた。お前は誰だと。
そして少なくとも、幼い頃の自分は自分でないと。
逃げるための偽りは必要ないとした」
「……そうだ。もう逃げる必要はない。あの頃の俺は必要なくなった。いま必要なのは、罪を背負うことの出来る紡車紡希だ」
「それは妹のためか?」
「自分が楽になるためだ」
「らしい答えだ。
どうやったって、もうお前は愛されない。
お前を愛せるのはお前だけだ。だから愛されようとした過去を捨てた」
「代わりに必要なお前が生まれたと?」
「『ツムギ』はお前。罪を背負う『紡車紡希』は俺というわけさ。
ここから先は俺が守ってやろう。紡車紡希という男が何者なのかを覗き込まれないためにな」
目の前の俺は笑みを崩さないまま告げた。
ふと視界は黒く染まる。
意識が完全に覚醒したのだと理解し、目を開けた。
薄明かりの灯された部屋だろうか。丁寧な模様の描かれた天井が目に入り、全身はなんとなく寒いことから状況を察する。
風呂場で意識を失った俺は裸のままベッドに運ばれたのだろう。
もちろん運んだのは、犯人なのだが。
「目が覚めたかい?」
俺を見下ろしてくるレイミアが視界に入り込む。黒い薄手のネグリジェを身に纏い、対象的な白い肌が際立っている。髪は降ろされたままで、艶やかな毛先が俺の頬を僅かに撫でた。
「寒いんだが」
「倒れたところをそのまま運んだからね。部屋は少しばかり温かくなるよう魔法を掛けているよ」
「自分で仕掛けておいてよく言う」
「一応介抱もしたのだよ?
本当に元気がないのか確かめるために、舐めたり、つついたり」
「え、待って何の話? 俺寝てる間に何されたの?」
「大丈夫だよ、まだ先の方しか味わってないから」
「先とか奥とかの問題じゃないよね?」
意識のない間に何をされたのかすごく気になる。が、これ以上追求すると負けそうなので話を本題に戻す。俺は一度大きく息を吐いた。
「冗談はともかくとして……どういうつもりなのか、一応弁明の機会を与えてやろう」
「おや、随分とご立腹のようだね」
俺の静かな怒りにも動じず、レイミアはくつくつと笑う。愛おしいものを見つめるような視線を俺の胸元に向けながら細い指先を這わせてくる。
「なに、ちょっと気分の良くなる香りを浴場に漂わせ、神経を敏感にする薬の練り込まれた洗剤で身体を洗ったまでさ」
「洗剤もかよっ!?」
香りだけだと思ったら、さらにひと手間加えていやがった。
「精神魔法を使った後は特に効果が大きい。肉体とはまた違う、精神的疲労があると言えばいいかな。おかげで随分と心地のいい体験ができただろう?」
「おかげで変な夢を見るはめになった」
「それは精神魔法を使った影響だね。防衛本能として現れる幼い自分でも見たかのい?」
「……まあ、そんなところだ」
実際には別の自分を見たのだが、それをレイミアに語る必要は無いだろう。
あれは俺にとってあまり触れてほしくない部分だ。もしレイミアが俺の精神に入るようなことがあれば、あいつが追い出してくれることに期待するしかない。
「初体験の感想はどうかな?」
「変な言い方をするな。それに精神に干渉する魔法なら以前に使ったことがある」
「それは残念だ。アビリティは個々が手にする才能みたいなものだから、精神魔法に近いものがあっても仕方ないね」
「話が逸れてきたな。それで、結局こんなことをして、お前の目的はなんだ」
「ふふ、なに簡単なことさ。ツムギくんと一晩を共にしようと思ってね」
すっ、とレイミアの両手が俺の上半身を滑っていく。腹部から首元までを十本の指が流れたせいで、慣れない感覚が神経を伝ってきた。
「私に身を委ねてみないかい?」
「委ねる?」
「いまの君は酷く不安定だ。それは、自身の精神に深く入ったことからも確かな事実。なら、その悲しみを少しでも和らげることができるかもしれない」
そっと耳元で囁かれる。
その情景に、俺は既視感を抱いていた。
「君は邪視を使ったオウカくんを……いや、使わせてしまった自分が許せないんじゃないかい? 自分のせいだと責めて嘆いているのでは?
その感情を、私にぶつけてみないかい?」
レイミアが上半身を起こし、両手の指を俺の指に絡ませる。
「私を慰めに使ってもいいのだよ?」
「お前は……」
『ご主人様、私奴を慰み者にしていいんですよ。』
「お前も……」
俺は右手のレイミアの指を解き、拳を強く握り締めると、ゆっくりと持ち上げた。
こいつも、オウカと同じように俺のことを。
――しかし、俺はその拳を振るうことはしなかった。
持ち上げられた拳を解き、手のひらを彼女の頬に重ねる。
気付いてしまったのだ。
未だ優しく握られ続けた左手。彼女のは僅かにだが震えていた。
「間違えたのかもしれないな」
「……どういう意味だい?」
独り言のつもりだった言葉にレイミアが首を傾げる。その表情はどこか寂しげというか、不安を孕んでいる感じだった。
俺は上半身を起こすと、そのまま彼女の背中に右腕を回し肌を密着させる。
自分の顔がちょうどレイミアの耳元と重なり、肌から肌へと温かさが直接伝わってくる。青い湿った髪からいい香りがしてきた。
「やっとその気になってくれたのかい?」
「ばーか。怖いくせに余計なことしてるんじゃねえよ」
「ふふ、初めてというのは何でも怖いものさ。だから優しくしておくれよ」
「だからしないって。……でも、ありがとう」
レイミアはきっと、俺が相談した時から異変に気付いていたのだろう。
「俺は今のオウカを受け入れられない。傷つけてしまったのは俺の失敗だ。
だから、元のあいつを取り戻したい。それで犠牲になるものがあったとしても」
「……そうか。それが、ツムギくんの受け入れる罪なんだね」
レイミアはそれ以上何も言わず、ただ優しく、母のように俺の頭を撫でてきた。
「あっ……」
彼女は小さく息を漏らし、そしてクスリと笑った。
「私を女として見てくれたということだね?」
「まあ、さすがにこれだけされたら……」
「ツムギくんの興奮が冷めない内に、一緒に毛布へ包まろうか?」
そんな甘い囁きに――しかし俺は乗らなかった。
さらにいえば、興奮は一瞬にして失せ、代わりに警戒心が高まる。
「旦那様、それは些か早いかと」
怒気を孕んだ声。
そして、自分視線の先にある薄暗い部屋の中から、殺気が迫ってきた。
俺は咄嗟に立ち上がると同時にレイミアを抱きかかえ、毛布を引きずったままベッドから跳ねるように降りると、先程まで二人のいた場所に小さなナイフが数本刺さった。
「なんだ!?」
「お覚悟下さい」
「ラセンさん!?」
闇から姿を現したのは、メイドのラセンさんだった。しかし、いつも冷静沈着そうな瞳は、明らかに嫌悪と怒りで満ちている。
「おい、レイミア、これはどういうことだ」
「貴族にとって夜の営みは結婚相手としかしない。
婚約段階では本当はダメなのだよ」
「まさか……風呂のも、さっきのも」
「ふふ、私の独断専行だ」
ラセンさんからお構いなく飛んでくるナイフを避けながら、窓を破って庭に飛び出た。すぐに裸のレイミアに毛布を被せ、お姫様抱っこし直して走り出した。
あれは本気で殺しに来てる! あと裸寒い!
「レイミア、ラセンさんに事情を説明できるか!?」
「それは、構わないが……」
「なんだ?」
「いや、まさかこの私がお姫様抱っこされる日が来るとはね」
「不服だろうが――」
「いや、素直に嬉しいよ」
頬を薄く赤らめて、子供のような笑みを浮かべるレイミア。
「……やめろよ、こっちが恥ずかしくなる」
素直な反応は調子を狂わされる。
だが、こんな奴だからこそ、俺は今回のことを相談できたのかもしれない。
何を使ってでも取り戻すと思っていた。だが相手がレイミアでなければ、こんなに直ぐに動くこともできなかっただろう。
アレの件が終わった後、事情くらいは説明しようと思った。
「ツムギくん、もう少しだけこの時間を楽しんでもいいかい?」
「ったく、しゃーねえな!」
それから数十分ほど、俺はレイミアをお姫様抱っこしたまま、ラセンさんの攻撃を避けたりして庭を駆け回り、しまいには裸のまま結構本気で戦ったりした。
***
ツムギくんとの戯れを過ごした翌朝。
まだ霧の濃い時間帯に彼は我が邸宅を後にした。
朝特有の寒さが好みではない私は、ガウンを羽織って門扉まで出て、宿へと戻るツムギくんを見送った。
私の小さく振る手を彼は見もしない。そういう男だ。
「よかったのですか?」
「……なにがだい?」
隣で付き合ってくれていたラセンが問いかけてくる。私は問いの内容が分かっていながらも聞き返した。
「精神魔法の目的が彼の奴隷であることは明白。となれば、目的が果たされた後、どこかで必ず婚約は白紙にされると思います。誰から見ても明らかです。あの男はレイミア様を選ばない」
「だろうね。彼は一途だ」
「ああいう一途な想いも自分に向けられれば気持ちのいいものでしょう。ですが極端なものは周りに不幸を撒き散らす」
「災厄に愛されている彼が不幸を撒き散らしたところで大差ないだろう。
なんだい、ラセン。私の心配をしてくれているのかい?」
冗談交じりに問いかけると、ラセンは悲しそうな表情を浮かべて答えた。
「レイミア様、自ら不幸を歩む必要はないんですよ?」
私は何かを言おうとして少しだけ口を開き、しかしそのまま噤んだ。
ラセンは優しい人だ。昔からずっと私のことを見てきている。それは生まれた時、奴隷だった時もだ。
しばらくラセンと視線を交わし、ようやく私は言葉を吐いた。
「そうだね……でも、もしもだ。もしも彼が私を選んでくれる日が来たらって思うと――少しだけ心躍るのだよ」
「彼が……勇者候補で、強力な力を持っていて、レルネー家の未来を良き方向に導いてくれると、そうお考えなのですか?」
「どうだろう……彼はそういうのが好きじゃないみたいだ。
どっちかといえば、森の奥でひっそりと暮らすのが好きだと思う」
実際、彼は大きな力を持っているのも関わらず野心というものがまるでない。権力とか支配とか、そういった人間の欲望的な部分を彼は追求しようとしていない。
だからなのだろうか。権力争いの貴族ばかりを見てきた私にとっては、彼が異質に見えているのだろうか。
それとも、いつか振るわれるかもしれない強大な力に怯えて、媚びへつらっているだけなのだろうか。
「自分の感情も分からなくなる。恋というものは恐ろしいね」
「私は嬉しく思いますよ。レイミア様が人並みの恋をすることが」
「そうだね。私も当主に相手を決められて結婚するものだとばかり思っていた。
もし奇跡でも起きて、彼が魔王復活を阻止し、その後に私を選んでくれたなら……私は嬉しさのあまりに泣き喚いてしまうかもしれない」
「ご冗談を。レイミア様が泣いたのは産まれた時だけではありませんか」
「そうだったね。私がラセンから最初に教えられたのは、泣かない方法だったね」
二人揃ってクスクスと小さく笑う。
産まれたばかりの頃、私は奴隷で、ラセンは奴隷の教育係だった。今ではそんな過去も笑い合える仲だ。
「まあでも、年頃の女の子らしく、少しくらい乙女心で夢見ても罰は当たらないだろう」
「それならレイミア様、もしも彼と私が同時に窮地に立たされていたら、どちらを救ってくださいますか?」
「もちろん、君だよラセン。今のところはね」
「そうですか」
そんなふざけたやり取りをし、また二人で笑いながら屋敷へと戻った。
「そうさ、彼はきっと目的を果たすだろう。
だから私と彼が結ばれるなんて『もしも』は、ありはしないのさ」
***
全て嘘だ。
オウカという存在はいなくなっていない。彼女は私の奥深くで眠っている。
本来、邪視に代償なんてものはない。
邪視は選ばれた者だけが使える力。持つべきものが手に入れる力。それ以外のものには害として、悪として働くだけだ。
だからオウカが邪視を使ったことで、何かを失うなんてことはなかったのだ。
これは私の悪戯だ。
これは私の悪意だ。
これは私の嫉妬だ。
私が何百年と待っていた存在。あの方がすぐ側にいる。
だけど私はまだ触れられない。触れてはならない。
彼の悲しみが、怒りが、その感情全てが閉ざされて行き場を失った時。
その先で私は手をさしのべなければならない。
あの方が私に「依存」しなければ、世界崩壊と再構築の条件は整わない。
だから今回の嘘は大きな失敗だった。
あの方は私を否定し、拒絶した。
あの方が求めているのは妖狐族でも奴隷でもなく、「オウカ」という少女そのものだった。
あの子は所詮、世界が歪みを隠すために作り出した存在だ。最後には消えてなくなる存在だ。
それをあの方も理解してくれれば、その時は必ず私を選んでくれる。
「だから……」
私は一度死にましょう。
何度だって死にましょう。
彼の否定と拒絶を受け入れて、オウカの心の奥深くに潜んでいよう。
「まだ、その時ではないのです」
自分が何者だったのか、その記憶を失って、それでもあなた様への想いだけが残っている。
数百年待ち続けた、いまさら少しばかり伸びても我慢出来る。
「お慕いしております」
何度でも想い続けます。
何度でも愛し続けます。
忘れることはありませんでした。
だから。
たとえこの世界でなくても、自分でなくなっても、生まれ変わっても。
あなたと共に。
「ひとりぼっちには、させません」
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