Others
第281話分岐 奴隷は僅かな幸福を夢とみるか
私は生まれた時から奴隷だった。
貴族と妾の間にできた子は、貴族にとって邪魔でしかない。だから殺すか奴隷に落とす。
私は、そういう立場にあった。
最初に覚えさせられたのは、声を上げて泣かないことだった。
私が声を上げて泣いたのは生まれた時だけだろう。
「お前には魔法の才がある。レルネー家の養子になるつもりはあるか?」
一生関わることもないだろうと思っていた実父からそう言われ、私はすぐに頷いた。
そして、レイミア・レルネーになったのだ。
***
「いや、もうレルネー家の人間であることも無理か」
思い出した過去の光景に、思わず苦笑いが漏れる。
なぜ今更あの日のことなど考えてしまったのだろう。
ふと空を見上げる。
灰色の雲に覆われた北の街は白い息が零れるほど肌寒く、厚い茶色の外套を着ていてもなお静かな冷気がまとわりついてくる。
「奴隷か」
同じ外套を着た隣の青年が、商店街の隅を見て呟いた。
そうだ、こんな過去を思い出したのは目の前の奴隷市場を見たせいだ。
幾人の子供が見窄らしい服を着せられ、値札を首から掲げさせられ、俯いたまま立っている。
足元には白い雪が残っており、その上に裸足で立たされている彼らは足を小さく震わせていた。
「ツムギくんは奴隷市場を見るのが初めてかい?」
私は隣の青年――ツムギくんに問いかける。
黒い髪に、この大陸とは少し違った顔立ち。
目元は白い布で覆われている。その姿は世間一般で言うと反邪視教の恰好だ。邪視を嫌うものは目元を覆い隠して呪を受けないようにしている。そのような状態でも一応視界良好らしい。
「ああ、俺はオークション形式のしか見たことないから」
「シオンくんのところかい?
まあ、南や王都の方は制度がしっかりとしていたからね。
北は奴隷にまだまだ厳しい環境みたいだ」
その光景を彼がどんな思いで見つめていたのか私にはわからない。
ただ身に纏った雰囲気は、どこか遠くを思い出しているように思えた。
きっと、彼女のことを思い出しているのだろう。
彼の奴隷であり、最愛の相手であった少女。
妖狐族のオウカくんのことを。
***
いまでも、あの日の選択を間違いだと思ったことは無い。
『そんなのは……自分を愛せていない愚か者のやり方だ』
ツムギくんが何者かに洗脳されていた時、私は精神魔法を使って彼の中に入った。
『愛されたい……そんなの誰だって思ってるよ』
彼の精神。心の中にいたツムギくんはそう語った。
その時、私はふと気付いたのだ。
そんなことを言う彼は、愛されるということを知らないのではないだろうかと。
『帰れ。ここはお前の――』
『愛されたいなら、私が愛してやる』
『ッ!?』
『ツムギくんも、心の中の君も、全部私が受け止めてやる。
愛され方を知るといい』
その時にツムギくんの記憶は戻らなかったが、自身の状態に疑問を抱いた彼はその後に自力で記憶を取り戻した。
だから私は、あの日に彼を愛すると誓ったことを間違いだとは思わない。
しかし、それでも考えてしまうのだ。
もしもあの時、彼の記憶が戻らなければ、他の勇者候補と協力できたのではないだろうかと。
彼ら全員でオールゼロと戦えば勝てたのではないだろうかと。
記憶操作の原因がヒヨリくんであったことが分かった後、ツムギくんは勇者候補と関わらないようになった。
私たちと一緒にラセンを殺した相手を探してくれて、結果として街の洗脳を企てていた精霊ゾ・ルーを滅ぼすことができた。
だがその間に魔族が攻め入り、学院は壊滅していた。
精神魔法の祖、アンセロ・レルネー。
次元魔法の先駆者、テオス・ネメア。
時を授かりし巫女、レイン・ケリュネイア。
オーク絶滅の火種となりし双子、ラベイカとクラヴィア。
百面相の騙し猫、クラヴィアカツェン
調べてみれば、全員がかつて魔王を倒したと言われるパーティーの一員だった。
ならばそれを創造できるオールゼロもまた、勇者の仲間であったが逸話だけが語られている名もなき天才魔法師その本人なのだろう。
更に、王国直属騎士団団長のバルバット・レートロードは勇者を作り出すために送り込まれた魔族だった。それがこちらの陣営に混乱を招き、彼に懐いていた勇者候補諸君が絶望の淵に立たされたことは明白だ。
魔王復活の阻止のために動いていたツムギくんがその状況を見過ごせるはずもなく、私達は学院に向かい、そしてオールゼロたちと戦った。
結果は敗北だった。
ツムギくんが最後まで立ち向かい魔族を殆ど倒したが、最後の相手となったオールゼロの能力は強大だった。
ボロボロになり立ち上がることもできなくなった彼を、私はこの身で庇うことしかできなかった。
たとえ自身が朽ちようとも、ツムギくんを――最後の希望を守ろうと。
そう考えたのはオウカくんも同じだった。
しかし彼女は、ツムギくんだけでなく私までをも庇った。
私たちの前に立った彼女は、一人でオールゼロの魔法を受けた。
アビリティ――
闇が全てを、オウカくんを飲み込んでこの世から消した。
少女の死。
それがツムギくんの心をどれだけ傷つけたのかは、目の前で見ていた私ははっきりと覚えている。
そしていまもずっと耳の奥に残っている、彼の悲鳴。
彼は三日三晩泣いた。
喚いた。叫んだ。嘆いた。
オールゼロたちは目的が果たされたと立ち去り、残された私たちの目に映ったのは地獄の始まりだった。
ツムギくんのアビリティが暴走し、王都を飲み込んだのだ。
それはただ悲しみをまき散らしたような、八つ当たりにも似た何か。漆黒が生まれ、陽を隠し、闇に侵され続けた王都は一瞬にして滅んだ。木々は枯れ、建物も地もすべて砂となり、人々は骸となって魂を失った。
この結果は彼も望んではいなかっただろう。
それでも、同じく失った者たちは彼を許しはしない。
だから私たちは王都から逃げ出したんだ。
あれから数か月。
世界には魔王の復活が告げられた。
同時に勇者となったコウキくんが魔王を倒すという宣言も。
今頃彼らは、オールゼロが待つと言った焔の森に行っているだろうか。
無事に魔王を倒し、平和を取り戻せただろうか。
私とツムギくんは、そんな彼らの物語から外れてしまった。
もはや関わりを許されない位置にいる。
***
古びた宿屋の一室。北にはあまり旅人が来ないのかこうした面でもあまり充実していない。木窓がちゃんとついているだけ良かったと考えるべきだろうか。
「……痩せすぎかな?」
湯浴みを済ませた私は薄手の寝間着に着替えたあと、壁に掛けた鏡の前で自身の姿を確かめる。
花紺青の瞳と髪色。いつも三つ編みにしている髪はまだ湿り気を帯びている。
以前よりも、自分の姿が細く、小さく見える。
ただやつれただけかもしれないし、もしかしたら心にある自分への感情が形になって出てきているのかもしれない。
「そんなことないだろ」
湯浴みを終えたツムギくんが上半身裸で、首に湯上り布を掛けたまま後ろに立つ姿が鏡に映る。
彼の両手が私の肩に乗り、優しく髪を梳いてくる。
その瞳は、青い。
彼がアビリティを暴走させたときに発現したものだった。
邪視。それは人に強大な力を与える代わりに人格を破壊し狂人と化させるという。彼が日頃、目元を布で覆い隠しているのはこれが原因だ。反邪視教の人々が行っている対策は、同時に邪視教が日常に紛れる手段ともなっているのだった。
ツムギくんが暴走したのは王都での時のみで、あれからは一度もおかしくなったことはない。異世界から召喚された勇者候補であるから、もしかしたら邪視を抑えられるだけの力を持っているのかもしれない。
「レイミアは最初に出会った頃よりずっと綺麗になった」
「そうかい? でも、ツムギくんがそういうなら、素直に受け止めておこう」
鏡に映った自身の頬が少しだけ紅潮しているのをみて、何も誤魔化すことなく私はツムギくんの方へ顔を向ける。
彼も私の意図に気付いて、顔を近付ける。
唇が重なり合い、私は肩に乗せられた彼の手に自身の手を絡めた。
暴走した後のツムギくんは会話もできないほど衰弱していた。
喉は腫れ、眼は充血し、食事も睡眠もまともに取れないほどだった。
ただひたすらに想い人の名を呟き続ける、壊れた魔法陣仕掛けの人形のようだった。
そんな姿を見ていられなかった私は、貴族の刺客から逃げながらもツムギくんの介抱を続けた。
人生を捧げるつもりでいた。
何度も声をかけ、手を繋ぎ、頭を撫で、唇を重ね。
慰めになるならとこの身を何度も捧げた。
その甲斐であってほしいと思わずにはいられない。でなければ、いまツムギくんが普通に話しかけてくれて、普通に笑いかけてくれて、普通にキスをしてくれるこの時間に罪悪感が芽生えてしまうから。
自身の愛が報われたのだと、そう思いたい。
寒さから逃げるように二人でベッドに潜り込み、指を絡め、身体を重ねる。
『私と結婚し、旦那様に――つまり、レルネー家次期当主になる気はないかい?』
『は? やだよ何言ってんの』
いつからだろう。
健全な男の子であれば、女を抱きたいと思うのは当然かもしれない。
私はただ性欲の吐き口になっているだけかもしれない。
だけどいまは、彼に求められていることがこの上なく嬉しい。
僅かにでも幸福と感じて嬌声をあげてしまうのだから、
甘い時間が過ぎ、彼の寝息が聞こえてきた頃、私は上半身を起こす。
部屋の隅には蓋のされた光明石のカンテラがある。そこから洩れる明かりが、ツムギくんの顔を微かに照らす。
静寂の微睡むこの時間に見ることのできる彼の寝顔。安心しきった子供のような、不安を抱えたようにどこか寂しそうなそれがたまらなく愛おしい。
起こさないよう、彼の髪を静かに撫でる。
――そんな時だった。
「ぅッ!?」
込み上げてくる嘔吐感。
私は直ぐにベッドから降りる。しかし寝間着は脱ぎ捨てたままだ。宿の洗面台は廊下でこのまま出るわけにもいかない。
ツムギくんを起こしてしまわないように、私は部屋の隅で縮こまる。
吐き気の抑え方は、奴隷の時に学んでいる。与えられた食べたものを吐き出して主を不快な気持ちにさせないための方法だ。
声を漏らさないように喉を抑えながら耐えた。
これは、ただの嘔吐感ではない。
ようやく落ち着いた時、私は無意識に自身の下腹部を撫でていた。
ツムギくんと私の……。
いつかこの日が来るかもしれないとは思っていた。
もし来てしまったらどうすればいいのか、まだ考えていなかった。
だけどいまは。
「ふふ……」
つい口元が綻んでしまう。
こんなにも幸せに感じてしまえるものなのか。
すべてを失った彼から、私ばかりがもらってばかりで。
それでも嬉しいと思ってしまう。
どれだけ罪深かろうとも――。
翌朝、このことを打ち明けるべきか私は悩んでいた。
言いたい気持ちはある。
しかし私たちは逃亡している身であり、もっと遠くへ行かなければ安心することはできないだろう。
それに、北に来た理由はツムギくんの目的のためだ。
宿屋の建物の前で私は彼を見つめる。
ツムギくんは向かいの商店の店主にこの先の道を尋ねていた。
一通り情報を集め終えた彼は、相変わらずの感情の乏しい雰囲気で、しかし声音は少し高めで言った。
「この先の雪山にあるかもしれない」
彼の目的をはっきりと聞いた訳では無い。
しかしこの逃避行の中で、彼は妖狐族についての情報を集めていた。
もしかしたら、まだどこかでオウカくんが生きているのだと信じているのかもしれない。
私の理解できない域で、彼だけは何かの可能性を見出しているのかもしれない。
だから私は彼を否定しないし、最後まで付き合うつもりだ。
もう追手も来ないだろうか。
彼の力が全ての刺客をなぎ払ってきた。貴族も王族も追うだけ無駄だと理解しているはずだ。
いまは彼が彼の目的を成すための旅になっている。
だから、彼の満足するまで……。
まだ、その時ではない。
そう思いながら私は彼に微笑みを返しつつ、自身の中にある未来に手を添えていた。
***
街を出てしばらく歩いた先に、目的の雪山への入口はあった。
二人きりで一面が白の道無き道を進んでいく。
彼は無言で歩き続ける。
私はその後ろをついて行くだけだ。
「ここら辺は、魔物が出ることはないのかい?」
空から少しだけ降り注ぐ雪を見上げながら、私は場繋ぎのような質問を彼へと投げかける。
「魔物はほとんど見ないらしい。
だけど山頂にはドラゴンが住み着いてるとか言っていたな」
「竜か……もしかして、あれのことかい?」
上空を指さす。冬空の中に紛れて何かが飛んでいるのが分かった。
小さな点であったそれは次第に大きくなり、そして姿をはっきりとさせる。
白銀の鱗を纏い、大きな翼を広げた生物だった。
瞳は片側が赤く、片側が緑。蠢く二つの尾。
頭には二つの獣耳があり、そこから頸部にかけて金の鬣が靡いていた。
竜と言うよりは、翼の生えた巨大な獅子である。
その生物が、こちらに視線を向けていた。
いや、完全に見ている。否応なく威圧感が全身を駆け巡る。
それは急降下すると、翼を大きくはためかせて私たちの前に降り立った。
積もった雪が舞い上がり、視界を覆う。
風圧が私たちを襲い、ツムギくんの目元につけられた白い布が空を舞っていった。
『この竜であるペイン様がわざわざ来たというのに、頭を垂れぬとは愚かなる人間よ!』
人の言葉と共に放たれた咆哮が空気を揺らし雪を吹雪に変貌させる。しかし、そんな光景はベリルやエレミアを見てきたので驚くことはなかった。
「……ペイン・ゼーディー・ドラゴン」
「ツムギくんは見えるのだったね」
彼が呟いたとおりであれば、目の前の魔物は十の竜のうちの一体ということになる。
『ほう、竜であるペインの名を知る者がいるとはな!
この名を知ったものはすべて死を享受しているはずだが』
「自分から名乗っておいてよく言う」
ツムギくんは両手を口元に持ってきて、手を温めるように白い息を吐いた。
「お前になんて興味ないし、邪魔だ」
そう呟いた彼の背中から、影が這い出てきた。それはゆっくりと成長する木のように、次第に大きさを増していく。
『魔法か! 気高き塔の分身であるペインにそのような稚拙なものは――』
「アビリティ――絆喰らい-
ゆっくりと蠢くそれが竜の頭上を覆い、飲み込んだ。
『な、なんだこれは!? 竜であるペインが抜け出せないだと!?』
「静かに眠れ」
ツムギくんが前方に腕を伸ばし、手のひらを握る。すると竜を飲み込んだ影が一瞬にして小さくなり、音もたてずに消えた。
「ツムギくん……」
「もうすぐだ、行こうレイミア」
彼がこちらを見て僅かに笑みを浮かべる。
その青い瞳はさらに闇を強くしたように、どこか虚ろで何を見ているのかも分からない。
彼がアビリティを使えば使うほど、その様子は顕著になっていく。
まるで最低限の仕草だけを教えられた人形のように。
***
竜を退治した後から風が強くなった。飄々とした雪道は視界が悪く、このまま進めば前も後も分からなくなってしまいそうなほどだ。
顔に張り付こうとする雪を厚手の手袋で拭いながら、私はツムギくんを見失わないよう目を細めて姿を捉える。
彼は自身の周囲に火球を発現させて視界を広げていた。
だからと言ってこのまま進むのはさらに危険が伴うだろう。
「ツムギくん、今日はもう」
「あったぞ」
私が戻ろうと提案するのと同時に、ツムギくんが声を張り上げた。
彼が見ている先には、大きな洞窟の入り口があった。
彼の足が早くなり、自然と私が雪を踏む間隔も短くなる。
洞窟の中は吹雪く外とは打って変わって静謐さに包まれていた。
ツムギくんが火球を発動してくれているおかげで足元ははっきりとしている。周囲には何もない。自然に出来た洞窟と言った感じだ。
こんな場所が本当に目的の場所なのだろうか?
そんな疑問を抱きつつ、私は茶色の外套を脱いでべったりと張り付いていた雪を払いのけた。
ふとツムギくんの方を見ると、彼は風魔法で雪を飛ばしながら、しかし視線は全く違う方向を見ていた。
「どうかしたのかい?」
「風が……」
風魔法を発動しているのだから当然だろうと言いたいところだが、彼が言いたいことは別だろう。
たぶん、発動した風魔法の流れと別の風が流れているのだ。
それはつまり。
「この先に、風の通る場所がある……」
それはまだ、奥に何かががあるかもしれないということ。
「……行こう」
私たちは再び外套を羽織り直して奥へと向かった。
見つけたのは小さな穴。人ひとりが立って歩けるくらいには高さがある。そして奥には道が続いていた。人工的ではなないにしても、何かが有ると思わせるほどには不気味だった。
ツムギくんは躊躇うことなくその道を進む。私は後ろからついていくだけ。
もしここに彼の目的のものがあれば。
もしかしたら――
道が終わり、大きな空間にたどり着いた。
「……あった」
彼が小さく呟き、そして火球を増やして周囲に張り巡らす。そうしたことで、内部がどうなっているのか私の目にもはっきりと映った。
――墓標。
石で作られた十字架の物体は、そう例えるのが正解だろう。
それが十、二十なんて数ではなく、何十も地面に突き刺さっていた。
何かの墓場。そういうことなのだろう。
「オウカッ!」
ツムギくんが声を荒げて目の前の墓標の下を掘り始めた。
土魔法を使えばすぐだろうに、何故か両手で掘り始める。もしかしたら、その下にある何かを傷つけないためなのかもしれない。
私はその姿に声を掛けることもできず、ただ見つめていることしかできなかった。
十数分してツムギくんが何かを両手に抱えた。
それは小さな頭蓋骨だった。人間の子供くらいの大きさに見える。
「これじゃないッ」
しかし彼はそれを投げ捨てて、別の墓標の下を掘り出した。
それを幾度か繰り返し、そして。
「……いた」
ひとつの頭蓋骨。
私から見ればいままでとの違いはまったくわからない。
しかしツムギくんにだけは、ずっと一緒にいた彼だからこそわかるのかもしれない。
「オウカ……」
彼はそれを愛おしそうに優しく抱きしめる。
いままでに見たこともない、幸せそうな表情。
その光景は、私の心を酷く抉った。
変わらないんだ。
いくら傍に居ようと、いくら支えようと。
いくら愛そうとも。
彼の心は、想いは、ずっと彼女のものなのだ。
私がどうにかできるものでもなく、ましてや入り込む余地もないものだった。
「本当に愚かな女だよ、私は」
ここまできて、初めて妖狐族が憎いと思うなんてね。
***
私たちはその日のうちに街へと戻ってきた。
帰るころには雪も止んでいて、特に問題なく戻ってこれた。
宿屋についたころには疲労感ですぐに眠りについた。
何時間ほど寝ていたのか。
目が覚めた時、外は暗闇に支配されていた。
具体的な時間は分からないが、窓を開けて外をみれば人は全く歩いていないし、建物もみな窓を閉じている。王の影刻をすぎているのだろう。
私はベッドの前に戻り、ツムギくんを見つめる。
まだ眠る彼の胸元には白い布で覆われた頭蓋骨が抱きかかえられている。
それが本当にあの子の……オウカくんのものであるとするならば。
いま彼はどんな気持ちでそれを抱きしめているのだろうか。
死を受け入れた結果なのだろうか。
それとも、それが生きた彼女であると思っているのだろうか。
私には分からない。分かるはずもない。
ラセンを失った時の感情と、オウカくんが失われたときの感情は近くとも同じではないのだから。
それでも、これが彼の目的であったのなら。
ここで旅は終わりだ。
それは同時に、私の僅かな幸福の終わりでもある。
私は彼の額に軽く唇を重ねる。
愛しき寝顔。手放したくはなかった。
彼の温もり。抜け出したくはなかった。
これからずっと、一緒に歩んでいけたならと。
そんな考えを捨てるように首を左右に振る。
私は外套を羽織り、静かに扉を開いて外へと出た。
白い息が零れる。
誰もいない道を進み、街から少し出たところにあった丘を上る。
見上げた先には満天の星が広がっていた。
いつの間にか雲もなくなっていたのか。
綺麗だ。
『レイミアは最初に出会った頃よりずっと綺麗になった』
彼の言葉が脳裏をよぎる。
この数か月は本当に幸せだった。
奴隷に生まれて、貴族の養子になり、これから歩む道も決まっていた私には想像することもできなかった時間だった。
たとえこの先、一人で生きていくとしても、悔いはないだろう。
きっと……。
「……どうして、涙がでるんだろうな」
目尻から温かな温度が頬を伝っていく。
悲しいのだろうか。
寂しいのだろうか。
苦しいのだろうか。
悔しいのだろうか。
自分の心が分からない。
分からないが、それでも終わりなのだ。
泣き声は上げない。
声の殺し方は生まれて最初に教わったから。
これは夢だ。
だから覚めなければならない。
私は自身の下腹部を撫でる。
この子も、産まれてはならないのだ。
私の我儘でしかないのだから。
責任は誰にも押し付けられない。だからここでなかったことにしなけらばならない。
ひとりで。
ひとりぼっちで終わらせよう。
私は座り込んで、腰に帯びていた短剣を抜く。
両手で握ったそれを天高く持ち上げ、剣先を自身に向けた。
再び夜空が瞳に映る。
「この綺麗な星空を見せられない私を――許してくれ」
瞳を閉じて。
手に力を込めて――
「レイミア」
私の手は振り下ろされなかった。
振り下ろすことができなかった。
「なに、してるんだ」
力のこもった、何度も握ってきた彼の手が、止めたから。
「ツムギ、くん……」
再び開いた視界の先に、彼がいた。
肩で息をするツムギくん。その青い瞳はどこか安堵しているようにも見えた。
いや、私がそう思いたいだけなのかもしれない。
急にいなくなった私を探してくれたのだろう。
こんな様子を見れば、誰だって焦る。彼の行動は当然のことで、私を心配してのことではない。
「すまない……ちょっとした儀式だ。
別に死ぬつもりはなかったのだよ」
「嘘を吐くなよ」
「嘘では……」
誤魔化そうとして、しかし彼の瞳が真剣だったせいで私は口を噤む。
「殺すつもりだったんだろ」
心臓が止まりそうになった。
ツムギくんは、私が子を宿していることに気付いていた……?
「どうして……?」
「俺だって、隣で寝ている奴が吐き気を催してたら目が覚めるんだよ」
「あの時か……寝たふりなんて、酷いな」
「それは悪いと思ってる……俺も、初めてだったから、どうすればいいかわかんなかったんだ」
彼は私の手から剣を取り上げると、しゃがみ込んで私の腹部に手を添えた。
「ここに、俺の子がいるんだな……」
「君は、気にしなくていい……君にはオウカくんがいるんだ。
だから――」
「ふざけるなよ」
張り上げられた声に、自身の肩が震える。
「オウカは、もう死んだんだ。
それくらいちゃんとわかってる」
「でも……」
「最初は俺もオウカが生きている可能性を探していたさ。
だけど時間が経つにつれて、そんな妄想が無駄だってことに気付いた。
その時、妖狐族が埋められている墓場があるって書物を見つけたんだ。
だから、ちゃんと別れを告げに行こうって。
できることなら、もっとちゃんとした場所に埋めてやろうって、そう思ったんだ」
彼は落ち着いた声音で続ける。
「あの日、オウカが殺された日から暗闇しか見えなくなっていた。
どこにも道がなくて、縋るものもなくて、ただ失ったものを探すようにもがくだけの世界。
そんな場所から救ってくれたのは――お前なんだよ、レイミア」
「私が……?」
「お前がずっと傍にいてくれたから、ずっと支えてくれたから。
こんな俺を愛してくれたから。
だからやり直そうって、俺が握るべき手はここにあるって」
彼は包むように私の手を握りしめる。
「守るべきものはレイミアだって、気付けたんだ」
「ツムギ……くん」
「いままでごめん。そしてありがとう。
ここで旅は終わりだ。
これからは、二人で……いや、三人で生きていこう」
「――ッ!」
もう、抑えることはできなかった。
彼に抱きついて、感情を声に変えた。
私は生まれた時から奴隷だった。
最初に覚えさせられたのは、声を上げて泣かないことだった。
私が声を上げて泣いたのは生まれた時だけのはずだった。
いま生まれて二度目の泣き声を上げている。
悲しいからではない。
寂しいからではない。
苦しいからではない。
悔しいからではない。
自分の心ははっきりとしている。
僅かな幸福だと思っていた。
夢は覚めるものだと思っていた。
でも、もう少しだけ続けていいのなら――
絡めた腕を離し、ツムギくんと見つめ合う。
彼の笑みに、私は笑顔を返した。
「レイミア、俺と一緒になってくれ」
「……ああ。共に生きてくれ、ツムギくん」
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