第331話 ツムギ
制服は裂かれあられもない下着姿のまま、結は目元から涙を零していた。
父親はその上に跨り奇声を上げていた。
「お兄ちゃん!」
「あくしえんだろ! あはへお!」
呂律の回っていないその様子から、すぐに薬が切れているのだと悟った。
今日は母親が休みのはずなのにいないのは、薬を手に入れに出たのか、もしくは逃げたのか。
結を置いて――。
「……に」
この父親は、この男は、化け物だ。
俺は土足で家に上がり、そのまま台所の包丁を握った。
「いい加減にしろぉぉおおおおお!!」
叫ぶ。
目の前の男が焦点の合わない瞳でこちらを見た。
「いいぃい 、ひいぃい!」
すると男は結から離れ、怯えたような声を上げながら部屋の隅に逃げる。
なんだ? 幻覚でも見えているのか?
「お兄ちゃん、ダメ!」
近づこうとした俺を、結が足元を掴んで止めにくる。
「結、離せ。あいつはもう親なんかじゃない」
「それでも、ダメだよ!」
「お前をそんな目に合わせて、許せるわけないだろ!!」
結の手を無理やり払う。
その一瞬の間に、男が窓を開けてベランダに出ていた。
ここは2階だ、逃げられるわけがない。
そう高をくくっていた。
しかし――
「しに、がっ……ああーッ!」
あろうことか男は手すりに乗り出して身を投げ出す。
しかも、飛ぶ瞬間に足元が滑り体勢を崩して真下へと。
――ゴッ
と、鈍い音がした。
ベランダから下を見下ろす。
そこは大家が作った花壇のある場所だった。
花々の中に、男の姿は埋もれていた。
その頭部は花壇の白い煉瓦に重なり、赤黒い模様を作り上げて。
――ああ、ようやく死んだな。
驚くこともなく、素直にそう思った。
同時に、これで解放されるという安心感。
しかし、そんな感情も数秒で消え失せる。
「お父さん――――――――ッ!」
遅れて庭を見下ろした結が叫んだ。
その時、ようやく気づいた。
あの男は死んだのではない。
俺が、殺したんだ。
腐っても母が再婚した父親だ。
この状況が何を招くかなんて容易に想像出来る。
「きゃああああ!」
大家の叫び声。
落下の音に気付いて庭に出たのだろう。
「あ、ああ……」
そして上を見て。
包丁を持った俺を指差して――
***
結果として俺にお咎めはなかった。
あの男は薬が切れた結果、結が隠し持ってると思い込んで襲ってきたらしい。
それを結自身が細かく説明してくれたおかげだった。本人も服を破かれた以外は怪我もなかった。
その後、母親が戻ってくることはなかった。
家の前にパトカーがずらりと並んでいたせいか。それとも、手にしていたものが見られたらまずかったのか。その日以降再び会うこともなかった。
俺と結は警察の連絡した母の親戚に引き取られた。
結はともかく、俺は腫れ物のように扱われた。
当然だ。包丁を持って親を殺そうとしたのだ。
そして結果として殺したのだ。
学校でも環境は大きく変わった。
最初は慰めの言葉を掛けてくる人もいたが、俺が無言を貫いていたのもあるし、どこからか親殺しだと噂が広まったからのもあるだろう。
今まで無理していた反動なのかもしれない。
面倒になった。
上っ面だけの普通の子供が。
痛いのも怖いのも嫌がって、いい子を演じ続ける紡車紡希が。
窓際から呆然と空を眺め続ける。
ふと窓ガラスに映った自分の顔。
その瞳はどこまでも黒く濁っているように見えた。
こんな目をした俺は化け物だ。
そう思えば思うほど、結の近くにいちゃいけないと考えた。
だから高校に上がると同時に一人暮らしを提案した。
親戚の人たちも肩の荷が下りるからか、すぐに賛同をしてくれた。
それからもうすぐ二年。
いまのツムギがいる。
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