鏡の先のAF:チョコレート・アンハッピー
私は空をあまり見ないようにしている。
この世界に来てからは、特に夜空は見ない。テレビの向こう側で彗星とか流星群の話題が上がっても耳を傾けない。
私はもっと素敵な夜空を知っているから。
いくつもの願いが輝きとなって空へ流れていく。かつてソ・リーでみた投星祭の流れ星は瞳の中に焼きついたままだ。その光景には何にも代えがたい、大切な人の穏やかな表情が添えられているのだから。
だけど、どれだけ嫌がっても、空というものは視界に映る。諦めがついたのは今の状況になって三ヶ月後くらいだっただろうか。
「曇り……か」
諦めたついでに曇り空を好きになった。雲が空を覆い尽くせば星は見えない。薄暗い夜空に輝くものはない。それが妙に落ち着く。
窓に映る自分の姿は黒い髪に黒い瞳。元の姿の、夏の頃の毛色に近い。大きな耳と尻尾が無くなったことには未だ慣れないけれど、これもあの方が与えてくれた姿なんだと受け入れた。
わずかに窓を開く。冷たい風が暖を取ろうと忙しなく入り込んでくる。鼻を抜ける寒気が白い息となって口から吐き出される。
「さすがに降ることはなさそうかな」
雪が降らなさそうなのを確認して窓を閉める。降りそうなら、こちらへ向かっているあの子を駅まで迎えに行こうと思っていた。
「こんにちはー」
どうも余計な気遣いだったみたいだ。寒さに少しだけ震えた声が玄関の奥から響く。私はすぐに向かうとドアを開いた。
「オウカさん、遊びに来たよ」
「いらっしゃい、結ちゃん」
紡車結。
私の大切な人の……ツムギ様の妹だ。
***
「あー、オウカさんまた紡希お兄ちゃんの服着てる」
「家の中だと、これが一番楽だから」
私が来ている服は灰色のルームウェアだ。ツムギ様が一人暮らしの間、この部屋で着ていたものである。
私が借りている部屋は古くてボロ臭いアパートの一室。だけど、ここはかつてツムギ様が一人で生活していた場所だ。
ツムギ様は異世界に召喚されて、そしてこの世界に戻ってこなかった。
だからといって今まで使っていたものが無くなったりはしない。私とツムギ様は一年ほど一緒にいたけれど、こっちの世界では二週間くらいしか経っていなかったというのだから尚更だ。
「もっと可愛いの着たほうが似合うって!
私のこの制服着る?」
「汚しちゃったら悪いよ」
「まあ、オウカさんがそれでいいってなら仕方ないけど……。
それよりもー、お外寒い! コタツちゃん~!」
高校の制服姿で身体をぶるぶると震わせていた結ちゃんは、靴を脱ぐとすぐにコタツに向かう。
彼女の脱ぎ散らかした靴を揃えてからコタツへ戻ると、結ちゃんはすでにコタツの中に入りこみ、顎を上に乗せて幸せそうな表情を浮かべていた。
「いいねぇコタツは。国宝ですよ。文化が作り上げた叡智の結晶ですよ。
コタツと結婚出来たらどれだけ幸せなことか」
「冬には我が身を温めてくれて、夏は押し入れで静かにしてくれるから?」
「そう! 煩くないし必要な時だけこの寂しい心を温めてくれる。
彼氏にするならこういう人がいいよね」
結ちゃんにとっては無口なのもポイントが高そうだ。
「さてさて」
そう言いながら彼女はコタツの上に買い物袋を乗せる。
勉強のために図書館に行って、その帰りに遊びに来るとは聞いていたけど、何か買ってきたらしい。
いくつかの調理器具と、数枚の小さな黒い板。
「チョコレート?」
「せっかくだし、手作りチョコでも作ろうかと思って」
そう言えば、この世界ではもうすぐバレンタインだ。
私の世界には無かった行事なのですっかり忘れていた。
「オウカさんも一緒に作ろうよ。勉強の息抜きに甘いものは大事なんだよ」
「そうだね。じゃあお手伝いしようかな」
「うう、ばいばいコタツちゃん。大丈夫、きっとまたすぐに会えるから」
名残惜しそうな表情でコタツから出る結ちゃんに、思わず吹き出しそうになった。
***
「さて、道具は一通りあるね」
「わざわざ買ってきてくれてありがとう。あんまり道具おいてないから」
「オウカさんもこれを機にお菓子作りも始めようよ! 楽しいし美味しいよ!」
二人で腰エプロンを身につけてキッチンに立つ。
まずはチョコを細かく刻んでいく所からスタートだ。
「まあ、作るって言っても、簡単な生チョコだけどね。オウカさんでも大丈夫だと思う」
「焦がさないようにするね……」
「黒目玉焼きのことは忘れようねオウカさん……。
あの頃に比べれば信じられないくらいの上達だよ! やっぱ一人暮らしを強いられる環境が育てたのかな……」
元の世界でも料理なんてしなかった私だ。当然異世界に来たからと言って特別なスキルが発動するわけでもない。嫌な思い出は糧にするしかない……黒い目玉は固かったです。
こっちに来てからはアビリティもスキルも使えなくなった。体の中に感じていた魔力の温かさも空になったようにまったく感じられなくなっている。
この世界には魔法といった概念はあっても、それを人々が使うことはできないらしい。
「最近は二人で料理することもなかったけど、やっぱ楽しいね」
「受験だもん、仕方ないよ」
私がこの世界に来た時は高校一年生だった結ちゃんも、いつの間にか受験生だ。
実兄が異世界に飛ばされ行方不明になり帰ってきたのは見知らぬ女だという中でも、戸惑うこともなく受け入れてくれて、尚且つ自分のこともちゃんとやれる立派な子だ。
姉妹でもなければツムギ様という繋がり以外で赤の他人でしかないけれど、私は結ちゃんのそんなところを尊敬している。
「前期……だっけ? も、近いんだよね?」
「まあね。でも、ここまで来たら慌てても意味ないし、メリハリとご褒美はしっかりしないとね!」
刻んだチョコレートをボウルに入れて湯せんにかけると、鍋で温めておいた生クリームを一気に注ぐ。
「アビリティ――ガナッシュ! なんちゃって」
そんなおふざけをしながら、結ちゃんはボウルのチョコレートを泡だて器で混ぜていく。
元の世界でもスキルの使えない子供が冒険者の真似をしている光景を見たことがある。私自身もツムギ様のようなスキルが使えないかと形から真似して練習したことがあった。ダメだったけど。
「ミトラス世界にはチョコレートはなかったの?」
「私はみたことないかな」
ミトラス世界というのは結ちゃんがつけた名前だ。私のいた世界は地球みたいな名前がついていない。各地域には治めている人の名前があったけれど、大陸全体に名称は存在していなかったと思う。それだとずっと「異世界」になってしまうので、結ちゃんが私の話した内容から神の名前をとったのだ。
「こっちと似たような食べ物もあったんでしょ?」
「甘いものだと、パフェがあったかな」
「チョコはないのにパフェはあるんだ……」
「チョコ以外のものが乗ってたよ。クリームもあったし。他にはゼリーとかかな。でもこっちのとは違って、破裂するんだけどね」
「うわ、さすが異世界って感じだね」
「やっぱこっちの人からするとそんな感想がでるんだね。
ツムギ様も二度と食べないってすごい剣幕で言ってたもん」
話していけばあの頃の光景はすぐに浮かんでくる。そんな些細な思い出に小さく笑みを零した時だった。
結ちゃんが、透き通りそうな黒い瞳を笑わせずに向けてきた。
「オウカさんはなんで今も、紡希お兄ちゃんをツムギ様って呼ぶの?」
私の視線は咄嗟にボウルのチョコレートへと戻る。反射的に逃げてしまった。
結ちゃんからすれば当然の質問だったかもしれない。
この世界では奴隷制度なんて過去の産物だ。平和な場所では人を無理やり従わせることを良しとしていない。
それとも、彼女にとって兄である存在が敬われるのは違和感があったのだろうか。
どちらにしても私は言葉だけでも詰まらせまいと、口を開いた。
「私は、ツムギ様の奴隷だから……」
「最後に奴隷は止めさせてくれたんでしょ?
だったら今は対等な立場なんだよ?」
「……慣れてるのもあるし」
「そんなの、慣れちゃダメだよ。
オウカさんは紡希お兄ちゃんのことが好きなんでしょ?
好きな人の名前を、そんな呼び方でいいの……?」
あっさり言葉が詰まった。
考えたこともなかった。ツムギ様の他の呼び方なんて。
最初はご主人様だった。だけど仲間になってくれと言われて、それでツムギ様と呼ぶようになったんだ。
仲間になってくれと言われたときは本当に嬉しかった。
ただの奴隷でしかなく他に何も持っていない私を、ツムギ様は必要としてくれた。
世界に必要のないと言われた私をあの方だけが必要としてくれた。
それだけで救われた。だから他に何も望まなかった、はずなのに。
「私は……」
『ところでだ、オウカ』
『なんですか?』
『ご主人様ってのはどうなんだ?』
『えーっと、旦那様、のほうがいいですか?』
私はあの時、本当はなんと呼びたかったんだろう。
探るように、口元に触れて。
「あっ」
指先がチョコレートで汚れていたことを思い出す。
「オウカさん」
結ちゃんに名前を呼ばれて顔を向けると、口の中に何かが入ってきた。
滑らかな感触だけを残して抜けていくそれを目で追いかけると、結ちゃんの指だった。
「味見! ごめんね、変なこと言っちゃって。
呼び方なんて人それぞれで、お互いがそれでよければいいんだよね」
「……結構な、ビターだね」
結ちゃんの差し出したチョコレートはそんな味だった。
その後は、溶かしたチョコレートをパットに移して冷蔵庫で固めたら、包丁で切り分けてココアまぶして、完成。
「生チョコ! おいしぃ~」
結ちゃんがさっそく一つ口に運ぶと、満足げに両手を頬に当てていた。
私も一つ食べてみる。くちどけの良い、おいしいチョコレートができた。
「あとは買ってきた箱に詰めて、リボンでデコレーションして完璧!」
そこそこ多めにできたチョコを、結ちゃんの買ってきた二つの箱に詰めた。
「じゃあこれは、はいオウカさん」
「え、私?」
「うん、友チョコ!」
「……好きな人にあげなくていいの?」
「そんな人いないもん~。この悲しき女のチョコレートを是非貰ってください!」
「そんな悲観的な……でも、ありがとう。
じゃあ、もう一つは私から結ちゃんにだね」
「えへへ、これでなんとかチョコを貰ったと友達に報告できるよ~」
にへらと笑う結ちゃんに、私も自然と笑みを返していた。
***
明かりの消えた部屋で、並べた布団に入り夜を過ごす。
結ちゃんは時々、この部屋に寝泊まりすることがある。最初は一人で生活する私を心配してのことだったみたいだけど、いまでは友達の家に遊びに来るような感覚だと思う。
布団の中で横を向き、服の袖を鼻に近づける。僅かにだけど、まだツムギ様の香りがする。隣で歩いていたあの方の姿が思い浮かぶ。
無表情な顔、冷たい目、ぶっきらぼうな口調、時々見せる悪ふざけ。
最後の言葉、重ねた唇、鼻の感触。僅かな息の音と温度。
自分の唇に手を当てれば、真っ白な世界の最後の一瞬が脳裏を駆け巡る。
ツムギ様があの後どうなったかは分からない。
私はただ、祈り続けるしかない。
そして想い続けるしかない。
背負い続けるしかないんだ。
「ツムギ……様」
小声であの方の名前を呟く、仲間になったあの日からずっと使っていた呼び方。
『好きな人の名前を、そんな呼び方でいいの……?』
「ツムギ……。ツムギさん。ツムギくん。
ツムギくん……」
なんとなく、しっくりときた呼び方を反芻する。
しているうちに――目元が熱くなっていた。空気に冷やされた涙が目尻から耳へと流れていく。
たぶん、呼び方なんてどうでもいいんだ。呼び方一つで何かが変わることなんて望んでもないし、期待してもいない。
なのに、届かない相手の名前を呼ぶことが、こんなにも寂しいだなんて思わなかった。
名前を呼んで、振り向いてもらえる。反応してもらえる。笑ってもらえる。
それで「オウカ」って呼んでもらえる。
当たり前だったやりとりが、こんなにも愛おしくて、苦しくなる。
「ぅ……ぅ……」
私は涙を零さないように、服の袖で顔を覆い続けた。
***
オウカさんは一人で生活している。彼女が借りている部屋は、かつて紡希お兄ちゃんが暮らしていた場所だ。
服も荷物も残されたまま、本人だけが別の世界にいる。
最初は偶然だったのだろう。自分の意志ではなかったはずだ。
でも、お兄ちゃんはその世界で一年を生きて、そして共に歩んでくれたオウカさんの幸せを選んだ。
お兄ちゃんは自分の世界に帰る選択を捨てたんだ。
暗い部屋の中。闇に慣れてきた目は外から入ってくる街路灯の僅かな光を頼りに、部屋にあるものを捉える。
丁度、机の上に置かれたチョコレートの箱が目に入った。
その隣にはオウカさんがこの世界に来た時、唯一持っていた赤頭巾も置いてある。
彼女はあれを、紡希お兄ちゃんとの大事な思い出だと言っていた。
私には思い出のものなんて、ひとつもないのに。
……今日オウカさんに言ったことを、私は悪いと思っていない。
これは明確な悪意で、純粋な妬みだ。
私にとってお兄ちゃんは唯一の肉親だった。私を悪から救ってくれた正義だった。
今の私でいられる全てだった。
だから、お兄ちゃんが私を遠ざけようとも離さなかった。離したくはなかった。意地でもお兄ちゃんに生涯を捧げていくつもりでいた。
それはもう叶うことのない願いになってしまった。
紡希お兄ちゃんは私なんかよりも大切なものを見つけて、そして当然のように守ったんだ。
私の憧れ続けていたあの頃のお兄ちゃんのままだった。
雰囲気が変わろうと、口調が変わろうと、態度が変わろうと。紡希お兄ちゃんの本質は何一つ変わっていなかった。
それを支えてくれたのは、オウカさんだった。
『だから、ありがとうだよ』
かつて彼女に伝えた言葉は本物だ。
だけど、同時に許すことはできないのだ。
私の愛した紡希お兄ちゃん。
紡希お兄ちゃんの愛したオウカさん。
だからといって、私がオウカさんを愛することはできないんだよ。
「ぅ……ぅ……」
背後でオウカさんの小さな泣き声が聞こえてくる。
彼女は夜になると、寂しがりの子供のようによく泣いている。声は精一杯抑えているけど、静かな闇にはよく響いてしまう。彼女のそんな姿は、部屋によく寝泊まりに来ている私だけしか知らないだろう。
オウカさんは小さくて弱い心を、それでも紡希お兄ちゃんが残してくれたものだからと抱え続けている。
逃げ出して、投げ出して、全部忘れて新しい人生を歩んだっていいのに。
きっとそれを紡希お兄ちゃんも望んでいるはずなのに。
オウカさんはそれを罰なんだと背負い続けている。
だから私はオウカさんを愛することはない。
紡希お兄ちゃんを裏切り続ける彼女を愛するわけにはいかない。
「オウカさん、紡希お兄ちゃんはね、ビターチョコが好きだったんだよ」
私は夜に溶けてしまいそうなほど小さな声で、絶対に聞こえないように教えてあげた。
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