第386話 水浴び

***


 私の中には何もない。

 だからこれは夢だと思った。

 青い世界を一人で駆け回り続ける。

 草原には風が靡いて、どこかへと向かっていく。

 私とは正反対だ。

 私には行き先がない。

 どこの向かえばいいのかもわからない。

 ただ、何かを探してさまよい続けている。

 草の音につられて、風を追いかけて。

 青い世界はどこまでも続く。

 この世界を、私だけにして。


***


 オウカが目を覚ました時、ぼやけた思考は自身の居場所を正確に捉えられなかった。

 全身で感じる柔らかな感触、自分のものでは無い寝息、少し目には痛く感じる桃色の壁。

 そうした情報を再認識し、ここが大精霊のベッドの上であると改める。


 起き上がった時、彼女は妙な不安を抱えた。

 それは変な夢を見たせいだろうか。


 自分しかいない世界。

 その夢は、飽きるほど何度も見てきた。

 だからそれが夢とは少し違う、自分の心の中のなにかではないかと彼女は思っている。


 気になったのは、それよりも前の夢だ。

 自分の主――ツムギが、冷たい目でどこかを寂しそうに眺めていた。

 自分はそれを隣で見ているだけで、言葉も吐けず、触れることも出来なかった。


 ――ツムギ様?


 ベッドの上に彼はいない。

 大精霊の小さな身体が呼吸に合わせて動いているくらいだ。

 不安の原因は近くにツムギがいないからだと悟り、オウカは大樹を飛び出した。


 もし、寂しそうな彼がいなくなってしまったら。

 声をかけることもできず、その身体を包んであげることもできず。

 ただ離れてしまったら――。


 そんな考えは、この場では杞憂に終わった。

 聖域内を歩き回っていると、川の流れる音がした。

 同時にツムギの匂いも。

 妖狐族は鼻がいいので、オウカにとって彼の匂いを辿るのは簡単だった。


「ツムギ……様」


 茂みを抜け出した先に彼はいた。

 服を着たまま、何故か川の中で蹲っていた。

 肩より上は出ているが、そもそもそんな状態がまともであるはずはない。


 そのことはオウカもよくわかっていた。

 匂いが、ツムギだけのものではなかったからだ。


 ――血の匂い。


 それは珍しいことであった。


 敵の返り血を浴びることくらい、冒険者なら当然といっていいほど経験すること。

 だからツムギは魔法を使って衣服や肌の血糊を落とすようにしていた。

 それはオウカの鼻を気にしていたためでもある。


 だから珍しいのだ。

 ツムギから血の匂いがすることに。


 ――川の水で洗い流したのでしょうか。


 水魔法は川なんかの水よりも血糊を落としやすい。それは魔力を含んでいるからだと、当時のツムギから教わっていた。だから一緒に依頼を受けてダンジョンに潜っても、匂いを気にすることはなかった。

 


 ――あるいは。


 もしオウカが気になるほどの匂いが残っているなら、

 それは落としきれないほど、血を浴びたという可能性。


 オウカはぐっと息を呑んで、そしてそれを悟られないよう必死に表情を作りながらツムギに近づいた。


「ツムギ様、何をしているのですか?」

「……ちょっと、水浴びがしたくてな」

「それなら、服を脱がないと」

「……そうだな」 


 取り繕う様子のない、淡々とした口調に、オウカは夢の中のツムギを思い出してしまう。


「じゃあ、私も水浴びします」

「……はっ!?」


 オウカが目の前で衣服を脱ぎだすと、ツムギが素っ頓狂な声を上げた。

 こうした場面で、絶対取らないであろう斜め上の行動を選択すると、ツムギの理性が途端に戻ってくることをオウカはよく知っていた。


「私だって、いっぱい汗かきました。

 汗臭いままツムギ様の隣にいたくありません」

「いや、べつにくさ……ここで脱がなくても」


 ツムギが慌てて立ち上がる。

 すべて脱ぎ終えたオウカは、茂みの中に逃げようとするツムギの腕を掴んだ。 

 冷たくなった身体を自身の方へ向かせる。


「逃げないでください」

「いや、逃げるとかじゃなく」

「どこにも……いかないでください」

「……」


 オウカの意図が読み取れたのか、ツムギは黙り込み、ただ悲しそうに目を細めた。


「ツムギ様がどこかに行ってしまいそうで、消えてしまいそうで。

 それが……怖いんです」


 オウカはツムギが何をしたのかほとんど悟っていた。

 この状況で、匂いが残るほどの戦闘があるとすれば、エルフだろうと。

 たぶん、そこにマスグレイブもいたのではないかと。

 自分が眠っている間に、ツムギがすべてを終わらせてくれたのだと。

 細かな部分は違うが、その本質は間違ってなかった。

 そして彼女はそのことに対して喜ぶことも、怒ることもできない。

 それが彼の選択であり決断である以上、オウカから何かを否定することはない。

 だから、


「私を、見てください」


 オウカはツムギの瞳を捕まえる。

 ツムギも、ただオウカの青い瞳を見続けるだけだった。


 ――大丈夫、ツムギ様はまだ、いる。


 オウカは、瞳の中のツムギを確かに捉えていた。


「……ああ」


 ツムギは何かに観念したように大きく息を吐きながら呟くと、オウカの頭をわしわしと撫でまわした。


「大丈夫だ」

「はい」


 何が、とは言わない。

 それで十分だった。


「水浴びが終わったら――魔王城に向かうぞ」

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