第332話 匂い

 習慣があった。

 鏡の前での自問自答。


 お前は誰だ。

 俺は紡車紡希だ。


 演じることをやめたあとも、ずっと。


「でも、この世界に来てからはほとんどやってない。鏡の前に立つことも減った」


 それだけじゃない。


「この世界にきて、一度独りになって……。

 だけど、出会ったんだ」


 あの時から、少しずつ変わっていった気がする。

 最初は必要にかられてだった。

 たとえ一目惚れでも、1年限りの奴隷。その時が来たら渡した銀貨で解放するつもりだった。

 それだけだった。


 

 それだけの、つもりだった。



 いつからだろう。

 隣に居るのが当たり前になったのは。

 いつからだろう。

 笑顔を眩しく感じるようになったのは。

 削れていく心を、僅かに埋めてくれるものがあった。

 尽きそうな感情を、新しく生んでくれるものがあった。


『オウカです! あなたの奴隷の!』

「ああ、覚えているよ」


 忘れていてごめん。

 全部思い出したから。

 取り戻したから。


***


「思い出した?」

「ああ」


 黒い世界で青い少女に問われた俺は頷く。

 ここにはもう鏡はない。

 すべての己を受け入れる。

 それは自身の過去を見つめ直す。


「ヒヨリの……飛野のアビリティによって記憶を限定的に閉じ込められていたんだな。

 その代り、残された好意的な感情を飛野に向けるように変えられた。

 なかなかに脅威だ。いまのクラスを統率していたのは飛野だったのか」


 これまでの自分の行動を振り返り、思わず笑い声が漏れる。

 なんて阿呆な生活だっただろう。

 目的が遠く彼方に消えていたように思える。

 いま思えばぞっとする。


「いつだったかラベイカに言われたな」


『お兄さん――自分の好きなもの以外に全く興味がないのでしょう?』


「その通りだ。だから自分の好きなものを踏みにじられたのは気分が悪いな」

「わかった」


 答えたのは何故かエレミアだった。

 視界が廊下の光景になる。碧鏡の我エルゴニドはここまでのようだ。


「……アレか」


 エレミアは教室の方を見つめると、フードを外して歩きだす。


「お兄ちゃん――ッ!」


 出入口の前には剣を持った結が立ち塞がる。

 だが、


「邪魔」

「ぐっ!?」


 エレミアはそれを殴り飛ばした。

 みぞおちに拳が入り、結の身体が教室内へ飛んでいく。


「アッ、ガッはっ!?」


 椅子と机をかき分けて転がった小さな身体は剣を落として悶える。

 エレミアはそれを無視して光本たちの方へと歩く。

 それを感知したのか、彼らを囲っていた4体のセロピギーが向きを変えて襲いにかかった。


「下等が」


 エレミアは踊るかのように身体を翻しながら、セロピギーを蹴り飛ばしていく。

 それはアンセロの真横に落ちていくが、それを気にすることなく奴は笑っていた。


「嫌な匂い」


 エレミアが足を止めて一言放つ。

 その言葉の先にいたのは、飛野だ。

 彼女の襟を掴む。

 その行動に反応できる者は誰もいなかった。


「くさいよ」


 エレミアが飛野を殴った。

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